心をかたくなにしてはならない
心から悔い改め、謙遜になり、主を信頼して頼るならば、わたしたちの心は和らげられます。
イエス・キリストの福音の回復は、父なる神とその愛する御子が若きジョセフ・スミスに御姿を現され、ジョセフの謙遜な祈りにこたえられたときに始まりました。回復の一環として、ジョセフ・スミスは神の賜物と力によって古代の記録を翻訳しました。この記録には、「アメリカ大陸の昔の住民に対する神の導き」と、「完全な永遠の福音」が記されています。
幼いころ、わたしはモルモン書を読みながら、レーマンとレムエルが、主の天使が現れて直接語りかけたときでさえ、自分たちに与えられた真理を信じなかったのはなぜだろうかと不思議に思うことがよくありました。レーマンとレムエルがいっそう謙遜になり、父リーハイや弟ニーファイの教えに従うことができなかったのはなぜでしょうか。
わたしはこの問いに対する答えの一つを、ニーファイ第一書に見つけました。そこには、ニーファイは「二人の心がかたくななのを悲しく思〔った〕」と記されています。ニーファイは兄たちに尋ねました。「あなたがた〔の〕心がかたくなで思いがくらんでいるのはどういうわけですか。」
心がかたくなであるとは、どのような意味があるでしょうか。
モルモン書に出てくる「かたくな」という言葉の韓国語訳は、완악(ワン・アク:頑惡)です。この訳語は、「頑固」を意味する「ワン(頑)」と、「邪悪」を意味する「アク (惡)」という漢字から成ります。わたしたちは心をかたくなにすると、盲目となり、心や思いに善いものが入って来なくなります。頑固になって、この世的な欲求にばかり目を向けるようになり、神にかかわる事柄に対して心を閉ざしてしまいます。人の意見や助言を受け入れず、自分の考えのみに集中することを選ぶようになります。神にかかわる事柄には心を開こうとしない一方で、この世の事柄や敵対者からの影響に心を開くことを選びます。心がかたくなになると、人は聖霊の影響力を退けます。「〔主〕を思い起こすのは遅」くなり、やがては主の言葉に「心〔を鈍らせる〕」ようになるのです。
アルマはアモナイハの民に対し、「心が〔かたくなな〕ために、神の御霊を〔拒む〕」人々もいると教えました。アルマはまた、「心をかたくなにする者はわずかな御言葉しか与えられず、ついに神の奥義をまったく知らない有様となる」と教えました。いずれ、レーマンやレムエルのように心がかたくなになった人々から御霊は退かれ、主は「〔御自分〕の言葉を〔取り去って〕」しまわれます。レーマンとレムエルは幾度となく心をかたくなにし、聖霊からもたらされる思いを退け、父親とニーファイの言葉や教えを受け入れないことを選んだため、最終的に神からの永遠の真理を拒むに至ったのです。
レーマンやレムエルとは対照的に、ニーファイは常にへりくだり、主の御霊による導きを求めました。その報いとして、主はニーファイの心を和らげてくださいました。ニーファイはこのように語っています。「〔わたしは〕主に叫び求めた。すると見よ、主がわたしを訪れ、心を和らげてくださったので、わたしは、父がこれまでに語った言葉をすべて信じた。」主は、ニーファイが神の奥義と御言葉をすべて受け入れ、理解し、信じられるように助けてくださいました。そして、ニーファイは常に聖霊を伴侶とすることができたのです。
心をかたくなにすることのないように、何ができるでしょうか。
第一に、わたしたちは日々の悔い改めを実践できます。
救い主は次のように教えられました。「悔い改めて幼子のようにわたしのもとに来る者を、わたしはだれでも受け入れよう。」わたしたちの愛する預言者、ラッセル・M・ネルソン大管長は次のように教えています。
「悔い改めは成長への鍵です。純粋な信仰をもって、わたしたちは聖約の道を進み続けます。
悔い改めを恐れたり、遅らせたりしないでください。皆さんが惨めであるときにサタンは喜びます。……生まれながらの人を捨てることの喜びを、今日から感じてください。救い主は常にわたしたちを愛しておられますが、わたしたちが悔い改めるときは特にそうです。」
自らの心を和らげ、主に近づく喜びを経験するにつれて、わたしたちは「子供のように従順で、柔和で、謙遜で、忍耐強く、愛にあふれた者となり、子供が父に従うように、主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従〔う〕」ようになるのです。
第二に、わたしたちは謙遜になるように努めることができます。
日々の悔い改めは、心に謙遜さをもたらします。わたしたちは、幼子が父に従うように主の前にへりくだれるように願います。その結果、聖なる御霊が常にともにいてくださり、わたしたちの心は和らぐようになるのです。
妻のスーとわたしは、この4年間、すばらしい夫婦とかかわってきました。初めて二人に会ったとき、ご主人は教会の会員になったばかりで、奥さんは宣教師から福音を学んでいました。多くの宣教師が彼女のもとを訪れ、彼女がキリストのもとに来るのを助けました。わたしたちは、彼女が福音に対して力強い証を持っており、教会が真実であることを知っていると感じました。わたしたちの訪問時には、彼女は何度も御霊を感じ、すべての集会に積極的に参加してくれました。彼女はワードのすばらしい会員たちと交流するのが大好きでした。それでも、バプテスマの水に入る決心をするのは難しいと感じていたのです。ある日のこと、彼女はモロナイ7章43節と44節を読んでいました。
「さらに見よ、あなたがたに言う。柔和で心のへりくだった人でなければ、信仰と希望を持つことはできない。
たとえ持てたとしても、その人の信仰と希望はむなしいものである。柔和で心のへりくだった人でなければ、神の御前に受け入れられないからである。」
この聖句を読み、彼女は自分がなすべきことを悟りました。彼女自身は、柔和かつ謙遜であることの意味を理解しているつもりでした。ところがその理解は、神の戒めに従う信仰と希望を持つには十分ではなかったのです。彼女は自分の頑固な面や、自分自身の知識を拭い去らなければなりませんでした。彼女は心からの悔い改めを通してへりくだるようになりました。神の目から見た謙遜さというものを理解し始めたのです。彼女は天の御父に頼り、心を和らげてくださるようにと祈りました。彼女はこうした祈りを通じて、天の御父が自分にバプテスマを受けるよう期待しておられるという御霊の証を感じたのです。
この夫婦は口をそろえて、謙遜になればなるほど神の言葉を理解できるようになり、心が和らげられて主イエス・キリストの教えに従うことができるようになったと言います。
第三に、わたしたちは救い主を信頼し、主に頼ることができます。
ニーファイは、主を頼ることによって心が和らげられたすばらしい模範であり、このように教えています。「わたしはあなたを頼ってまいりました。これからもとこしえに、あなたに頼ってまいります。わたしは……肉の腕には頼りません。」同様に、預言者ジョセフ・スミスに与えられた啓示の中で、主はこのように言われました。「善を行うように〔導き〕、公正に行動し、へりくだって歩〔む〕ように導く御霊を信頼しなさい。」主を信頼し、主に頼るなら、主はわたしたちの心を和らげ、試練や災難や苦難の中にあって支えてくださるのです。
心から悔い改め、謙遜になり、主を信頼して頼るならば、わたしたちの心は和らげられます。すると、主は御霊を注ぎ、天の奥義を示してくださいます。わたしたちは主が教えてくださったすべての言葉を信じるようになり、理解が深まることでしょう。
救い主イエス・キリストは、柔和について究極の模範を示されました。 ニーファイ第二書31章7節にはこうあります。「しかし小羊は、聖いにもかかわらず、肉においては御父の前にへりくだることを人の子らに示される。そして、御父の戒めを守ることについて御父に従順であることを、御父に証明されるのである。」主は聖く完全な御方であったにもかかわらず、御父の前にへりくだり、バプテスマを受けることによって従順を示されました。
イエス・キリストはこの世の生涯の終わりに、苦い杯を飲むことによって御自分の思いを御父にささげられました。このときの苦しみは、主が「苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほどのもの」でした。救い主は、「その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたい」と思われました。しかしながら主は、「父に栄光があるように〔と言って〕杯を飲み、人の子らのために〔御自分〕の備えを終え」られたのです。
兄弟姉妹の皆さん、わたしたちには、選択の自由が与えられています。心をかたくなにすることも、心を和らげることも、わたしたちの選択に任されているのです。わたしたちは日々の生活にあって、主の御霊が自分の心に入り、宿ってくださるように招く行動を選択することができます。こうした選択には、平安と喜びが伴うことをわたしは知っています。
御父の御心に従われた、救い主イエス・キリストの模範に従いましょう。そうするなら、主は次の約束を果たしてくださいます。「見よ、彼らが心をかたくなにしなければ、わたしはめんどりが羽の下にひなを集めるように、彼らを集めよう。」イエス・キリストの御名により、アーメン。