人は自分自身の裁き手
(アルマ41:7)
もしわたしたちがイエス・キリストを信じる信仰を行使し、神と聖約を交わして守り、罪を悔い改めてきたなら、裁きの法廷は喜ばしいものとなるでしょう。
モルモン書はモロナイの霊感あふれる招きで締めくくられています。「キリストのもとに来て、キリストによって完全になりなさい」、「神の御心に添わないものをすべて拒み、勢力と思いと力を尽くして神を愛」しなさい。興味深いことに、モロナイの教えの最後の文は、復活と最後の裁きの両方を予期しています。
モロナイはこう言いました。「わたしは間もなく行って、神のパラダイスで安息を得る。その後、わたしの霊と体は再び結合する。 そしてわたしは勝利を得て空中に上げられ、生者と死者双方の永遠の裁き主である大いなるエホバの楽しい法廷であなたがたに会うことになる。」
わたしは、モロナイが最後の裁きを説明するのに「楽しい」という言葉を使ったことに興味をそそられます。モルモン書のほかの預言者たちも同様に、「栄えある日」 、あるいは「信仰の目をもって待ち望」む日と表現しています。しかし、わたしたちが裁きの日を考えるとき、「恥とひどい罪悪感」、「恐れおののかせる」、「無窮の惨めな状態」など、預言者の別の言葉が浮かんできます。
わたしはこのような対照的な言葉は、モロナイやほかの預言者たちが、霊的に備えのできていない人々に警告されたあの恐怖ではなく、キリストの福音によって生じた熱意と希望に満ちた期待をもってその偉大な日を待ち望むことができていたことを示していると思います。モロナイが理解していたことの中で、わたしたちが学ぶべきことは何でしょうか。
天の御父の幸福の計画と、憐れみ、その計画における救い主の贖いの役割、そして「裁きの日に自分自身の罪に対する責任を負う」ことについて共に考えるにあたり、聖霊の助けがあるよう祈ります。
御父の幸福の計画
御父の偉大な幸福の計画の重要な目的は、肉体を受け、現世の経験を通して「善悪をわきまえ」、霊的に成長し、永遠に進歩し続ける機会を霊の子供たちに与えることです。
教義と聖約で述べられている「道徳的な選択の自由」とは、御自分の息子や娘に不死不滅と永遠の命をもたらす神の計画の中心を成すものです。この重要な原則は、聖文の中で選択の自由、あるいは選び行動する自由とも表現されています。
「道徳的な選択の自由」という言葉は示唆に富んでいます。「道徳的」という言葉の同義語には、「善良な」、「誠実な」、「徳高い」などがあります。「選択の自由」を表す英語の同義語には、「行動」や「活動」、「働き」などがあります。したがって、「道徳的な選択の自由」とは、善良で、誠実に、徳高く、そして適正に自分自身で選び、行動する能力と特権であると理解できます。
神の創造物には、「作用するもの」と「作用されるもの」の両方があります。そして「道徳的な選択の自由」は、「自主的に行動する力」として神から与えられ、それによって神の子供であるわたしたちは、単に「作用されるもの」ではなく、「作用するもの」になるのです。
地球は、天の御父の子供たちが、「何であろうと、主なる彼らの神が命じられるすべてのことを……なすかどうか」を証明する場所として創造されました。創造と現世のおもな目的は、主が期待しておられるような行動をし、期待されている人物になる機会をわたしたちに与えることです。
主はエノクにこう指示されました。
「これらあなたの兄弟たちを見なさい。彼らはわたし自身の手で造られたものである。わたしは彼らを創造した日に、彼らに知識を与えた。また、エデンの園で人に選択の自由を与えた。
わたしはあなたの兄弟たちに語って、互いに愛し合うように、また父であるわたしを選ぶようにという戒めも与えた。」
選択の自由を行使することの根本的な目的は、互いに愛し合い、神を選ぶことにあります。これら二つの目的は、主の第一と第二の偉大な戒めである、心をつくし、精神をつくし、思いをつくして神を愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛するという戒めと完全に一致しています。
単なる忠告や助言ではなく、わたしたちは互いに愛し合い、神を選ぶために選択の自由を使うように命じられているということを考えてください。聖文で使われている「道徳的」という修飾語は、単なる形容詞ではなく、選択の自由をどのように用いるべきかについての神聖な指針なのではないでしょうか。
よく知られている「選べ、正義を」という賛美歌の曲名には、その名前が付けられた理由があります。わたしたちに与えられている道徳的な選択の自由とは、自分の望むときに自分のしたいことを何でも行う、ということではありません。むしろ、御父の計画によると、わたしたちに道徳的な選択の自由が与えられたのは、わたしたちが永遠の真理を求め、それに従って行動するためです。わたしたちは「〔自ら〕選択し行動する者」 であり、熱心に善いことに携わり、「多くのことを〔わたしたち〕の自由意志によって行い、義にかなう多くのことを成し遂げなければならない」のです。
道徳的な選択の自由の永遠にわたる重要性は、前世の会議に関する聖文の中で強調されています。ルシフェルは、御父が神の子供たちのために立てた計画に反抗し、自主的に行動する力を損なおうとしました。注目すべきは、ルシフェルの反抗が道徳的な選択の自由の原則そのものに向けられていたという点です。
神は次のように説明されました。「あのサタンはわたしに背いて……人の選択の自由を損なおうとしたので……彼を投げ落とさせた。」
敵の利己的な策略は、神の子供たちから「自ら選択し行動する者」となる能力を奪い、義にかなう行いができないようにすることでした。サタンの意図したことは、天の御父のすべての子供を、単に作用されるだけのものにすることでした。
行いとどのような人物になるか
ダリン・H・オークス会長は、イエス・キリストの福音が、「道徳的な選択の自由」を正しく使って何かを知ることと、何者かになることの両方を達成するように招いていることを強調しました。オークス会長は次のように言っています。
「聖書や近代の聖典は多くの箇所で、最後の裁きについて述べており、そのとき人はそれぞれの行いや働き、あるいは心の望みに応じて報いを受けると説明しています。しかしほかの聖文ではこの概念をさらに説明して、わたしたちの到達した状態によって裁きを受けることを指摘しています。
預言者ニーファイは、わたしたちがどのような者になっているかによって最後の裁きを受けると説明しています。『そしてもし彼らの行いが汚れているならば、彼らは必ず汚れているにちがいない。もし彼らが汚れているならば、決して神の王国に住むことはできない。』〔1ニーファイ15:33;強調付加〕モロナイはこう宣言しています。『汚れている者は汚れているままになり、義にかなった者は義にかなった状態にとどま〔る〕。』〔モルモン9:14;強調付加)〕」
オークス会長はこう続けています。「これらの教えから、最後の裁きとは、善悪の行為、つまり私たちが何を行ったかを集計して評価するだけにとどまるのでなく、行いと思いがもたらす最終的な結果、つまりわたしたちがどのような人物になったかを確認することであると、結論することができます。」
救い主の贖罪
わたしたちは、行いや望みだけでは救われません。「自分の行えることをすべて行った後に」、わたしたちは神と和解しますが、それは救い主の無限にして永遠の贖いの犠牲を通して得られる憐れみと恵みによってのみ可能なのです。
アルマはこう宣言しました。「神の御子を信じるようにしなさい。神の御子が将来、御自分の民を贖うために降臨されること、御子がその民の罪を贖うために苦しみを受け、死なれること、御子が死者の中からよみがえり、復活をもたらされること、終わりの裁きの日に、すべての人が各々の行いに応じて裁きを受けるために神の御子の御前に立つこと、これらのことを信じてほしい。」
「わたしたちは、キリストの贖罪により、全人類は福音の律法と儀式に従うことによって救われ得ると信じ」ています。もしわたしたちがほんとうに「再び生まれ」、贖い主への信仰を働かせ、「真心」から「誠意」をもって悔い改め、そして「最後まで堪え忍〔ぶ〕」ならば、自分の罪や邪悪な行いが証拠としてわたしたちに突きつけられることはないのです。なんと感謝すべきことでしょうか。
神を畏れる
多くの人は、永遠の裁き主の御前に立つことはこの世の法廷で行われる裁判のようなものだと想像するかもしれません。裁判官が裁判を管理し、証拠が提示され、判決が下されます。そしてわたしたちは、最終的な結果を知らされるまで、不安と恐れを抱くことでしょう。しかし、わたしはそのような描写は正確さを欠いていると信じています。
わたしたちがよく経験する恐れとは異なるものの、それに関連するものとして、聖典では「神を畏れる」こと、あるいは「主を恐れること」と表現されています。恐怖や不安を生じるこの世の恐れとは異なり、神を畏れることは平安と確信、そして自信の源なのです。
義にかなった畏れには、主イエス・キリストに対する深い敬いと畏れ尊ぶ気持ち、主の戒めに従うこと、最後の裁きを待ち望むこと、そして主の御手に正義をゆだねることが含まれます。神を畏れることは、贖い主の神性と使命についての正しい理解と、自分の思いを主の御心に喜んで従わせる意志と、すべての男女が裁きの日に自分自身の道徳的な欲求や思い、言葉、行いに対して責任を負うという知識から生じます。
主を恐れるとは、裁きを受けるために主の御前に行くことについて、ためらいや不安を覚えることではありません。むしろ、それは自分自身について、「現在のこと」と「未来のことをありのまま」に、最終的に認めるということなのです。
これまでに地上に生を受けた人やこれから生を受ける人は皆、「神の法廷に立つように連れ出され、自分の行いが善いか悪いか、その行いに応じて神に裁かれる」のです。
もしわたしたちが義を望み、善い行いをしてきたなら、つまり、わたしたちがイエス・キリストを信じる信仰を行使し、神と聖約を交わして守り、罪を悔い改めてきたなら、裁きの法廷は喜ばしいものとなるでしょう。エノスが宣言したように、わたしたちは「〔贖い主〕の前に立」ち、「喜んで贖い主の顔を拝する」でしょう。そして終わりの日に「義にかなう報いを与えられる」でしょう。
反対に、もし悪いことを望み、悪事を行ったならば、裁きの法廷でおののくことになるでしょう。「完全な知識」を得て、「はっきりと思い出」し、「強烈な罪の意識」を抱くことでしょう。「わたしたちはあえて神を仰ぎ見ようとはしないであろう。 そして、神の御前から隠れるために、岩や山に自分の上に落ちてくるように命じることができれば、喜んでそうするであろう。」そして終わりの日に「〔自らの〕報いとして災いを受ける」のです。
結局のところ、わたしたちは自分自身の裁き手なのです。どこに行くか告げられる必要はありません。主の御前でわたしたちは、死すべき世で何になるように選択したかを認め、永遠においてどこにいるべきか自分で判断するのです。
約束と証
最後の裁きが「楽しい」ものになり得ると知れることは、モロナイだけに与えられた祝福ではありません。
アルマは、救い主の献身的なすべての弟子に与えられる祝福について約束し、こう言いました。
「回復とは悪を悪に、肉欲を肉欲に、悪心を悪心に、善を善に、義を義に、公正を公正に、憐れみを憐れみに再び返すことである。
……公正に振る舞い、義にかなって裁き、絶えず善を行いなさい。これらのことをすべて行えば、そのときあなたは報いを受けるであろう。まことに、あなたに憐れみが再び回復され、再び公正が回復され、再び義にかなった裁きが回復され、再び善が報われるであろう。」
イエス・キリストがわたしたちの生ける救い主であられることを喜びをもって証します。アルマの約束は真実であり、今日も、明日も、そして永遠にわたって、皆さんとわたしに当てはまります。主イエス・キリストの神聖な御名により証します。アーメン。