2025
神と和解する
2025年11月号


10:22

神と和解する

イエス・キリストの贖罪を通じて神と和解することで、信仰は揺るぎないものとなります。

聖文を研究していると、注意を引く言葉に出会います。このような言葉はおもに、人生の様々な経験を通して特別な意味を持つようになった言葉です。わたしは法廷会計士として働き、キャリアを積みました。そのような背景があるので、聖文を読む際、和解〔訳注—英語では“reconcile”〕という言葉に引き付けられます。わたしの仕事は、会計や監査、調査のスキルを活用して、報告された額を財務報告書と照合〔訳注—英語では同じく“reconcile”〕して矛盾のないようにすることでした。言い換えれば、わたしの目標は、財務報告書を基本となる財務書類と照合し、正確さと妥当性を保つことでした。わたしは矛盾点を解消するために勤勉に取り組みました。きわめて小さな矛盾であっても、解消するのに相当の時間を費やすことがよくありました。

使徒パウロは、「神の和解を受け〔る〕」ようコリント人に懇願しました。神の和解を受けるとは、神との調和を取り戻す、あるいはわたしたちの罪や行いのせいでひずみや破綻が生じた神との関係を修復することです。簡単に言えば、神と和解するとは、わたしたちの思いや行いを神の御心に添わせることであり、預言者ラッセル・M・ネルソン大管長が説いたように、生活の中で神に勝利を得ていただくことなのです。

聖文が説くように、わたしたちは自分の思うとおりに行動すること、すなわち「永遠の死の道を選ぶことも、永遠の命の道を選ぶことも自由」です。しかし、もし勤勉でなければ、自分の思うとおりに行動するこの自由が、わたしたちを神の御心に添わない状態へと導いてしまうことでしょう。

預言者ヤコブは、自分が神と調和していない、あるいは一致していないことに気づいたとき、和解を達成できる唯一の方法は、「キリストの贖罪を通じて〔神〕と和解〔する〕」ことだと説きました。和解は憐れみによるということを悟らなければなりません。つまり、イエス・キリストの慈悲深い贖罪の行いが、和解を可能にしているのです。

自分の人生についてじっくり考えながら、あなたが離れたがゆえに御父を遠くに感じたときのことを思い出してください。例えば、御父に対してあまり熱心に祈らなかったり、戒めを守らなかったかもしれません。神と距離を置くことを選んだときと同じように、わたしたちは、和解する努力を始めることも自ら選択しなければなりません。主は、わたしたちの責任を強調し、こう言われました。「すなわち、わたしに近づきなさい。そうすれば、わたしはあなたがたに近づこう。熱心にわたしを求めなさい。そうすれば、あなたがたはわたしを見いだすであろう。求めなさい。そうすれば、与えられるであろう。たたきなさい。そうすれば、開かれるであろう。」

この大切な関係を修復し、和解できるよう、救い主はどのように助けてくださるでしょうか。わたしにとっては、ネルソン大管長の助言に従い、日々悔い改めるときに、神と和解するわたしの旅路は大きく前進します。というのは、和解は、罪の壁を取り除くことによって、特に神と人類との間の壊れてしまった関係を修復する表れだからです。

聖文に記されている偉大な和解の一つに、エノスの和解があります。彼の人生の中で、神と調和していないことがあったのです。エノスは、神と和解するためにイエス・キリストの贖罪に頼ることを模範で示しました。そして、悔い改めたいという望み、謙遜さ、ひたむきさ、決意について明言しました。エノスの神との和解は、このように言う声が聞こえたときに確認されました。「エノスよ、あなたの罪は赦された。あなたは祝福を受けるであろう。」エノスは、悔い改めと和解が及ぼした影響を認識し、このように述べました。「わたしエノスは、神は偽りを言われるはずがないので、わたしの罪がすでにぬぐい去られたのを知った。」

和解は罪悪感からの安らぎをもたらすだけでなく、自分自身や人々に対する平安をももたらします。関係性を癒し、心を和らげ、弟子として強められ、神の前における自信が増します。わたしに大いなる希望と自信をもたらすのは、エノスが表現した、和解によってもたらされるもう一つの実です。「わたしエノスは、この御言葉を聞くと、主を信じる信仰が揺るぎないものになってきた。」

わたしが幼いころ、母方の祖父は大きなサクランボ農園を持っていました。おもにサクランボの収穫をする夏になると、わたしは農園の手伝いをする機会がありました。非常に幼かったため、手伝いの範囲は限られており、わたしができたことと言えば、手渡しされたバケツに収穫したサクランボを入れることだけでした。

しかしそのサクランボの収穫は、祖父がチェリーシェイカーと呼ばれる機械を購入したことで、著しく変化しました。この機械は、木の幹を掴んで揺らし、実を網の上に落として、サクランボを集めるものでした。シェイカーが木を揺らし始めると、ほとんどすべてのサクランボが数秒以内に木から落ちることに気づきました。また、木が10秒間揺らされようが、1分間ずっと揺らされようが関係なく、まったく落ちないサクランボもあることにも気づきました。まったく揺るがなかったのです。

サクランボを木から振るい落とせるのは、エチレンガスが放出されるからです。この植物ホルモンには、サクランボの軸〔訳注—英語では“stem”〕と木の間にある細胞壁を弱める働きがあります。ですから、熟したサクランボの軸は、つながりが弱まったために木から簡単に切り離されてしまうのです。

聖文で、エッサイの株〔訳注—英語では同じく“stem”〕は、ダビデ王の父エッサイの血統から出ると預言されていたメシヤ、すなわちイエス・キリストの象徴であることをわたしたちは学んでいます。熟したサクランボの軸のつながりをエチレンガスが弱めるように、不従順、疑い、恐れは、エッサイの株、すなわちイエス・キリストとわたしたちのつながりを弱め、わたしたちを容易に振るい落とし、主から切り離します。たとえどんなに忠実であったとしても、イエス・キリストとわたしたちのつながりを弱める事柄から身を守らなければなりません。

教義と聖約には、忠実な者に対しても警告が与えられています。「しかし、人が恵みから落ち、生ける神から離れることもあり得る。」主はこう続けておられます。「まことに、聖められている人々でさえも用心しなさい。」落下を避けるために、主はこう助言しておられます。「それゆえ、教会員は誘惑に陥らないように、用心して、常に祈りなさい。」

容易に振るい落とされる状態は、聖文で表現されていることと同等と見なせるかもしれません。すなわち、行動が引き起こす結果が差し迫る中、滅亡の機が熟す状態です。滅亡の機が熟すという言葉は、衰退、腐敗、低落といった、崩壊や破滅を許してしまう状態を示すのに広く用いられます。

この機が熟した状態は、何を象徴しているのでしょうか。もう変わることができないというところまで来てしまった、ということでしょうか。そうではありません。変わろうとしないところまでそのうち到達し得るという意味だと思います。滅亡の機が熟すことへの対抗手段は、イエス・キリストとわたしたちのつながりを強める事柄を行うことです。先ほど述べたように、悔い改めにより、エノクは揺るぎない信仰を持つほどまでになりました。悔い改め、すなわち怠りなく、速やかで、頻繁な悔い改めには、力があります。ネルソン大管長が教えたように、「日々欠かさず悔い改めに取り組むことほど、霊を自由にし、気高くするもの、言い換えればわたしたち個人の進歩に不可欠なものはありません。」

悔い改めを説くことに加え、預言者ヤコブは、生活の中の神の御手に気づき、啓示を求めて受け、神が語られるときに耳を傾けることすべてが、動揺しない助けになると説きました。ヤコブはこうも教えています。「それゆえ、わたしたちは預言者の書を調べている。また、わたしたちには多くの啓示があり、また預言の霊がある。このように証するものが数々あるので、わたしたちは希望を抱いており、わたしたちの信仰は揺るぎないものになっている。」預言者や使徒の言葉や招きに耳を傾け、それに従って行動することは、わたしたちを希望、自信、強さで満たし、その結果、わたしたちの信仰は揺るぎないものとなるのです。

神と和解したいという願いには、悔い改めたいという願いが伴わなければならないことを学びました。悔い改めて、イエス・キリストの贖罪がもたらす祝福を味わうことで、信仰は揺るぎないものとなります。揺るぎない信仰を持つと、常に神と和解したいと願うようになります。これは、循環し、繰り返されるパターンです。

兄弟姉妹の皆さん、イエス・キリストの贖罪を通じて神と和解するようお招きします。聖約を交わして守ることは、救い主とのつながりを強固なものとし、それにより滅亡の機が熟すのを避けることができると証します。イエス・キリストの贖罪を通じて神と和解することで、信仰が揺るぎないものとなることを証します。

天の御父はわたしたちを愛しておられるために、愛する御子イエス・キリストを救い主、贖い主、大いなる和解者として遣わしてくださったことを、わたしは知っています。イエス・キリストについて証します。イエス・キリストの御名により、アーメン。