2025
だれも独りで座らせない
2025年11月号


14:3

だれも独りで座らせない

イエス・キリストの福音を実践することには、主の回復された教会ですべての人に居場所を設けることが含まれます。

Ⅰ.

わたしは福音の文化も含め、50年間文化の研究をしてきました。その始まりはフォーチュンクッキーでした。

サンフランシスコのチャイナタウンでのゴング家の夕食は、フォーチュンクッキーと「千里の道も一歩から」という名言で締めくくられていました。

フォーチュンクッキーの中のおみくじ

わたしはヤングアダルトのころ、フォーチュンクッキーを作りました。白い綿の手袋をはめ、オーブンから出したばかりの熱くて丸いクッキーを折り曲げて形を整えました。

フォーチュンクッキーを作る様子
フォーチュンクッキーを曲げる様子

驚いたことに、フォーチュンクッキーはもともと、中国の文化にはなかったものだと知りました。わたしは中国、アメリカ、ヨーロッパのフォーチュンクッキーの文化の違いを見分けるために複数の大陸でフォーチュンクッキーを探しました。森林火災の位置を特定するために複数の位置から三角測量を行うのと同じ要領です。サンフランシスコやロサンゼルス、ニューヨークの中華料理店ではフォーチュンクッキーが出ますが、北京やロンドン、シドニーでは出ません。アメリカ人だけが、ナショナルフォーチュンクッキーデーを祝い、中国の広告だけが「本場アメリカのフォーチュンクッキー」とうたっています。

フォーチュンクッキーは面白く分かりやすい一例ですが、文化の異なる環境で慣習を比較するというこの原則は、福音の文化を見分けるうえでも役立ちます。また、モルモン書や新約聖書のたとえにある預言が成就している今、主は福音の文化を学ぶ新たな機会を設けてくださっています。

Ⅱ.

人々は至る所で移動しています。国連の報告では、国際移民の数は2億8,100万人にのぼります。これは1990年より1億2,800万人多く、1970年の推計の3倍以上となっています。あらゆる場所で、記録的な数の改宗者が末日聖徒イエス・キリスト教会を見いだしています。毎週安息日になると、195の国と地域で会員と友人が、3万1,916か所ある教会の集会所に集まり、125の言語を話しています。

アルバニアの聖徒と会うゴング長老
北マケドニアの聖徒と会うゴング長老
コソボの聖徒と会うゴング長老
スイスの聖徒と会うゴング長老
ドイツの聖徒と会うゴング長老
ドイツの聖徒と会うゴング長老

最近わたしは、アルバニアや北マケドニア、コソボ、スイス、ドイツで新会員たちの姿を見て、モルモン書にあるオリーブの木のたとえが成就しているのを目にしました。モルモン書ヤコブ5章で果樹園の主人と僕たちは、オリーブの枝を様々な場所から集めて接ぎ木することで、根と枝の両方を強めています。今日、神の子供たちは、イエス・キリストにあって一つに集っています。わたしたちが主の回復された福音を実践することで得られる祝福が増すように、主は驚くほど自然な手段を備えてくださいました。

イエスはわたしたちを天の王国に備えるために、盛大な晩餐会のたとえや婚宴のたとえを用いられました。このたとえで、招待客たちが出席できないことに対する言い訳をすると、主人は僕に、「いますぐに、町の大通りや小道」「道やかきねのあたりに出て行って」貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを「ここに連れて来なさい」と命じられました。これは霊的な意味で、わたしたち一人一人のことです。

聖文にはこうあります。

「主の家の晩餐に、すべての国民が招かれるであろう。」

「あなたがたは主の道を備え〔なさい。〕……主の王国が地上に進み行くようにして、地に住む者がそれを受け入れて来るべき時に備えられるようにしなさい。」

今日、主の晩餐に招かれた人々は、あらゆる土地や文化圏からやって来ます。老若男女や貧富を問わず、地元でも世界のどこでも、教会は、集う人々が、自分のコミュニティーだと感じられる場所にします。

使徒の長ペテロは、示現を見て言いました。「大きな布……が、四すみをつるされて……その中には……各種の生きものがはいっていた。」ペテロはこう教えています。「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによく分かってきました。」

良きサマリヤ人

イエスは良きサマリヤ人のたとえにおいて、互いに寄り添い、主の宿屋、すなわち主の教会で、主のもとに来るように招いておられます。また、互いに良き隣り人となるように、主は招いておられます。良きサマリヤ人は、戻って来て宿に残した人の世話にかかった費用を支払うことを約束します。イエス・キリストの福音を実践することには、主の回復された教会ですべての人に居場所を設けることが含まれます。

「宿屋に居場所を」の精神には、「だれも独りで座らせない」ことが含まれます。教会に来て独りで座っている人を見かけたら、あいさつをして一緒に座っていただけますか。そうするのに慣れていない場合もあるでしょう。その人の外見や話し方が自分とは異なるかもしれません。それでももちろん、フォーチュンクッキーは、「福音の友情と愛の道もあいさつと独りで座らせないことから始まる」と告げるのです。

「だれも独りで座らせない」とは、情緒的にも霊的にも独りで座らせないことも意味します。わたしは、ある悲嘆に暮れた父親と一緒に、彼の息子に会いに行きました。何年も前、その息子は執事になるのを楽しみにしていましたし、その時には、彼は家族から初めて新しい靴を買ってもらいました。

ところが教会で、ほかの執事たちに笑われました。靴は新品でしたが、流行りのものではなかったのです。恥ずかしい思いをし、傷ついたこの若い執事は、二度と教会には行かないと言いました。彼と彼の家族のことを思うと、今でも胸が張り裂けそうです。

ほこりまみれのエリコへの道で、だれもが笑われ、辱められ、傷つけられ、もしかするとさげすまれ、罵倒されたことがあるでしょう。また、意図がどうであれ、だれもが人を無視したり、気に留めなかったり、もしかすると故意に傷つけたりしたこともあるでしょう。傷つけられ、傷つけたことがあるからこそ、イエス・キリストはわたしたち皆を主の宿屋に連れて来てくださいます。主の教会で、主の儀式と聖約を通して、わたしたちは互いに寄り添い、イエス・キリストのもとに向かいます。わたしたちは愛し合い、仕え合い、赦し合うのです。覚えておいてください。「天が癒せない悲しみは、この世にありません。」この世の重荷は軽くされ、救い主の喜びは現実になるのです。

ニーファイ第一書第19章にはこうあります。「イスラエルのまことの神ですら人々は足の下に踏みつける。……彼らは神を取るに足りない者とし……この御方を鞭打つが、この御方はそれに耐えられる。また彼らはその御方を打つが、この御方はそれにも耐えられる。まことに、彼らはこの御方につばきを吐きかけるが、この御方はそれにも耐えられる。」

わたしの友人であるテリー・ワーナー教授は、裁かれること、鞭打たれ、たたかれることやつばきを吐きかけられることは、キリストが現世での生涯の間だけでなく、今も経験しておられることだと述べています。お互いにどう接するか、特に飢えている人や渇いている人、独り取り残された人にどう接するかが、わたしたちの主への接し方を表しているのです。

主の回復された教会では、だれも独りで座らせないようにすることで、全体が良くなります。単に対応したり、容認したりするだけでなく、心から歓迎し、認め、ミニスタリングを行い、愛しましょう。友人や兄弟姉妹一人一人が、異国人でも宿り人でもなく、家族の一員となれますように。

教会で独りで座っている女性

今日、多くの人が孤独や孤立を感じています。ソーシャルメディアや人工知能は、人との親密なきずなや触れ合いに対する欲求を満たすことはできません。わたしたちは、互いの声を聞くことや、真の帰属感と優しさを求めています。

教会で友人と座っている女性

教会になじめないと感じる理由はたくさんあります。それは言わば、独りで座っているということなのです。言葉のなまりや服装、家族の状態に不安を覚えることもあるでしょう。自身に欠けている点があると感じているかもしれません。たばこの匂いや道徳的な清さが気になる、結婚相手や交際相手との別れに傷ついて恥ずかしい思いをしている、教会の方針があれこれ気になる、まだ独身である、離婚している、伴侶を亡くした、自分の子供が騒がしい、子供がいない、伝道に出ていない、早めに帰還したなど、挙げれば切りがありません。

モーサヤ書第18章21節では、互いに愛し合って結ばれるように招かれています。あまり心配せず、裁かず、要求せず、必要なときには、あまり自分に厳しくしないでください。一日にしてシオンを築くことはできません。しかし、あいさつをするたびに、また心のこもった行動をするたびに、シオンに近づきます。さらに主を信頼し、喜びをもって主のあらゆる戒めに従うことを選びましょう。

III.

教義的には、信仰の家族と聖徒の交わりにおいて独りで座っている人はいません。イエス・キリストとの聖約によるつながりがあるからです。

預言者ジョセフ・スミスはこう教えています。「わたしたちは……末日の栄光を目にし、それに加わり、前進させるという務めを任されているのです。それは『時満ちる神権時代であり、そのときに……』……神の聖徒たちがあらゆる国民、部族、国語の民、民族から一つに集められ……ます。」

神は「世のためになることでなければ何事もなさらない。すべての人をみもとに引き寄せるため……である。……

……主は、御自分のもとに来て主の慈しみにあずかるように、すべての人を招かれる。……すべての人が神にとって等しい存在なのである。」

イエス・キリストに改心するには、生まれながらの人と世俗的な文化を捨て去ることが求められます。ダリン・H・オークス会長が教えているように、わたしたちは神の戒めに反する伝統、文化、慣習をすべて捨て去り、末日聖徒となるのです。オークス会長はこう説明しています。「末日聖徒イエス・キリスト教会のあらゆる会員は、ユニークな福音文化、つまり独特の価値観と標準、慣習を共有しています。」福音の文化には、純潔、毎週教会に出席すること、アルコールやたばこ、お茶、コーヒーを断つこと、正直で高潔であること、教会の役職は昇進でも降格でもなく、前へ進むことだと理解することなどが含まれます。

わたしは、あらゆる国や文化の忠実な会員や友人の皆さんから学んでいます。聖文を複数の言語や文化的な視点から研究すると、福音への理解が深まります。キリストのような特質を表す様々な表現は、救い主への愛と理解を深めてくれました。ラッセル・M・ネルソン大管長が教えたように、わたしたちが自らの文化的アイデンティティを神の子、聖約の子供、イエス・キリストの弟子として捉えるなら、すべての人が祝福を受けるのです。

イエス・キリストの平安は、わたしたち一人一人に向けられたものです。最近、ある若い男性から真剣にこう聞かれました。「ゴング長老、こんな僕でも天国に行けるんでしょうか。」彼は、自分は赦されるのだろうかと不安に思っていたのです。わたしは彼に名前を尋ね、注意深く彼の話を聞き、ビショップと話すよう招き、しっかりと抱き締めました。そして、彼はイエス・キリストに希望を抱いて帰って行きました。

わたしはこの若い男性のことに別の場でも触れました。すると後日、次のような差出人の名前のない手紙を受け取りました。「ゴング長老、妻とわたしは9人の子供を育て、……二つの伝道部で奉仕しました。」「〔しかし〕自分は常々、日の栄えの王国に入ることは許されないだろうと思っていました。……若いころ犯した罪があまりにもひどいものだったからです。」

手紙はこう続いていきます。「ゴング長老、あの赦しの希望を得た若い男性の話を聞いて、自分も〔赦されるかもしれないと〕思い、喜びで満たされました。」手紙は「今では自分のことが好きになれました」という言葉で結ばれています。

聖約によるつながりは、わたしたちが互いに寄り添い、主の宿屋で主のみもとに行くことで深まります。だれも独りで座らせないようにすれば、すべての人が主に祝福されます。もしかすると、隣りに座る人が、フォーチュンクッキーが告げる最高の友になるかもしれないのです。わたしたちが小羊の晩餐の席にあって、主とお互いのために場所を見いだし、設けることができますように。イエス・キリストの聖なる御名によりへりくだり祈ります、アーメン。

注:

  1. “Fortune Cookies Didn’t Come from China,” Royal Examiner, Dec. 26, 2021, royalexaminer.com/fortune-cookies-didnt-come-from-china; “National Fortune Cookie Day,” Days of the Year, daysoftheyear.com/days/fortune-cookie-day参照

  2. 文化の三角測量のプロセスは、福音の文化、地域の国民文化、現代のコスモポリタン文化と見なされるものを見分けるのにも役立ちます。

  3. International Organization for Migration, World Migration Report 2024, 21, publications.iom.int/books/world-migration-report-2024.「2022年には、世界で1億1,700万人が避難民で、そのうち7,120万人が国内避難民でした。」(World Migration Report 2024, xii)

  4. モルモン書ヤコブ5章参照

  5. どの言語や文化にも、心の繊細な部分を表現する言葉や用語があります。わたしたちの実践する主の回復された完全な福音は、互いに学び合うことで広がっていきます。最近、アナリー姉妹(ミュンヘン出身)とスージー・マイヤーズ姉妹、エリック・コピシュカ長老とクリスティアーネ・コピシュカ姉妹、ヨルク・クレビンガット長老とユリア・クレビンガット姉妹が、心に響く独特なドイツ語の言葉を分かち合ってくれました。こうした言葉は、上辺だけの形式的な言葉や、決まり文句、義務的な言葉以上の気持ちを表します。こうした感情は、人の心に温かさや親密な関係をもたらし、わたしたちの神聖な魂に霊的な喜びを物語るのです。そのような特別なドイツ語の言葉には次のようなものがあります:GemütlichkeitgemütlichHeimatHeimwehGeborgenheitZufluchtHerzensangelegenheitHerzensmensch Schummerstunde(北部由来の珍しい詩的な言葉)。

  6. ルカ14:21、23。同様に、婚宴のたとえでも、王は招待客が来なかったときに、「大通りに出て行って、出会った人はだれでも……連れてきなさい」と僕たちに命じています(マタイ22:9)。

  7. 教義と聖約58:9教義と聖約58:6-8、10-12も参照

  8. 教義と聖約65:3、5教義と聖約33:17も参照

  9. 使徒10:11-12、34-35使徒10:9-10、13-18、24-33、44-4811:1-1815:6-11も参照

  10. わたしたちが主の宿屋で互いに寄り添い、主のもとに集う姿が、3ニーファイ18:32に描かれています。礼拝の場所に「だれも独りで座らせることなく」、互いに温かくミニスタリングを続けることこそ、わたしたち双方が「立ち返って悔い改め、十分に固い決意をもって〔主〕のもとに戻って〔行き〕……〔主が〕彼らを癒〔され、わたしたちが〕彼らに救いをもたらす者にな〔る〕」ための手段かもしれません。

  11. 教義と聖約104:15、17は、「万物は〔主〕のもの」であり、「地は満ちており、十分にあり余っている」ことを思い起こさせてくれます。したがって、貧しい者も富める者も、すべての人が高められ、へりくだるように助け合わなければなりません。同様に、ベニヤミン王は「わたしたちは皆、物乞いではないだろうか」と問いかけています。ですから、富める者も貧しい者もそれぞれ、進んで「自分たちの持っているものを互いに分かち合〔う〕」義務を負っているのです(モーサヤ4:19、21モーサヤ4:25-27も参照)。

  12. “Come, Ye Disconsolate”(『賛美歌』〔英語〕115番)で、トーマス・ムーアは次のように記しています。「憐れみの座に来て、真にひざまずかん。ここに傷ついた心をゆだね、苦悩を語れ。天が癒せぬ悲しみは、この地にあらず。」

  13. 1ニーファイ19:7、9。山上の垂訓で、主はこう言っておられます。「あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな」(ルカ6:29)。

  14. マタイ25:35-40参照

  15. “No more a stranger nor a guest, but like a child at home” (“My Shepherd Will Supply My Need,” Hymns—For Home and Church, Gospel Library).

  16. イエス・キリストの福音は、時代や文化を超越します。モルモン書が、アメリカ大陸の古代文化を背景にイエス・キリストの完全な福音を教えていることは、わたしにとってすばらしい証となっています。

  17. 『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』(2007)513にある預言者ジョセフ・スミスと大管長会の顧問たちによる教え。エペソ1:10も参照

    今日教会員は、多種多様な政治的、社会的、経済的な状況の中で生活しています。ワードや支部の規模や指導力も様々です。「統一と調整」の原則は、どこに住んでいようと、家族と主の回復された教会を、福音の方法によって強める助けとなります(『手引き 第2部—教会の管理運営』〔2010年〕17.0参照)。

  18. 2ニーファイ26:24、33、強調付加。2ニーファイ29章アルマ29:8も参照。教義と聖約90:11には、「すべての人が自分の言葉と自分の言語で完全な福音を聞くであろう」と約束されています。この約束は、家庭と教会において、話す言語と福音の文化としての言語を一つに結びつけることで成就します。

  19. ダリン・H・オークス「悔い改め変わる」『リアホナ』2003年11月号、37-40参照

  20. ダリン・H・オークス「悔い改め変わる」39

  21. ダリン・H・オークス「悔い改め変わる」38-39参照。

  22. 信仰箇条1:13参照。イエス・キリストにあって様々な枝や根が一つになるとき、わたしたちは、さらに「徳高いこと、好ましいこと、あるいは誉れあることや称賛に値すること」を見いだします。わたしたちは、先の者があとになり、あとの者が先になるのを目にします。学ぶ者が教え、教える者が学ぶときに喜びを感じます。すべての人が理解し、教化され、ともに喜ぶのです(教義と聖約50:22参照)。

  23. ラッセル・M・ネルソン「永遠にわたる決断」(ヤングアダルトのためのワールドワイド・ディボーショナル、2022年5月15日)、「福音ライブラリー」参照

  24. ジェデダイア・M・グラントは、ブリガム・ヤングとともに大管長会を務めた人物で、多種多様の美しい花々が咲き乱れる霊界の示現について次のように伝えています。それは、多様性における一致と美しさを表していたのかもしれません。「わたしは、この地上で優れた庭園を見てきましたが、あれほど見事なものは見たことがありません。多種多様な花々が咲き誇り、中には一本の茎から50種類から100種類もの色とりどりの花を咲かせているものもありました。」ジェデダイアは「義人の霊が集う霊界の美しさと栄光」を味わったのです (“Remarks, at the Funeral of President Jedediah M. Grant, by President Heber C. Kimball,” Deseret News, Dec. 10, 1856, 317)。

    デビッド・O・マッケイ大管長も、神の永遠の街にまつわる夢あるいは示現について記しています。大管長はそこで木々や果実、植え込み、満開の花々を目にしました。「街のここかしこに、芳しい香りの漂う実をつけた木々や、見事な彩りの葉をつけた植え込みや、満開の花が見えました。」(『歴代大管長の教え—デビッド・O・マッケイ』〔2003〕1)