2025
自らを自制という徳で飾る
2025年11月号


15:8

自らを自制という徳で飾る

キリストのような自制という徳で思いと心を飾るよう、すべての人を心からお招きします。

2021年5月、ソルトレーク神殿の改修現場を視察していたラッセル・M・ネルソン大管長は、長い年月を持ちこたえたこの神聖な建物、物理的にも霊的にも卓越した建物を、限られた資源や手段、そして揺るぎない信仰によって建てた開拓者の奮闘に心を打たれました。一方で、大管長は建物に浸食の跡があるのも目にしました。時とともに神殿の元の礎石に裂け目が生じ、石を積んだ部分も不安定になっていて、構造を補強する必要があることがはっきりと見て取れたのです。

ソルトレーク神殿の外に立つネルソン大管長

愛する預言者はその後、自然の力に耐えられるよう神殿の基礎を補強する大規模な対策を講じる必要があるのと同じように、イエス・キリストを土台としたわたしたち自身の霊的な基を強めるには、恐らくこれまで講じたことのない特別な対策が必要だと教えました。忘れ難いメッセージの中で、大管長は個人で内省できるよう、二つの深遠な問いかけを残しています。「皆さんにはどれほどの固き基がありますか。福音に対する皆さんの証や理解を強めるために、何が必要ですか。」

イエス・キリストの福音は、わたしたちの魂が霊的にむしばまれるのを防ぐ、神の霊感による有効な手立てを与えてくれます。それはわたしたちの基を力強く支え、信仰に裂け目や、神聖な福音の真理に対する証や理解に揺らぎが生じるのを避ける助けとなります。この目的を達成するうえで特に重要な原則の一つが、教義と聖約第12章の、預言者ジョセフ・スミスを通してジョセフ・ナイトに与えられた啓示の中にあります。ナイトは主の御心を理解しようと熱心に努めた義にかなった人物で、ただ上辺だけを変えるのでなく、主の弟子として「天の柱のように揺るぎなく」あり続けようと努めていました。主はこう宣言しておられます。

「見よ、わたしはあなたと、またこの業を起こして確立したいと望むすべての者に語る。

人は謙遜であり、愛に満ち、信仰と希望と慈愛を持ち、また自分に任せられたすべてのことについて自制しなければ、だれもこの業を助けることはできない。」

この神聖な啓示に記された救い主の助言は、イエス・キリストを土台とした堅固な基を築くうえで自制が不可欠な支えであることを思い起こさせてくれます。自制は、奉仕に召された人だけでなく、主と神聖な聖約を交わし、主に忠実に従おうとするすべての人にとっても、欠くことのできない徳の一つです。自制は、この啓示に出てきた、謙遜、信仰、希望、慈愛、主から湧き出る純粋な愛といったほかのキリストのような特質と共鳴し、強めてくれます。この世の影響は、イエス・キリストを土台としたわたしたちの基を弱めるおそれがあります。しかし、自制心を培うことは、じわじわと絶えずわたしたちの霊をむしばむ世の影響から心を守る有意義な手段となります。

自制は、キリストの真の弟子を飾る特質の中でも、救い主御自身の姿を映した特質として際立っており、神の影響力に対して心を開くすべての人に与えられる貴い御霊の実なのです。自制という徳は、心に調和をもたらし、知恵や冷静さをもって願望や感情を形にします。聖文には、自制はわたしたちの霊の旅路において、進歩に不可欠な要素として示されており、わたしたちの思いや言動を精錬していく中で、忍耐や信心、思いやりへと導いてくれるものなのです。

このキリストのような特質を培おうと努めるキリストの弟子は、ますます謙遜で、愛で満たされるようになります。その人の内に静かな強さが生まれ、逆境の風が吹き荒れる中でも、怒りを抑え、忍耐を育み、寛容と敬意と尊厳をもって人々に接する能力がさらに高まります。衝動的に振る舞うのでなく、柔和さと聖なる御霊の穏やかな影響力に導かれて、霊的な知恵をもって行動することを選ぶよう努めるようになるのです。このように、たとえ主への証を揺るがすような試練に直面しても、霊的にむしばまれにくくなるのは、使徒パウロが教えたように、自分を強くしてくださるキリストによって、何事でもすることができると知っているからです。

パウロはテトスへの手紙の中で、救い主の代理となって、信仰と献身をもって主の御心を行おうと願う人々の資格について神聖な勧告を伝えており、そのような人は、自制の影響が色濃く表れた資質である、人をもてなし、慎み深く、正しく、信心深い者であるべきだと述べています。

一方でパウロは、「わがままでなく、軽々しく怒らず、……乱暴でな〔い〕」者であるべきだとも警告しています。そのような性質は救い主の御心に反しており、真の霊的な成長を妨げるものだからです。この聖句の文脈では、「わがままでな〔い〕」とは、横柄で高慢な振る舞いをするのを拒む人、「軽々しく怒ら〔ない〕」とは、短気でいらだつ本能的な衝動を抑えられる人、「乱暴でな〔い〕」とは、言葉や行い、思いにおいて、けんか腰で攻撃的で苛烈な振る舞いをするのを拒む人のことを指しています。信仰と謙遜さをもって自分の行動を変えようと努めるなら、主の恵みという堅固な岩にしっかりとつながれ、主の聖なる御手に使われる、清く磨き上げられた器となることができます。

ハンナとサムエル

自制という徳を培う必要性について思い巡らすと、預言者サムエルの母ハンナの言葉を思い出します。ハンナは並外れた信仰の持ち主で、大きな試練の後でさえ、主に感謝の歌をささげています。「あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、もろもろのおこないは主によって量られる。」ハンナの歌は単なる祈りでなく、謙遜さや自制心、節度をもって行動するようにという自分への促しでした。ハンナは、真の霊的な強さとは、衝動的な反応や傲慢な言葉ではなく、主の知恵に沿った節度ある思慮深い態度に現れることを思い起こさせてくれます。

しばしば、この世は攻撃性や傲慢さ、短気や極端さから生まれる行動を誉めそやし、日常生活のプレッシャーや、認められたい、人気を得たいという志向から、そうした態度を正当化しがちです。わたしたちが自制という徳から目を背け、自分の振る舞いや話し方において聖なる御霊の優しく、心を和らげる影響力を無視するなら、わたしたちはたやすく敵のわなにはまり、必然的に社会や家族、さらには宗務上の関係においてでさえ、深く後悔するような言動をとってしまうことになるのです。イエス・キリストの福音は、困難なときにこそ、この徳を行使するようにわたしたちを招いています。それは、まさにそのようなときに人の真の性質が現れるからです。かつてマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが述べたように、「人の真価は、安楽なときでなく、困難なときや意見の合わないときにどのような態度をとるかで測られます。」

わたしたちは聖約の民として、主と交わした神聖な約束に深く根ざした心もちで生活し、主が完全な模範を通して確立された規範に注意深く従うように呼びかけられています。その見返りとして、主は次のように約束しておられます。「まことに、まことに、あなたがたに言う。これがわたしの教義である。この教義の上に建てる者はわたしの岩の上に建てるのである。地獄の門もこれらの者に打ち勝つことはない。」

救い主

LET NOT YOUR HEART BE TROUBLED(「あなたがたは心を騒がせるな 」)HOWARD LYON画、HAVENLIGHT社の提供により掲載

救い主の地上での教導の業は、主の性質のあらゆる面において、自制という徳で彩られています。主はその完全な模範により、「苦難の中で忍耐強くあり、ののしる者にののしり返してはならない」と教えておられます。意見の相違や対立による怒りに屈するべきでないと教え、「あなたがたは悔い改め、幼子のようにな〔ら〕……なければならない」と断言しておられます。また、十分に固い決意をもって主のもとに行くことを願う者は皆、自分が腹を立てている相手や自分に何らかのわだかまりを抱えている相手と和解しなければならないと教えておられます。主は穏やかな姿勢で思いやりの心をもって断言しておられます。わたしたちが冷たく、思いやりに欠けた、不敬で、配慮に欠けた扱いを受けても、主の慈しみが去ることはなく、主の平安の聖約がわたしたちの生活から取り除かれることはありません。

数年前、妻とわたしは、メキシコシティーにいる幾人かの忠実な教会員に会う神聖な特権にあずかりました。そのうちの多くは、個人として、あるいは大切な人の誘拐や殺人、胸が張り裂けるような悲劇といった、筆舌に尽くし難い試練を耐え抜いてきた人々でした。

この聖徒たちの顔を見つめても、怒りや恨み、復讐心は見て取れず、代わりに、静けさに宿る謙遜さが見えました。悲しげな顔をしつつも、癒しや慰めを心から願う気持ちがにじみ出ていました。この聖徒たちは、心が苦しみで打ち砕かれていても、イエス・キリストを信じる信仰をもって力強く進んでいました。苦難に遭っても信仰に裂け目を生じさせず、福音の証を揺らがせないことを選んだのです。

その神聖な集会の終わりに、わたしたちは一人一人にあいさつをしました。握手して抱き締める度に、主の助けがあれば、わたしたちは人生に潜む葛藤や困難に自制心をもって応じる選択ができるのだという静かな証が積み重なっていきました。彼らの静かで控えめな模範は、すべてのことについて自制をもって救い主の道を歩むようにという温かい促しとなったのです。まるで天使たちの中にいるかのように感じました。

すべての中で最も大いなる御方であるイエス・キリストは、わたしたちのためにあらゆる毛穴から血を流すほどに苦しまれましたが、それほどの苦難の中でも、怒りで心を燃やすのを許すことも、相手を攻撃し、侮蔑し、冒瀆する言葉を漏らすことも決してありませんでした。主は、完全な自制と比類ない柔和さをもって、御自分のことでなく、過去、現在、未来における神の子供たち一人一人のことを考えておられました。使徒ペテロはキリストの気高い態度について、「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいを委ねておられた」と述べて証しています。救い主は、最も激しい苦痛の中でも、完全で神聖な自制を示され、次のように宣言されています。「しかしながら、父に栄光があるように。わたしは杯を飲み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。」

愛する兄弟姉妹の皆さん、キリストのような自制という徳で思いと心を飾るよう、すべての人を心からお招きします。これは、愛するラッセル・M・ネルソン大管長という預言者からの呼びかけへの神聖なこたえとなります。わたしたちが信仰と熱意をもって、自制を自分の行動や言葉に反映させようと努めるなら、強められて贖い主という堅固な基の上に自分の生活をさらにしっかりとつなぎとめられるようになると証します。

絶えず自制を追い求めることは、救い主の御前において魂を清め、心を聖別して徐々にわたしたちを主に近づけ、再臨のときに主にお会いするあの栄えある日に向けて、希望と平安をもって備える助けになると厳粛に証します。これらの神聖な言葉を、救い主イエス・キリストの御名により分かち合います、アーメン。