Deepening Conversion to Christ─心が変わるとき
救い主に自分自身をささげる
少しずつ深くなる改心
ラッセル・M・ネルソン大管長は、2024年10月の総大会で、「わたしたち皆が,答えなければならない最も重要な質問が何なのかが分かりました。それは,『だれのために,あるいは何のために,自分の人生をささげればよいのだろうか』というものです」と話されました。わたしは、いま自分をささげることに向き合っています。
救い主は生きておられます
1987年4月、日本福岡伝道部の専任宣教師に召されました。JMTC 同期42名のほとんどは改宗者で、周囲を説得して伝道に出た信仰深い兄弟姉妹であふれていました。
わたしも大学2年時に伝道に出たかったのですが、母に反対されて望みどおりにはなりませんでした。仏教を深く信じていた母にとって、信仰をもつことに反対はしませんでしたが、イエス・キリストへの信仰は理解できず、ただわたしを心配していました。しかし、わたしは諦めず熱心に教会へ集い続け、伝道資金を貯めるため、遊ぶことよりもアルバイトを続けました。結果、1年後にようやく伝道に出ることを母に許してもらえたときの嬉しさは今でも覚えています。そのように最善を尽くして伝道に出たわたしたち専任宣教師を主は、特別な憐れみで祝福してくださいました。
わたしの場合、自分自身のエンダウメントを受けたとき、その祝福が訪れました。象徴的な儀式を終えて日の栄えの部屋に入ったとき、わたしの目から涙があふれてきました。
それは、思いがけず主がわたしを待っていてくださったからです。目で見ることはできませんでしたが、確かに主はその部屋におられました。生まれてこの方、これほどイエス・キリストの臨在をはっきりと感じたことはありません。おぼろげだった主への証は、生涯忘れることのできないはっきりとしたものとなり、ただただ涙があふれました。
この特別な経験は、専任宣教師として働く上で証の中心となりました。どんなに断られても「一言だけいいですか」とお願いしては、「イエス・キリストは生きておられます」と、出会う全ての人へ証を伝えるよう努めることで、主とモルモン書の証はわたしの心に深く刻まれました。
伝道から帰還して23年後、名古屋東ステークの新しいステーク会長を決める面接に招待されました。当時のアジア北地域会長マイケル・T・リングウッド長老は、一通り質問された最後に、「あなたの伝道はいかがでしたか」とお尋ねになりました。わたしは御霊を強く感じ、目に涙を浮かべながら「主が生きておられると知りました」と短く証をしました。そのとき、リングウッド長老も御霊の答えをお受けになったと思います。
「あなた自身をささげなさい」
ステーク会長に召されてすぐの頃、主は「神殿を求めなさい」と言われました。召されたばかりで、まったく余裕のないわたしには、その提案がとても大それたことに思えましたので、「主よ、わたしには難しいことです」と答えてしまいました。
その数日後、再び主は「神殿を求めなさい」と言われました。主が二度も声をかけてくださったことに恐縮してしまい、信仰は十分とはいえませんが、「主よ、神殿を下さい、欲しいです」と申し上げました。すると、「では、先ずあなた自身をわたしにささげなさい」と言われました。「自分自身をささげる」ことの意味を深く考えることもなく御言葉を受け取りましたが、それがどれほど難しいかを理解したのは、10年以上も後のことでした。
わたしはステーク会長として、自分自身をささげようとできるかぎり努力してきたつもりでしたが、名古屋神殿の影さえも見えないまま解任のお話をいただきました。主の期待に応えられなかったことに落胆しました。この間、家族と職場の理解により捻出した時間の大半を責任に費やし、時間、才能、体力、知力を尽くして働いたつもりでしたが、自分自身をささげることができなかったのかと残念な気持ちでした。しかし、自分にできることは尽くしたとの思いが広がり、主と顧問の兄弟たち、愛するステーク内の兄弟姉妹への感謝の気持ちで涙があふれました。
そこで、自分自身を主にささげることは何もステーク会長でなくてもできるはずと気持ちを切り替え、妻とも相談した結果、退職後は「神の言葉を宣べ伝える務めに余生をささげ(る)」と決意しました。専任宣教師として伝道に出て帰還したら、また伝道に出て、それを繰り返して最後には、専任宣教師のネームタグをつけたまま来世へ旅立つことが人生の新たな目標になりました。病院のベッドで死を迎えるよりも、公園のベンチで主を証しながら死ぬことができれば、「死に至るまでも神の証人にな」れると考えました。
決意したとき、それが主の御心にかなうものか確認はしていませんでした。ただ、そうしたかった。主は、この自発的なささげものを受け入れ、豊かな祝福を注いでくださいました。わたしたち夫婦が専任宣教師として奉仕に集中できるよう、特別な力をもって伝道の備えを始めてくださいました。
その一つは、子どもの再活発化です。子どもの一人は、教会での人間関係に疲れ、主から離れた生活を始めました。わたしは、子どもが取った予想外の行動に動揺しました。それと同時にその子を永遠に失うことの悲しさに堪えられず苦しみました。回復された福音への確かな証が、愛する子どもを永遠に失うという大きな不安と悲しみとなって自分に覆いかぶさってきたとき、証を持たなければこんなに苦しむこともなかったのにと、自身の証を恨みました。苦しみもだえ、泣いて、泣いて、泣いて、主に助けを懇願しました。主は未熟なわたしたちを憐れんでくださり、しばらくして奇跡が起こりました。信仰深い伴侶となる方(わたしは天使と呼んでいます)が現れ、子どもを深く愛し神殿結婚へと導いてくれました。結び固めの儀式の間、主が表してくださった奇跡に対して感謝の祈りをささげると、優しい主は「よくやった」と声をかけてくださいました。わたしは「いいえ、主のおかげです」とただただ涙があふれました。専任宣教師の備えができていなくても、信仰をもって「伝道に出る」と固く決意するとき「あなたがたを備えさせる」という主の約束は成就します。
純粋な愛によって
決意してから数年後、わたしは、伝道に出るタイミングだけを考えるようになっていました。今思えばとても恥ずかしいことですが、「自分自身をささげる」ことの本当の難しさをまったく理解できていませんでした。ある日、わたしは再び、公園のベンチで主を証しながら死んでいきたいとお祈りしたところ、思いがけず「それは、あなたの選びだ」との印象を受けました。
はじめはその意味がよく分かりませんでした。「選び」ってなに?主は助けてくださらないのだろうか?と考えているうち、理解に光が注がれ始めました。
今はまだ元気なため専任宣教師として奉仕することに恐れや不安はさほど感じませんが、歳が進み、腰や足が痛み、目や耳が不自由になる、車の運転ができなくなる、家族の問題が起きる、経済的な困難に陥るなど、さまざまな障壁があったとしても、まだ専任宣教師として伝道に出ると固く決意できるだろうか?「こうなってはもう無理だ」とあきらめてしまうのではないか?それがどんなに困難でも、まだ自分自身をささげる熱意、決意はどこから生まれてくるのか?
その答えは主の祈りにありました。主は、贖罪によりご自身が受ける堪え難い苦しみを事前に御存じで、「わたしは,その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと」思われました。将来、専任宣教師として奉仕を続けていくうちに同じ思いになることは間違いないことです。続いて主は、これまで何度もわたしの霊を震わせてきた次の言葉を言われました「父に栄光があるように」。これは天上の大会議から変わらない主の志です。この短い言葉には、御父とわたしたちへの純粋な愛があふれています。主は、愛のゆえに血を流されて苦しみに堪え、ご自身をささげられました。この純粋な愛がなければ贖罪を成し遂げることは難しかったと信じています。
「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。……自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。この戒めがなぜ第一と第二なのかよく分かりました。天の御父と主を自分よりも愛し、自分のことのように兄弟姉妹を愛する純粋な心がなければ、困難な状況においても伝道に出ようと決意することはできない。純粋な愛、自分の命さえもささげる愛は、自分の心にあるだろうか?わたしの答えは「愛はまだ足りていない」ということでした。今のままでは、途中で愛の油、信仰の油、改心の油が枯れてしまいます。
真の改心
自分の信仰生活を振り返ってみると、主は常に悔い改めをお求めになりました。それがあまりにも頻繁で強かったので、わたしは「主は本当に厳しいお方だ」と口癖のように言うようになりました。6人の子どもを育てること、教会の召しを果たすこと、人に仕えること、悔い改めることなど多くが求められます。ジョセフ・スミスが「いつも泳いでいる水は深い」と言ったように、足をつく余裕もない毎日でしたので、主の愛を感じることなどありませんでした。
しかし、いつの頃からかその口癖を言わなくなりました。主のように人を愛し、分かち合いたい、主のもとへ人々を招きたい、進んで罪や弱さを捨てて主のようになりたいと願っている自分に気付きました。かつて感じることの難しかった主の贖いの愛を豊かに感じ、日々感謝の気持ちであふれています。歩みは本当に遅いですが、改心が少しずつ深くなっていると感じます。
ベトナー長老は、「教えに教え,訓戒に訓戒を加え,次第に,ほとんど気づかないほど少しずつ,わたしたちの動機,思い,言葉,行いは神の御心にかなったものとなります。主に帰依するには根気と忍耐の両方が必要です」と話されました。
主は、若く未熟な専任宣教師を心に掛けて、先ず証を与えてくださいました。証だけではなく、絶えることのない啓示によって改心へと導き続けてくださいます。
夫婦で専任宣教師として奉仕を始めるにはまだ数年ありますので、これからも根気よく悔い改め、主のようになる道を歩み続けていきたいです。その結果として、神と兄弟姉妹への愛にあふれた心へと変化するように願っています。いずれ、主が言われた「わたしのよう」に生まれ変わるとき、贖罪を成し遂げられた主のように自分自身をささげることができると思います。わたしたちの救い主は生きておられ、喜んで自らをささげる聖徒に憐れみ深い神であられることを知っています。◆