虐待
わたしには希望があります


「わたしには希望があります」被害者への支援

「わたしには希望があります」被害者への支援

わたしには希望があります

注:人この話は、虐待被害者(サバイバー)である人が分かち合ってくれた実体験です。名前や個人を特定する情報は変更しています。

10代のころ、わたしは身体的な暴行を受けました。家族の友人の一人によって性的暴行を受けたのです。その人は、かつて自分が尊敬し、信頼していた人でした。人生について自分が知っていると思っていたことがことごとく変わってしまいました。

わたしは、周りにほかの人がいるときには楽しげに振る舞うよう教えられて育ちました。それが人生のあらゆる問題への対処法でしたし、暴行を受けた後もそうした態度を変えることはありませんでした。周りの人々の目には、わたしはうまくいっているように見えたことでしょう。わたしは引き続き良い成績を取り、放課後のスポーツチームにもそのほかの課外活動にも参加しました。ワードや青少年の活動にも積極的でした。自分の身に起こったことをだれにも知られたくなかったので、 わたしはできるかぎりのことをして普通に見えるように努めました。

でも、どんなにそうしようとしても、起きてしまったことから逃れることはできませんでした。見た目とは裏腹に、わたしはうつの症状や不安、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんでいました。だれからも、たとえ両親や兄弟、姉妹であろうと、触れられまいとしました。日中はフラッシュバックを通して、夜になると夢の中で、暴行の記憶がよみがえりました。かつては心の支えだった祈りでさえ、心がさらけ出されるようで、しばしばパニック発作で終わっていました。

わたしを襲った加害者からは殺すと脅されました。その言葉の通りにしてくれていた方がましだったのにと何度も思いました。

自身をコントロールし一時的にでも情緒的な苦痛から逃れようとして、わたしは逃げ道の一つである自傷行為をするようになりました。わたしの心は、自分の体にされたことに対する激しい羞恥心と自責の念でいっぱいでした。体がどうなろうとどうでもよいように思えたのです。自分には価値があると信じることが難しく感じました。自分の身に起こったことと自分が何者であるかを分けて考えることができず、自分がとても汚れているように感じたのです。こんなわたしを一体神様はどうやってほんとうに愛することがおできになるのだろうか。救い主の犠牲は自分にとってどんな意味があるのか理解できていませんでした。修復は不可能に感じていました。こうしたゆがんだ不健全な思い込みによって、天の御父への信頼が弱まり、心から御父に近づくことができなくなっていました。

この時期、わたしは認可されたセラピストと精神科医の双方に助けを求めました。自分には助けが必要だと分かっていましたし、ありがたいことに両親がわたしをセラピストのもとに連れて行ってくれたのです。トラウマからの癒しのプロセスは長くつらいものですが、それを受け入れるにつれて、セラピストはトラウマに健全な形で向き合う方法を教えてくれました。そして、これまで行ってきた自己流の破壊的な対処法を、より健全なものに置き換えていきました。セラピーを通して、わたしは暴行を受けた後に身についた不健全な思考パターンがいかに自分の人生に影響を及ぼしていたかに気づきました。

さらに、自分で自らを神から遠ざけてきたことにも気づきました。そうです。わたしは教会に行き続けるという意識的な選択をしました。そうです。わたしは自分の生活の中に福音を欲しており、また必要としていることを知っていました。でも、わたしの証は自信喪失に打ち勝てるほど十分に強くはなかったのです。こうした思い込みは、治療において、わたしが対処して、成果を見ることが最も難しいことでした。

性的暴行を受けてから数年後、わたしは大学に通い始めました。人生におけるこの新たな時期が始まろうとするころ、ビショップから、天の御父との関係をさらに深めるというチャレンジを受けました。そんなことが自分にできるのか、また主が用意してくださっているというものを受けるだけの価値が果たして自分にあるのか、まだ確信を持てませんでしたが、やってみることにしました。

アルマ32:27にある次の聖句がわたしの頼みの綱になりました。「 しかし見よ、もしあなたがたが目を覚まし、能力を尽くしてわたしの言葉を試し、ごくわずかな信仰でも働かせようとするならば、たとえ信じようとする望みを持つだけでもよい。わたしの言葉の一部分でも受け入れることができるほどの信仰になるまで、その望みを育ててゆけ。」わたしは天の御父に近づきたいという望みを抱いていました。

なすべきことがたくさんあることは分かっていたので、 どこから始めればよいか知りたいと思いました。当時、わたしの証の最も強い部分は、「回復」を中心としたものでした。ジョセフ・スミスが疑問に対する答えを受けたことを知っていたわたしは、どうすれば天の御父にもっと近づけるのか御父に尋ねることにしました。

その答えは静かな思いの中でもたらされました。「わたしがだれであるかを知りなさい。」

この指示に従って、わたしは福音を学ぶことができるような状況に身を置くよう努めました。すると、天の御父がいつもそばにいて、わたしが心を開いて御父を受け入れるのを待っておられることに気づき始めたのです。これまで数年にわたって自ら築いてきた壁を壊すことは、ゆっくりでありながらも着実なプロセスでした。この時期、わたしの祈りはしばしば、自分の子供のために救い主に願った父親の言葉を繰り返すようなものでした。「〔主よ。〕信じます。不信仰なわたしを、お助けください (マルコ 9:24)。」福音についてさらに学ぶにつれて、わたしの証は強められ、天の御父を遠ざけることが少なくなっていきました。

わたしはそれまでも学ぶことは楽しいと思っていましたが、福音を研究するのが大好きになったは、このときが人生で初めてでした。学べば学ぶほど、わたしの信仰は増し加えられ、さらに知りたいと思うようになったのです。生活の中に変化が見られるようになり、暴行の影響が次第に薄らぎ始めました。

必要なときには、今もセラピストに会いに行きます。そうした専門家の助けは、性的なトラウマから癒されるうえで欠かせないものでした。わたしはこれまで、自分の感情を認識する方法や、自分の思いや行動に対処する方法を学んできました。セラピーで学んだ対処スキルがわたしの命を救ってくれたことが、一度ならず何度もありました。自身の霊的な成長と精神的な健康の両方に焦点を当てることは、わたしが成長していくうえでまさに必要としていたことだったのです。

わたしは今後も性的暴行を受けた女性であることに変わりはないでしょうが、その出来事が神の娘としてのわたしの本質に影響を及ぼすことはありません。いまだに自分が傷物であるとか、汚れているとか、不十分であるといった思いがふいに浮かび上がってきますが、最近は、永遠の真理を思い起こすことで、そういった気持ちに立ち向かうことができています。一歩ずつ踏み出す中で、そうした真理を信じる思いがますます強まっています。

わたしはキリストの贖罪の重要性と主がお持ちの力について学んできました。その力は、わたしたちを罪から贖うためだけでなく、わたしたちを聖め、天与の可能性に到達できるようにするために主が備えておられる力なのです。わたしは救い主とその贖罪を通してもたらされる、変わることのできる力を信じています。また天の御父の娘としての自分の価値に確信を持つようになっています。そして今、天の御父と救い主はわたしが理解できる以上に深くわたしを愛しておられることを知っています。

何よりも、わたしは天の御父とイエス・キリストの特質について理解するようになりました。御二方が実際にどのような御方であるかについてさらに学ぶようにという促しに従うことによって、自分が御二方を完全に信頼することができること、またその信頼と信仰をどのように行動に移せばよいかを示していただいたのです。

かつてわたしはとてつもなく深い暗闇を感じていました。それでも、イエス・キリストの福音に従うことを選ぶことで、わたしの生活に主の比類のない光がもたらされました。今では、将来に目を向けるとき、わたしには希望があります。

あなた自身または知人が虐待を受けているなら、今すぐ公的機関、児童福祉サービス〔訳注—児童相談所など〕、または成人福祉サービス〔訳注—警察やDV被害者相談、女性相談センターなど〕に助けを求めてください。また被害者支援サービス、カウンセリングまたは医療の専門家の支援を求めるのもよいでしょう。こうしたサービスはあなたを保護し、さらなる虐待を防ぐ助けとなるでしょう。さらに詳細な情報については「危険な状況にありますか」ページを参照してください。