リアホナ
神殿・家族歴史活動に携われば天は開かれ
『リアホナ』2026年3月号


神殿・家族歴史活動に携われば天は開かれ

わたしがまだ2歳の頃、家族は名古屋市名東区に引っ越してきました。祖父母が昔購入したその土地はまだ区画整理前で、周りには山と広大な空き地が広がっていました。程なくして、自宅の真後ろに名古屋伝道本部、隣りには駐車場をはさんで名東ワードの教会堂が建設されました。わたしは一人でプライマリーに集っていましたが、親の猛反対でバプテスマは叶わず、教会への出入りも禁止されました。後に、郵便局にいた宣教師を偶然見かけたのは高校2年のときです。わたしはすぐにレッスンを受け始め、早朝セミナリーにも毎朝出席しました。父はこのときもバプテスマに反対しましたが、伝道部会長ご夫妻が話してくださったおかげで、18歳で改宗することができました。

高校卒業後はBYUプロボのELCに入学し、メキシコ人の夫と出会ってソルトレーク神殿で学生結婚をしました。8歳で両親が離婚したので、わたしには幸せな家庭を作りたいという夢がありました。わたしたちは4人の娘に恵まれ、日本とアメリカ、メキシコを行き来し、12年後に日本に定住しました。

わたしはすべてを失いました

結婚して27年目の2020年、突然、体に異変を感じました。舌が麻酔をかけたようにしびれ、口が思うように動かなくなり、食事を飲み込んだり会話をすることが難しくなりました。1年後に下された診断は、下顎や舌の筋肉が意思に反して収縮する「下顎ジストニア」という病気でした。なかでも、脳深部刺激療法という治療は拷問のようでした。局所麻酔をして、頭蓋骨にドリルで穴を開けて電極を挿入し、胸に埋め込んだ充電器から電気刺激を与える治療法です。でも、手術を3度行ってもまったく症状は改善せず、2023年秋には治療を断念、体に埋め込んだ器械を取り出す手術を受けました。

主治医は、この病気は精神治療薬の副作用によるものだと言いました。確かに、わたしは家庭内の長年の悩みに加え、相続問題が絡んだ身内からの不当な扱いで心を病み、多量の薬を飲んでいたのです。わたしは家族や周りの人から「気が狂っている」と言われ、差別用語で罵られました。会話が難しくなったことで、10年間続けてきた英会話教室を閉鎖せざるを得なかったことは、本当につらい体験でした。生徒が125人に増え、いよいよこれからというときでした。口が利けないだけで何も分からない人と見下される日々の中で、わたしは次第に友人との連絡を断つようになり、家族との会話もなくなりました。健康、言葉、仕事、生きがい、希望、尊厳、人とのつながり─すべてを失ったわたしは孤立し、深い孤独の中にいました。その頃は、ちょうど沖縄神殿のオープンハウスの時期でした。わたしは今の環境から離れたい思いもあり、翌春に沖縄旅行に行く計画を立てました。

「生きなさい」あなたにはやるべきことがある

父は教会員ではありませんでしたが、約50年間、教会員との親しい関係がありました。会員と卓球を楽しみ、庭先に並べた盆栽を見てもらうなど、一人暮らしの父にとって教会は大きな存在でした。名東ワードの駐車場が手狭になっていたことを漏れ聞いたのか、いつしか父は、「自分が死んだら、この土地を教会の駐車場にしてもらう」と言い始めました。身内は激昂しました。「教会に寄付か、ただ同然で売る形になる。教会に取られる」と考えたのです。でも、父は高齢となり介護が必要になっても、身内からどんなに責められても、決して意思を曲げませんでした。

2023年12月20日、夜中の3時頃のことでした。実家の相続について、父とわたし、身内との前夜からの話し合いは決裂したままでした。ここ2週間、わたしは心労のため、飲食も眠ることもほとんどできずにいました。52㎏あった体重は38㎏まで落ち、体は干からびて立っているのもやっとの状態でした。年を越すのは無理かもしれないという予感もよぎりました。「もうじき死ぬかもしれない」と漏らすと、身内は「どうせ死ぬんでしょう」といら立ち、あろうことか、わたしの荷物をつかんで教会の駐車場に投げ捨てたのです。そして実家に鍵をかけ、わたしが父の所に出入りできないようにと、車で鍵を持ち帰りました。

澄んだ空には星がまたたき、雲ひとつありませんでした。氷点下を切る寒さの中で、わたしは保温性肌着1枚と薄いダウンコートだけで置き去りにされ、震えながら号泣していました。ふと何気なく顔を上げると、教会堂2階のステーク会長室に明かりがついています。そこはつい前日、ステーク会長とエリアオフィスの不動産担当者と、実家の相続について話し合った部屋でした。

天使が電気を灯してくれたように思えて、急いで教会堂の玄関側にまわりました。「誰かいる?開けてください。」戸を叩きながら叫びましたが、返事はありません。ガラス越しに誰かいないかと目を凝らすと、緋色の衣をまとったイエス・キリストの絵が見えました。イエスさまの目を見つめていると、その先に霊界があるように感じられ、わたしはそこに行きたいと願いました。でも、「来てはいけない、引き返しなさい。生きなさい。あなたにはやるべきことがある。」主から現世に突き返されたような気がして、わたしは我に返りました。

これまで家族歴史にまったく手を付けていない─実は、このことがずっと心に引っかかっていました。ここ数年、神殿から離れており、亡くなった母の儀式もできていませんでした。主はすべてを御存じだったのです。「死ぬに死ねない。どうせ死ぬなら、家族歴史と儀式を全部やってから死のう。」わたしはそう決意し、約束しました。「わたしは、残りの人生を主にささげます。これからは、主のためにだけ時間を使い、主の望むことだけをします。」時計はもう6時を回っていましたが、空はまだ暗く、吐く息は真っ白で身体は凍え切っていました。

わたしを呼び止めた声

2か月後、父は88歳で急逝しました。

2024年3月、わたしは父の遺骨を持って、予定通り沖縄への3週間の旅に出ました。わたしは沖縄神殿のワーカーである友人とともに、朝から晩まで先祖の儀式を受け始めました。

ある日、神殿会長会は参入者が帰った後の30分間を、わたしと両親との結び固めの時間に当ててくださいました。儀式を終えて結び固めの部屋を出たのは22時少し前でした。親友と二人で神殿の階段を半分まで降りかけたとき─

「水野姉妹!」突然、日の栄えの部屋の方向からわたしを旧姓で呼ぶ男性の声がしました。わたしはすぐに「はーい」と振り返りましたが、誰もいません。親友も声を聴いていたので、わたしたちは顔を見合わせました。「神殿会長会の兄弟かもしれない。」階段を駆け降り、1階の事務室に行きましたが、儀式を執行してくれた神権者は全員そこにいたのです。

わたしは、霊界が近くにあることと、身代わりの儀式が神殿で行われている意味を初めて悟りました。

名古屋に帰る日が近づくにつれ、「沖縄に移住して、生きなさい」という促しを何度も感じるようにもなりました。主の前で泣いたあの夜も、主はわたしに「生きなさい」と語られました。その言葉に、みじんの疑いも迷いもありませんでした。わたしは一旦名古屋に戻って家族に別れを告げた後、再び沖縄に戻りました。

主の回復の力

わたしはすぐに神殿ワーカーとシニア奉仕宣教師の召しの申請をして、5月から奉仕を始めました。すると、信じられないことが次々に起こりました。

毎日のように神殿や教会で奉仕していると、言葉が少しずつ出て来るようになり、日常生活で困ることがなくなりました。舌がわたしの意思に従い始めたのです。わたしの精神も徐々に癒され、心の病による症状や多量の薬からも解放されていきました。霊的面での回復は驚くほどでした。主の愛と御霊を常に感じ、先祖の儀式を終えたという平安と喜びはわたしから離れません。毎日、奉仕をする前に早朝から仕事に行けるようになり、仕事の後は美しいビーチで泳ぎました。海を見ながら弁当を食べているうちに、体力もみるみる回復しました。刻み食や誤嚥を恐れながらの食事からも解放されたのです。

6月末には、実家の土地について身内と教会が初めて話し合うため、少しの間だけ名古屋に戻りました。夫と一緒に東京神殿に参入したのは、本当に久しぶりでした。二人で日の栄えの部屋で祈っているとき、「わたしは近いうちに夫の元に戻ることになる」という思いが湧いてきました。沖縄での生活を、こんなに早く手放したくはありませんでしたが、沖縄神殿の階段から見えるイエス・キリストの絵に描かれた目は、はっきりと「帰りなさい」と告げていました。

10月に名古屋に戻ると、相続問題は驚くほど穏便に即決し、身内との関係も改善しました。主の介在により、家庭内には愛と御霊がずっとあふれています。毎月夫婦で神殿に参入し、わたしは東京神殿の神殿ワーカー、名古屋伝道部のシニア奉仕宣教師として奉仕する祝福をいただいています。週6日間、2つの仕事をしても疲れず、沖縄で始めた空手や手話も習い続けています。想像を絶するあまりある祝福です。

ウェンディ・W・ネルソン姉妹は、「皆さんの生活が現在……どれほど厳しく悲惨であっても、神殿・家族歴史活動に携われば、それは良くなります。……先祖を助けることに真剣に取り組んでいる姿を主に示すとき、天は開かれ、必要なものがすべて与えられることでしょう」と語りました。わたしはすべてを失ったと思いましたが、神殿・家族歴史活動に携わることで、主はそれを何倍、何十倍にも増してわたしに回復してくださいました。わたしはこのことの証人です。◆

  1. 教会が経営するブリガム・ヤング大学の米国ユタ州にある本校。ELCはEnglish Learning Center(英語学習支援センター)の略