「義にかなった管理人—イエス・キリストの弟子」『リアホナ』2026年3月号
聖約の女性たち
義にかなった管理人—イエス・キリストの弟子
3つのたとえは、管理人の職について教え、イエス・キリストの弟子としての特質を深める方法を示しています。
「10人のおとめ」ホルヘ・コッコ画
イエス・キリストの光を弟子として輝かせることは、究極の再生可能なエネルギーです。それは絶えず供給される源からのエネルギーだからです。キリストの安らぎと光をほかの人々にもたらすことによって、わたしたちは主にあって自分自身の安らぎを見いだすことができます。
ですから、自分の家庭や地域社会で、そしてインターネット上で、平和をつくり出す人となってください。周りの人々の苦しみを和らげてください。
サタンの目標は、わたしたちが受け身の、作用される者でいることです。それとは対照的に、御父の幸福の計画はわたしたちに、善と平和と希望をもたらすために自ら行動する者となる機会を与えてくれます。
わたしたちは、心を高める、希望に満ちた正確な情報を共有することによって、また単なる情報の消費者にならずに真理の擁護者になることによって、偽情報に対抗することができます。イエス・キリストの福音の光と良い知らせで世界を満たすことによって、否定的な意見に応えることができます。
ラッセル・M・ネルソン大管長(1924-2025年)が強く声を上げたように、答えは常にイエス・キリストにあります。「皆さんの抱える疑問や問題が何であれ、その答えは常に、イエス・キリストの生涯と教えの中に見いだすことができます。」
ネルソン大管長は、主の弟子としての務めを「最優先」するようわたしたちを招いています。イエス・キリストから、またイエス・キリストについて学ぶとき、わたしたちは弟子としての特質を深めることができます。では、救い主の教えを探究してみましょう。
10人のおとめ
マタイによる福音書第25章には、3つのたとえ話が載っています。まず、10人のおとめのたとえです(1-13節参照)。5人は思慮深く、5人は思慮の浅い者でした。10人全員が正しい場所で花婿を待っており、それぞれがランプを持っていました。
救い主を表す花婿が思いがけず真夜中にやって来たとき、5人のおとめはランプに油が十分にありませんでした。油を余分に持っておく必要はないと思ったのかもしれません。あるいは、持っていた油の思慮深い管理人でなかったのかもしれません。恐らくほかのことに気を取られて、ランプをともし続けるための十分な準備を怠ったのでした。
そして、婚礼の宴に入れてほしいという彼女たちの懇願に対して、花婿はこう答えます。「あなたがたはわたしを知らない。」(ジョセフ・スミス訳マタイ25:11〔英文〕から和訳 )逆に言えば、これは5人の賢いおとめたちが、備え、管理人の職を賢く果たすことを通して主を知っていたことを示唆しています。
貴重な油は、彼女たちの個人的な改心と見なすことができます。それによって賢いおとめたちはランプに明かりをともし、花婿とともに婚礼の宴に入ることができました。その油を友人たちに分け与えることはできませんでした。個人的な改心は、まさに個人のものだからです。わたしたちは自分のランプの明かりを高く掲げて人々を高め、強め、イエス・キリストのもとに招くことができますし、またそうすべきです。しかし、わたしたちはそれぞれが、自分自身の改心の管理人です。
救い主は次のように言っておられます。「忠実であり、常に祈り、あなたがたのランプの芯を切りそろえて火をともし、油を備えて、花婿が来るときに用意ができているようにしなさい。」(教義と聖約33:17;強調付加)
タラント
マタイによる福音書第25章で語られている二つ目のたとえは、タラントのたとえです(14-30節参照)。その話の中で、主人は遠くまで旅することを予期して、3人の僕にタラントを与えました。「タラント」はお金を表していました。タラントとはまた、天の御父からの賜物、能力、祝福と考えることもできます。主人は一人の僕に5タラント、別の僕に2タラント、三人目の僕に1タラントを与えました。そして、主人は旅に出ました。
戻ってみると、5タラントと2タラントを与えた僕たちは、忠実で役に立つ管理人であり、タラントを有効に活用してその価値を2倍にしていました。わずかなものに忠実であったので、主人はさらに多くを与えて言いました。「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」(21節)
一方、1タラントを与えられていた僕は、それを埋めていました。恐らくほかのことに気を取られて引き延ばしていたのでしょう。あるいは何から始めればよいのか分からずにいらだちを感じていたのかもしれませんし、失敗を恐れていたのかもしれません。自分をほかの僕たちと比べて、不安のために挑戦ができなかったのかもしれません。主人の帰還に備えておらず、忠実に管理人の職を果たす喜びを味わうことなく、タラントを失ってしまいました。
10人のおとめのたとえとタラントのたとえは似ています。どちらも、わたしたちは自分の改心に対して個人的な責任があり、主の昇栄の賜物を受けるために自分自身を備えなければならないこと、そして、わたしたちには自分に与えられている才能や賜物に対する管理人の職と個人的な報告責任があることを強調しています。
良い羊飼いの羊
最後に、マタイによる福音書第25章には、「神の前における自信」を持つ人々の話が記されています。これらの人々は、良い羊飼いの羊として述べられ、主の右にいて、主とともに婚礼の宴を楽しみ、祝福されて多くのものを治める者となります(31-40節参照)。主は彼らにこう言われるでしょう。
「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれた。」(マタイ25:35-36)
主の弟子として、わたしたちは主の再臨に自らを備え、そして自分たちが祝福されて受けているものに関して忠実に、役に立てるように管理人の職を果たします。思いやり、慈愛、徳、そして忠実な管理人としての特質を持つならば、後に神とともに住む資格を得るだけでなく、今、神の前における自信を持つのにふさわしい者になることができます。モルモンが教えたように、終わりの日に慈愛、すなわちキリストの純粋な愛で満たされている人は、「幸い」です。そのような人は救い主に似た者となり、ありのままの御姿の救い主にまみえ、希望に満たされ、救い主と同じように清くなるでしょう。(モロナイ7:47-48参照)ネルソン大管長はこう宣言しています。「慈愛と徳が、神の前における自信を持つための道を開くのです。」
Shepherd—Variation IV, by Jorge Cocco
イエス・キリストの弟子は助けを必要としている人々の世話をします。
これら3つのたとえはすべて、わたしたち自身の改心に対する、またわたしたちが祝福されて受けている賜物や才能や財産に対する、そして、飢えていて、家がなく、傷つき、疲れている隣人に対する管理人の職について教えています。
これらのたとえは、救い主の再臨に先立つ苦難の時代に対してキリストの弟子はどのように備えるべきかを教えています。それは今わたしたちが生きている時代のことです!改心のランプを明るくともし続け、わたしたちの光を輝かせ、自分の才能を使い、増し加え、助けの必要な人々の世話をしなければなりません。これが慈愛、すなわちキリストの純粋な愛を持っているということなのです。