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ピリピ,コロサイ
ピリピ人への手紙,コロサイ人への手紙の紹介とタイムライン
ピリピ人への手紙とコロサイ人への手紙は,どちらもパウロがローマで軟禁されていたときに書かれたものと思われますが,注目すべきなのは,パウロが「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」と書いたのがこの苦難の時期であったことです(ピリピ4:7)。この2通の手紙は,絶えず前向きかつ楽天的で,イエス・キリストに関するパウロの最も明瞭で真摯な教えの幾つかが含まれています。パウロは,信仰と感謝の気持ちをもって生活するならば,どのような状況にいるかを問わず,わたしたちを通して主が福音の大義を前進させられること,そしてイエス・キリストの上に基を築くことによって,世の哲学と言い伝えに惑わされないようにすることができると教えました。
ピリピ人への手紙の紹介
ピリピ人への手紙を研究する理由
ピリピ人への手紙で,パウロはピリピの聖徒を励まし,信仰に堅く立つように勧めました。パウロはまた,へりくだることによってもたらされる,一致して高め合う祝福を得るように勧めました(ピリピ2:3参照)。恐らく,パウロがピリピ人への手紙で教えた最も重要な原則の一つは,神を信頼することが「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」をもたらすということでしょう(ピリピ4:7)。この手紙にあるパウロの励ましのメッセージは,現代の読者が忠実に堪え忍ぶ個人の取り組みにおいて,意欲を起こす助けになります。キリストに従おうと努めるときに,教会員も自信を得ることができ,パウロのように「わたしを強くして下さるかたによって,何事でもすることができる」と宣言できるようになります(ピリピ4:13)。
ピリピ人への手紙の著者
この手紙のあいさつには,パウロとともにテモテの名前が書かれていますが(ピリピ1:1参照),パウロがピリピ人への手紙の唯一の筆者であることがほぼ万人に受け入れられています。この見解は,単数形の代名詞「わたし」がこの手紙全体で用いられていることや,ピリピ2:19にあるテモテへの言及によって裏付けられています。テモテはパウロの筆記者を務めており,パウロの指示の下で手紙を書いた可能性があります。欽定訳聖書のこの手紙の終わりにある注記に関しては,第38章の「コリント人への第一の手紙の書かれた場所と時期」を参照してください。
ピリピ人への手紙の書かれた場所と時期
ピリピ人への手紙は,エペソ人,コロサイ人,ピレモンへの手紙とともに,しばしば獄中書簡と呼ばれます。従来,ピリピ人への手紙はパウロがローマで拘束されていた紀元60年から62年の間に書かれたと考えられています(ピリピ1:7,13,17参照。使徒28:16-31も参照)。パウロは以前,カイザリヤ(使徒23:33-26:32参照)やエペソ(2コリント1:8-10;11:23参照)で投獄されていました。
ピリピ人への手紙の対象読者とその理由
ピリピは,パウロが正式に福音を宣べ伝え,教会の支部を設けた,ヨーロッパで最初の場所でした(使徒16:11-40参照)。パウロがこの手紙を書いた目的の一つは,パウロの2回目の伝道の旅の間に,ピリピの聖徒がパウロに示した愛情と経済的支援に対する感謝の気持ちを表すことでした(ピリピ1:3-11;4:10-19参照)。
また,キリストを信じる信仰についてピリピの会員たちを称賛し,エパフロデトという名前のピリピ人の弟子から得たピリピの町に関する情報に基づいて,彼らに勧告を与えました(ピリピ4:18参照)。パウロの勧告には,謙遜になって一致するようにという励ましが含まれていました(ピリピ2:1-18;4:2-3参照)。また,パウロは,改宗には割礼が必要だと教えた人々など,腐敗したキリスト教徒に用心するようピリピ人に警告しました。このような人々はユダヤ教徒化主義者として知られ,新しい改宗者はキリスト教徒になる前に旧約聖書にある古い割礼の律法に従わなければならないという誤った主張をしました(ピリピ3:2-3参照)。
ピリピ人への手紙の特徴
「この書簡は友情の手紙であり,愛情,信頼,優れた勧告,喜びに満ちています。ピリピ人はパウロにとって信仰における子供の中でもかけがえのない大切な人々であったため,この書簡は聖パウロの書で最も喜びにあふれるものです。……
……これは,霊的な自叙伝の名著です。……コリント人への第二の手紙には,務めを果たそうと激しく葛藤する中でこの使徒の心を乱した深い不安が表れていますが,ピリピ人への手紙では,パウロの心中の平安と強さの源が明かされています。この書は,聖パウロの獄中での瞑想と主との交わりを垣間見せてくれます。」(J. R. Dummelow, ed., A Commentary on the Holy Bible [1909], 969)
ピリピ人への手紙の4つの章では,主イエス・キリストの名前が50回以上挙げられています。パウロは,救い主が御自身を低くされ,神であられた前世から,「十字架の死」(ピリピ2:3-8)で苦しんだ死すべき世に来られたことを詩的に描きました。イエス・キリストは神聖な使命を果たされたことにより,今や高く引き上げられて立ち,主の前に「あらゆるものがひざをかがめ」「あらゆる舌が,『イエス・キリストは主である』と告白」する日が来るのです(ピリピ2:10-11)。
末日聖徒の読者には,ピリピ4:8が,預言者ジョセフ・スミスによって記された信仰箇条第13条の枠組みの一部であることが分かるでしょう。
概要
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ピリピ1:1-26パウロはピリピの聖徒,監督,執事にあいさつし,感謝の意を示して,彼らのために祈った。獄中から自分の状況をピリピの人々に知らせた。
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ピリピ1:27-4:9パウロは,イエス・キリストの無私の模範に従うことによって一つの霊,一つの心で立つようピリピ人に勧め,神が彼らの内面に働きかけられるときに,彼ら自身の救いの達成に努めるように励ました。偽りの教えについて警告し,主において堅く立つように聖徒を励まして,徳高く称賛に値する事柄について考えるように諭した。
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ピリピ4:10-23パウロは,2回目の伝道の旅で受けた経済的支援についてピリピ人に感謝の意を示した。パウロは聖徒に,キリストが自信の源であり,キリストを通してすべてを成し遂げることができると伝えた。その後,証,確信,および祝福の言葉で手紙を締めくくった。
ピリピ人への手紙の解説
ピリピ1:1-14。パウロの監禁が「福音の前進」という結果をもたらした
パウロは,手紙をピリピ人聖徒に対する優しい,愛情を込めたあいさつで始めました(ピリピ1:1-11参照)。次に,監禁されたことの肯定的な結果,特に「福音の前進」について説明しました(ピリピ1:12)。「前進」と訳されたギリシャ語は,軍隊がその前進を妨げるやぶを切り開いたり,障壁を除いたりすることを指す場合があります(ピリピ1:25参照)。パウロが「獄に捕われているのはキリストのため」であることが「兵営全体」に知れ渡ったために,この状況は福音を広める障害を取り去ったようです(ピリピ1:13)。さらに,ほかの教会員もパウロの模範から勇気を得て,「ますます勇敢に,神の言を語る」ようになりました(ピリピ1:14)。
ピリピ1:15-20。福音を宣べ伝える二つの方法
パウロはイエス・キリストの福音を宣べ伝える二つの方法を明らかにしました。一つは,誠意なく「ねたみ」と「闘争心」で宣べ伝える方法で(ピリピ1:15-16),二つ目は「善意」と「愛」で宣べ伝える,より良い方法です(ピリピ1:15,17)。
ピリピ1:21-25。「わたしは,これら二つのものの間に板ばさみになっている」
パウロは獄に入れられていたときに,死んで救い主とともにいられるようになる望みと,生きて主に仕え続ける望みの二つの間で板挟みになっていました。十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は次のように述べました。「パウロは死を恐れませんでした。果敢に戦って世を克服したほかの人々と同様に,パウロは現世の重荷から解き放たれて,神のパラダイスで休むことを望みましたが,この世での務めが終わっていないこと,自身の救いは保証されたものの,まだ肉体にとどまって,仲間の聖徒の救いのためにさらに働かなければならないことを,義務感が知らしめました。」(Doctrinal New Testament Commentary, 3 vols. [1965–73], 2:529)モルモン書の預言者モルモンも,「土の幕屋に宿って」生きている間に(モロナイ9:6),福音を宣べ伝える義務について息子のモロナイに話しました。
ピリピ2:1-7。「人を自分よりすぐれた者としなさい」
教会員の一致を育むことは,聖文のほかの箇所にもあるように(モーサヤ18:21;教義と聖約38:24-27;モーセ7:18参照),パウロの手紙共通のテーマでした(ピリピ1:27;2:2参照。1コリント1:10;ガラテヤ3:28;エペソ4:13も参照)。パウロは,ピリピ人の聖徒が一致するには,利己心を捨てて,人の必要を謙虚によく考える必要があると教えました。次に,「僕のかたちをと〔る〕」ことで(ピリピ2:7),人の必要を尊重することに完全な模範を示されたイエス・キリストに注意を向けました。七十人のH・バーク・ピーターソン長老(1923-2013年)は,無私の心を持つ人の資質を次のように説明しました。
「今日この場には,求められるものが何であれ,〔イエス・キリスト〕のように,無条件の従順を表す人が少なからずいます。……無私の心を持つ人は,自分の都合や慰めよりも,人の安寧や幸福について考えます。頼まれなくても,あるいは感謝されなくても,進んで奉仕します。嫌いな相手にも喜んで仕えます。
無私の心を持つ人は喜んで犠牲を払い,自分の思いや考えから,欲望や要求,悪感情を一掃してしまいます。賞賛や注目を集めることや,自分の欲求を満たすことを求める代わりに,人々のこうした必要を満たしてあげます。」(「無私の心—幸福をもたらす規範」『聖徒の道』1985年7月号,66-67)
ピリピ2:5-8。救い主は「おのれをむなしう」された
パウロは,救い主が現世にお生まれになったとき,主は「おのれをむなしうして僕のかたちをと〔られた〕」と教えました(ピリピ2:7)。イエス・キリストは「神のかたちであられた」前世の立場を捨てて,「人間の姿」で死すべき世にお生まれになりました(ピリピ2:6-7)。モルモン書では,キリストがすべてのものの下に身を落とされるという概念を「神が御自身を低くされる」と言います(1ニーファイ11:16。17-33節;詩篇22:14;イザヤ53:12も参照)。
For unto Us a Child Is Born, by Lynne Millman Weidinger
七十人のタッド・R・カリスター長老は次のように説明しました。「子なる神は,日の栄えの世界の装飾品にあふれる天の家を,粗末な飾り物に満ちた死すべき世の住みかに交換されました。『天の王』(アルマ5:50),『世を統治しておられ〔る〕全能の主』である御子は(モーサヤ3:5),飼い葉おけを受け継ぐために王座を去られました。御子は,万物を治める神の主権を,他にすがる赤子の依存と引き替えられました。御子は,富,力,主権,御自身の完全な栄光を,何のために捨てられたのでしょうか。あざけり,嘲笑,辱めを受け,服従するためです。それは類のない次元の交換であり,途方もない規模のへりくだり,計り知れない深みへの降下だったのです。」(The Infinite Atonement [2000], 64)
ピリピ2:12-13。「自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけ〔る〕のは神……だからである」
パウロはピリピ人の聖徒に,「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい」と述べました(ピリピ2:12)。救われるのはイエス・キリストの恵みによってではなく,自分の努力によってであるという考えを裏付けるために,この節を誤って使う人もいますが,パウロは救いを獲得するために努めるよう聖徒に言ったのではありません。そうではなく,パウロが指摘したのは,神が聖徒の中ですでになさっている救いの業が彼らの行いのすべてに表れるように,聖徒は福音に従って生活するべきだということでした(ピリピ1:6;2:13参照)。自分の救いを達成する努力は,わたしたちの中に主の恵みがあるからこそ可能なのです。
パウロは「恐れおののいて」行動するように言ったとき,恐れを抱いたり,心配したりするべきだという意味で言ったのではありません(マタイ6:25-34;2テモテ 1:7参照)。そうではなく,畏敬と尊敬の念をもって主に仕え,救いを達成する熱意でおののくべきだということを意味していました。十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,この記述について次のように詳しく説明しました。
「使徒パウロが言っているように,わたしたちは『恐れおののいて自分の救の達成に努め』なければなりません(ピリピ2:12)。このよく知られた表現を,わたしたちは自らの義の総計だけで救いと昇栄を得られるという意味に取れるでしょうか。……
これまでいろいろ耳にしてきたことから考えると,わたしたちの中には時々,そのような印象を与えかねないことを口にする人がいるようです。確かにわたしたちは戒めを守らなければなりません。ところが,戒めを守るだけでは十分でないことを忘れてしまうことがあります。ニーファイが言っているように,わたしたちはすべての人を説得して『キリストを信じ,神と和解するように』熱心に努力しなければなりません。『それは,わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に,神の恵みによって救われることを知っているから』です(2ニーファイ25:23)。……
確かに人間はすばらしい能力を持っているので,不断の努力と不屈の精神をもってすれば偉大なことを成し遂げることができます。しかしどんなに従順で,どんなに良い行いをしたとしても,イエス・キリストの贖いによる恵みがなければ,わたしたちは自分の罪の結果から救われることはできないのです。」(「あなたがたはキリストをどう思うか」『聖徒の道』1989年2月号,68-69参照)
ピリピ3:2-3。パウロは「犬ども」と「肉に割礼の傷をつけている人たち」について警告した
犬という言葉は,通常,聖書にある愚弄の一つで,ふさわしくない人物を意味します。ピリピ3:2でパウロが言った「犬ども」とは,キリスト教に改宗した人たちに,割礼を含む特定のユダヤ人の習慣に従わなければならないと教えたユダヤ教徒化主義者のことでした(使徒15:1-5や使徒15:1,5,24やガラテヤ1:1-7の解説参照)。パウロはユダヤ教徒化主義者を,体への傷害を示唆する「肉に割礼の傷をつけている人たち」と皮肉を込めて呼びました。その一方で,パウロは神の聖約の民,つまりキリスト教徒を呼ぶために「割礼の者」(ユダヤ人を指すためによく使われる言葉)を使いました。このように,神を礼拝し,キリストにあって喜ぶ人がまことの「割礼の者」つまり聖約の民なのです(ピリピ3:3。ローマ2:25-29;コロサイ2:10-13も参照)。
ピリピ3:4-8。キリストのために犠牲を払う
ユダヤ教徒化主義者について警告したパウロは,次に熱心なユダヤ教徒としての自分の経歴の一部を挙げました(ピリピ3:4-8参照)。イエス・キリストに従う者となったときに,ユダヤ教のパリサイ人として得ていた以前の誉れ高い身分をはじめ,多くを放棄したと指摘しました(ピリピ3:4-7参照)。それでもこれらの損失を「キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値」と比べて取るに足りないものだと考えました(ピリピ3:8。10-11節;マタイ19:29も参照)。
スペンサー・W・キンボール大管長(1895-1985年)は,犠牲によってもたらされる祝福について次のように教えました。「わたしたちは祭壇を築いて,主によって求められるものは何でも犠牲としてささげなければなりません。そのためにはまず,『打ち砕かれた心と悔いる霊』をささげる必要があります(教義と聖約59:8)。次に,託された務めと召しに最善を尽くします。そして,義務を理解し,それを完全に果たします。最後に,指導者から要請されたとき,そして御霊のささやきに促されたときに,時間と才能と財産を奉献します。……わたしたちは犠牲をささげるときに,犠牲が天の祝福をもたらすことを知ります(英語の讃美歌,27番参照.)。そして結局,それが決して犠牲でないことを理解するのです。」(「心の清い者となる」『聖徒の道』1978年10月号,130参照)
ピリピ3:12-14。「目標を目ざして走〔る〕」
パウロは,「追い求めている」と言いましたが,これは,パウロが永遠の命を「捕えようとして」,つまりつかむ,あるいは手に入れることができるように,力強く「進む」という意味です(ピリピ3:12。2ニーファイ31:19-20も参照)。パウロは「前のものに向かってからだを伸ばしつつ」(ピリピ3:13),「目標を目ざして走〔る〕」(ピリピ3:14)ことについても話しました。これらの節にある比喩の一部は,走者が常にゴールに集中しながら走り続けるレースという発想を反映しています。パウロは,まだ最終的なゴールには達していないものの,過去を捨て,目標,つまりイエス・キリストによって差し出される救いという賞を目指して進んでいると述べました。この姿勢に関して,トーマス・S・モンソン大管長は次のように勧告しました。「昔に戻ることはできません。時は進むのみです。過去を思い続けるよりも,今日,今ここでできることに最善を尽くすべきです。」(「人生の旅路に喜びを見いだす」『リアホナ』2008年11月号,85)
ピリピ4:3。「わたしと共に戦ってくれた女たち」
パウロは,主の業において助けてくれた特定の女性たちに対する思いやりを表現し,ピリピ人の聖徒に,「福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たち」を「助けてあげなさい」と勧めました(ピリピ4:3)。大管長会のJ・ルーベン・クラーク・ジュニア管長(1871-1961年)は,末日の教会の女性がささげる犠牲に関して同じような気持ちを表しました。「〔新約聖書の時代〕から現在に至るまで,女性は教会に慰めと養いを与えてきました。女性は大半の重荷を負い,大半の犠牲を払い,ほとんどの心の痛みと悲しみを負ってきたのです。」(in Conference Report, Apr. 1940, 21)
ピリピ4:3。「いのちの書」
「いのちの書」について読むには,黙示13:8の解説を参照してください。
ピリピ4:6-7。神を信頼することは比類なき平安につながる
「何事も思い煩ってはならない」(ピリピ4:6)と訳されたギリシャ語の表現は,過度に不安になるな,いらいらするな,または心配するなという意味です(マタイ6:25-34の解説参照)。パウロは,不安への対処法は,祈りと主に対する信頼であると教えました。祈りと主への信頼は「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」(ピリピ4:7)をもたらし,心と思いを恐れから守る助けとなります。七十人定員会の会員として奉仕していたジェイ・E・ジェンセン長老は,悲しみのときに自身と家族が平安を受けた経験について次のように話しました。
「孫のクイントンは,多重の先天性疾患のある状態で生まれ,入退院を繰り返した末,1歳になる3週間前に亡くなりました。ジェンセン姉妹とわたしは,当時アルゼンチンに住んでいました。子供たちと一緒にいて,お互いに慰め合えればと心から願いました。愛する孫のそばにいてやりたいと思ったのです。わたしたちには祈ることしかできませんでした。ですから熱烈に祈りました。
ジェンセン姉妹とわたしは伝道部を巡回しているときにクイントンが亡くなったという知らせを受けました。わたしたちは集会所の廊下で抱き合い,慰め合いました。皆さんに証します。わたしたちは聖霊から確信を得ました。人知ではとうてい計り知ることができない平安を頂いたのです。この平安は今なお続いています(ピリピ4:7参照)。また,息子夫婦とその子供たちの生活に言葉では言い表せない聖霊の賜物が与えられるのを目の当たりにしました。そのときのことを語る彼らには,今も信仰と平安,そして慰めが満ちています。」(「聖霊と啓示」『リアホナ』2010年11月号,78)
ピリピ4:8。パウロの勧告
パウロは聖徒に,真実なこと,正しいこと,純真なこと,愛すべきこと,誉れあることを「心にとめ〔る〕」(じっくりと考え続ける)よう勧告しました(ピリピ4:8)。預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)が信仰箇条第13条でこの「パウロの勧告」を引用したとき,ジョセフは「それらのものを心にとめなさい」という部分をより積極的な「これらのことを尋ね求めるものである」に変更しました(信仰箇条1:13;強調追加)。十二使徒定員会のジョセフ・B・ワースリン長老(1917-2008年)は,「これらのことを尋ね求める」という勧告について次のように述べました。
「『尋ね求める』(Seek)という英語の言葉には,捜しに行く,見つけよう,手に入れようと努める,という意味があります。これには人生に対する積極的で主体的な姿勢が必要となります。……努力もせずに漫然と何か良いことが起こるのを待つのとは,対照的な姿勢です。
わたしたちは人生を善で満たし,悪の入り込む余地をなくしてしまうことができます。わたしたちの周囲は善にあふれていますから,悪を選ぶ必要はまったくありません。……
もしわたしたちが徳高く好ましいことを捜し求めるなら,必ず見つけられます。反対に悪を求めるならば,これも確かに見つけられるでしょう。」(「善を求める」『聖徒の道』1992年7月号,92)
ピリピ4:13。「〔キリスト〕によって,何事でもすることができる」
手紙の終わりに近づくと,パウロはピリピ人の聖徒に対し,試練のときに提供してくれた個人的な支援と心遣いに感謝を述べました(ピリピ4:10参照)。パウロは厳しい困難に耐えましたが,イエス・キリストを信じる信仰が支えました。パウロは,「わたしを強くして下さる〔キリスト〕によって,何事でもすることができる」と言いました(ピリピ4:13)。七十人のポール・V・ジョンソン長老は,直面する試練がわたしたちの成長と進歩を促すことを次のように教えました。
「わたしたちは試しや試練,苦難を求めることはありません。人生という個人の旅路では,自分に必要なだけの苦難が与えられます。多くの試練は死すべき状態のごく自然な一部ですが,わたしたちの成長にとってきわめて重要な役割を果たします。……
時折わたしたちは困難なしに成長することや,苦労せずに力をつけることを望むことがあります。しかし,簡単な道を通っていては成長できません。厳しい訓練を拒むスポーツ選手が世界レベルの選手には決してなれないことを,わたしたちはよく理解しています。神の性質を帯びるのに役立つ重要な出来事に憤慨することがないよう注意しなければなりません。
わたしたちが経験する試練や苦難のうち,一つとして自分の限界を超えるものはありません。主から助けを頂くことができるからです。わたしたちを強めてくださるキリストにより,何事でもすることができます〔ピリピ4:13参照〕。」(「わたしたちを愛して下さったかたによって,勝ち得て余りがある」『リアホナ』2011年5月号,79-80)
コロサイ人への手紙の紹介
コロサイ人への手紙を研究する理由
パウロがコロサイ人への手紙を書いたとき,コロサイでは偽りの教えと慣行が聖徒に影響を与え,信仰を脅かしていました。同じような文化的圧力が今日も教会員の難題となっています。この手紙のすばらしい価値の一つは,この手紙がイエス・キリストの神性と救いの業を強調しながら,いかに偽りを特定し,暴いているかにあります。現代の読者が,コロサイの聖徒のように救い主への改心を深めるならば,偽りと罪からもっと完全に守られます。
コロサイ人への手紙の著者
冒頭の文によると,コロサイ人への手紙はパウロとテモテによって送られました(コロサイ1:1,23;4:18参照)。パウロは,手紙の結びに自分自身のあいさつを手書きで記したようであり(コロサイ4:18参照),テモテと思われる筆記者が手紙の本文を書く手助けをしたことを示唆しています。英語の欽定訳聖書のこの手紙の終わりにある短い説明文に関しては,第38章の「コリント人への第一の手紙の書かれた場所と時期」を参照してください(訳注—「ローマからコロサイ人に向けて,テキコとネオシモによって書かれた」と短い説明文が英語版にはあります)。
コロサイ人への手紙の書かれた場所と時期
コロサイ人に手紙を書いたときは囚人であったとパウロが述べていることから(コロサイ4:3,10,18参照),この手紙が書かれたのは,パウロがローマで監禁されていた紀元60年から62年の間であった可能性があります。パウロは恐らく,コロサイ人への手紙を,ピリピ人,ピレモン,エペソ人に手紙を書いたときと同じころに書いたと考えられます。これらの手紙はすべて,互いに類似点があります。
コロサイ人への手紙の対象読者とその理由
この書簡は,コロサイ(現在のトルコの一地域)の忠実な聖徒にあてて書かれたものです。パウロは,ラオデキヤ近くの教会員にもこの手紙を朗読するようコロサイ人の聖徒に指示しました(コロサイ4:16参照)。コロサイ人への手紙の詳細な記述は,コロサイの地域で,キリスト教,ユダヤ教,多神教の考え方が混ざり合った,異端の信仰と礼拝の慣習が作り出されていたことを示しています。これらの異端信仰は,イエス・キリストの神聖な役割を侮り,拒否しました。このような偽りの考えが教会を脅かしていましたが,依然として「キリストにある……忠実な兄弟たち」であったコロサイの聖徒の多くが,まだその考えに引き込まれていませんでした(コロサイ1:2;2:4,8,20参照)。この手紙を書くに当たってパウロが願ったのは,聖徒に対する個人的な懸念を伝え,彼らの信仰を脅かす偽りの教えと慣行を打ち消し,キリストの神性と卓越性について証して,救い主への帰依を深めるよう聖徒に勧めることでした。
コロサイ人への手紙の特徴
コロサイ人への手紙で,パウロはイエス・キリストの卓越性を強調することによってコロサイの異端の教えに反論しました。パウロは,イエス・キリストの神性と人を救う使命について,ことのほか完全な概念を提示しました(コロサイ1:15-23参照)。そして,キリストが父なる神の姿そのままの御方であり,肉体を持つ神会の一員,創造主,教会の頭,最初に復活される御方,贖い主,そして「すでに聞いている福音の望み」であられることを教えました(コロサイ1:23)。キリストは,「すべての支配と権威とのかしら」であり(コロサイ2:10),御父の指示に従って神聖な使命を全うされます(コロサイ1:19;3:1参照)。
パウロは,真の霊性が特別な儀式,祭り,食事を通して得られると教える人々について警告しました(コロサイ2:16-17,20,23参照)。霊的な成熟と神についての知識は,そのような習慣や慣行を通して正しく明らかにされることはなく,「上にあるもの」を「思う」ようにし(コロサイ3:1-2),義に反する行いを排除し(コロサイ3:5-9参照),キリストのような特質を養うこと(コロサイ3:12-17参照)を通して明らかにされると教えました。パウロは読者に対し,「ゆるぐことがなく,しっかりと……ふみとどまり」「〔イエス・キリスト〕に根ざし,彼にあって建てられ,……信仰が確立され〔る〕」ように勧告しました(コロサイ1:23;コロサイ2:7)。
概要
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コロサイ1:1-23パウロはコロサイの聖徒にあいさつし,イエス・キリストが贖い主,すべての被造物の中の長子,創造主,神の完全さに満ちた主であられ,キリストによって全人類は神と和解すると宣言した。イエス・キリストを信じる信仰を確立するよう聖徒に熱心に勧めた。
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コロサイ1:24-2:23パウロは,天使を礼拝すること,霊的な鍛錬の一形態として肉体に基本的に必要なものを否定する慣行をはじめ,偽りの哲学や人の言い伝えを信じることについて警告した。
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コロサイ3:1-4:18パウロは聖徒に,上にあるものに心を向け,過去の生活の罪を捨て,互いに慈悲深くあるように勧めた。聖徒はどのように礼拝すべきかを指示してから,妻,夫,子供,親,僕,主人に勧告した。称賛,あいさつ,そして最後の教えと祝福を述べてコロサイ人への手紙を結んだ。
コロサイ人への手紙の解説
コロサイ1:1-3。別個の御方
ほかの手紙のパターンに倣って,パウロはコロサイの聖徒への冒頭のあいさつで,神会の独立した別個の存在である御二方,すなわち父なる神と主イエス・キリストについて言及しました(欽定訳〔英文〕コロサイ1:2。1コリント1:3;2コリント1:2-3;ガラテヤ1:1も参照)。
コロサイ1:7。エパフラス
コロサイ1:14。「この御子によ〔る〕あがない」
コロサイの地域における偽りの信仰と礼拝形態は,イエス・キリストの永遠の役割と神性を軽視するものでした。コロサイ1:14で,使徒パウロは,コロサイの聖徒が礼拝する誘惑に駆られるかもしれないほかのすべてのものに対するイエス・キリストの優位性を立証するために議論し始めました(コロサイ1:14-20参照)。パウロは,キリストの血が流されたことによって,罪の赦しを受けられると述べることから始めました。ダリン・H・オークス長老は次のように指摘しました。
「イエス・キリストは永遠の父なる神の独り子であり,わたしたちの創造主,教師,救い主です。その贖罪によってアダムの罪の代価は払われ,死に打ち勝ち,全人類の復活と不死不滅が確実なものとなりました。
しかしイエス・キリストはそれ以上の御方です。イエス・キリストは救世主です。その贖いの犠牲によって,人が再び神のみもとに帰れるように,自分の犯した罪から清められる道が開かれたのです。イエス・キリストは贖い主です。
このメシヤの贖いの犠牲は,あらゆる時代の預言者の中心的なメッセージです。」(「あなたがたはキリストをどう思うか」『聖徒の道』1989年2月号,67-68参照)
コロサイ1:15。「見えない神のかたちであって,すべての造られたものに先だって生れたかた」
パウロは,イエス・キリストが「見えない神のかたち〔似ていること,または現れを意味する〕」であると言いました(コロサイ1:15)。神を「見えない」と表現することによって,パウロは,神が「目に見えない」御方であっても,必ずしも「見ることができない」または「見られることができない」御方ではないということを表しました。この使徒の論点は,神は現在人間の目には見えないが,イエス・キリストの外見と特質は御父がどのような御方であられるかを表しているということでした(ヨハネ14:7-11;16:25の解説参照)。末日の啓示と,御父の肉体を目の当たりに見たという預言者ジョセフ・スミスによる証言からも分かるように,このことは御父の霊的な本質と肉体的な本質に当てはまる真理です(ジョセフ・スミス—歴史1:17;教義と聖約130:22参照)。
パウロは,イエス・キリストが「すべての造られたものに先だって生れたかた」であるとも教えました(コロサイ1:15)。「イエスは天の御父の霊の子供の長子であり,また御父の肉における独り子であり,復活によって死者の中からよみがえられた最初の御方である(コロサイ1:13-18)。」(『聖句ガイド』「長子;初子」の項;scriptures.lds.org)
コロサイ1:16-17。イエス・キリストによって「万物は……造られた」
イエス・キリストは創造主であられ,お造りになったものすべてを治める力を持っておられます。ダリン・H・オークス長老は次のように説明しました。
「御父の指示と計画に従って,創造主であるイエス・キリストは万物の光と命の源となられました。現代の啓示を通して,わたしたちは次のようにイエス・キリストについて記録したヨハネと同じ証を持つのです。すなわち,イエス・キリストは『世の光であり,世の贖い主であり,世に来られた真理の御霊であった。彼が世に来られたのは,世が彼によって造られたからである。また,彼の中に人の命と人の光があった。
もろもろの世界は彼によって造られた。人は彼によって造られた。万物は彼によって,彼を通じて,彼から造られた。』(教義と聖約93:9-10)」(「世の光にしてまた世の生命」『聖徒の道』1988年1月号,68。ヨハネ1:1-3;へブル1:2;教義と聖約76:24;モーセ1:33も参照)
「万物は,天にあるものも地にあるものも,見えるものも見えないものも」イエス・キリストによって造られました(コロサイ1:16)。
パウロは,「万物は〔キリスト〕にあって成り立っている」,つまりキリストの力が,お造りになったものを一つにつなぎ止めていると言いました(コロサイ1:17)。イエス・キリストが造られたものすべてをどのように治められるかについて,詳しくは,教義と聖約88:6-13を参照してください。
コロサイ1:18。キリストは教会の頭であられる
イエス・キリストが教会の頭として立たれるというパウロの教えは(コロサイ1:18参照),キリストよりも天使,またはあらゆる人,あらゆる物を優先する人々に対する注意喚起でした(コロサイ2:18参照)。末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長として支持されたとき,トーマス・S・モンソン大管長は次のように話しました。「救い主イエス・キリストはその御名を冠したこの教会の頭であられることを証します。主の業を推し進めるわたしたちを導いてくださる主の促しを心に受けることは,この生涯を通じて最もすばらしい経験となってきました。」(「過去を振り返り,前進する」『リアホナ』2008年5月号,88参照)
コロサイ1:19。「すべての満ちみちた徳」は御子にどのように宿るのか
パウロによると,イエス・キリストは「すべての満ちみちた徳を宿らせ」ておられます(コロサイ1:19)。「満ちみちた徳」に当たるギリシャ語は,神の力の完全性を示唆しています。したがって,パウロはイエス・キリストとキリストの福音がほかのすべての哲学と宗教に勝ると宣言していました。父なる神は,御自分の愛子に「天においても地においても」(マタイ28:18)完全な力をお与えになり,御自分の右に置かれ(使徒7:55;へブル1:3参照),御自身が完全であられるのと同様に御子を完全にされました(エペソ1:23;コロサイ2:9;3ニーファイ12:48参照)。
コロサイ1:23;2:6-10。哲学,言い伝え,世のもろもろの霊力
コロサイ1:23;2:6-7で,パウロは木と建物の比喩を使って,イエス・キリストを信じる信仰によってもたらされる安定について説明しました。パウロは,コロサイ人の聖徒はイエス・キリストに忠実であり続けるべきだという主張を続けながら,「ゆるぐことがなく,しっかりと信仰にふみとどまり,……移り行くことのないようにすべきである」と聖徒を励ましました(コロサイ1:23)。その後,パウロはコロサイ2:8で,「むなしいだましごとの哲学で,人のとりこにされないように」と聖徒に警告しました。この節のとりこにされるという言葉は,戦争で征服者によって人が捕虜にされることを指します。「むなしいだましごとの哲学」は,人が作ったあらゆる信仰体系と礼拝方法を指します。パウロによると,イエス・キリストが「すべての支配と権威とのかしら」であられることから(コロサイ2:10),まことの福音以外の信仰または宗教的習慣を取り入れることは,永遠の結果をもたらします。大管長会のディーター・F・ウークトドルフ管長は,この世の理論や哲学と,イエス・キリストの福音を次のように対比しました。
強い風が吹いても,根が木を支えて安定した状態に保たせるように,イエス・キリストに対する証と忠実な行いは,わたしたちを支えてキリストにしっかりと「根ざし」,世の哲学に対して力を強めさせてくれます(コロサイ2:6-8参照。マタイ13:20-21;ヒラマン5:12も参照)。
「この世は臆することなく,わたしたちが直面する問題への様々な新しい答えを提示しています。人々は魂の叫びに答えてくれるものを見つけようと,次々と新しいアイデアを試しています。セミナーに出席し,本や……そのほかの製品を購入しています。何か新しいものを見つける興奮の渦に巻き込まれてしまいます。ところがいや応なく,新たな理論への興奮がさめてしまうと,前に流行した方法でできなかったことが可能になると約束する,『新たに改善された』解決法がそれに取って代わるだけなのです。
こうしたこの世の選択肢に真理の要素が含まれていないわけではありません。含まれているものも多くあります。しかし,それらは皆,人生で求められている永続的な変化をもたらすことはありません。興奮がさめると,むなしい思いが残ります。すると人々は,幸福の秘訣を教えてくれる,次の新しいアイデアを探し求めるのです。
それとは対照的に,イエス・キリストの福音にはわたしたちのすべての問題への答えがあります。福音は秘訣ではありません。複雑でもなく,隠されたものでもありません。福音は真の幸福への扉の鍵を開けてくれるのです。だれかの理論や主張でもなく,人が生み出したものではまったくありません。宇宙の創造主の永遠にかれることのない清い泉からわき出るものです。」(「キリストの弟子として歩む道」『リアホナ』2009年5月号,75参照)
コロサイ1:26-29;2:2;4:3。「奥義は……この世から隠されていた」
パウロは,イエス・キリストの福音を「奥義」と呼びました(コロサイ1:26-27)。「神の奥義とは,啓示によってのみ知ることのできる霊的な真理である。神は福音に従順な人に奥義を示される。」(『聖句ガイド』「神の奥義」の項;scriptures.lds.org)このため,だれでも信じない人,また悔い改めない人にとっては,イエス・キリストは謎のままとなります。福音の真理は,御霊を通してのみ理解できます(1コリント2:14参照)。
コロサイ2:12-14。水に沈めるバプテスマの象徴
水に沈めるバプテスマの象徴について読むには,ローマ6:1-11の解説を参照してください。
コロサイ2:13-15。「十字架につけてしまわれた」
コロサイ2章にあるこれらの節の前に,パウロはコロサイの聖徒に,神が彼らをお赦しになったことを思い出させました(コロサイ1:14,20,22参照)。コロサイ2:14-15でパウロが使った比喩は,キリストの贖罪がわたしたちの罪の赦しをどのように可能にするかを強調しています。パウロの時代,ローマ人の習慣では,有罪宣告を受けた人の犯罪行為を札に書いていました。犯罪者が十字架にかけられるときは,通りがかりの人に見えるように,その札も釘で十字架に打ち付けられました(ヨハネ19:19-22参照)。パウロは13-15節で,コロサイ人が赦されていることを教えるためにこの比喩表現を使いました。これはあたかも,モーセの律法が定める決まり事への罪と違反をはじめ,コロサイ人の聖徒に対する霊的な嫌疑と非難の全リストが札に書かれ,釘で十字架に打ち付けられたかのようなものでした。イエス・キリストの十字架の刑を通して,これらの罪は消され,ぬぐい去られました。
イエス・キリストの贖罪と復活を通して,キリストは地上のあらゆる権威と権力に打ち勝たれました(コロサイ2:15参照)。
コロサイ2:18-19。「天使礼拝」
パウロはコロサイ人の聖徒に対し,天使礼拝を推奨する人々に欺かれないよう警告しました(コロサイ2:18参照)。天使は神の王国で名誉ある地位にありますが,礼拝の対象ではありません(黙示19:10参照)。天使礼拝はグノーシス主義の教えの一部が教会に紛れ込んでいた証拠です。なぜならグノーシス主義の哲学では,神は天使を通して現世の人間と交流するとし,肉体は悪だとしていたからです。パウロはこの偽りの宗教体系を非難しました。グノーシス主義の詳細について読むには,第52章の「ヨハネの第一の手紙の対象読者とその理由」を参照してください。
コロサイ2:20-23。「ひとりよがりの礼拝」
パウロは,聖徒の中に,キリストを受け入れたにもかかわらず,この世の「規定」に関与して「人間の……教」に従う人がいるのはなぜかと聖徒に尋ねました(コロサイ2:20-22)。パウロは,人のそのような教えを「ひとりよがりの礼拝」と呼びました(コロサイ2:23)。これは,人が作った礼拝,つまり人の意思,または意向によって考え出された宗教的な規則と慣行を指します。パウロが言及した「ひとりよがりの礼拝」の形態の一つは「からだの苦行」で,禁欲主義の慣行を指します。禁欲主義を実践した人々は,肉体の欲求に打ち勝つ努力の一環として,肉体的快楽を完全に避けました。しばしば極端な食事制限を取り入れ,結婚のきずなにあってさえも性的な関係を拒絶しました(1コリント7:1-5;1テモテ 4:1-3も参照)。このような行きすぎた慣行は,イエス・キリストの福音にそぐわないものです。
ジョセフ・スミス訳は,コロサイ2:21-22の意味を明確にするために役立ちます。「なぜ,この世に生きている者のように,『触るな,味わうな,触れるな』などと教える人間の教義と戒めによる規定に縛られているのか。これらのものは皆,使えば尽きてしまうものである。これらのことは,肉を満足させるためのひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙遜と,体の苦行とを伴うので,知恵のある仕業らしく見えるが,神に誉れを帰するものではない。」(ジョセフ・スミス訳コロサイ2:21-22〔英文〕から和訳)
コロサイ3:1-2。「上にあるものを求めなさい」
コロサイ2章で偽りの教えに反論したパウロは,次に,読者に対して「上にあるものを思うべきであって,地上のものに心を引かれ」ないように勧めました(コロサイ3:2)。ジョセフ・B・ワースリン長老も同様に,この世の事柄に忙しくて永遠の優先事項に集中しなくなることを避けるよう末日聖徒に勧告しました。
「チェックリストを片手に髪を振り乱して動き回る人生を送ることはできますが,そのような生活に究極の価値はないのです。
多くを行うことはそれほど大切ではありません。永遠に価値のある事柄に思いと心と霊を傾けること,これが大切です。
わたしたちは騒々しくせき立てられ,『こちらに来なさい』『あちらに行きなさい』と叫ぶ声に囲まれて生活しています。わたしたちの時間と関心を手中に収めようと雑音と誘惑が渦巻く中で,ガリラヤの海辺に一人立って『わたしについてきなさい』と静かに招いている御方がおられます。」(「わたしについてきなさい」『リアホナ』2002年7月号,16)
Christ Calling Peter and Andrew, by James Taylor Harwood.救い主はわたしたちそれぞれを,主に従い,「上にあるものを求め」るよう招かれます(コロサイ3:1)。
コロサイ3:3-12。「キリストと共に神のうちに隠されている」新しいいのち
パウロは,「あなたがたはすでに死んだものであって,あなたがたのいのちは,キリストと共に神のうちに隠されているのである」と教えました(コロサイ3:3)。聖徒は肉体的には死んでいませんでしたが,パウロは彼らに,「古き人を……脱ぎ捨て」た(コロサイ3:9)ときに以前の罪深い自分が死んだこと,そしてキリストにあって新しい人生を送るべきであることを理解してほしいと思いました。パウロは,この新しいいのちが「キリストと共に神のうちに隠されている」と言いました(コロサイ3:3)。これは,イエス・キリストの忠実な弟子の人生が,地上と永遠の両方で,救い主の保護の下で安全であることを示唆しています。このような忠実な聖徒は,イエス・キリストの再臨に際して,キリストとともに「栄光のうちに」現れます(コロサイ3:4)。パウロはさらに,教会員に対して「地上の肢体……を殺してしまいなさい」,つまり,この世の性質に属する欲求と衝動を死滅させ(取り去り)抑制するように勧告しました(コロサイ3:5)。
預言者ジョセフ・スミスの人生における一つの経験は,「キリストと共に神のうちに隠されている」という言葉の意味を説明するために役立ちます。あるとき,ジョセフ・スミスは友人のウィリアム・クレイトンのひざに手を置いて,次のように言いました。「あなたの命はキリストとともに神の内に隠されています。またほかの多くの人々も同じです。赦されない罪を犯さないかぎり,あなたが永遠の命を受け継ぐのを妨げるものはありません。なぜなら,あなたは神権の力によって永遠の命に結び固められたからです。」(in History of the Church, 5:391)あなたの命が「キリストと共に神のうちに隠され」るとは,あなたの召しと選びとを確かなものにすることです。
コロサイ3:10-11。未開の人とスクテヤ人
パウロは,キリストの贖罪がギリシャ人,ユダヤ人,未開の人,およびスクテヤ人を含むすべての人を平等にしたと教えました(コロサイ3:11参照)。未開の人とは,ローマ人が礼節と文化に欠けると見なした人々の集団でした。スクテヤ人は,黒海の北部沿岸(現在のウクライナ)出身の人々で,ギリシャ人は彼らを暴力的で無学だと見なしていました。
コロサイ3:12-17。「あわれみの心……を身に着けなさい」
他人に対する思いやり,赦し,憐れみ,慈愛で満たされるようにというパウロの勧告は,パウロが投獄されていたときに書かれました。リバティーの監獄で,預言者ジョセフ・スミスは聖徒にこれに似た勧告を書き,「すべての人に対して,……慈愛で満たされるようにしなさい」と述べました(教義と聖約121:41-45参照)。これは,不法に投獄された主の僕たちと,彼らに従う人々に対する時代を超えた勧告です。このような不当な状況では,主の御霊が弟子たちの生活に影響を及ぼせるように,彼らの心から恨みが取り去られる必要があります。
コロサイ3:18-4:2。家族訓
コロサイ3:18-4:1には,一部の人が「家族訓」と呼ぶ,世帯内の人物それぞれに対する原則と規則で構成された規範が書かれています(エペソ5:19-6:9;テトス2:1-10;1ペテロ2:18-3:8に類似した節があります)。パウロは,当時一般的であった世帯への文化的な期待を是認するのではなく,主の標準に従ってそれぞれの世帯と家族関係を評価して(「主にある」または「主に」「主を」などの言葉を参照),それによってキリスト教の家族と会衆に,さらに大いなる一致と平安をもたらすよう聖徒を諭しました。世帯と結婚における調和に関してパウロの教えをさらに読むには,エペソ5:17-6:9とエペソ5:21-6:9とエペソ5:21-25,エペソ5:25の解説を参照してください。
コロサイ3:18-19。配偶者への勧告
世帯に対するパウロの勧告の中核は,夫と妻の間には愛のある関係が存在すべきだという考えです。そのような関係について,スペンサー・W・キンボール大管長は次のように教えました。
配偶者は生活で最も優先するものであって,社交,職業,政治,そのほかの利害,人,物が配偶者に優先するようなことがあってはなりません。……
結婚は全面的な忠誠と全面的な貞節を前提とします。それぞれの配偶者は全面的に自身のを伴侶に与える,つまり心,強さ,忠誠,誉れ,愛情のすべてを,最大の敬意をもって伴侶に与えるという理解をもって結婚します。伴侶以外に心を向けることは何であれ罪であり,心をほかのものに許すことは背きです。わたしたちは,『神の栄光にひたすら目を向け』る必要があるため〔教義と聖約4:5;82:19〕,結婚生活と配偶者,そして家族にひたすら目と耳と心を向けなければなりません。」(in Conference Report, Oct. 1962, 57)
エペソにあるローマ時代の家の遺跡。新約聖書時代,教会の会衆は教会員の家に集まり,そこには世帯全員(親,子供,僕)が含まれていたと思われます(コロサイ3:16-4:2参照)。
コロサイ4:5-6。言葉を「塩で味つけ」しなさい
パウロは,聖徒に「そとの人に対して賢く行動」することを勧めました(コロサイ4:5)。「そとの人」という言葉は,教会員ではない人を指しました。パウロは次に,「塩で味つけられた,やさしい言葉を使いなさい」と言いました(コロサイ4:6)。古代,塩は神殿のささげ物をささげるために使用されたことから,福音の聖約の象徴になりました(レビ2:13参照)。塩は,浄化剤としても使われます。このため,言葉を塩で味付けするというパウロの教えは,すべての交流が,それがキリスト教徒以外の人との交流であるとしても,清く,主と交わした聖約に調和したものであるべきだということを教会員に思い起こさせました。
コロサイ4:16。失われた書簡
この節は,パウロがラオデキヤの聖徒に手紙を送ったことを示唆しています。この手紙は,今日存在しません。