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第52章:1ヨハネ,2ヨハネ,3ヨハネ,ユダ


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1ヨハネ,2ヨハネ,3ヨハネ,ユダ

1ヨハネ,2ヨハネ,3ヨハネ,ユダの紹介とタイムライン

ヨハネとユダは,背教が教会を脅かしていたときにこれらの手紙を書きました。イエス・キリストの死からわずか数十年しかたっていないにもかかわらず,偽教師たちは使徒たちによる教えとは異なる「教〔え〕」を教えていました(2ヨハネ1:9-10参照)。イエス・キリストは肉体を取っては来られなかったと主張する人もいました(1ヨハネ4:1-3参照)。地方の教会指導者であるデオテレペスは,ヨハネの権威を認めようとしませんでした(3ヨハネ1:9-10参照)。ヨハネは,偽りの教義を教えた者たちをはっきりと「反キリスト」と呼びました(1ヨハネ2:18,224:3)。また,ヨハネは教会員たちに,偽りを避け,自分とともに「父ならびに御子イエス・キリストとの」交わりにとどまるように勧めました(1ヨハネ1:3)。ユダは聖徒に,「しのび込んでき〔た〕」「不信仰な人々」について警告しました(ユダ1:415節も参照)。復活された救い主の目撃者として,ヨハネとユダは,偽りの教義をどのように阻止するかについて忠実な者たちに勧告しました。

〔第52課のタイムラインの画像〕

ヨハネの第一の手紙の紹介

ヨハネの第一の手紙を研究する理由

ヨハネの第一の手紙は,教会に背教が広がっていた時代に書かれました。ヨハネはこの手紙で,教会内で危険な広まりを見せた背教の影響について述べるとともに,聖徒が闇との交わりを避け,福音の光という安全な場所にとどまるよう使徒として警告を与えました。ヨハネがこの手紙で反駁した偽りの教えは,今日の世の中で広く行き渡っている教えとは異なるものもありますが,1ヨハネを研究することは,現代の教会員がイエス・キリストについての偽りの教えをさらによく識別できるようになる助けとなり,ヨハネの勧告に従うことで,真理にとどまるときに主との密接な交わりを維持する助けともなります。

ヨハネの第一の手紙の著者

1ヨハネの筆者は,その手紙の中で自らを特定しませんでした。 しかし,紀元2世紀という早い時期に,キリスト教の学者たちは,筆者をイエスの十二使徒の一人である使徒ヨハネだと特定しました。1-3ヨハネとヨハネの福音書の間に類似点があることを指摘し,同じ筆者であることを示唆する評論家もいます。さらに,ヨハネの手紙の筆者は,復活された救い主の目撃者であり,使徒ヨハネはまさに目撃者でした(1ヨハネ1:1-44:14参照)。ヨハネの詳細については,第21章の「ヨハネの福音書の著者」を参照してください。

ヨハネの第一の手紙の書かれた場所と時期

ヨハネは生涯の大部分をパレスチナで過ごしましたが,その地域は紀元70年にエルサレムと神殿が破壊された後,キリスト教徒とユダヤ人に敵対した場所でした。言い伝えでは,ヨハネは後にパレスチナを去り,エペソに住んだとされています。したがって,1-3ヨハネはエペソで書かれた可能性があります。新約聖書の評論家は一般的に,1ヨハネは紀元70年から100年の間,恐らくは紀元1世紀の最後の数年間に書かれたと信じています。

ヨハネの第一の手紙の対象読者とその理由

1ヨハネの読者は明確に述べられていません。形の上では,1ヨハネは特定のキリスト教徒の会衆にあてた手紙というよりも,教義的な小論または論文としての要素が強くあります。ヨハネは信者に向けて書きました(1ヨハネ1:3-42:12-14参照)。恐らく小アジヤ(現代のトルコ)の信者でしょう。史料によると,そこはヨハネが紀元1世紀後半に住み,務めを果たした場所です。偽教師たちは,その地域の聖徒の間に対立や分離を引き起こしていました(1ヨハネ2:18-19,22,264:1参照)。

当時は仮現説という哲学が人気を得ていました。仮現説とは,グノーシス主義というさらに大きな思想運動の一環でした。グノーシス主義の多くの考え方のうち,核心となるものは,霊は完全に善良であり,肉体をはじめ物質は完全に悪であるという教えです。グノーシス主義の支持者は,救いは罪のないことにより得られるものではなく,霊を物質すなわち肉体から引き離すことにより得られると信じていました。また救いは,イエス・キリストを信じる信仰を通してではなく,神の奥義に関する特別な知識(グノーシス)によって得られると信じていました。

仮現説の支持者は,イエスの霊的な特質を強調するあまり,主が肉体を持って地上においでになったという考えを否定するまでに至りました。神は目に見えず,不死,全知で,実体がないと信じ,物質世界と肉体は卑しく邪悪であると信じました。それゆえ,イエスは神聖な神の御子であるために,人としての限界を経験されるはずがないと信じていました。この見解では,イエス・キリストは文字どおりには肉にあって生まれず,触れることのできる肉体に宿らず,血を流し,苦しみ,死を経て,復活した肉体とともによみがえることはなかったとされています。すなわち,主はこのようなことをしたように見えるだけというのです。「仮現説」(Docetism)という名前は,「……のように見える」という意味のギリシャ語dokeōから来ています。

ヨハネは,救い主の物理的な実在について証を述べることによって,これらの偽の教えに反論しました(1ヨハネ1:1-24:2-3,145:6参照)。イエス・キリストは実際に肉体をまとって地上に来て,苦しみと死により贖いの業を成し遂げられたこと,神はわたしたちに対する大いなる愛のために御子を送ってくださったことを,ヨハネは宣言しました。

ヨハネの第一の手紙の特徴

イエス・キリストの最初の使徒の一人であるヨハネは,復活された救い主の特別な証人でした。ヨハネは,復活されたイエス・キリストをじかに見,聞き,触れたと宣言することでこの手紙を書き始めました。この独自の証を広めるため,ヨハネは読者に,ヨハネや彼とともに教え導く人々との「交わり」だけでなく,「父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」にもあずかるよう勧めました(1ヨハネ1:3)。ヨハネの第一の手紙の中心となるテーマは愛です。十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,神の愛という1ヨハネのテーマを以下のように要約しています。

「神は愛です。

すべての個人的な義は愛を基としています。

神のすべての目的と計画は,その無限無窮の愛に基づいています。そして,

もし人が人生においてその愛を体現するなら,主御自身のようになり,主とともに永遠の命を得るでしょう。」(Doctrinal New Testament Commentary, 3 vols. [1965–73], 3:371)

概要

1ヨハネ1-5章ヨハネは,イエス・キリストについての個人的な証を断言し,御父と御子との同様の喜びと交わりを経験するように読者に勧めた。キリストの血はわたしたちを罪から清める。イエス・キリストは,御父に対するわたしたちの弁護者であられる。ヨハネは反キリストと偽預言者について警告した。キリストが再び来られるとき,義人は主に似た者となる。わたしたちは,人を愛し,戒めに従うことによって,神に対する愛を示す。ヨハネは,神は愛であること,完全な愛は恐れを取り除くこと,水と血と御霊はキリストについて証することを教えた。

1ヨハネの解説

1ヨハネ1:1-3。「初めから」の使徒の証

ヨハネは,自分とほかの人々が復活されたイエス・キリストをどのようにじかに見て,聞いて,触れたかについて話しました(1ヨハネ1:1-3参照)。ヨハネは明らかに,復活されたキリストについての個人的な証としてこの手紙を書いたことを読者に理解してほしいと思っていました(ルカ24:36-39使徒1:3参照)。イエス・キリストについて,またわたしたちの救いにおける主の役割についてのヨハネの証は,当時教会に入り込んでいた偽りの教えを力強く論破しました。

〔集団に話すヨハネの画像〕

演劇「世の救い主」より。ヨハネは,復活されたイエス・キリストを見て,触れて,その御声を聞いたと宣言しました(1ヨハネ1:1参照)。

1ヨハネ1:3。「それは,あなたがたも,わたしたちの交わりにあずかるようになるためである」

ヨハネは,手紙の一つの目的は,読者がイエス・キリストを見聞きした人々との交わりを持つのを助け,次に,同様に「父ならびに御子イエス・キリストとの」交わりを享受するのを助けるためであると書いています(1ヨハネ1:3)。交わりには,親交や協力関係という概念,共通の生活をするという考え方が含まれます。ブルース・R・マッコンキー長老は,次のように教えています。「この世で主との交わりを持つとは,聖霊を伴侶とすることです。……永遠に主と交わりを持つとは,主のようになり,主がその所有者であり創始者である永遠の命を持つことです。」(Doctrinal New Testament Commentary, 3 vols. [1965–73], 3:374)

ヨハネは,御父と御子イエス・キリストとの交わりを持つためには,わたしたちが御二方のようにならなければならないと教えました。それゆえ,わたしたちは光の中を歩き,イエス・キリストの贖いの血の効力を受け,罪を告白して悔い改め,戒めを守り,愛し合うべきです(1ヨハネ1:5-102:3-11)。

1ヨハネ1:5-10。闇ではなく光の中を歩む

「神は光であって,神には少しの暗いところもない」とヨハネは書きました(1ヨハネ1:5)。神は光であるという考えは,ほかにもヨハネの文書やほかの聖文に見られます(ヨハネ1:4-98:129:1-52コリント4:6教義と聖約50:23-2488:49-50,67-68参照)。神との交わりを求める人は,イエス・キリストの光の中を歩くために罪という闇を離れなければなりません。罪を無視するとき,または自分には罪がないと言うとき,わたしたちは都合のいい思い違いをしています。

1ヨハネ2:1。「わたしの子たちよ」

ヨハネは時々,自分が教え導いた地域の教会員を「子たち」と呼びました(1ヨハネ2:1,12,18,283:74:45:21)。この言葉は,パウロがテモテを息子と呼んだときと同じように,愛情表現の一つと見ることができます(1テモテ1:2,182テモテ1:2参照)。1ヨハネ2:14にある「子供たち」とは,教会員である実際の子らを指すようなので注意してください。「子たち」あるいは「幼い子供」という言葉は,ヨハネ13:33教義と聖約78:17で同様に使われています。

1ヨハネ2:1-24:10。わたしたちの弁護者であり贖いの供え物

ヨハネは,救い主をわたしたちの「助け主」であり〔訳注—英語ではadvocateで「弁護者」とも訳される〕「わたしたちの罪のための,あがないの供え物」と呼びました(1ヨハネ2:1-2)。助け主または弁護者とは,ほかの人の訴訟を支持したり弁護したりする人のことです。イエス・キリストは完全に義にかなっておられ,ほかの人々の罪のために正義の要求を満たされたので,御父の前でわたしたちのために弁護する資格をお持ちです(ヘブル7:25-262ニーファイ2:9教義と聖約29:545:3-5参照)。

供え物とは,神の愛と厚情を取り戻すためにささげた犠牲のことです(1ヨハネ2:24:10参照)。イエス・キリストは,わたしたちが神の恵みを再び得られるようにするための犠牲です。救い主は,全世界の積もり積もった罪の苦しみに耐えられました。しかし,真に悔い改める者だけが,救い主の贖罪の完全な恩恵を受けるのです(教義と聖約18:10-1219:16-19参照)。わたしたちの贖いの供え物としてのイエス・キリストに関する詳細を読むには,ローマ3:25の解説を参照してください。

1ヨハネ2:3-6。神の戒めを守る

1ヨハネ2:3-6で述べられているように,神の戒めに従うことは,ヨハネの文書の重要なテーマです。福音書の中で,ヨハネは,救い主を愛する人は主の戒めを守るというイエスの教えを次のように記録しました。「もしわたしのいましめを守るならば,あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。」(ヨハネ15:10

1ヨハネ2:8-11。光は闇を払う

この手紙で,ヨハネは繰り返し光と闇とを対比し,読者に光の中にとどまるよう促しました。ヨハネは,光を愛と,闇を憎しみと関連づけました(1ヨハネ2:9-11参照)。人を愛するとき,わたしたちはキリストの光を招き,生活を照らします。十二使徒定員会のロバート・D・ヘイルズ長老は,生活から闇を払い,光の中を歩く方法を次のように教えています。

〔ビデオアイコンの画像〕「子供のころにわたしたちは電灯のスイッチを入れることによって暗闇を追い出せることを学びました。夜,両親が出かけているときなどは,家中の電灯をともしたものです。わたしたちは物質界の法則が霊に関する法則でもあることを理解しました。つまり,光と闇は同時期に同じ空間で共存できないということです。

光は闇を追い払います。光があるときに,闇は消えるか去って行かなければなりません。もっと大切なことは,光が弱まったり,去って行ったりしないかぎり,闇は光に打ち勝つことができないということです。聖霊のもたらす霊的な光があるときに,サタンの闇は去って行きます。

……わたしたちは光と暗闇の力の間で繰り広げられている戦いに加わっています。イエス・キリストとその福音の光の側に立っていないと,暗闇の力によって破滅を迎えることになります。」(「闇を出て,驚くべき主の光の中へ」『リアホナ』2002年7月号,77-78。教義と聖約93:39参照)

1ヨハネ2:18-19,22,264:3。反キリスト

聖徒の間の偽教師について話すことで,ヨハネは「今や多くの反キリストが現れてきた」と警告しました(1ヨハネ2:18)。反キリストとは,「人​や​事物​を​問わず​真実​の​福音​の​救い​の​計画​を​装う​もの,また​公然​か​否か​を​問わず​キリストに​敵対​する​すべて​の​もの」です(『聖句ガイド』「反キリスト」の項,scriptures.lds.org)。亡くなる前に,救い主は弟子たちに「にせキリスト」が起こることについて警告されました(マタイ24:24)。

1ヨハネ2:20,27。「聖なる者に油を注がれている」

ヨハネは,反キリストが教会内でどのように働いたかを指摘すると同時に,聖徒が偽りの考えに抵抗しようとするとき,「聖なる者に油を注がれている」ことによってすべてを知ることができると断言しました(1ヨハネ2:20)。ブルース・R・マッコンキー長老は,この節の「油を注がれている」という意味を次のように説明しています。「文字どおりには,油を注がれているとは,治療目的で油を使うのと同様,油を注ぐ行為のことです。比喩的には,それは高い所からの油注ぎです。つまり,そのように恵まれた人々は聖霊の賜物を受けるということです。それゆえ,ヨハネは聖徒に,『あなたがたは聖なる者に油を注がれているので,あなたがたはすべてのことを知っている』と言いました(欽定訳1ヨハネ2:20より和訳)。すなわち,聖霊を受けて,啓示と知識の霊がとどまったのです。」(Mormon Doctrine, 2nd ed. [1966], 812–13)

1ヨハネ3:1-3。「神の子」は神のようになる可能性がある

〔イエス・キリストの再臨の画像〕

「イエス・キリストの再臨」グラント・R・クローソン画「〔イエス〕が現れる時,わたしたちは,……彼に似るものとなる」(1ヨハネ3:2)。

ヨハネは聖徒を「神の子」と呼び,「彼が現れる時,わたしたちは,……彼に似るものとなる」と述べました(1ヨハネ3:1-2)。これは,神と御子イエス・キリストのようになるという人間の可能性について教える多くの聖句の一例です(マタイ5:48ヨハネ10:34ローマ8:17黙示3:21参照)。神の相続人となることに関する詳細については,ローマ8:17の解説を参照してください。

〔オーディオアイコンの画像〕十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,現世の生涯の目的は,イエス・キリストの贖罪を通して神のようになることだと説明しています。

「回復されたイエス・キリストの教会の神学では,現世の生涯の目的は,神の息子娘として,神のようになるという永遠の目標に到達する備えをなすことにあります。……聖書の中では人間を,『神の子』また『神の相続人』『キリストと共同の相続人』などと表現しています(ローマ8:16-17)。また,『キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている』(ローマ8:17),『彼が現れる時,……自分たちが彼に似るものとなる』(1ヨハネ3:2)とも書かれています。わたしたちは聖書のこれらの教えを,文字どおりに受け止めています。わたしたちは,現世の生涯の目的は,肉体を得て,イエス・キリストの贖いを通して,福音の儀式と律法への従順により,昇栄あるいは永遠の命と呼ばれる,栄光を受けて復活した日の栄えの状態にふさわしい者になることであると信じています。……

……(人は最終的に永遠の命を得られる, あるいは神のごとき者になれるというこの教えは,古代のキリスト教の教義の『神化』『神格化』といった概念を学んだ人々には聞き覚えがあるはずです。)……

わたしたちの神学は,天の両親にその始まりがあります。わたしたちの最高の望みは,天の父母のようになることです。御父の憐れみ深い計画の下,御父の独り子,主なる救い主イエス・キリストの贖いを通して,このすべてが可能となります。」(「背教と回復」『聖徒の道』1995年7月号,92-93参照)

オークス長老は,初期のキリスト教の神格化という教義,すなわち,人は神のようになれるという考えに言及しました。この教義は,使徒たちの死後,多くのキリスト教著述家によって引き続き教えられました。例えば,シプリアン司教(紀元およそ200-258年)は次のように書いています。「人間とは何か。キリストが進んでなろうとされたものであり,人もまたキリストのようになることができるものである。……キリストとは何か。わたしたちキリスト教徒がなるべきものであり,キリストを模範とするならばなることができるものである。」(“The Treatises of Cyprian,” 6.11, 15, in Alexander Roberts and James Donaldson, eds., The Writings of the Fathers Down to A.D. 325: Ante-Nicene Fathers, 10 vols. [1994], 5:468–69)

1ヨハネ3:4。罪の定義

ヨハネは罪について次のように簡潔に定義しました。「罪は不法である。」(1ヨハネ3:4

1ヨハネ3:6-9。罪の中にとどまらない

1ヨハネ3:6の欽定訳には,「すべて罪を犯す者は彼〔キリスト〕を見たこともなく,知ったこともない者である」と記されています。1ヨハネ3:6,8-9のジョセフ・スミス訳は,罪を犯す人と罪の中にとどまる人との違いを次のように明確にしています。

「すべて罪の中にとどまる者は彼を見たこともなく,知ったこともない者である。……

の中にとどまる者は,悪魔から出た者である。……」

「だれでも神から生まれた者は,罪の中にとどまらない。神の御霊がその人の内にとどまっているからである。また,その人は神から生まれた者であり,約束の聖なる御霊を受けた者であるから,罪の中にとどまることはできないのである。」(ジョセフ・スミス訳1ヨハネ3:6,8〔英文〕から和訳;『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」1ヨハネ3:9)

ヨハネはまた,罪にとどまり続けることを選ぶ者と,キリストに「つながっている」者とを比較しました(ヨハネ15:1-11参照)。

1ヨハネ3:11。「互に愛し合う」

「わたしたちは互に愛し合うべきである」は,ヨハネの中心的なメッセージの一つです(1ヨハネ3:11)。ヨハネは,救い主がこの原則をお教えになる声を聞きました。救い主は絶えることのない愛の源です。愛は「初めから」教えられてきており,救い主の現世における務めの最後の夜に,主は再び愛について次のように教えられました。「わたしのいましめは,これである。わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ15:12

1ヨハネ3:13-18。「世があなたがたを憎んでも」

ヨハネは,教会員が直面している敵意について認め,読者に 「世があなたがたを憎んでも,驚くには及ばない」と励ましました(1ヨハネ3:13)。ヨハネはその後,イエス・キリストの弟子は,兄弟を愛する義務があると教えました。十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は次のように述べています。「皆さんは,まだ経験していないとしても,いつの日か,自分の信仰を擁護する必要に迫られることがあるでしょう。恐らく,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であるというだけのことで面と向かってののしられ,それを堪え忍ばなければならないこともあるでしょう。そのときあなたには勇気と礼儀正しい態度がなければなりません。」(「弟子として歩むことに伴う犠牲と祝福」『リアホナ』2014年5月号,6)

ダリン・H・オークス長老は,同様に次のように教えています。「わたしたちは『地の塩』であると同時に『世の光』でもあり,その光を隠してはならないのです(マタイ5:13-16参照)。使徒ヨハネは,聖徒たちは義のために世から憎まれるだろうと警告しました(1ヨハネ3:13参照)。変わることを聖約した人が,互いに愛し助け合う神聖な義務を負っているのはそのためです。この世の文化と決別し,イエス・キリストの福音の文化に入ろうと努力するすべての人に励ましが必要です。使徒ヨハネはこのように結んでいます。『言葉や口先だけで愛するのではなく,行いと真実とをもって愛し合おうではないか。』(1ヨハネ3:18)」(「悔い改め,変わる」『リアホナ』2003年11月号,40参照)

1ヨハネ3:22。祈るものを頂く

神に「願い求めるものは,なんでも」頂くためには,「神の戒めを守り,みこころにかなうことを,行って」いなければなりません(1ヨハネ3:22)。Bible Dictionary(『聖書辞典』)には次のように述べられています。「祈りの目的は神の御心を変えることではなく,神がわたしたちに与えようとすでに備えておられる祝福を,自分のため,また人々のために得ることである。しかし,それを得るには求めなければならない。祝福を受ける前に,何がしかの働きや努力がわたしたちに求められる。」(“Prayer”)祈りの答えを受けることの詳細については,1ニーファイ15:8-11アルマ26:223ニーファイ18:20教義と聖約46:3050:29-3088:63-64を参照してください。

1ヨハネ4:1-32ヨハネ1:7。「すべての霊を信じることはしないで」

教会の一部の人は,イエス・キリストは肉体を持っておられなかったと教えていました。ヨハネは,この人々を「反キリストの霊」を持つ「霊」と呼んでいます(1ヨハネ4:1-3参照)。彼らの主張は,イエス・キリストは肉体を持ち,十字架上で苦しみ亡くなった「ように見えた」だけだというものでした。ヨハネは読者に,「すべての霊を信じることはしないで,それらの霊が神から出たものであるかどうか,ためしなさい」と強く勧めました(1ヨハネ4:1)。この場合,真の教師であると判断する試金石は,「イエス・キリストが肉体をとってこられたこと」(1ヨハネ4:2)を教えるかどうかでした。同様の偽りの教えが存在したことは,パウロの手紙でも明らかです(コロサイ2:8-9参照)。

1ヨハネ4:7-11。「神は愛である」

1ヨハネ4章では,という言葉が20回以上見られます。ヨハネは,「愛は,神から出たもの」であること,「神は愛である」こと,そして神の愛は独り子という賜物に表れていることを教えました(1ヨハネ4:7-9ヨハネ3:16-17も参照)。ジェフリー・R・ホランド長老は同様に,キリストは神がその子供たちに対してお持ちの大いなる愛を実証するために来られたことを次のように述べています。

「キリストは飢えている人に食べさせ,病人を癒し,偽善者を叱責し,信仰の道を説き勧めることにより,御父がどのような御方であるかを示されたのです。御父はまた,『憐れみ深くかつ恵み深く,怒るに遅く,寛容で,慈しみに満ちた』 御方です[Lectures on Faith, 42]。御自身の生涯,中でも特にその死を通して,キリストはこのように宣言しておられます。『わたしはここに神の哀れみを示す。またこれはわたし自身の哀れみでもある。』……

……聖なる使徒の霊によって,いにしえの使徒が語った言葉を,わたしも申し上げます。『わたしたちが神を愛したのではなく,神がわたしたちを愛して下さって,わたしたちの罪のためにあがないの供え物として,御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから,わたしたちも互に愛し合うべきである。』〔1ヨハネ4:10-11〕そして御父を永遠に愛するべきなのです。」(「偉大な神の性質」『リアホナ』2003年11月号,72-73。ヨハネ3:14-17の解説も参照)

〔母と少年とともにいるキリストの画像〕

Arise and Walkby Simon Dewey.イエス・キリストの生涯と務めを通して,わたしたちに対する天の御父の大いなる愛の表れを見ることができます。

1ヨハネ4:12。神を見る

欽定訳1ヨハネ4:12には次のように記されています。「神を見た者は,まだひとりもいない。」この節のジョセフ・スミス訳は,人は神を見ることができないという誤解を次のように解いています。「信じる者以外に,神にまみえた者はまだ一人もいない。」(『聖句ガイド』内「ジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」1ヨハネ4:12)ヨハネは続けて次のように教えています。「もしわたしたちが互に愛し合うなら,神はわたしたちのうちにいまし,神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」(1ヨハネ4:12)ヨハネ自身は父なる神にまみえたことがありました(黙示5:1教義と聖約67:11)。人が神を見ることができることについてさらに読むには,ヨハネ14:23使徒7:56教義と聖約93:1ジョセフ・スミス—歴史1:16-17ヨハネ1:18の解説を参照してください。

1ヨハネ4:18。「完全な愛は恐れをとり除く」

ヨハネが手紙を書き送った教会員にとって,恐れは,向けられた敵意への自然な反応でした。しかし,ヨハネは「完全な愛は恐れをとり除く」と書きました(1ヨハネ4:18)。十二使徒定員会のジョセフ・B・ワースリン長老(1917-2008年)は,ジェームズ・E・タルメージ長老の生涯から,キリストのような愛がいかに恐れを取り除くかを示すある経験を次のように説明しています。

〔ビデオアイコンの画像〕「教義的な教えで知られるジェームズ・E・タルメージ長老は,苦しみの中にあった近隣の家族に深い思いやりを示しました。まったく面識のない人たちでした。まだ使徒に召される前,新米の父親だったタルメージ長老は,近所の大家族がジフテリヤに苦しんでいることを知りました。非常に恐ろしい病気です。その家族が教会員であるかどうかは問題ではありませんでした。長老の思いやりと慈愛が行動へと駆り立てたのです。扶助協会は援助できそうな人を必死で探しました。しかし,感染性の病気のため皆しりごみしてしまいます。

長老がその家に着いたとき,幼児の一人はすでに死亡し,ほかの二人もひどく苦しんでいました。長老は直ちに仕事に取りかかり,散らかった家を掃除し,幼児の埋葬の準備をし,病気の子供たちの体をきれいにして,食事をさせました。そうやって一日を過ごしたのです。翌朝,その家に行ってみると,夜のうちに子供がもう一人亡くなり,3人目の子供はまだひどく苦しんでいました。長老は日記にこう記しています。『幼い女の子はわたしの首にしがみつき,何度も顔や服に向けてせきをした。……でも,その子を離すわけにはいかなかった。結局,その子が亡くなるまでの30分間,わたしはこのいたいけな少女を抱きながら,室内を歩き回った。その子は,午前10時に苦しみながら亡くなった。24時間以内に3人の子供がこの世を去ったことになる。』長老はそれから埋葬の準備を手伝い,葬儀で話をしました。長老はこれをすべて面識のない隣人のためにしたのです。キリストのような思いやりを持つ人物の何と偉大な模範でしょうか。」(「思いやりという美徳」『リアホナ』2005年5月号,28)

1ヨハネ5:2-3。神の戒めは「むずかしいものではない」

1ヨハネ4章の愛についての教えの延長として,ヨハネは読者に,神の戒めを守ることによってわたしたちは神に対する愛を示すこと,そして,その戒めは「むずかしいものではない」ことを思い起こさせました(1ヨハネ5:2-3)。ジョセフ・B・ワースリン長老は,愛の心から戒めに従うとき,従順は難しいものではなくなると教えています。

「皆さんは主を愛していますか。

主とともに時間を過ごしてください。主の御言葉について深く考えてください。主のくびきを負ってください。理解と従順を求めてください。『神を愛するとは,すなわち,その戒めを守ること』だからです〔1ヨハネ5:3〕。主を愛するなら,従順は重荷ではなく,喜びになります。」(「いちばん大切な戒め」『リアホナ』2007年11月号,30)

1ヨハネ5:4-5。「世に勝つ者」

ヨハネは,イエス・キリストを信じる信仰によってわたしたちは世に勝つことを指摘しました(1ヨハネ5:4-5参照)。世に勝つ人にもたらされる祝福について読むには,黙示2:11,17,26-283:5,12,21を参照してください。

1ヨハネ5:6-8。「〔地で〕あかしをするものが,三つ」

若干の語句が紀元4世紀後半に1ヨハネ5:7-8に追加された可能性があります。欽定訳聖書では明白な追加は次の言葉です。「天で〔あかしをするものが,三つある。〕御父と言葉と聖霊である。そして,この三つのものは一つである。そして,地であかしをするものが,三つある。」〔欽定訳1ヨハネ5:7-8より和訳〕

〔赤ん坊の画像〕

水,血,霊はわたしたちの肉体的,霊的誕生に関連します(1ヨハネ5:6-8参照)。

これらの言葉がヨハネのもともとの手紙を反映しているのか,後に無名の人によって追加されたのか議論されています。重要なことは,これらの節がキリストの血を強調していることです。キリストの血は,贖罪とイエス・キリストの実際の苦しみの一部でした。この真理は,イエス・キリストが死すべき体を持たなかったというキリスト仮現説の教えに反駁しました(1ヨハネ1:75:6参照)。水と血と御霊は,次の表が示すとおり,この世における誕生,霊的な再生,救い主の贖いの犠牲に関係しています(モーセ6:59-60参照)。

この世における誕生

霊的な再生

キリストの贖いの犠牲

子供は子宮の中で水に囲まれている。

バプテスマは水に沈めて執行する。

十字架上で,キリストの突き刺された脇から水が流れ出た。

肉体に命があるのは血のおかげ。

母親の血は出産の際に流される。

キリストの償いの血により人は再び生まれる。

キリストは全人類のために血を流された。

この世に生まれる各人は,天の両親の文字どおりの子孫であり,前世で霊の体を受けていた。

聖霊は清めの力をお持ちである。

イエス・キリストの贖いの犠牲と完全な霊性によって,人は再び生まれ,霊的な聖めを受けることができる。

ヨハネの第二の手紙の紹介

ヨハネの第二の手紙を研究する理由

この手紙で,ヨハネは,教会に広がる背教の影響に懸念を示しました。同時に,ヨハネは,力強く忠実であり続けた教会員に対する喜びも表しました(2ヨハネ1:1参照)。この喜びには,主に忠実であり続けた教会員に対して,古代と現代両方の教会指導者が感じる喜びや感謝が表れています。ヨハネは,反キリストがいくら惑わそうとしても,自分たちが遂げた霊的な進歩を無駄にしてはならないことを読者に思い出させました(2ヨハネ1:8参照)。

ヨハネの第二の手紙の著者

筆者は自分のことを「長老」と呼んでおり(2ヨハネ1:1),伝統的に使徒ヨハネであると理解されています。語彙,文体,テーマは1ヨハネや3ヨハネによく似ており,多くの評論家がこれらの手紙は同じ筆者によるものだと結論づけています。

ヨハネの第二の手紙の書かれた場所と時期

新約聖書の研究者は,2ヨハネは恐らく紀元70年から100年の間,紀元1世紀の最後の数年間に書かれたと信じています。書かれた場所は分かっていません。

ヨハネの第二の手紙の対象読者とその理由

ヨハネの第二の手紙は,「選ばれた婦人とその子たち」(2ヨハネ1:1)にあてて書かれました。この手紙は一群の人々にあてているので,多くの評論家は「選ばれた婦人」とは実際はキリスト教徒の会衆を指すと結論づけています(2ヨハネ1:13参照)。ギリシャ語の教会という言葉は女性名詞であり,教会を女性として擬人化することはよくあることでした(エペソ5:25-27,32黙示12:1-4,1719:7-8参照)。別の可能性としては,「選ばれた婦人とその子たち」がヨハネの妻子であったことです。

ヨハネは明らかにこの手紙を1ヨハネと同じ目的のために書きました。キリスト仮現説の教えに対応して,ヨハネは,イエス・キリストは文字どおり肉体をもって地に来られたことを証し,そうでない教えを説く人々を「反キリスト」と呼びました(2ヨハネ1:7)。ヨハネは,キリストが肉体をお持ちでなかったと教える会員は,会衆から追い出すべきであると説明しました(2ヨハネ1:10参照)。

ヨハネの第二の手紙の特徴

この書簡で,ヨハネは教会に入り込んだ偽教師について警告しました。この偽教師たちの言うことを聞かず,親しくしないよう教会員に警告しました。

概要

2ヨハネヨハネは「選ばれた婦人とその子たち」が誠実かつ忠実であったために喜んだ(2ヨハネ1:1)。反キリストについて警告した。

ヨハネの第二の手紙の解説

2ヨハネ1:1-5。「選ばれた婦人」

ヨハネは自分を「長老」と述べています。ヨハネが手紙を書き送った「選ばれた婦人」(2ヨハネ1:1参照)とは,教会の支部を比喩的に述べたか,文字どおり一人の女性教会員,恐らくはヨハネの妻かのどちらかです。現代の神権時代では,預言者ジョセフ・スミスの妻エマ・スミスが「選ばれた婦人」と呼ばれました(教義と聖約25:3)。ヨハネは,その選ばれた夫人の子たちが真理のうちを歩み,イエス・キリストの福音に従っていることを知って喜びました。

2ヨハネ1:7-10。「人を惑わす者が,多く世にはいってきた」

ヨハネは読者に「人を惑わす者が,多く世にはいってきた」と警告しました(2ヨハネ1:7)。ヨハネは聖徒に,もし偽教師に遭遇したら,「その人を家に入れることも,あいさつすることもしてはいけない」と助言しました(2ヨハネ1:10)。反対の教義を教える人々をもてなすべきではないと勧めました。初期のキリスト教徒の会衆は礼拝するために教会員の家に集まったため,伝統的な歓待習慣によれば,うっかり異端の教師が会衆に入り込むのを許してしまう可能性がありました。十二使徒定員会のM・ラッセル・バラード長老は,現代の教会員に,今日も活動する惑わす者や反キリストと付き合うことのないよう次のように警告しています。

「偽預言者と偽教師である男女に注意しましょう。彼らは,自分勝手に教会の教義を説き,教会の基本原則を覆そうとする内容のシンポジウム,書物,および専門雑誌を提供することによって,誤った教義を広め,仲間を集めようとしています。神のまことの預言者に反することを語り,それを公表する人々に注意してください。 また,そそのかす相手の永遠の幸福には関心のない熱心な伝道者たちにも気をつけてください。……

そして恐らく最も忌まわしいことに,彼らはキリストの復活と贖いを否定し,『神はわたしたちをお救いになれない』と主張するのです。彼らは救い主の必要性を認めません。つまり,このようにそしる者は,自分たちの先入観に合うように教会の教義を解釈し直そうと試み,その過程でキリストとその救い主としての役割を否定します。」(「偽預言者と偽教師を警戒しなさい」『リアホナ』2000年1月号,74,75参照)

ヨハネの第三の手紙の紹介

ヨハネの第三の手紙を研究する理由

この短い書簡の中で,ヨハネは,教会指導者たちへの反抗があったときにも忠実であった教会員のガイオを称賛しました。ヨハネの教えは,新約時代の教会における背教がどんなものだったかを示しており,反対があるにもかかわらず教会指導者に忠実であり続ける現代の聖徒を鼓舞することができます。

ヨハネの第三の手紙の著者

2ヨハネと同様,筆者は自分のことを「長老」と呼んでおり(3ヨハネ1:1),伝統的に使徒ヨハネであると理解されています。語彙と文体は1ヨハネと2ヨハネによく似ており,多くの評論家がこれらの手紙は同じ筆者によるものだと結論づけています。

ヨハネの第三の手紙の書かれた場所と時期

新約聖書の研究者は,3ヨハネは紀元70年から100年の間,恐らく紀元1世紀の最後の数年間に書かれたと信じています。書かれた場所は分かっていません。

ヨハネの第三の手紙の対象読者とその理由

ヨハネの第三の手紙は,忠実な教会員ガイオにあてて書かれました。ガイオは巡回する神の僕たちに宿を提供し,そのことによってキリストの大義に対する無私の献身を示したと,ヨハネは称賛しました(3ヨハネ1:5-8参照)。また,ヨハネはガイオに,デオテレペスについての警告もしました。デオテレペスは教会の地元の指導的立場にあった人,あるいは,恐らく地元の家庭教会の主催者であったと思われます。デオテレペスは,ヨハネやほかの教会指導者に公然と反対し,教会指導者を歓迎しようとする地元の教会員が,教会の集会に参加したり,そこで話したりすることを妨げさえしました(3ヨハネ1:9-10参照)。ヨハネは,善い行いを続けるようガイオを励まし,すぐに訪ねることを伝えました(3ヨハネ1:11-13参照)。

ヨハネの第三の手紙の特徴

ヨハネの第三の手紙では,ヨハネが教会における背教の影響を心配していたことが分かります。また,人々へのヨハネの愛と,従順に生きることを選択した人に感じた喜びも分かります(3ヨハネ1:4参照)。

概要

3ヨハネヨハネは,真理を語る人たちに愛を示したガイオを称賛した。「子供たちが真理のうちを歩いている」ために喜んだ(3ヨハネ1:4)。ガイオにデオテレペスについて警告した。デオテレペスは権力を追い求め,教会指導者が訪れたときに迎え入れることを拒んだ。

3ヨハネの解説

3ヨハネ1:9-10。デオテレペスはヨハネの権威を拒んだ

デオテレペスは地元支部の指導者か,家庭教会の主催者のいずれかだったようです。ヨハネは,デオテレペスは聖徒の間で「かしら」になりたがっていたので,ヨハネとほかの教会指導者の権威を拒んだと述べました。デオテレペスのような人々に関して,預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,次のように書いています。「ほとんどすべての人は,少しばかりの権能を得たと思うや,すぐに不義な支配を始めようとする性質と傾向がある。」(教義と聖約121:392ニーファイ26:29も参照)

大管長会のジェームス・E・ファウスト管長(1920-2007年)は,次のように警告しています。「自分たちを管理するよう召された評議会よりも,自分たちのうちのだれかの方が霊的に優れていて,博学で,義にかなっていると考えることは傲慢です。そのような評議会は,その評議会の管理を受けるどの個人よりも主と波長が合ってい〔ます。〕」Finding Light in a Dark World [1995], 121)

ユダの手紙の紹介

ユダの手紙を研究する理由

この手紙によって,1世紀の終わりごろに教会で起こっていた背教の威力について抱いていたユダの真剣な懸念を,読者は理解できるようになります。

ユダの手紙の著者

筆者は,自らを「イエス・キリストの僕またヤコブの兄弟であるユダ」(ユダ1:1)であると明らかにしています。伝承により,筆者はイエス・キリストの異父兄弟ユダであると理解されています(マタイ13:55マルコ6:3参照)。ユダは,大いに尊敬を受けたエルサレムの活発な教会員であることは明らかであり,宣教師として旅に出たこともありました(使徒1:13-141コリント9:5参照)。初期の教会の指導者として目立つ立場にはなかったようですが,初期のキリスト教徒は,新約聖書の正典に含めるほどユダの手紙を尊重していました。

ユダの手紙の書かれた場所と時期

もしもこの手紙がほんとうにイエスの兄弟ユダによって書かれたのであれば,恐らく紀元40年から80年の間に書かれました。書かれた場所は不明です。

ユダの手紙の対象読者とその理由

ユダの手紙は,忠実なキリスト教徒,すなわち「父なる神に愛され,イエス・キリストに守られている召された人々へ」(ユダ1:1)あてて書かれた公同書簡です。教会に加入し,主イエス・キリストを否定する不道徳な行動や偽りの教えを助長していた不信心な教師たちに対し,「信仰のために戦う」よう読者に勧めることが目的であると,ユダは述べています(ユダ1:3)。

ユダの手紙の特徴

一部の評論家は,ユダの手紙と2ペテロの間に類似点があることを指摘し,一方の筆者が他方を出典とした,または両方の筆者が共通の出典から引用した可能性があることを示唆しています。ユダ1:4-9は,実際に2ペテロ2章の言葉遣いと似ています。しかし,ペテロは将来の背教について預言していたのに対して,ユダは現在起こっている背教について語りました(2ペテロ2:1ユダ1:4参照)。

ユダの言葉は,神とその僕に反対する人々に対して,鋭く痛烈です。ユダは,聖文とユダヤ教外典の記述を引用して,神の業に公然と反対した人々に過去に神がどのように対処されたかを示しました。

ブルース・R・マッコンキー長老は,ユダの手紙の独自の特徴について,次のように指摘しています。

「前世がわたしたちの第一の位であり,ある御使いたちは前世の試験に合格しなかったという概念は,聖書全体の中では唯一ユダがわたしたちのために残しています。

モーセの死体についてミカエルと悪魔が論争したという,わずかな知識を得られるのも,ユダのおかげです。

ユダのみが,人の子の再臨にまつわるエノクの輝かしい預言について記録しているのです。」(Doctrinal New Testament Commentary, 3 vols. [1965–73], 3:415)

概要

ユダユダは読者に信仰を擁護するよう励ました。「不信仰な人々がしのび込んできて」背教の業を広めていると警告した(ユダ1:4)。「地位」(第一の位)について教え,神とその業に反抗する人々に何が待ち受けているかを説明した(ユダ1:6)。

ユダの解説

ユダ1:1。天の御父とイエス・キリストは別個の御方である

ユダ1:1のユダの言葉は,父なる神とイエス・キリストは別個の御方であるというユダの信仰を伝えています。

ユダ1:3。「聖徒たちによって,ひとたび伝えられた信仰」

ユダの手紙によると,ユダがもともと書こうとしたのは「共にあずかっている救〔い〕」についてでした(ユダ1:3)。つまり「救いは,すべての人が得られるものであり,選ばれた少数の人だけが得るものではない」という考え方です(Bruce R. McConkie, Doctrinal New Testament Commentary, 3:416)。しかし,その代わりにユダは,「聖徒たちによって,ひとたび伝えられた信仰のために戦う」(ユダ1:3)ことを読者に奨励する必要があることに気づきました。ここでユダは,もともとキリスト御自身がお教えになり,その後使徒たちが教えた信仰について述べていました。新約聖書に記されたのと同じ信仰が今日回復され,末日聖徒イエス・キリスト教会にあります。

ウィルフォード・ウッドラフ大管長(1807-1898年)は,イエス・キリストと使徒たちによって教えられてきた信仰を,青年のころどのように求めていたかについて次のように述べています。

〔ウィルフォード・ウッドラフの画像〕

若き使徒ウィルフォード・ウッドラフ長老

「〔わたしは〕新約聖書を読み,その中に記されたことを次々と学んでいきました。……〔新約聖書は〕命と救いの福音を教えてくれました。天によって認められた,地上における力を帯びた福音を教えてくれました。教会の組織は預言者,使徒,牧師,教師……から成ることを教えてくれました。……

これがわたしの学んだ事柄であり,わたしに強い印象を与えました。わたしは一つ一つの事柄を信じましたが,地上の牧師や聖職者がそれらについて教えるのを一度も聞いたことがありませんでした。……あるとき,コネチカットで時折開かれていた大きな集会に出席しました。そこには様々な宗派の聖職者が40人から50人ほど集まっていました。……この集会の中で,だれでも発言をしてよいという許可が与えられました。当時わたしはかなりの弱齢でしたが,立ち上がって通路に進み,聖職者たちに向かって言いました。『友である皆さん,聖徒たちに「ひとたび伝えられた信仰」のために皆さんが闘わない理由を話していただけませんか。イエス・キリストがお教えになり,主の使徒が教えた福音のために闘わない理由を話していただけませんか。皆さんに神からの力,すなわち病人を癒し,目の見えない者を見えるようにし,足の不自由な者を歩けるようにする力を与え,聖霊と,世の創造以来明らかにされてきた賜物と恵みを与える宗教のために闘わないのはなぜですか。……』

管理していた長老が言いました。『愛する若者よ,もし君がそのような愚かな事柄を信じていなかったなら,君は非常に賢く,地上において非常に有用な人物となるだろう。』」(『歴代大管長の教え—ウィルフォード・ウッドラフ』35-37)

ウィルフォード・ウッドラフは,最終的に,権能を受けた神の僕ゼラ・パルシファー長老によって宣べ伝えられた福音を聞き,探し求めていたものであることが分かりました。ほんの数日後にバプテスマを受けました。

ユダ1:4-8。過去の罪人たち

ユダは,ほかの教会員に気づかれることなく教会に入り込み,その後偽りの教義を教えた不信仰な人々について説明したとき,古代の教会で背教が進んでいることを認めました(ユダ1:4参照)。これらの反抗的な人々を,旧約時代に自らの不従順のために滅ぼされた人々,すなわち,エジプトから導かれ,後に自らの罪を捨てられなかったイスラエル人や,ソドムとゴモラの住民と比較しました。また,神に逆らってサタンに従うことを選んだ前世の御使いたちの例も示しました(5-8節参照)。これらの例を用いて,正しい権能に反抗して悔い改めない人々に何が待ち受けているかを,読者に「思い起して」もらおうとしました(5節)。

ユダ1:6。「自分たちの地位を守ろうとは〔しなかった〕御使たち」

ユダは,前世で神に反抗してルシフェルに従った霊たちについて書き,「自分たちの地位を守ろうとは〔しなかった〕御使たち」と呼びました(ユダ1:6アブラハム3:26,28も参照)。ここでの「地位」とは,階級や身分を指します。この霊たちは御父に反抗したので,神の前に立場を失い,現世にやって来る特権すなわち第二の位を得る資格を失いました。

七十人の一員として奉仕している間,L・ライオネル・ケンドリック長老は,サタンとそれに従う者たちを追い出すことにつながった前世での出来事について次のように説明しています。「ルシフェルは,自らの永遠の罰の定めを招く決断を下すために,選択の自由という神の賜物を用いました。大胆に敵対し,神に反抗して『その第一の位を守らなかった』のです〔アブラハム3:28〕。『彼は天の衆群の三分の一を,彼らの選択の自由によってわたし〔主なる神〕から背き去らせた。』〔教義と聖約29:36,強調付加〕永遠の罰の定めがあり得るとしても,天の御父は彼らから選択の自由を取り去ることはなさいません。そうすることは,永遠の律法に反することでしょう。反抗の結果,ルシフェルとそれに従う者たちは天から追い出され,永遠の命という祝福を失いました。」(“Our Moral Agency,” Ensign, Mar. 1996, 30–31)

ユダ1:7。ソドムとゴモラの罪

ソドムとゴモラは,死海近くのいずれかの場所,恐らくその南端にあった,隣接する古代都市でした。ユダは,この二つの町は,そこに住む人々が「淫行にふけり,不自然な肉欲に走った」ために滅ぼされたと言いました(ユダ1:7創世19:27-29も参照)。「不自然な肉欲に走った」という言葉は,同性愛行為を指します。同性愛行為に関する教会の教えについてさらに読むには,ローマ1:26-27の解説を参照してください。

ユダ1:9。モーセの死体について悪魔と論じ争ったミカエル

ユダ1:9には,天使長ミカエルがモーセの死体について悪魔と論じ争ったと記されています。ブルース・R・マッコンキー長老は,この節について次のような洞察を加えています。「評論家は,……ユダは持っていた当時最新の聖書外典『モーセの昇天』から引用したと仮定していますが,その書は断片的な状態でしか残っていません。この正典ではない書は,モーセが死を味わうことなく身を変えられて天に取り上げられたという教義を示しています。それは次のことに関係があるようです。『モーセによるある種の啓示』と『雲に包まれて見えなくなったこと』です。『それによってモーセの死は人の目から隠されました。……ミカエルはモーセを埋葬するように命じられました。サタンはこの埋葬に反対しました。……最終的に,すべての反対派が圧倒され,その昇天はヨシュアとカレブの前で行われました。』(R. H. Charles, The Apocrypha and Pseudepigrapha of the Old Testament, vol. 2, pp. 407–413.)」(Doctrinal New Testament Commentary, 3:421)

モルモン書から,モーセが死を味わうことなく身を変えられて天に取り上げられたことが分かります(アルマ45:19参照)。これは,モーセが肉体をまとって2千年後に変貌の山に現れ,ペテロ,ヤコブ,ヨハネの頭に手を置き,神権の鍵を授けるために必要なことでした(see History of the Church, 3:387)

『モーセの昇天』のような聖書外典は,その信憑性または妥当性が曖昧なため聖書に含まれていません。これらの書には幾らか価値がある場合が多いものの,あらゆる点で正しいとは考えられません。主がジョセフ・スミスに聖書外典について明らかにされたことに関しては,教義と聖約91章を参照してください。

天使長ミカエルについてさらに読むには,教義と聖約27:1129:2688:112-115107:54128:20-21を参照してください。

ユダ1:11。カイン,バラム,コラ

ユダは,偽の教師を,反抗的なカイン,バラム,コラと比較しました。それぞれ主の目に甚だしい罪を犯しました(ユダ1:11参照)。カインは兄弟の羊を手に入れるために弟アベルを殺しました(創世4:8モーセ5:32-33参照)。バラムは神から授かった預言の賜物を,富と名誉を求めるために用いました(民数22:525:1-8参照)。コラは神権の職を拒まれたためにモーセに反抗しました(民数16:1-3,31-35参照)。それぞれの事例で,主は邪悪な行いのためにこの人々をのろわれました。ユダの手紙は,読者が当時の邪悪な人々を見分けるのに役立ったことでしょう。現代においても同様の背教の教えを避けるのに役立ちます。

〔初期キリスト教の食事の絵の画像〕

ローマの聖マルケリヌスと聖ペテロの地下墓地にある初期のキリスト教の食事の絵。ユダは,「愛餐」と呼ばれる聖徒の食事を共にすることに「汚〔れ〕」や汚点があったと書いています(ユダ1:12)。ユダのメッセージは,聖徒の礼拝と社会的慣行が不適切な行動によって腐敗していったことでした(1コリント11:18-341ペテロ4:32ペテロ2:13も参照)。

ユダ1:14-16。エノクの預言

ユダだけが,イエス・キリストの再臨についてのエノクの預言を記録しました。ユダは,現在の聖典の中にはないエノクの外典から引用したのかもしれません。しかし,モーセの書は,エノクが終わりの時と救い主の再臨についての知識を与えられたことを確認しています(モーセ7:62-66参照)。かつて預言者ジョセフ・スミスはエノクがユダに現れたと書いています(see History of the Church, 4:209)

ユダ1:17。「使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい」

ユダは読者に「使徒たちが予告した言葉」を思い出すよう強く勧めました(ユダ1:173ニーファイ12:1-2も参照)。M・ラッセル・バラード長老が述べているように,使徒の指示に従うことで安全を見いだすことができます。

「現代は難しい時代です。妥当性,正直,高潔,政治的公正について,世の中の文化的・社会的な基準は常に移り変わっています。……わたしたちはこう尋ねます。『常に頼れる,明確で,正しく,偏見のない声はないものか。』『今日の混乱した世にあって,歩むべき道をいつもはっきりと教えてくれる声はないものだろうか』と。答えは『はい,あります』です。それは,生ける預言者と使徒たちの声です。……

今日,皆さんに約束します。単純なことですが,真実です。生ける預言者と使徒の言葉に耳を傾け,その勧告に従うなら,皆さんは道に迷うことはないでしょう。」(「彼の言葉を受け入れなければならない」『リアホナ』2001年7月号,79,81)

ユダ1:18-19。終わりの時のあざける者たち

ユダ1:18-19のあざける者たちへのユダの言及は,恐らく,当時キリスト教徒を嘲笑した人々を指していますが,今日の世の中の状況にも当てはまります。教会とその標準を最も攻撃的に嘲笑する人々は「自分の不信心な欲のままに生活する」者であり,御霊を持たないために信者から「分派をつくる者」です(ユダ1:18-192ペテロ3:3も参照)。