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第22章:ヨハネ2-4章


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ヨハネ2-4章

ヨハネ2-4章の紹介とタイムライン

十二使徒定員会のジョセフ・B・ワースリン長老(1917-2008年)は次のように宣言しています:「イエス・キリストの福音は変化をもたらす福音です。この福音は,地上の存在であるわたしたち人間を精錬し,永遠の存在へと変化させます。」(「いちばん大切な戒め」『リアホナ』2007年11月号,29参照)新約聖書の時代に,救い主の言葉を聞いた,または救い主が行われた奇跡を目にした人々は,変化を起こす救い主の力を感じました。主は水をぶどう酒に変えられました(ヨハネ2:1-11参照)。主は神殿が主の「父の家」(ヨハネ2:16)として尊ばれるために神殿を清められました。主は「死にかかっていた」ある役人の息子を「あなたの息子は助かるのだ」(ヨハネ4:47,50)という簡潔な言葉を語ることで癒されました。主は,ニコデモに霊の再生を経験するよう招かれました(ヨハネ3:1-21参照)。主は,ヤコブの井戸にいたサマリアの女が御自身がキリストであることを認識できるようになるまで彼女の理解が深まるのを助けられました(ヨハネ4:5-29参照)。

〔第22章のタイムラインの画像〕

ヨハネ2-4章の解説

ヨハネ2:1-11。イエス・キリストの最初の奇跡

水をぶどう酒に変えるという,救い主の現世における務めの最初として記録された,奇跡の意味または象徴について,ヨハネ2:1-11には特定の解釈は書かれていませんが,そこからわたしたちが学ぶことができる幾つかの教訓が考えられます。イエス・キリストが婚礼に臨まれたことは,イエスが社交的なかかわりを持たれない方ではなかったことを示しており,当時の一般的な社会行事に参加されていたことが分かります。婚礼に主が臨まれていたことは,主が結婚を承認されていたことを表わしています。主の母親とのやり取りから,主が母親の要請にこたえられたように,子供は親を尊重すべきであることを学ぶことができます。最初に記録された主の奇跡は,物体をある状態から別の状態に変える力を表わしており,創造主としての主の役割を証するものです(See Bruce R. McConkie, Doctrinal New Testament Commentary, 3 vols. [1965–73], 1:135–36)。

この変化を起こす主の力を見ることは, この世的で堕落した状態にあるわたしたちを,救い主がいかに義の状態に変えられるかを理解する助けとなります(モーサヤ3:19参照)。また,奇跡のしるしが,イエス・キリストを進んで信じる人々の信仰をどのようにして確かなものとし,それを強めるのかを理解することができます(教義と聖約63:9-11参照)。ジョセフ・スミス訳は,「弟子たちはイエスを信じた」を「弟子たちの信仰は,主にあって強められた」に変えることでこの概念を明確にしています(ジョセフ・スミス訳ヨハネ2:11〔英文〕から和訳)。

カナの婚礼では,「ユダヤ人のきよめのならわしに従って,それぞれ四,五斗もはいる石の水がめが,六つ」(ヨハネ2:6)置いてありました。ユダヤ人の習慣によると,石でできた水がめは,彼らの儀礼的な清めを保つためのもので,土でできた水がめは,儀礼的に不純と見なされることがありました。1「ファーキン(firkin)」〔訳注—「四,五斗」は2,3ファーキンを指す〕は約34リットルだったので,6個のかめには約380から600リットルの水を入れておくことができました。

〔石灰石のかめの絵の画像〕

イスラエルの新約聖書時代からの石灰石のかめ

ヨハネ2:1-11。「よいぶどう酒」

聖書には泥酔と濃き酒の害悪に対する多くの参照が記載されています(例えば,箴言23:20-21イザヤ5:11-12エペソ5:18参照)。これらの節はアルコールの使用を特に禁止してはいませんが,放縦と泥酔を非難しています。今の時代,主はアルコール飲料の摂取を禁止する知恵の言葉を明らかにされました(教義と聖約89:4-7参照)。主がわたしたちの時代に与えられた戒めによって,昔の時代の人々を裁くのは避けるべきです。

カナの婚礼

The Marriage at Cana, by Carl H. Blochの画像〕

ヨハネ2:4。「婦人よ,あなたは,わたしと,なんの係わりがありますか」

救い主の母親への応答は,欽定訳聖書で読むと邪険にさえ思えますが,聖書のジョセフ・スミス訳とギリシャ語版の両方では,主が敬意を持って話されたことが示されています。十二使徒定員会のジェームズ・E・タルメージ長老(1862-1933年)は次のように説明しています:「息子が母に向かって『婦人よ』と呼びかけるのは,失礼とは言わないまでも,やや耳障りに聞こえるかもしれません。しかしこの『婦人よ』という呼びかけは,それと正反対の意味で用いられたのです。……キリストは,人間としての最後の経験である恐ろしい場面,すなわち十字架上で死の苦痛にあえいでおられたとき,母のマリヤが泣いているのを見下ろし,愛するヨハネに後のことを託して,『婦人よ,ごらんなさい。これはあなたの子です』と言われた〔ヨハネ19:26〕。このまさに死なんとする瞬間に,今や死によって別れを告げようとしている母親に示された主イエスの心遣いには,尊敬と親切と愛の感情がこもっていたと考えるのは当然ではないでしょうか。」(『キリスト・イエス』第3版,141)

ジョセフ・スミス訳は,イエスが御自身に何をしてほしいのかを母親に尋ねただけでなく,それを進んで行おうとされたことを理解するのに役立ちます:「婦人よ,わたしに何をしてほしいのですか。それをいたしましょう。」(ジョセフ・スミス訳ヨハネ2:4〔英文〕から和訳)「あなたは,わたしと,なんの係わりがありますか」という質問は,本質的には「わたしに何をしてほしいのですか」という意味でした。救い主の母親への言葉は,時は「まだきて〔いない〕」(ヨハネ2:4)ながらも,マリヤの一人の息子から神の御子としての役割を果たす者へ,今まさに変化を遂げられていることを伝えるための,繊細かつ優しさに満ちたものであったと捉えることもできます。

ヨハネ2:13-22。神殿の清め

共観福音書は,イエスの現世における務めの最後の週にエルサレムに入られた後,イエスが神殿を清められたと説明しています(マタイ21:12-16マルコ11:15-18ルカ19:45-48参照)。ヨハネ2:13-22の記録は,同じ出来事について述べているか(ヨハネが自分の福音書の初めの部分で書くことにした),またはイエスの務めの始めごろに行われた以前の神殿の清めについて述べている可能性があります。ヨハネによる記録とほかの記録に見られる言い回しの違いから,神殿の清めは2度行われたと考えることもできます。そのうち2回目では腹を立てた祭司長,律法学者たちがイエスを殺そうと考えました(マルコ11:18ルカ19:47Bruce R. McConkie, Doctrinal New Testament Commentary, 1:636参照)。

ヨハネ2:16。主の宮は清く保たなければならない

「イエスが宮の外庭に入られたとき,牛小屋,羊の囲い,鳩小屋があり……犠牲とする動物の購入のために,ローマやそのほかの通貨を神殿の硬貨に両替して利益を得ていた両替人のテーブルが四方八方にひしめき合っていました。」(Bruce R. McConkie, Doctrinal New Testament Commentary, 1:137–38

ハワード・W・ハンター大管長(1907–1995年)は,神殿の周りで見られたこの世的で不敬虔な行いを清めようされた,救い主の毅然とした行動について次のように説明しています:

「金銭への執着はイエスの時代にも大勢の人々の心をほかにそらし,神よりも富に心を向けさせることが多くありました。神に心を向けずに,どうして神殿を心にかけることができるでしょうか。民は神殿の庭を売買の市場にしてしまい,利益をむさぼる両替商や,無心な子羊の鳴き声が信者の祈りや聖歌をかき消していました。宮清めの時ほど,イエスが感情を爆発させられた例はありません。……

その怒りの理由は,『わたしの父の家』という言葉に如実に表れています。そこは普通の家ではありませんでした。神の家でした。神を礼拝するために建てられた宮でした。敬虔な心で臨む場所でした。そこは人の苦悩や苦労を癒す,天への門となるべき場所だったのです。主は,『これらのものを持ってここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな』(ヨハネ2:16)と言われました。至高者に対するイエスの深い愛が胸に火をつけ,不敬な人々の心を剣のように刺す言葉となって出たのです。」(「御名があがめられますように」『聖徒の道』1978年2月号,82)

神殿の神聖さに対する救い主の態度を身につける方法の一つは,わたしたちが主の宮に入るためのふさわしさを保つことであると,十二使徒定員会のリチャード・G・スコット長老は教えています:「神殿に参入する前にあなたは神殿推薦状を受けるための面接をビショップとステーク会長から受けるでしょう。正直であり,率直であってください。この面接は合格しなければならない試験ではなくて,あなたが成熟していて最も気高い儀式をきちんと受けられる霊性を持っていること,そして主の家で与えられる啓発的な聖約を結ぶことができるということを確認するための重要なステップなのです。個入的なふさわしさは,神殿の祝福を享受するための欠くことのできない必要条件です。ふさわしくない身でありながら神殿に参入する人はだれも皆,罪の宣告を受けるでしょう。」(「神殿の祝福を受ける」『リアホナ』1999年7月号,29)

ヨハネ2:17。「弟子たちは,……思い出した」

イエスが神殿を一掃されたとき,弟子たちは詩篇69:9にある「あなたの家を思う熱心が,わたしを食いつくすであろう」(ヨハネ2:17)という預言を思い出しました。この聖句は,天父と天父の宮に抱くイエスの「熱心」(熱烈な愛という意味)のために,神殿が商売の場所として使われていたことに対して主は義にかなう怒りを表わされたことを教えています。

ヨハネ2:18-21。「この神殿をこわしたら,わたしは三日のうちに,それを起すであろう」

救い主が両替する者を神殿から追い出されると,一部のユダヤ人指導者たちは,神殿を汚す者たちを天父の宮から追い出す力を持っているというしるしを示すように主に尋ねました。イエスの答えは神殿そのものを指しているかのように見受けられますが,十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン長老は, 救い主は実際は御自分の命を差し出し,再び生き返る力について話されていたと説明しています。

「復活をもたらすこの偉大な神権の力は,この世を創造された主に託されています。『わたしは,天においても地においても,いっさいの権威を授けられた』(マタイ28:18)とイエスは教えられました。……

この力について,イエスはユダヤ人たちに次のような微妙な表現で語られました。

『この神殿をこわしたら,わたしは三日のうちに,それを起すであろう。』……イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのです(ヨハネ2:19-21)。

復活の鍵は主に託されています。主は言われました。

『わたしはよみがえりであり,命である。わたしを信じる者は,たとい死んでも生きる』〔ヨハネ11:25〕。」(「死後の生活」『聖徒の道』1987年7月号,10-11)

ヨハネ3:1。ニコデモとはだれか

サンヒドリンの一員であったニコデモは,政治的,社会的,宗教的な力と影響力を持つ地位にある人でした(ヨハネ3:1;『聖句ガイド』「ニコデモ」の項参照)。ほかの聖句からもニコデモは真摯な気持ちでイエスに質問をしていたように見受けられます(ヨハネ3:1-9参照)。例として,ニコデモは自分をあざける祭司長やパリサイ人から救い主を弁護しました(ヨハネ7:45-52参照)。救い主が十字架につけられた後,ニコデモは高価な香油と香料を寄付することで,主の体を埋葬しようとしていたアリマタヤのヨセフを支えました(ヨハネ19:38-42参照)。

〔ニコデモとイエスの画像〕

イエスと語るニコデモ

ヨハネ3:3-5。「新しく生れ〔る〕」

教会の中央幹部は,「新しく生まれる」という教義について度々語ってきました。十二使徒定員会のデビッド・A・べドナー長老は次のように教えています。「再び生まれる過程は,キリストを信じる信仰を働かせ,罪を悔い改め,神権の権能を持つ人によって罪の赦しを受けるために水に沈めるバプテスマを受けることから始まります。……救い主の福音に完全に浸り,福音を十分に吸収することは,再び生まれる過程において不可欠の手順です。」(「あなたがたは再び生まれなければならない」『リアホナ』2007年5月号,21)

十二使徒定員会のダリン・・オークス長老は次のように教えています:

「水と霊とから生まれ,イエス・キリストの御名を受けることにより救い主と聖約の関係に入るとき,わたしたちは再び生まれます。……

このようにして新たに生まれた人はイエス・キリストの霊の息子,娘になると,末日聖徒は主張します(モーサヤ5:715:9-1327:25参照)。しかしそれでもなお,この再生の状態から得られるはずの祝福を理解するには,聖約を守り続け,最後まで堪え忍ばなければなりません。そうすればやがて神の恵みにより,霊の両親と,栄光の受け継ぎを受ける可能性とを得た新たな存在として再び生まれることができるのです。」(「あなたは救われていますか」『聖徒の道』1998年7月号,63-64)

再び生まれるには,わたしたち自身の努力と「神聖な力」の両方が必要であり,わたしたちのほとんどにとって,それは一度に起こるのではなく,時間をかけて起こるものであると十二使徒定員会のD・トッド・クリストファーソン長老は説明しています:

〔ビデオアイコンの画像〕「神の王国に入るためには新しく生まれなければならない,すなわち,水と霊とから生まれなければならない,と言われたのは主御自身でした(ヨハネ3:3-5参照)。肉体的にも霊的にもバプテスマを受けなければならないと言われた主の教えから,この再び生まれるという変化,つまり生まれながらの人から聖徒に変わるためには,わたしたち自身の行いと,神聖な力が間に入ることの両方が必要であると知ることができます(モーサヤ3:19参照)。……

皆さんは,こう尋ねるかもしれません。『なぜその大きな変化はもっと早くわたしに起きないのでしょうか。』ベニヤミン王の民やアルマ,聖文に登場するほかの人々のめざましい例もありますが,それは驚くべきことであり,すべてがそうではありません。多くの人にとって,その変化は少しずつ時間をかけて起こります。再び生まれるとは,肉体的な誕生とは異なり,一つの出来事ではなく一連の過程です。その過程を踏むことが,現世における最も大切な目的なのです。」(「再び生まれる」『リアホナ』2008年5月,77-78)

ヨハネ3:3-5。主の王国に入る

十二使徒定員会のロバート・D・ヘイルズ長老は,わたしたちが水と霊によるバプテスマを受けるときに,わたしたちは天の王国に入るという救い主の教え(ヨハネ3:3-5参照)について,次のような洞察を与えています:

「わたしは,人は正しい神権の権能を持つ者から水に沈めるバプテスマを受けて救い主に従うことを選ぶときに,主の王国にあって主の王国のものとなるのだという結論に至りました。……

バプテスマのときに,わたしたちは依然としてこの世で生活するにもかかわらず,進んで神の王国に入ってそれ以後神の戒めを守るという聖約を天父と交わします。……

バプテスマの聖約と聖霊の賜物について理解するなら,バプテスマによって人生が変わり,神の王国への完全な忠誠が確立されることでしょう。誘惑に遭うとき,耳を澄ませれば,聖霊はわたしたちが救い主を覚え,神の戒めに従うと約束していることを思い出させてくださいます。……

神の王国にあることを選ぶことにより,わたしたちは自分を世から区別します。隔離するのではありません。わたしたちは慎み深い服装をし,清い思いを持ち,きれいな言葉遣いをします。わたしたちが見る映画やテレビ,わたしたちが聴く音楽,わたしたちが読む本,雑誌,新聞は,どれも霊を鼓舞してくれるものです。わたしたちは永遠の目的の達成を励ましてくれる友人を選び,優しさをもって人と接します。不道徳,賭博,タバコ,酒,および法で禁じられている薬物を遠ざけます。わたしたちが安息日に行う活動は,安息日を覚えて聖とするようにという神の戒めを反映したものです。人と接するときにはイエス・キリストの模範に従います。主の宮に入るにふさわしい生活をします。」(「バプテスマの聖約:王国にあって王国のものとなる」『リアホナ』2001年1月号,7-9)

預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,神の王国を「見る」ことと王国に「はいる」ことについて救い主が語っている3節と5節について,次のように教えています。「神の王国を見ることと,そこに入ることとは異なります。神の王国を見るためには心を変えなければなりませんが,神の王国に入るには,その王国に入るための条件に従わなければなりません。」(in History of the Church, 6:58)ある人が神の王国を「見る」とき,聖霊がその人に大きな「心の変化」を起こしているのです(アルマ5:14参照)。その後その人は神の王国に「入る」ために福音の儀式を受けなければなりません。

ヨハネ3:5。昇栄を受けるには儀式が必要である

ヨハネ3:5に見られるニコデモへの救い主の教えは,わたしたちが永遠の命に向けて進歩するには,バプテスマの儀式と聖霊の賜物を受ける必要があることを明らかにしています。「だれでも,水と霊とから生れなければ,神の国にはいることはできない。」バプテスマなどの儀式は必要ではないと考えるクリスチャンが大勢いますが,まことのイエス・キリストの教会では,福音の儀式は常に不可欠なものです。預言者ジョセフ・スミスは「再び生まれることは,儀式を通じて神の御霊によってもたらされ」ると教えました(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』95)。十二使徒定員会のボイド・K・パッカー会長は次のように述べています:「福音の儀式がなければ,良い行いだけでは罪の赦しを受けることも,昇栄することもできません。聖約と儀式は絶対に不可欠なものなのです。」(「唯一真の教会」『聖徒の道』1986年1月号,80-81)パッカー会長は,さらに次のように教えています。「儀式と聖約は,神のみもとに行くための資格証明書になります。ふさわしくなってそれを受けることは,生涯の目標であり,最後までそれを守ることは,この世におけるチャレンジです。」(「誓約」『聖徒の道』1987年7月号,25)

ヨハネ3:6-11。「霊から生れる者もみな,それと同じである」

ニコデモは,永遠の命を受けるためには人はバプテスマを受けなければならないという救い主の教えを,最初は理解できませんでした(ヨハネ3:4参照)。ヨハネ3:6にあるように,救い主は,霊の事柄は霊を通じて学ばなければならないとニコデモに教えられました。大管長会のマリオン・G・ロムニー管長(1897-1988年)は次のように説明しています。「まだ霊から生まれていなかったニコデモは,霊から来るものに対して認識を欠いていました。ニコデモには,イエスが知識の源はふたつあると言っておられるのが分からなかったのです。ふたつの異なった学習方法,すなわちこの肉体を通して学ぶ方法とみたまによって学ぶ方法があることをイエスは教えておられたのです。」(「霊的真理を身に受け,実行する」『聖徒の道』1984年10月号,2)

救い主はさらに,霊的な事柄を学ぶ過程を風が吹くことにたとえて説明されました(ヨハネ3:7-8参照)。この教えについてロムニー管長は次のように述べています。「主はここで,聖霊の賜物を通して得られる知識(この場合は主が言われているように新しく生まれるということ)は,目には見えないが吹く風のように確かなものであるということを断言されていたと思います。新たに生まれていない人々には理解しにくいかもしれませんが,御霊から来ることを学ぶプロセスは現実のものとして存在することを主はニコデモに教えられていたのです。」(「霊的真理を身に受け,実行する」2)

水と霊から生まれるというこれらの真理について救い主が説明された後も,ニコデモはまだ疑問に思い尋ねました。「どうしてそんなことがあり得ましょうか」(ヨハネ3:9)。イエスは次のように答えられました。「あなたはイスラエルの教師でありながら,これぐらいのことがわからないのか」(ヨハネ3:10)。救い主が教えられていた真理は,旧約聖書にも見られる教えであり,ニコデモもよく知っているはずのことでした。

ヨハネ3:12。「地上のこと」と「天上のこと」

救い主は,福音に帰依すること,聖霊のことなど,「天上のこと」へとニコデモの理解を引き上げるために,生まれること,吹く風などの「地上のこと」についてニコデモに語られました(ヨハネ3:12)。ジェフリー・R・ホランド長老は,ブリガム・ヤング大学の学長を務めていた当時,このような救い主の教え方はヨハネ書全体で見られることを指摘しました。一例として,ニコデモに教えを説かれてからサマリヤに移られた救い主は, サマリヤの女に御自身がまことのメシヤであることを理解させるために「生ける水」について教えられました。また,弟子達の昼の食物を用いて,天父の御心を行うことの必要性を彼らが理解できるよう助けられました(ヨハネ4:7-38参照)。ホランド長老はそのような各場面で,救い主は日常の物事を用いてイエスに従う者たちの目を「より高い目的,より高尚な意味,より霊的な糧」に上げて見るようにされたと教えています。

「……これと同じ教訓を救い主が繰り返し教えられたことは明白です。イエスが神殿について語られると,イエスは神殿について語られていると人々は考えました。(ヨハネ2:18-21)イエスがパンについて語られると,パンについて語られていると考えました。(ヨハネ6:30-58)そのほかも同様です。これらは,一つの言葉が複数の事柄に当てはまる,単なるたとえ話ではなかったのです。どの教えもすべて『天上のこと』を見るため,具体的には御自身について目を開き,理解するために『目を上げて……見〔る〕』ようにとの促しだったのです。たとえ彼らの理解がいかに限られていても,彼らをより高いところに引き上げるために,彼らの理解度に合うように主は進んで何度も繰り返し教えられたのでした。最終的にその教えが功を為せば,それは彼らを時や空間を越えた場所,つまり永遠へと導くのです。」(“Lift Up Your Eyes,”Ensign, July 1983, 12–13

〔Moses and the Brass Serpentの画像〕

Moses and the Brass Serpent, by Judith A. Mehr

〔The Crucifixionの画像〕

The Crucifixion, by Carl H. Bloch.イエス・キリストによってもたらされる救いを象徴するためにモーセは荒れ野でへびを上げました(ヨハネ3:14-15参照)。

ヨハネ3:14-17。天父はわたしたちへの愛のために御子をこの世に送られた

引き続きニコデモを教えられた救い主は,御自身の贖罪の務め,特にヨハネ3:14-17に記録された事柄について,大切な真理を説明されました。モーセが荒れ野で上げたへびの象徴を用いて,御自身の十字架上の死と贖罪について教えられました。毒へびにかまれた傷を癒すためにイスラエルの民がへびの象徴を見たように,ユダヤの民は,十字架に上げられる贖い主を見て,主によって生きるよう促されました(3ニーファイ27:13-14参照)。へびは,前世でのエホバであったイエス・キリストの象徴でした。

ダリン・H・オークス長老は,ヨハネ3:16を引用して,イエス・キリストの贖罪は,わたしたちへの天父の究極の愛の表れであることをはっきりと告げています:「使徒ヨハネが述べた言葉以上に,神の愛には無限の力があり完全であることを立証するものはありません。『神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。』(ヨハネ3:16)別の使徒は,神は『ご自身の御子をさえ惜しまないで,わたしたちすべての者のために死に渡された』(ローマ8:32)と記しています。天の御父が,御子を遣わし,わたしたちの罪のために理解できないほどの苦しみに耐えるようにしたとき,どれほどの悲しみをお感じになったか,考えてみてください。それは,御父がわたしたち一人一人を愛しておられることの最大の証拠です。」(「愛と律法」『リアホナ』2009年11月号,26)

十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,次のように教えています。ヨハネ3:16は,「御父と御子,御子の贖罪の犠牲をともに結びつけ,義なる行いを前提とする御子への信仰や,忠実な者に対する究極の永遠の昇栄といった,救いの計画全体を要約しているのです。」(Doctrinal New Testament Commentary, 1:144

ヨハネ3:22-264:1-2。イエスと弟子達の教えは成功を収め,多くの者にバプテスマを施された

ヨハネ3:22は,救い主がバプテスマを施されたような表現であるのに対して,ヨハネ4:1-2はそうではなかったかのような表現になっています。ジョセフ・スミス訳はこの相違を正し,ユダヤ人指導者たちの悪計についての情報を加えています。

「イエスがヨハネよりも多く弟子をつくり,またバプテスマを施しておられるということを,パリサイ人たちが聞いたとき,

彼らはイエスを死に追いやる手立てを懸命に探した。多くの者がヨハネを預言者として受け入れたが,イエスを信じていなかったからである。

主はこれを知っておられた。しかし,主御自身,弟子たちほど多くはないが,バプテスマを施された。

互いに尊敬し合うという模範を彼らに示すためであった。」(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳(抜粋)」ヨハネ4:1-4

ヨハネ3:25-36。謙遜の模範であるバプテスマのヨハネは救い主の使命について教えた

ヨハネ3:25-36で,バプテスマのヨハネは,彼に従う一部の人たちに,自身はキリストではなく,イエス・キリストはさらに偉大な方であられることを教え,救い主の使命について証しました。

トーマス・S・モンソン大管長は,28節を引用し,バプテスマのヨハネの証と謙遜の模範は救い主を証していること,また,わたしたちが従うべき模範になることを次のように教えています 。「今日の世を生きるわたしたちは皆,判断基準を必要としています。倣うべき模範が要るのです。バプテスマのヨハネは真の謙遜さという完全な模範をわたしたちに示しています。ヨハネは常に自分の後に来られる御方—人類の救い主—に服従したのです。」)(「倣うべき模範」『リアホナ』2002年11月号,60)ヨハネ3:29の「花婿」はキリストを表わし,「友人」はバプテスマのヨハネを表わしています。「彼〔メシヤ〕は必ず栄え,わたしは衰える」(ヨハネ3:30)という言葉にバプテスマのヨハネの謙遜と無私の精神がよく表れています。

ヨハネは救い主について力強い証を述べたことを次のジョセフ・スミス訳が明確にしています 。「神はその方に聖霊を限りなく与えられる。神はその方に完全に住まれるからである。」(ジョセフ・スミス訳ヨハネ3:34〔英文〕から和訳)父なる神は御子に御霊の一部ではなく,すべてを与えられました。

ヨハネ4:1-42。ヤコブの井戸にいたサマリヤの女

ヤコブの井戸にいた女(ヨハネ4:1-42参照)へのイエスの教えをより深く理解するには,「新約聖書の背景」の項にあるサマリヤヨハネ4:19-24の解説を参照してください。

エルサレムでの祭司長とパリサイ人による迫害が増したため,ガリラヤに向けてユダヤを去られたイエスは,サマリヤを抜けてスカルという町を訪れられました。旅に疲れ,のどが渇いた主は,昼の十二時ごろ(ヨハネ4:6)ヤコブの井戸に座っておられました。村の井戸に女たちが水をくみにきたり,他人との交流を求めて集まるのは通常朝と夕方でした。井戸に来てイエスと会話を交わしたサマリヤの女は,彼女を罪人として拒んでいた村の女たちを避けるようにこの通常とは違う時間に井戸に来ていた可能性があります(ヨハネ4:16-18参照)。当時の慣習ではユダヤ人はサマリヤ人と交流がなく,ラビは通常独身の女性に話しかけることはありませんでしたが,イエスはこの女に語りかけ,御自身がメシヤであることを教えられました。イエスの弟子たちでさえ「ひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思った」(ヨハネ4:27)のですが,イエスはサマリヤ人をのけ者として見ておられませんでした。

女は救い主の言葉に耳を傾け,自分はメシヤを見つけたという証を徐々に得るようになっていました。彼女が徐々に証を得るようになったことは,「ユダヤ人」(9節),「主」(11,15節),「預言者」(19節),最終的には「キリスト」(29節)と呼んだことから分かります。この女の経験から,イエスがそこにおられたことには,イエスの言葉に謙遜に耳に傾ける者を帰依させる力があったことが分かります。

ヤコブの井戸は, 十二部族の父であり,メソポタミアのパダンアラムでのラバンの務めを終えて帰ってきたヤコブが定住したヤコブの地にありました(創世33:18参照)。ヤコブはこの地を息子ヨセフに相続させました。

〔Drink and Never Thirstの画像〕

Drink and Never Thirst, by Liz Lemon Swindle

ヨハネ4:10-14。イエスは生ける水を差し出される

救い主は,サマリヤの女に「泉となり,永遠の命に至る」「生ける水」(ヨハネ4:10,14)を与えることができると言われました。「生ける水」という表現は救い主を指す言葉として聖典全体で使われています(エレミヤ2:13ゼカリヤ14:8黙示21:622:1アルマ42:27教義と聖約63:23参照)。

ジョセフ・B・ワースリン長老は,ヨハネ4:14にある救い主の言葉を引用し,「生ける水をたっぷりと」飲むことがわたしたちにすばらしい幸福をもたらすことを教えました 。

〔ビデオアイコンの画像〕「イエス・キリストの福音は,それを完全に理解し受け入れたときに,打ち砕かれた心を癒し,人生に意義を与え,愛する人たちを永遠に結び固め,崇高な喜びをもたらしてくれます。……

豊かな人生とは霊的なものです。イエス・キリストの福音に接しながら,それを豊かに味わおうとせず,わずかに口を付けるだけの人が多すぎます。そういう人たちは,集会に出席したり,聖文を少し読んでみたり,決まり切った祈りを繰り返して形を取り繕っていますが,心は福音から遠く離れています。正直になれば,自分が聖霊の驚異的で心地よい訪れより,近所のうわさ話や株式の動向,そして好きなテレビ番組のストーリー展開の方に興味があることを認めざるを得ないでしょう。

この生ける水を飲み,心の内で永遠の命に至る泉がわき上がるのを経験したいと思いませんか。

そう望むなら,恐れることはありません。心から信じてください。神の御子に対する揺るぎない信仰を育てて,熱心に祈り求めてください。いつでも主について考えてください。弱さを捨ててください。聖さと調和をもって,戒めに従って生きてください。」(「豊かな人生」『リアホナ』2006年5月号,100)「生ける水」の詳細な洞察については,ヨハネ7:37-39の解説を参照してください。

ヨハネ4:19-24。天父を礼拝する

紀元前6世紀の終わりに,ユダヤ人たちはエルサレムの神殿の再建を手伝おうとするサマリヤ人の申し出を断りました(エズラ4:1-10参照)。その後すぐ,サマリヤの異邦人総督であり,サンバラテの娘と結婚したエルサレムの祭司マナセは神権を剥奪されました。その後マナセはサマリヤのゲリジム山にエルサレムの神殿に対抗する神殿を建てました。井戸にいた女が話していたのはこの山のことです(See Bible Dictionary, “Gerizim and Ebal”紀元前2世紀の後半,セレウコス朝に対するハスモン家の反乱の時代,サマリヤ人はユダヤ人の大義を支持することを拒みました。恐らくこの結束の弱さに対する報復と考えられていますが,ハスモン家のユダヤ人の指導者であったヨハネ・ヒルカノスは,ゲリジム山のサマリヤ人の神殿を破壊しました。この神殿が再建されることはありませんでした。この神殿が破壊されたことで,サマリヤ人とユダヤ人との間にすでにあった敵意が増幅しました。

サマリヤの女が,イエスは間違いなく預言者であると認識するようになったとき,イエスをどのように礼拝したらよいのかを知りたいと思いました。サマリヤ人の神殿は破壊され,サマリヤ人はエルサレムの神殿に受け入れてもらえなかったため,どこでイエスを礼拝すべきかが分からなかったのです(ヨハネ4:19-20参照)。救い主はまことの礼拝とはある特定の場所に限られるものではないことを女に教えられました。大切なのはだれを礼拝すべきなのかを知ることと,心をまことの神にささげることなのです。祈り,歌い,聖文を研究することで通常わたしたちは礼拝しています。ブルース・R・マッコンキー長老は,わたしたちが,まことの礼拝とはまことの神の知識を持ち,救い主の人生を模倣することであると理解できるよう次のように述べています。

「わたしたちの目的は,まことの生ける神を礼拝し,それを御霊の力で,神によって定められた方法で行うことです。まことの神に対する承認された礼拝は,救いに繋がります。偽の神にささげられた献身と,永遠の真理に基づかない献身にそのような保証はありません。

真の礼拝には,真理の知識が必要不可欠です。

……もし〔人が〕みたまと真実とをもってまことの生ける神を礼拝するならば全能の神は聖霊をお与えになり,……

……真の完全な礼拝は,神の御子の足跡に従うことにあり,それは,キリストが御父の栄光を受けられたようにわたしたちが御子の栄光を受けるまで,恵みから恵みへと前進するようになるまで戒めを守り,天の御父の御心に従うということです。それは,祈り,説教,歌をはるかに超えるものです。それは生活することであり, 行うことであり, そして従うことです。それはまた偉大な模範であるイエスに倣うことにほかなりません。」(「いかに礼拝すべきか」『聖徒の道』1972年10月号,464-465)

ヨハネ4:20-24。「霊とまこととをもって父を礼拝する」

サマリアの女が,イエスがメシヤであることを受け入れるのを最初はためらったかのように見受けられるのは,周囲の人々の宗教が彼女に間違ったことを教えていたからでした。それにこたえて主は,女の気持ちと忠誠を彼女の先祖から天父へ向けさせました。大管長会のディーター・F・ウークトドルフ管長は,すべての宗教と家族の伝統には偉大な価値があるとしながらも,わたしたちは地上の先祖ではなく,霊の父に一番の忠誠を誓うべきであると教えました。

〔ビデオアイコンの画像〕「では,先祖の信仰とは何でしょうか。それは両親や祖父母,曽祖父母が信じた宗教のことでしょうか。……

天の御父の信仰は時の初めから,まさに創世の前から不変です。黙示者ヨハネは天で起きた大きな戦いについて述べています。〔黙示12:7-9参照〕。争点となったのは,今日と同様,選択の自由でした。この地上に生を受けた人は皆,サタンと戦い,御父と御子を支持した人々です。ですから,わたしたちは,わたしたちの天の父なる神に忠誠を尽くす義務があるのではないでしょうか。……

わたしはイエス・キリストの回復された福音の教義こそが,天の御父の信仰であると証します。……神は,生い立ち,文化,伝統の違いにかかわりなく,すべての子供たちがそれを受けるよう望んでおられます。まことの宗教は人を喜ばせる事柄や先祖の伝統からではなく,永遠の父なる神を喜ばせる事柄から生じるべきものなのです。」(「御父の信仰」『リアホナ』2008年5月号,75)

ヨハネ4:24。神は霊なのか

ヨハネ4:24のギリシャ語の原本にはという言葉の前に冠詞(a,theなど)がありません。よってギリシャ語の言葉は「God is spirit」または「God is spiritual」(神は霊的な御方であられる)という意味に解釈することもできます。〔訳注—欽定訳聖書(英文)では「God is a Spirit」となっている〕。また,使徒ヨハネは「神は光であ〔る〕」(1ヨハネ1:5)「神は愛である」(1ヨハネ4:8)と書いていますが,これらの言葉は,神は光のみの御方である,または神は愛であってほかの何物でもないという意味ではありません。また,「人は霊である」(教義と聖約93:33)という言葉は,人は霊であってほかの何物でもないという意味でもありません。同様にヨハネ4:24は,神は霊のみの御方であるという意味ではありません。末日の啓示から,わたしたちは次のことを知っています。「御父は人間の体と同じように触れることのできる骨肉の体を持っておられる。 御子も同様である。しかし,聖霊は骨肉の体を持たず,霊の体であられる。」(教義と聖約130:22

まことの礼拝についての救い主の教えの文脈の中では,ヨハネ4:24の言葉は, 神の特質というよりも礼拝の本質についての解説であると捉えることができます。神は霊的な御方であられるので,人々はある特定の場所で単に形式的な儀式を行うのではなく,「霊とまこととをもって」(ヨハネ4:24)神を礼拝しなければなりません(ヨハネ4:20-21参照)。

ジョセフ・スミス訳により,救い主が教えられていたことについてより明確な理解を得ることができます。「神はそのような者に,神の御霊を約束されたからである。だから,神を礼拝する者は,霊とまこととをもって礼拝しなければならない。」(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」ヨハネ4:26ブルース・R・マッコンキー長老はこの聖句を引用して次のように教えています。

「いつわりの神を礼拝しても救いはありません。ある人がたとえいかに誠実にまた真剣に神は黄金の子牛であると信じても,あるいは神は実体のないものであり,すべてのものの中に存在する力であると信じたとしても,それはほんとうの礼拝とは何の関係もありません。その様なものや,あるいはそのような概念を礼拝することには救いの力はありません。ある人々は偶像や権力やまた法律が神だと心から信じるかもしれませんが,このような考えに対するいかなる量の信仰も不滅や永遠の生命へと導く力を決して与えはしないでしょう。……

しかしもし彼がみたまと真実とをもってまことの生ける神を礼拝するならば全能の神は聖霊をお与えになり,その人は死者を復活させ,山を動かし,天使の訪問を受け,そして天の道を歩む力を受けるでしょう。」(「いかに礼拝すべきか」『聖徒の道』1972年10月号,464-465)

ヨハネ4:25-26。イエスはメシヤであることを宣言された

イエスはサマリアの女に御自身がメシヤであることを証されました。イエスが御自身がだれであるかを明らかにされたことが福音書に最初に記録されたのはこの聖句です。「あなたと話をしているこのわたしが,それである」とイエスは宣言されました(ヨハネ4:26)。原文では「he」(彼)の代名詞はありません。イエスは単に「I Am」(わたしである)と述べておられます。「わたしである」という表現を使うことで,イエスは御自身がエホバであることを宣言されました。「わたしである」という言葉の重要性については,ヨハネ8:53-58の解説を参照してください。

ヨハネ4:28-42。世の救い主であられるキリストを周りの人が知るよう助ける

サマリヤの女は救い主から与えられた「命の水」を味わった後,「水がめをそのままそこに置いて」(ヨハネ4:28)主が与えられた「生ける水」を飲むようほかの人々を招きました。この女の証により,「この町からきた多くのサマリヤ人は,……イエスを信じ」(ヨハネ4:39)ました。その後救い主を目にし御言葉を聞いた彼らの主への証が強まりました(ヨハネ3:41-42参照)。ジョセフ・B・ワースリン長老は,わたしたちも周りの人々が福音の生ける水を見つけることができるように助ける努力をすべきであると説明しました。

「好奇心に駆られたサマリヤ人の群衆が,メシヤと名乗る人を見るためにやって来ました。……初めの好奇心は証へと成長し〔ました〕。彼らは言いました。『自分自身で親しく聞いて,この人こそまことに世の救主であることが,わかった……。』〔ヨハネ4:42

この末日は,霊的に渇いている時代です。世の多くの人々は,人生の目的と教えに対する望みを満たしてくれる活力の源を,ときには激しく求めています。魂の渇きを癒してくれる知識と洞察という冷たい豊かな水を切望しています。彼らの霊は,渇いた心を満たすために,平安と安らぎという生命を保つ水を要求しています。

……わたしたちは心と勢力と思いと体力を尽くして働き,渇いている兄弟姉妹たちに,福音という生ける水のある場所を示し,彼らが『永遠の命に至る水』を飲めるように助けるのです。〔教義と聖約63:23〕……

ヤコブの井戸のときと同様に,今日でも主イエス・キリストは,生ける水の唯一の源です。その水は,全世界を襲う真理の干ばつに苦しむ人々の渇きを癒すでしょう。」 (「霊の渇きを癒す生ける水」『聖徒の道』1995年7月号,20)

ヨハネ4:46-54。イエス・キリストの癒しの力は地理的な距離に制限されるものではない

イエスのもとに来たカナの役人の話が記録されているのはヨハネ書のみです(ヨハネ4:46-54参照)。この役人は少なくとも二つの方法で救い主への強い信仰を示しました。第1に,彼の故郷カペナウムはカナから約20マイル(32キロ)も離れているにもかかわらず,救い主の助けを求めるために旅をしました。第2に,救い主が息子は助かると伝えると,役人は救い主の言葉を信じて「帰って行〔きました〕」(ヨハネ4:50)。ブルース・R・マッコンキー長老は次のように述べています。「役人の息子はカナにいましたが,イエスが命じると約20マイル離れたカペナウムにいた息子は癒されました。信仰の力により,彼らの地理的な距離に関係なく病人は癒されました。神は全宇宙の神であり,神の力はどこにでも現れるのです。」(Doctrinal New Testament Commentary, 1:159