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エペソ人
エペソ人への手紙の紹介
エペソ人への手紙を研究する理由
「エペソ人への手紙は,ユダヤ人と異邦人,夫と妻,親と子,また主人と僕とを問わず,世界中すべての人にあてた書簡です。パウロの時代における神の御心であったと同時に,わたしたちの時代における霊感の声であり,すべての人に訴えかける普遍的な手紙です。
……パウロの最も優れた記述の幾つかが含まれており,基本原則と,救いの栄光に満ちた神の福音を扱った文書です。。」(Bruce R. McConkie, Doctrinal New Testament Commentary, 3 vols. [1965–73], 2:489)エペソ人への手紙には,奥深い教えが記されています。パウロのこの手紙のおもなテーマは,恐らく次のように要約するのが最もよいでしょう。すなわち霊的な知識において成長し教会の一致とフェローシップの輪に加わるために,この世にかかわる事柄を顧みないことです。末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は,エペソ人への手紙の中に,時代を問わず主のまことの教会を特徴づける,なじみ深い教えと習慣を数多く見つけるでしょう。
エペソ人への手紙の著者
エペソ人への手紙には,その筆者が使徒パウロであると記されており(エペソ1:1参照),またこれがパウロの手に成るものであることは,初期の多くのキリスト教徒が認めています。
エペソ人への手紙の書かれた場所と時期
エペソ人への手紙を書いた当時,パウロは囚人であったと述べていることから(エペソ3:1;4:1;6:20参照),この手紙は,パウロがローマで初めて投獄された紀元61年から63年前後の,恐らくピレモンへの手紙とコロサイ人への手紙(これらにはエペソ人への手紙と多くの類似点があります)と同時期に書かれたと考えられます。この間,パウロは自宅軟禁下に置かれていましたが,訪問者を迎え入れ,福音を教える自由がありました(使徒28:16-31参照)。
エペソ人への手紙の対象読者とその理由
エペソ1:1には,エペソ人への手紙が「エペソにいる……聖徒たち」にあてて書かれたことが記されていますが,エペソ人への手紙の最も早い写本には「エペソにいる」という言葉がありません。これは,パウロがこの手紙を特にエペソ人にではなく,エペソにいた聖徒を含む,幾つかの聖徒の会衆にあてて書いたのかもしれないことを意味します。エペソはパウロの3回目の伝道の旅の拠点であり(使徒19:9-10;20:31参照),パウロはエペソの人々に深い愛情を抱いていました(使徒20:17,34-38参照)。
パウロはこの手紙で,改宗したばかりだったと思われる(エペソ1:15参照)異邦人の教会員に語りかけています(エペソ2:11参照)。すでに会員だった人々の霊的視野を広げるためにこの手紙を書きました。パウロのおもな目的は,この改宗者たちが神と教会について霊的な知識を深める助けをし(エペソ1:15-18;3:14-19参照),特に異邦人聖徒とユダヤ人聖徒の間における一致を促し(エペソ2:11-22;4:1-16;5:19-6:9参照),悪の力に耐えるよう聖徒を励ますことでした(エペソ4:17-5:18;6:10-18参照)。エペソの聖徒の多くは,永遠の命に結び固められるのに十分な,義にかなった生活をしていました(エペソ1:13参照)。
ペテロの死後,黙示者ヨハネが教会の大管長となり,エルサレムからエペソに移住したときに,教会活動の中心地もエペソに移りました。キリスト教の言い伝えでは,イエスの母マリヤは,残りの生涯をヨハネの保護を受けながらエペソで過ごしたとされています(ヨハネ19:27参照)。エペソは,黙示録でヨハネが手紙を書いた7つの町の最初の町でした(黙示2:1-7参照)。
エペソ人への手紙の特徴
エペソ人への手紙には,末日聖徒になじみのある教えや考えが多く含まれており,それには,予任,時満ちる神権時代,約束の聖なる御霊,預言者と使徒の重要性,まことの統一された一つの教会という理念,教会の組織内の様々な召しと機能が含まれます。この手紙にはまた,聖文の至る所に見られる家族についての教えの中でも,最も崇高な教えが幾つか含まれています。
概要
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エペソ1:1-4:16パウロは,福音を受ける聖徒の予任,約束の聖なる御霊による結び固め,恵みによる救い,教会内での異邦人聖徒とユダヤ人聖徒の一致,教会の目的,イエス・キリストを隅のかしら石とし預言者と使徒たちの土台の上に築かれた教会組織について書き記した。神は,時満ちる神権時代に,キリストによって万物を一つに集められる。
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エペソ4:17-6:24パウロは,日常生活で真の教義を応用するよう聖徒を励ました。古き人(過去の罪)を脱ぎ捨て,キリストを着るように聖徒を励ました。妻,夫,子供,親,僕,主人,および会衆に対して勧告を与えた。「神の武具で身を固め〔る〕」(エペソ6:11)よう聖徒を励ました。
エペソ人への手紙の紹介とタイムライン
パウロは,聖徒が神の力の偉大さを理解し,神が彼らのために用意してくださった完全な祝福を得ることを望みました(エペソ1:15-19;3:16-19参照)。福音を受け入れ「きよ〔い〕者」となるように,前世で予任されていたことを教会員が理解できるように助けました(エペソ1:4-6,11-12参照)。異邦人改宗者が,キリストの恵みを通して「もはや異国人でも宿り人でもなく」「神の家族」における聖徒となったと教えました(エペソ2:19)。エペソ人への手紙で,パウロは,教会の組織の偉大な目的の幾つかについて説明しました(エペソ4:11-12参照)。すなわち教会で奉仕する使徒,預言者,そのほかの人々は,聖徒が完全な者となるように助け,イエス・キリストを信じる聖徒の信仰を強めて,教会に一致をもたらすということです。救い主の模範に従うことによって,家族などとの関係に一致と調和をもたらすことができると教えました。エペソ6:11で,パウロは読者に対して,より勤勉かつ従順になるように勧め,「神の武具で身を固め〔る〕」ように勧告しました。
トルコのエペソにある遺跡
エペソ人への手紙の解説
エペソ1:1。「聖徒たちへ」
エペソ人への手紙で,パウロはしばしば教会員を「聖徒」と呼びました。『聖書辞典』(Bible Dictionary)によると,「聖徒とは,『聖い』とも訳されるギリシャ語の翻訳であり,その基本概念は,神聖な目的のために聖別することまたは引き離すことである」となっています(Bible Dictionary, “Saint”)。教会員を聖徒と呼ぶことによって,パウロは,イエス・キリストに従うすべての人が贖罪によって聖くされた(この世から切り離された)のであるから,聖い人となるよう努力するべきだと教えました。
エペソ1:3,20;2:6;3:10。「天上」
「天上」と訳された言葉を,天における多様な王国を指すために使った節は,新約聖書でエペソ人への手紙にだけあります(エペソ1:3, 20;2:6;3:10参照)。末日に,主は天が3つの王国で構成されることを明らかにされました(教義と聖約76:50-112;88:14-47参照)。別の箇所で,パウロは復活の栄光における様々な階級や(1コリント15:40-42参照),「第三の天にまで引き上げられた」(2コリント12:2)自らの経験について書いています。
エペソ1:4-5,11。「天地の造られる前から……わたしたちを選び」
パウロはエペソ1:4-5,11で,天地が造られる前に,教会員は地上で福音を受けるよう神によって選ばれたと教えました。この節と新約聖書のほかの節は,前世の教義を裏付けています(ヨハネ9:2;ローマ8:29;1ペテロ1:2参照)。あらかじめ定められたという言葉は(エペソ1:5,11),「事前に任命される」または「予任される」ことを意味します。予任の祝福は無条件で保証されるものではなく,この人生で選択の自由を義にかなって使うかどうかに左右されます(アルマ13:2-3;ローマ8:29-30の解説参照)。
パウロは,昇栄を得る人には,神によって子としての「身分を授け」られることを通して昇栄を得ることがあらかじめ定められており(エペソ1:5参照),それによって神の相続人となり,永遠の命という受け継ぎを得ると教えました。イエス・キリストは,神の唯一の正当な相続人です。したがって,わたしたちが永遠の命を受けるには,「神の相続人であって……キリストと共同の相続人」となるために(ローマ8:17),イエス・キリストの贖いの血によって神の子としての身分を授けられる必要があります。
エペソ1:6-8。「その血によるあがない」
パウロは,恵み,つまり昇栄を可能にする力は,神の愛子を通して父なる神から与えられるのであり,贖いをもたらすイエス・キリストの血によってのみ授けられると教えました。
エペソ1:9-10;3:3-6。「御旨の奥義」という言葉の意味
「御旨の奥義」という言葉は,神御自身によって明らかにされた場合にのみ,個人が知り,理解できる神の計画を指します。パウロは,背教の時代には世にとって奥義である,救いの計画について述べていたようです。「キリストの奥義」とは(エペソ3:4),「異邦人が……神の国をつぐ者となり」,イエス・キリストの福音に等しくあずかる者となることだと教えました(エペソ3:6)。これは救いの計画の重要な要素です。
エペソ1:9-11。時満ちる神権時代
Fulness of Times, by Greg Olsen.時満ちる神権時代の間に,主は,以前の福音の神権時代の鍵のすべてを一つに集められます(エペソ1:10参照)。
パウロは,神が時満ちる神権時代にすべてを「キリストにあって一つに帰せしめようとされた」と教えました(エペソ1:10)。『聖書辞典』は次のように教えています。「福音の神権時代とは,権能を与えられた,聖なる神権と鍵を持つ僕を少なくとも一人,主が地上に置かれる時代をいう。この僕には,地上に住む人々に福音を宣べ伝えるという神聖な使命がある。一つの神権時代が起こされるとき,その時代の人々が救いの計画を知るに当たって過去の神権時代に頼る必要がないように,新たに福音が啓示される。福音の神権時代は,世の始めから数多く存在した。聖書には,アダムに関連付けられる神権時代が少なくとも一つ,エノクに別の神権時代,ノアに別の神権時代,同じくアブラハム,モーセ,および時の中間におけるイエス・キリストとその使徒たちに関連付けられる神権時代が示唆されている。」(Bible Dictionary,“Dispensations”。教義と聖約112:30;128:18,20も参照)〔訳注—『聖句ガイド』「神権時代」の項に一部掲載あり。〕
時満ちる神権時代は,神が世の初めから明らかにしてこられた計画,目的,約束のすべてが回復され,成就する時代です。これによって,「以前のすべての神権時代において明らかにされてきた事柄と,かつて明らかにされたことのない事柄も明るみに出されるでしょう。神は預言者エリヤとその他の僕たちを遣わし,キリストにあって万物を回復されるでしょう。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』510)
映画「最初の示現」から切り出した静止画。父なる神とイエス・キリストが少年ジョセフ・スミスに御姿を現されたことによって,時満ちる神権時代が開かれました。
教義と聖約には,「今や訪れようとしている時満ちる神権時代の到来に当たって,アダムの時代から現在に至るまでの,神権時代と鍵と力と栄光のすべての,ことごとくの,完全な和合と結合が起こり,示されることが必要」とあります(教義と聖約128:18)。時満ちる神権時代は最後の神権時代であり,イエス・キリストの再臨にこの地を備えます。
七十人のB・H・ロバーツ長老(1857-1933年)は,次のように教えました。「現代は時満ちる神権時代です。わたしたちは,大きな水の流れが大洋に注ぎ込むように過去のすべての神権時代がこの神権時代に流れ込むのを見ます。現在の神権時代は過去の神権時代と,また過去の神権時代は現在の神権時代とつながります。神が時の初めから一つの大きな目的を定めておられるのを見ます。その目的とは神の子供たちを救うことです。そして今,最後の日,最後の神権時代がやって来たのであり,真理と光と義が地を覆うに違いないのです。」(in Conference Report, Oct. 1904, 73。教義と聖約27:13;121:26-27;124:41;128:18-21も参照)
エペソ1:13;4:30。「約束された聖霊の証印をおされた」
約束された聖霊〔訳注—欽定訳では「約束の聖なる御霊」〕とは,聖霊の別名です。この言葉は,聖霊の結び固めと承認の力に関連して使われます(教義と聖約76:53;132:7参照)。
「約束の聖なる御霊……は人の義にかなった行いや儀式,聖約を,神に受け入れられるものとして確認される。約束の聖なる御霊は,救いの儀式が適切に執行されたこと,またそれに伴う聖約が守られていることを御父に証される。
約束の聖なる御霊によって結び固められる人々は御父が持っておられるすべてを受ける〔エペソ1:13-14;教義と聖約76:51-60参照〕。
すべての聖約は,約束の聖なる御霊により結び固められなければ,次の世では効力がない〔教義と聖約132:7,18-19,26参照〕。」(『聖句ガイド』「約束の聖なる御霊」の項,scriptures.lds.org)
聖徒は「約束された聖霊の証印をおされた」(エペソ1:13)とパウロが書いたとき,聖徒はまだ死すべき世に生きているにもかかわらず,永遠の命を約束されたことを意味していました。約束の聖なる御霊によって結び固められるとき,その人が死すべき体を持っていても,聖霊は日の栄えを受け継ぐ者として承認されます。この教義は,召しと選びとを確かなものにする,または第二の慰め主を受けるという表現で言及されることもあります(2ペテロ1:4-19;教義と聖約132:6-7;Bruce R. McConkie, Doctrinal New Testament Commentary, 2:493–95; History of the Church, 3:379–80参照)。
エペソ1:13-14。「神の国をつぐことの保証」
パウロは,聖霊の賜物が「神の国をつぐことの保証」であると教えました(エペソ1:14)。この節にある保証という言葉は,「これから起きることのしるし」を意味します(2コリント1:22;5:5の解説参照)。言い換えれば,「聖霊の賜物は永遠の喜びをこの世で経験させ,永遠の命を約束するものでもあります。」(『わたしの福音を宣べ伝えなさい—伝道活動のガイド』65)御霊の賜物は,来世で忠実な者を待ち受ける永遠の報いの予兆ともなります。
わたしたちはイエス・キリストの贖いの血によって買い入れられた「神につける者」〔訳注—欽定訳では「買い取られた所有物」(purchased possession)〕です(エペソ1:14。1コリント6:20;1ペテロ1:18-19も参照)。土地を買う人が,取り引きを誠実に行っていること,購入を履行する意思があることを示すために,多くの場合に内金(金融界では保証金と呼ばれることもあります)を支払うのと同じように,神は,わたしたちが信仰を持って生活するならば,最終的に報いを得て贖われ昇栄するということを保証するために,聖霊の賜物と,それに伴う平安を与えてくださいます。神の戒めと儀式に対する従順は,神が差し出される昇栄の祝福を受けたいと望んでいることを,神に示す方法です。
エペソ2:8-10。「あなたがたの救われたのは,実に,恵みにより,信仰によるのである。それは,……良い行いをする〔ためである〕」
エペソ2:8-10で,パウロは,恵み,信仰,良い行いの関係について述べました。最終的に,救いはわたしたち自身の行いではなく,イエス・キリストの業の功徳によってもたらされます。パウロはイエス・キリストに従う者を「神の作品であって,良い行いをするように,キリスト・イエスにあって造られた〔者〕」と呼びました(エペソ2:10)。これはわたしたち自身の行いよりも主の業に重きを置くものであり,人が良い行いをする能力は,信仰をもって主に頼るときに,イエス・キリストの恵みによって内面で起こる変化から生じると教えています(1コリント15:10;ピリピ2:13も参照)。パウロは,信仰と行いの両方が救いに欠かせないことから,いずれかだけで救われるのではないと教えました。信仰と行いは,イエス・キリストの贖罪の憐れみ深い祝福を受ける力を与えてくれます。恵みに関する詳細は,ローマ3:23-24の解説とローマ4:4,16;5:2,15-21;6:1-2,14-15の解説を参照してください。
十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は次のように説明しました。
「救いは,いずれの形,種類,度合いにせよ,神の恵みによってもたらされるものです。つまり,主の愛と憐れみ,そして主が御自身を低くされたことで,わたしたちの父なる神は『人の不死不滅と永遠の命をもたらす』救いの計画と制度を定められたのです(モーセ1:39)。この計画に従って,神は,無限かつ永遠の贖いの犠牲を成し遂げるために独り子を世に遣わされました。……
このように人は,復活するという意味では恵みだけによって救われるのであり,永遠の命を得るという意味では,本人の従順と相まった恵みによって救われるのです。福音の計画は人を日の栄えの王国に救うためのものであることから,パウロは,信仰,従順,キリストを受け入れること,戒めを守ることを通して恵みによって救われると教えています。それゆえに,ニーファイは『神と和解〔しなさい。〕それは,わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に,神の恵みによって救われることを知っているからである』と書き(2ニーファイ25:23),モロナイは『キリストのもとに来て,キリストによって完全になりなさい。神の御心に添わないものをすべて拒みなさい。もしあなたがたが神の御心に添わないものをすべて拒み,勢力と思いと力を尽くして神を愛するならば,神の恵みはあなたがたに十分であり,あなたがたは神の恵みにより,キリストによって完全になることができる』と記録したのです(モロナイ10:32)。」(Doctrinal New Testament Commentary, 2:498–99)
エペソ2:11-13。無割礼の者と割礼ある者
「無割礼の者」という言葉は異邦人を指し,「割礼ある者」という言葉はユダヤ人を指します。パウロはエペソ2:12-13で,異邦人と神との間に,イエス・キリストの時代の前に存在していた分離を強調しました。異邦人は「キリストを知らず」「国籍がなく」「縁がな〔い〕」状態,つまりイスラエルの一部ではなく,神との契約を交わしていない状態にありました。しかし今では,イエス・キリストとの福音の聖約に入り,かつて「遠く離れていた」異邦人は「キリストの血によって近いもの」となりました。
エペソ2:12-14,18-19。「敵意という隔ての中垣」
エルサレムの神殿には幾つか庭または区域があり,それぞれ特定の類の人しか入れませんでした。異邦人には,神殿の丘を登り,異邦人の庭と呼ばれる外庭に入ることが許されていました。しかし,神殿の中庭は,1メートルほどの高さの垣,つまり壁によって異邦人が入らないように遮られていました。異邦人がこの壁を越えると,死刑に処されることもありました。この障壁を形成していた大理石の塊を二つ考古学者が発見しており,そこにはギリシャ語とラテン語でこう刻まれていました。「聖域を囲む壁より先への外国人の立ち入りを禁ずる。何者であろうと立ち入って捕縛された場合,付随する死は本人の責めに帰する。」(Richard Neitzel Holzapfel, Eric D. Huntsman, Thomas A. Wayment, Jesus Christ and the World of the New Testament [2006], 160)パウロの3度目の伝道の旅の後,エルサレムの一部のユダヤ人がパウロを告発し,異邦人をこの壁の内側に連れて行ったとして責めました。これは暴動を引き起こし,最終的にパウロは逮捕されることになりました(使徒21:27-29;民数1:51参照)。
エルサレムの神殿には,禁じられた中庭に異邦人が入ることを妨ぐため中垣が設置されていました。
エペソ2:12-19で,パウロは「隔ての中垣」,つまりユダヤ人と異邦人を区別し,異邦人を神から引き離していた霊的な壁について述べました。これらの壁,そしてほかのあらゆる障壁は,イエス・キリストの贖罪によって取り去られました。福音を受け入れた異邦人は,国籍がなく,縁がない外国人とは見なされなくなりました。「神の家族」すなわち神の聖約の民の一部となったのです。信仰,悔い改め,バプテスマ,聖霊の賜物を通してイエス・キリストの福音を受け入れることによって,ユダヤ人教会員も異邦人教会員も神に近づくことができます(エペソ2:18参照)。
わたしたちは現代において,バプテスマを受けてふさわしい生活をするときに同じ祝福を享受します。主とわたしたちの間の「壁」が取り去られ,神の祝福に完全に手が届くようになります。また,「神の家族」の一員にもなります(エペソ2:19)。
エペソ2:19-20;4:11-15。使徒たちや預言者たちという土台
パウロは教会員を建物にたとえました。建物が強度と安定性を得るために強い土台を必要とするように,教会は「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられ」「キリスト・イエスご自身が隅のかしら石」です(エペソ2:20)。
十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,教会に使徒や預言者という土台が欠かせない理由について次のように話しました。「あらゆるときに,特に逆境や危険のときに,子供のように当惑し,方角を失い,ひょっとしたら幾分恐れを感じるときに,人間のよこしまな行いや悪魔の策略により,足もとをすくわれ,道をそれそうになるときに,教会の使徒と預言者という土台が祝福となります。……新約聖書の時代も,モルモン書の時代も,現代も,これらの役員はまことの教会の土台となって隅のかしら石の周りに立ち,隅のかしら石から力を受けます。隅のかしら石とは『神の御子でありキリストである贖い主の岩』のことです〔ヒラマン5:12〕。……キリストを土台とするなら,過去にも現在にも,いつも『悪魔が大風を,まことに旋風の中に悪魔の矢を送るときにも,まことに悪魔の雹と大嵐があなたたちを打つときにも』守りが得られます。」(「預言者,聖見者,啓示者」『リアホナ』2004年11月号,7参照)
「あなたがたは,使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって,キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。」(エペソ2:20)
エペソ2:20-21。イエス・キリストは隅のかしら石であられる
救い主は御自分を,家造りらに捨てられて「隅のかしら石」になった石と呼ばれました(マタイ21:42)。隅石とは,構造物全体に強度と安定性をもたらすために土台の隅に置かれる大きくて固い石のことです。隣接する壁をつなげて角の部分を形成するためにも使われます。パウロは,イエス・キリストが教会全体に強さと安定性をもたらし,ユダヤ人教会員と異邦人教会員がイエス・キリストを通して結びつけられることを説明するためにこの比喩を使いました(モルモン書ヤコブ4:15-16;詩篇118:22;イザヤ28:16参照)。教会員全員が一つとなり,「組み合わされ,主にある聖なる宮に成長」します。これはすべて,「隅のかしら石」(エペソ2:20-21)であるイエス・キリストの贖罪を通して可能になります。
エペソ3:1-21。「キリストの奥義」
パウロは,自分に明らかにされた「キリストの奥義」について書きました(エペソ3:4)。この節にある奥義とは,啓示によって知らされる神聖な真理を指します。パウロが書いた奥義とは,ユダヤ人と異邦人の両方が,キリストを通して福音の聖約の相続人になれるということです。これは,「前の時代には,人の子らに対して,そのように知らされてはいなかった」教義でした(エペソ3:3-6参照)。パウロは,キリストに従う者は全員,キリストの名を受け,キリストの子孫および,モルモン書が教えているように「神の王国を受け継ぐ者」になると教えました(モーサヤ15:11。モーサヤ27:25;エペソ3:15;エペソ1:9-10;3:3-6の解説も参照)。これらの教えはパウロの誠実さと謙遜さをはっきり示しています(エペソ3:8参照)。エペソの聖徒のためにパウロのささげた祈りは,「信仰によって,キリストが〔彼らの〕心のうちに住み」,彼らがキリストの愛を知るようになることでした(エペソ3:17)。
エペソ3:11-12。イエス・キリストを通して神に近づくことができる
パウロはエペソ3:11-12で,イエス・キリストと,イエス・キリストに対する信仰によって,「確信をもって大胆に神に近づくことができる」と教えました(エペソ2:18も参照)。「大胆」という言葉は,神の前における自信であると理解することができます。わたしたちは救い主のおかげで,この人生ではイエス・キリストの名による祈りを通して父なる神に自由に近づくことができ,来世では神のもとに自信をもって入ることができます(へブル4:16参照)。
エペソ4:1-6。「主は一つ,信仰は一つ,バプテスマは一つ」
エペソ4:4-6では,「一つ」という言葉が7回使われています。一つになり一致することは,エペソ人への手紙とパウロのほかの書における重要なテーマです。パウロは絶えず一致について教え,教会員の一致を求めて祈りました(ローマ12:5;1コリント1:10;2コリント13:11参照)。現代では,主はジョセフ・スミスに対して,一致が日の栄えの王国における重要な律法であることを明らかにされました(教義と聖約105:3-5参照)。まことの主はただ御一人であり,まことの信仰は一つ,まことのバプテスマは一つ,万物のまことの御父は御一人です。
十二使徒定員会のデルバート・L・ステイプレー長老(1896-1978年)は,一致を保ち,純粋な教義を維持するうえで使徒たちが担う重要な役割について次のように話しました。
「昔,イエスから教会を託された使徒たちは,同じ一つの教えを説き,イエスから授けられた同じ儀式を遵守しました。……
……したがって,彼らが地上にいて,イエスから受けた権能のもとで働いていた間は,一貫した教義と同一の儀式が保たれていました。全世界に携えて行くように命じられた福音の教えは,どこでも,だれにとっても同じでした。人々はいろいろな違った福音を教わってその中から選択したのではありません。万人にただ一つの計画があるだけでした。
救いの条件が万人に共通であるところから,使徒パウロは,『主は一つ,信仰は一つ,バプテスマは一つ』と書いています(エペソ4:4-5)。……
一つの教会,権能を与えられた一つの務め,一つの正統な福音の教義,そして御一人の聖霊が,主の時代のイエス・キリストの教会の姿でした。『聖徒たちのすべての教会で』『神は無秩序の神ではなく,平和の神である。』(1コリント14:33)そのため,イエス・キリストの教会の指導者が受ける神の啓示は,理にかなっていて,首尾一貫しており,統一されていました。
啓示がやんだのはキリストの使徒たちが死んだ後になってからのことです。そしてキリストのお教えになった純粋な教義は世の哲学によって色あせ,教会の儀式に卑俗な改変が現われてきました。さらには,かつて明瞭で分かりやすかったことがまるで神話のように混乱してしまいました。」(「真の教会を作るもの」『聖徒の道』1977年10月号,450参照)
エペソ4:8。「〔イエスは〕とりこを捕えて引き行〔った〕」
パウロは,イエス・キリストが天に昇られたとき,「とりこを捕えて引き行」かれたと述べました(エペソ4:8)。ブルース・R・マッコンキー長老は,この言葉の意味を次のように説明しました。「〔イエス・キリスト〕は死に打ち勝たれました。囚われた者をキリストが捕らえ,死を御自分に従わせられるまで,全人類は死のとりこでした。つまり,パウロが引用した詩篇が続いて述べているように,『われらの神は救の神である。死からのがれ得るのは主なる神による』のです(詩篇68:20)。」(Doctrinal New Testament Commentary, 2:509)
エペソ4:11。伝道者と牧師とは何か
パウロは,教会の組織構造の一部として,伝道者と牧師の職を挙げました(エペソ4:11参照)。伝道者とは,「イエス・キリストの福音のよきおとずれを証し,宣言する人」のことです(『聖句ガイド』「伝道者」の項;scriptures.lds.org)。末日の啓示で,祝福師は「福音の教導者」と呼ばれ(教義と聖約107:39-41),預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は次のように教えました。「伝道者とは祝福師です。……地上にキリストの教会が設立される所にはどこでも,自分の息子たちに祝福師の祝福を授けたヤコブのように,聖徒たちの子孫のために祝福師がいなければなりません。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』139)牧師とは羊飼い,つまり群れを導く者であり,これには現代のビショップ,支部会長,ステーク会長,地方部会長が当てはまります(1ペテロ5:2-4参照)。
エペソ4:11-16。使徒は「信仰の一致」を推し進める
エペソ4:11-16から,神権とその職の目的の一部が分かります。パウロは,生ける使徒たちとそのほかの管理指導者なくして「信仰の一致」は達成できないことを理解していました。十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン長老は,信仰の一致に関するパウロの教えを引用してから,次のように説明しました。「使徒,すなわち大管長会と十二使徒会の務めは,信仰の一致をもたらし,救い主に関する知識を宣言することです。主の『最もすぐれた道』に学び従うすべての人の生活を祝福すること,それがわたしたちの務めなのです〔1コリント12:31;エテル12:11〕。わたしたちは救いと昇栄が得られるように人々を備えさせる必要があります。」(「救いと昇栄」『リアホナ』2008年5月号,7参照)
十二使徒定員会のD・トッド・クリストファーソン長老も同様に,一つにするという使徒の役割に関して次のような洞察を提供しています。「今日の教会において,キリストの教義を確立したり教義的な逸脱を正したりする際には,昔と同様に,主から使徒の権能を授かった人々が受ける神の啓示によって行われます。」(「キリストの教義」『リアホナ』2012年5月号,86)
エペソ4:22-24。「以前の生活に属する……人を脱ぎ捨て〔る〕」
「以前の生活に属する……古き人を脱ぎ捨て」「新しき人を着る」ようにというパウロの勧告は,古い衣を捨てて義の衣を着るという修辞表現を使っています(エペソ4:22, 24)。パウロは,エペソ人への手紙の残りのほとんどを,聖徒の「以前の生活」つまり聖徒が捨て去るべき義に反する慣行を述べ,取り入れるべきより気高く聖徒にふさわしい生き方を定義することに費やしました。
エペソ4:26-27,31-32。「あなたがたは怒りながら罪を犯さずにいられようか」
エペソ4:26のジョセフ・スミス訳は,「怒ることがあっても,罪を犯してはならない」という分かりにくい教えを「あなたがたは怒りながら罪を犯さずにいられようか」という質問に変えています(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」エペソ4:26)。この変更によって,この節は「すべての無慈悲,憤り,怒り……を捨て去りなさい」(エペソ4:31)という勧告など,怒りに関するパウロのほかの教えに調和します。
「憤ったままで,日が暮れるようであってはならない」と教えたとき(エペソ4:26),パウロは怒りの感情を克服するまで床に就くべきではないと聖徒に教えていました。マタイ5:22や3ニーファイ12:22に記録されているとおり,救い主も同じく怒りについてお教えになりました。七十人のリン・G・ロビンズ長老は,次のように教えました。
「サタンの策略の巧妙な点は,怒りを選択の自由の支配下から切り離すことにより,自分は自制できぬ感情の犠牲者だと,わたしたちに信じ込ませることです。『かっとなる』という言葉を耳にします。かっとなって自制心を失うという言葉は,興味ある単語を選んで組み合わせています。これは広く一般的に使われている慣用句でもあります。『何かを失う』とは,『故意ではない』『たまたまそうなった』『好んで行ったことではない』『責任を問われない』つまり不注意ではあるかもしれないが『責任はない』という意味を含んでいます。
『彼がわたしを怒らせたんです。』これもよく耳にする言葉で,同様に,自らをコントロールせず,選択の自由を使っていない状態を表します。このような迷信は正体を暴かなければなりません。わたしたちを怒らせる人などいないのです。だれかがわたしたちを怒らせるのではありません。何ら強制力は働いていないのです。怒りは意識的に選ぶものであり,意志に基づいて決めることなのです。ですから,わたしたちは怒らないという選択が可能なのです。わたしたちが選ぶのです。」(「選択の自由と怒り」『聖徒の道』1998年7月号,86参照)
エペソ4:29。「悪い言葉を……出してはいけない」
パウロは,あらゆる形態の不適切な言葉を含む「悪い言葉」を避けるように聖徒に勧めました。中でも,うそ,欺き,低俗なまたは冒涜的な表現,うわさ話,不敬なまたは非礼な言葉,侮辱的で,邪悪,下品,人をけなすまたは俗悪な言葉は不適切です。
エペソ5:2。「かんばしいかおり」
パウロは,キリストがささげ物やいけにえとして御自分を差し出すことによって,どのように「かんばしいかおり」になられたかについて教えました(エペソ5:2)。ブルース・R・マッコンキー長老は次のように教えました。「古代にささげられた犠牲の一つ一つさえも,来る神の小羊の犠牲を前もって示していたことから『主にささげる……香ばしいかおり』であったので(出エジプト29:18),キリストによる御自身というささげ物は,神にとって喜ばしいものでした。イスラエルにおいて焼かれた犠牲の生じる香ばしいかおりは,わたしたちの主御自身のささげ物から生じる喜ばしい祝福を象徴していました。」(Doctrinal New Testament Commentary,2The sweet smell of the burning sacrifices in Israel symbolized the pleasing blessings flowing from our Lord’s personal offering” (Doctrinal New Testament Commentary, 2:516).516)
エペソ5:17-6:9。会衆と家族への教え
エペソ5:17-6:9には,新約聖書に幾つかある「家庭訓」の一つが含まれています。これは,妻,夫,子供,親,僕,主人に対する一連の教訓です(コロサイ3:16-4:2;テトス2:1-10;1ペテロ2:18-3:8;コロサイ3:18-4:2の解説参照)。エペソ人とコロサイ人への手紙に記されている教えは,どちらも礼拝行事についての指示に関連して与えられました。教会の初期の会衆は,礼拝し,聖餐にあずかるために教会員の家に集まったため,パウロが呼びかけた会衆は,父親と夫,母親と妻,子供,僕,主人で構成される典型的な古代ローマ文化の世帯全員が含まれていたはずです。世帯という場で,教会員の家に集まる会衆の幸福は,キリスト教徒の家族の幸福と切り離すことができないものでした。
エペソ5:21-6:9。キリストにおける一致
エペソ5:21-6:9にある家庭訓では,キリストと各人の関係という観点から対人関係が定義されています。パウロは,妻は「主に仕えるように」夫に仕えるべきだと述べました(5:22)。夫は「キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように」妻を愛さなければなりません(5:25)。子供は「主にあって」親に従います(6:1)。親は「主の薫陶と訓戒とによって」子供を育てるように指示されています(6:4)。僕は「キリストに従うように」(6:5),そして「主に仕えるように」(6:7)主人に仕え,主人は「主は天にいます」ことを覚えて(6:9)僕に接しなくてはなりません。パウロの言葉は,わたしたちのキリストとの関係が,ほかのすべての人との関係を左右し,定めるべきであることを思い出させてくれます(ガラテヤ3:28-29の解説参照)。
エペソ5:21-25。妻と夫に対するパウロの勧告
パウロは,すべての教会員は互いに仕えるべき,つまり自分よりも他人を優先するべきだと教えました(エペソ5:21参照)。次に,仕えるという原則が,妻と夫をはじめとして,家族と世帯内の関係にどのように当てはまるかを説明しました。これは妻にとって,主に仕えるように夫に仕えることを意味し,夫にとって,キリストが教会を愛してそのために御自身をささげられたように妻を愛することを意味します(エペソ5:22, 25参照)。夫婦が心から一つとなるならば,配偶者のために払ったいかなる犠牲も必然的に本人に祝福をもたらすため,「自分の妻を愛する者は,自分自身を愛する」ことになります(エペソ5:28)。
ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は,次のように述べました。「『幸福な結婚生活には,ロマンスよりも伴侶の安らぎと幸せを心から願うことの方が大事であると,わたしは確信しています。妻の安らぎを第一に考える男性は皆,その生涯,そして将来訪れる永遠を通じて妻を愛し続けます。』(Anchorage, Alaska, regional conference, 18 June 1995)」(“Speaking Today: Excerpts from Recent Addresses of President Gordon B. Hinckley,” Ensign, Apr. 1996, 72)
妻は夫に仕えるべきだというパウロの勧告は(エペソ5:22参照),男性による支配を正当化するものではありません。古代ローマ文化の社会では,父親が拡大家族の長であり,世帯全体に絶対的な権威を持つと見なされていました。このため,パウロの教えは,この伝統的な考え方に対する劇的な変革を表しました。それはパウロが,夫と父親の役割を教会に対するキリストの愛と犠牲という観点で定義したからです。
エペソ5:25。「夫たる者よ。キリストが教会を愛〔された〕ように,妻を愛しなさい」
パウロは,イエス・キリストが教会を愛し,教会のために犠牲を払われた方法が,夫がいかに妻を愛し,妻のために犠牲を払うかの究極の模範だと述べました。わたしたちの時代において,教会の指導者は,男性が家族関係を支配するべきではなく,「神の計画により,父親は愛と義をもって自分の家族を管理しなければなりません」と教えています(「家族—世界への宣言」『リアホナ』2010年11月号,129)。スペンサー・W・キンボール大管長(1895-1985年)は次のように説明しました。
「夫が献身的でふさわしいならば,女性が無理強いや,独裁的な扱い,または不当な要求を恐れる必要はありません。……
夫はこう命じられています。『夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように,妻を愛しなさい。』(エペソ5:25)
キリストは教会と教会の人々を深く愛され,その愛は主が自発的に彼らのために迫害を堪え忍び,彼らのために屈辱的な仕打ちを受け,彼らのために苦痛や身体的虐待に冷静に耐えて,最後には彼らのためにその貴重な命をお与えになったほどでした。
夫が家族にそのように接する備えができたなら,妻だけでなく,家族全員が夫のリーダーシップに応じることでしょう。」(“Home: The Place to Save Society,” Enxign, Jan. 1975, 5)
ゴードン・B・ヒンクレー大管長は,神権者に次のように教えました。
「あなたが選ぶ妻はあなたと平等の存在です。パウロは言いました。『主にあっては,男なしには女はないし,女なしには男はない。』(1コリント11:11)
結婚に上下関係は存在しません。女性が男性の前を歩くわけでも,男性が女性の前を歩くわけでもありません。二人は神の息子娘として並んで,永遠の旅路を歩んで行きます。
妻はあなたの召し使いでも,所持品でもありません。そのような存在では一切ありません。……
わたしたちが神の裁きの座に立つとき,この世でどれほどの富を蓄えたかとか,どれほどの名声を手に入れたかということについてはほとんど言われないとわたしは確信しています。しかし,家庭内の関係については念入りに尋ねられるでしょう。伴侶や子供への愛と尊敬と感謝の気持ちで人生を歩き通した人だけが,永遠の判士から次の言葉をかけられるとわたしは信じています。『良い忠実な僕よ,よくやった。……主人と一緒に喜んでくれ。』(マタイ25:21)」(「神権を行使する個人のふさわしさ」『リアホナ』2002年7月号,59-60参照)
エペソ6:1-3。「あなたの父と母とを敬え」
パウロは,家族関係に関する勧告の一環として,子供は親を敬うべきだという戒めを繰り返して述べました(エペソ6:1-3参照)。教会の指導者たちは『若人の強さのために』で,子供がこれを行う方法を幾つか挙げています。「愛と尊敬を示すことによって親を尊んでください。両親があなたを義にかなって導くとき,彼らに従ってください。家事を自分から進んで手伝ってください。健全な家族の活動や伝統に参加してください。家族の祈り,家族でする聖文学習,家庭の夕べなどに加わってください。これらの戒めを守ることによって,家族は強められ,一致します。」(『若人の強さのために』14-15)
エペソ6:4。「主の薫陶と訓戒とによって,彼らを育てなさい」
パウロは,子供を「主の薫陶と訓戒とによって」育てるように親を諭しました(エペソ6:4)。現代の聖典にも,子供が信仰を育めるように助けることをはじめ,主のために子供を育てる親の責任に関して,具体的な指示が提供されています(教義と聖約68:25-28;93:40;モーセ6:57-60参照)。七十人のケビン・W・ピアソン長老は,イエス・キリストを信じる信仰を養うことにおいて親が子供を助けるべき理由について次のように教えました。
「親としてわたしたちは『生ける神の子キリストを信じる信仰』を理解するように子供に教えなければならないと命じられています(教義と聖約68:25)。……
これ以外のものに絶対的な確信を持つことはできません。人生でこれ以外の土台が同じ平安,喜び,希望をもたらすことはできません。不確かで困難な時代にあって,信仰はまさしく最大の努力を払ってでも手に入れる価値のある霊的な賜物です。わたしたちは子供に教育を施し,習い事やスポーツをさせ,芸術に触れさせ,物質的な富を与えることはできます。しかしキリストを信じる信仰を与えなければ,ほとんど何も与えていないことになります。」(「主イエス・キリストを信じる信仰」『リアホナ』2009年5月号,38)
エペソ6:5-8。僕と主人
新約聖書の時代,奴隷制度はローマ帝国全域でごく一般的でした。大勢の教会員が,僕であったか,世帯の一部として僕を抱えていたに違いありません。人々は,戦争で捕らえられたり,負債を支払うために売られたり,または誘拐されたりして僕になりました。僕はどのように振る舞うべきかに関するパウロの勧告は(エペソ6:5-8参照),パウロが奴隷制度に賛成だったことを示唆しているのではなく,僕と主人が存在する文化の中で生活する教会員に,その関係がどのようにイエス・キリストの福音によって導かれるべきかを教えています。
スペンサー・W・キンボール大管長は,奴隷制度がはるかに少なくなった今日にもパウロの助言が当てはまることを次のように教えました。
「パウロは『罪深い主人』について述べ,この話の中で下僕や使用人を欺き,彼らの働きや提供された物品に対して正当に報酬を払わない人について言及している。パウロは恐らく自分の配下の人に不親切で要求ばかりしていて思いやりのない人々を心に思い浮かべていたことだろう。……
……またパウロは雇人の方にも高い標準を課している。〔エペソ6:5-7引用〕
現代風の言葉で言えば、僕も主人も互いに首尾一貫して正直にそれぞれの務めを完全に果たし、また、主人は、もし自分が僕であったらどのような主人を望むかよく考えて僕に接すべきであるということだろう。」(The Miracle of Forgiveness [1969], 51)
エペソ6:14-18。義の武具
霊的な悪から自らを守る方法を読者に教えたパウロは,武具を身に着けた戦士という象徴を用いました(ローマ13:12;2コリント10:3-7;1テサロニケ5:8も参照)。パウロは,戦士が身に着ける順序,または手に持つ順序で,戦士の武具の各部を挙げました。これは,人の思考,知性,感情,道徳的な清さを含む,霊的な健全さ全般を,福音がどのように守るかを象徴的に表しています。次の表は,パウロが挙げた武具の各部と,それらが今日何を表し得るかを挙げたものです。
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武具 |
武具が象徴するもの |
保護される体の部分 |
保護される体の部分が表すもの | |
|---|---|---|---|---|
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ベルト,帯(ウエストに締める) |
真理(詩篇18:32,39;イザヤ11:5参照) |
腰 |
純潔,道徳的清さ(箴言6:32参照) | |
|
胸当て(青銅製または鎖製) |
義,神へのまっすぐな姿勢(イザヤ59:17参照) |
心 |
愛情,感情,忠誠(申命6:5参照) | |
|
防護ブーツ(滑り止め鋲つきの頑丈な靴) |
平和の福音の備え(イザヤ52:7参照) |
足 |
人生の進路,行動,行く場所,目標(箴言1:15-16参照) | |
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盾(大きな楕円形の木材2枚を鉄と革で留める) |
信仰(詩篇18:30,35参照) |
体全体 |
心のすべて | |
|
かぶと(青銅製で革ひも付き) |
頭 |
思考,知性 | ||
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剣(鋼鉄製武器。リスト中唯一の武器) |
神の言葉である御霊(へブル4:12参照) |
体全体 |
心のすべて |
七十人のロバート・C・オークス長老は,魂の戦いで使われるこれらの武具について次のように述べました。
「主の武具として不変の価値を持つものは,真理,義,信仰,祈り,そして神の御言葉です(エペソ6:13-18参照)。これらの武器を操るのは,わたしたちの思いと言葉と行いです。一つ一つの義にかなった思い,言葉,行いが,主にとって勝利となるのです。……
この戦いの報酬は非常に高価です。その賞とは,まさに神の息子娘の霊,つまり,永遠の救いです。この霊を得るか失うかは,徳高く清らかであるかどうかに懸かっています。慈愛と奉仕,信仰と希望に懸かっているのです。」(「主の方には」 『リアホナ』2005年5月号,49-50参照)
エペソ6:16。信仰の盾
パウロは,信仰の盾が敵の攻撃をかわし,「悪しき者の放つ火の矢を消す」と教えました(エペソ6:16)。十二使徒定員会のボイド・K・パッカー会長は,信仰の盾を作り上げるうえでの家族の大切さについて次のように教えました。
「家族で信仰の盾を作り,ぴったりなじませる必要があるのです。どの盾も同じものは一つとしてありません。どれも個人の規格に合った手作りでなければならないのです。
御父の考案された計画では,男性と女性,夫と妻が一緒に働き,悪魔の火矢を跳ね返し,奪い取られることのないがっしりとした信仰の盾を,子供一人一人に合わせて備えてやる必要があります。
それには,盾の材料であるあらがねを打ち出す父親の着実な力と,それに磨きをかけ,一人ひとりにうまく合わせる母親の優しい手が必要です。時には親が独りでそれをしなければならない場合もあります。難しい務めですが,それは可能です。
教会では,信仰の盾の材料になる幾つかの原料について教えることができます。敬虔さ,勇気,純潔,悔い改め,赦し,愛に満ちた思いやりなどがそれです。それらをどう組み立て,個人個人に合わせるかについても教会で学べます。しかし実際に信仰の盾を作り,個人に合わせる作業は家族の中で行う必要があります。」(「信仰の盾」1995年7月号,8参照)