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2コリント1-5章
使徒パウロからコリント人への第二の手紙の紹介
コリント人への第二の手紙を研究する理由
コリントの教会員にあてた使徒パウロの第二の手紙は,苦難のただ中における慰め,弱さのただ中における強さ(パウロ自身によって例示されている),偽りの教師とまことの教師を見分けるというテーマにおいて際立っています。コリント人への第二の手紙に記録されたパウロの模範と教えは,いかなる状況であろうと,どんな結果になろうと,神である永遠の御父と交わした永遠の聖約に正直かつ忠実でいるようにという,聖徒たちへの呼びかけの役割を果たしています。
コリント人への第二の手紙の著者
コリント人への第二の手紙には,使徒パウロとテモテによって書かれたと記されていますが(2コリント1:1参照),この手紙はパウロがテモテとの連名で書いたものと思われます。パウロが自身の多くの経験に言及しているという点が,パウロ一人が本書の著者であることを示唆しています(2コリント11:16-33;12:1-14;13:1参照)。
コリント人への第二の手紙の書かれた場所と時期
パウロがコリント人への第一の手紙を書いてから間もなく,彼の教えに反対する暴動がエペソで起こり(使徒19:23-41参照),パウロはマケドニヤに逃れました(使徒20:1;2コリント2:13;7:5参照)。コリント人への第二の手紙を書いたのは,恐らく紀元57年ごろ,マケドニヤにいたときだったと思われます。コリント人への第二の手紙を書く前に,コリント人への第一の手紙に加えてほかにも2通の手紙を書いたと考えられています。これらの手紙についてパウロが言及していることから分かります(1コリント5:9;2コリント2:3-4,9;7:8-12参照)。
コリント人への第二の手紙の対象読者とその理由
マケドニヤにいたとき,パウロは,以前書き送った手紙が現地の聖徒に歓迎されたというコリントからの知らせをテトスから受けました(2コリント7:6,13参照)。コリント人の支部は進歩しつつありましたが,パウロはそこに,キリストの純粋な教義を損なっている偽りの教師がいることも知りました。パウロのコリントへの最初の訪問や,一部の聖徒を叱責したと思われる恐らくは2度目の訪問(2コリント2:1;12:21参照)の後,しばらくしてから,エルサレム地域から説教師がコリントを訪れ,パウロの教えに反してユダヤ人の習慣を取り入れる必要があると聖徒たちに教え始めました。コリント人への第二の手紙の大部分は,この招かれざる教師たちによって引き起こされた問題に対処するものです。パウロは彼らを「キリストの使徒に擬装している」「にせ使徒」および「人をだます働き人」(2コリント11:13)と呼びました。この人々の中には,不正を働いたとしてパウロを非難する人,そしてパウロの使徒としての権能に異議を唱えた人さえいました。
パウロの手紙は,パウロの言葉をさらに求める人々(2コリント1-9章参照)と,悔い改める望みもパウロの勧告を受け入れる意思もなかった人々(最も歴然たるものが2コリント10-13章)の両方にあてたものでした。全体として,コリント人への第二の手紙の本文は,この手紙の目的を幾つか明らかにしています。(1)以前の手紙に好意的だった聖徒に感謝の気持ちを表し,彼らを強める,(2)キリストの純粋な教義を損なった偽りの教師たちについて警告する,(3)自身の人格を弁護し,主イエス・キリストの使徒としての権能の正当性を主張する(2コリント10-13章参照),(4)エルサレムの貧しい聖徒に惜しみなく献金するようコリントの聖徒に奨励する(2コリント8-9章参照)。
コリント人への第二の手紙の特徴
パウロの使徒としての権能と彼の説く教義に疑問を持つ批判者への返答として,パウロは人生を自伝的に列挙し,「肉体に一つのとげが与えられた」(2コリント12:7)ことについて記しました。
パウロの手紙の多くは教義に焦点を当てていますが,この手紙では,コリントの聖徒たちとパウロとの関係や,彼らに対するパウロの愛と気遣いを強調することに多くが割かれています。パウロは批判者に毅然と対応しましたが,コリント人への第二の手紙全体を通して,彼が聖徒の幸せと健康を気遣う心優しい神権指導者であることが分かります。
この手紙で,パウロは,人生で最も神聖な瞬間であったと思われる事柄に言及しました。2コリント12:2-4で,パウロは自分自身を,口に言い表せないことを見聞きした「第三の天にまで引き上げられた」「キリストにあるひとりの人」と描写しています。この示現は,復活における栄光の階級に関するパウロの以前の教義的なくだり(1コリント15:35-44参照)と併せて,教義と聖約76章に記録されたジョセフ・スミスの示現に匹敵する聖句であると考えることができます。
コリント人への第二の手紙は,パウロがコリント人の聖徒に書いた数通の手紙をまとめたものである可能性があります。
概要
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2コリント1-5章パウロは,神の子供たちのあらゆる試練において,神が彼らを慰められると証した。聖徒たちに,愛し合い,赦し合うように求めた。福音と主の御霊の働きは,モーセの律法の文字よりもすばらしい。パウロは逆境にあった読者を励まし,神の愛と報いの永遠性と比べてこの世での逆境は一時的なものであることを思い起こさせた。イエス・キリストの贖罪を通じて神と和解する必要があることを理解できるように読者を助けた。
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2コリント6-13章偽りの教師の批判と反対に直面したパウロは,主の僕として自らの誠実さを守り,この世から離れるよう読者に勧めた。「神のみこころに添うた悲しみ」について教えた(2コリント7:10参照)。エルサレムの貧しい人々への献金についてコリント人の聖徒に感謝し,「神は喜んで施す人を愛して下さる」(2コリント9:7)ので,引き続き惜しみなく与えるよう励ました。「にせ使徒」に強く反論した(2コリント11:13)。主をたたえ,自らの試練とイエス・キリストを信じる信仰について自伝的に列挙して伝えた。第3の天の示現について記録した。聖徒たちに,自分自身を省みて,各々の忠実さを証明するように勧めた。
ギリシャのコリントにある遺跡。
2コリント1-5章の紹介とタイムライン
パウロのコリント人への第二の手紙には,一部のコリント人の聖徒とパウロの間に深まりつつある亀裂のしるしが見られます。コリントの教会員のうち,少数がパウロに反対し,彼らの中でのパウロの影響力を弱めたいと考えました。パウロに向けた批判の幾つかは,先に約束したコリントへの旅をパウロが取りやめたのが原因でした。そのため,パウロは信頼できないと感じた人々もいました(2コリント1:15-19参照)。パウロは,自らの行いと務めの正当性を主張し(2コリント2:12-17;3:1-6;4:1-5;5:19-20参照),コリント人に対する愛情を示して,同胞を愛し,赦すことからもたらされる平安について教えました。パウロは,どのようにイエス・キリストの贖罪を通じて天の御父と和解できるかについてコリント人に教えました。パウロの手紙は,読者がパウロの次の言葉の生きた手本となるために役立ちます。「わたしたちの推薦状は,あなたがたなのである。それは,わたしたちの心にしるされていて,すべての人に知られ,かつ読まれている。」(2コリント3:2)
2コリント1-5章の解説
2コリント1:3-10。天の御父は慰めの神であられる
2コリント1:3-10に記録されているように,パウロは聖徒たちが苦しんだ試練について書きながら,「慰め」および「救い出〔す〕」という言葉を繰り返し使いました。神の慰めは,コリント人への第二の手紙の初めの数章全体における主要なテーマです。パウロは,彼と彼の同僚がアジヤで経験した厳しい試練(2コリント1:8-10参照)について,強く,心をこめた言葉で語り,主が主に従う人々を独りで苦しむままにしておかれることはないと教えました。自らを頼むだけではなく,主に頼ることによって,パウロはこの深い失望の時を耐えることができました。
トーマス・S・モンソン大管長は次のように教えました。「試されるには,時々問題や困難に直面しなければなりません。トンネルの先に光が見えないときも,夜明けが来ないかのように思えるときもあります。絶望している人の痛み,夢に破れた人の失意,希望が打ち砕かれた人の落胆に取り囲まれています。わたしたちは声をそろえて『ギレアデに乳香があるではないか』〔エレミヤ8:22〕という,聖文に記された嘆願を口にします。わたしたちは悲観主義というゆがんだレンズを通して自分の不幸を見る傾向があります。そして,見捨てられた,もう希望がない,孤独だと感じるのです。もし自分がそのような状況にいることが分かったら,信仰をもって天の御父を仰ぎ見てください。御父はあなたを力づけ,導いてくださるでしょう。苦しみを取り去ってはくださらないかもしれませんが,どのような嵐であってもあなたを慰め,愛を込めて導いてくださいます。」(「過去を振り返り,前進する」『リアホナ』2008年5月号,90)
2コリント1:4。「人々を慰めることができるように」
パウロは2コリント1:4で,試練の中で神の慰めを受けた人は,試練にあるほかの人を慰めることができると教えました。ほかの人を慰めることに熱心に取り組む姿勢は,キリストの弟子であることを示すものであり,バプテスマの要件でもあります(モーサヤ18:8-10参照)。十二使徒定員会のオーソン・F・ホイットニー長老(1855-1931年)は次のように教えました。
「悲しみと苦難の中にあるときには,だれに助けと慰めを求めるべきでしょうか。……苦しみを経験した人々です。彼らは自分の苦しい経験から,同情や慰めを豊かに注いで,今苦しんでいる人を祝福することができるのです。苦しみを味わったことのない人にそのようなことができるでしょうか。
……これこそ,神が子供たちに苦しみを経験させられる理由ではないでしょうか。神は子供たちにいっそう御自分に似た者になることを望んでおられます。神は人間が過去に味わった苦しみ,あるいは未来に味わう苦しみとは比較にならないほどの苦しみを経験されました。ですから神は,同情と慰めを最も豊かに注ぐことがおできになるのです。」(“A Lesson from the Book of Job,” Improvement Era, Nov. 1918, 7。ジェームズ・E・ファウスト「試練の中で精錬される」『リアホナ』2006年2月号,5も参照)
2コリント1:11。教会指導者はわたしたちの祈りによって強められる
コリント人の聖徒は,使徒パウロのための祈りを通じてパウロに慰めをもたらし,パウロはこの支援に対して感謝の意を表しました(2コリント1:11参照)。十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老も,教会の中央幹部全員を代表して,継続的な祈りと支持について教会員に感謝の意を表しました。「わたしたちは皆さんの祈りと支持なくして働くことができません。皆さんの忠誠と愛は言葉に表せないほどの大きな意味があります。」(「あなたがたは信仰があるので」『リアホナ』2010年11月号,6)
2コリント1:15-20。「『しかり』と同時に『否』」
2コリント1:15-20にあるこの難しい節は,コリントへの訪問を約束してから旅程を変更したことで,気まぐれや軽薄さを見せたという非難へのパウロの返答だと思われます。ある日は「しかり」(はい,訪問します)と言い,次の日には「否」(いいえ,訪問しません)と言ったことから,パウロを信頼できないと言った人もいました。パウロの批判者は,「パウロを信頼できないならば,パウロが神について教えたことをどうして信用できるのか」と言いたかったようです。パウロはこの非難に応えて,彼と同僚が教えたメッセージが真実であり,神とイエスは信頼に値する御方で,変わることがないと宣言しました。神の約束はことごとくイエスにおいて常に「しかり」となる,すなわち成就するのです。
2コリント1:21-22。油注ぎと証印
パウロは,神が彼と同僚の宣教師に「油をそそいで」「証印をおし」てくださったと述べました(2コリント1:21-22)。油を注ぐというのは,旧約聖書で,神が定められた業に王,祭司,預言者が任命されたときに受けたのと同様の油注ぎを指している可能性があります(出エジプト29:7;列王上1:34,39;19:15-16参照)。しかし,この言葉は単に,神が聖なる御霊と,その賜物に伴う豊かな祝福をパウロにお与えになったことを意味するのかもしれません。これは,2コリント1:22にあるパウロの御霊への言及に一致するように思われます。神によって「証印をお〔される〕」ことを示すためにパウロが使ったギリシャ語は,神が神の所有を示す印をパウロに押されたことを意味します。
印章指輪にある古代の印。このような指輪は,粘土またはろうに印を押し,文書などの物品に所有者のしるしを残すために使われた。パウロは「神はまた,わたしたちに証印をおし」た(2コリント1:22)と書いた。
写真/リチャード・L・W・クレーブ
2コリント1:22;5:5。「保証として〔の〕御霊」
Bible Dictionary(『聖書辞典』)によると,earnest(保証)という言葉には次の意味があります。「保証金または担保。このように解釈する場合,この言葉は,何かを購入する契約を結ぶときに購入者が支払う手付け金を示す商業用語である。パウロの使い方によると(2コリント1:22;5:5;エペソ1:14),この言葉は,主がこの生涯において,永遠の命の喜びの予兆としてわたしたちに聖なる御霊を与えてくださることを意味する。御霊は,忠実な者に永遠の命を与えるという主が御自身の約束を果たされることの主の保証でもある。」(Bible Dictionary, “Earnest”。1ヨハネ4:13;教義と聖約88:3-5;ローマ8:14-16の解説とエペソ1:13-14の解説も参照)主の御霊を感じるとき,わたしたちは主に受け入れられていて,主の約束は生活の中で効力があると知ることができます。
2コリント2:1-4。指導者は愛ゆえに教会員を叱責する
ブリガム・ヤング大管長
写真/チャールズ・R・サベージ
2コリント2:1-4で,パウロは,前の手紙で会員たちを叱責したために,書いたことの一部が辛辣に思えたかもしれないことを認めました。預言者はいつの時代でも,神の子供たちを教え,警告し,正す責任を負ってきました(モルモン書ヤコブ2:2参照)。ブリガム・ヤング大管長(1801-1877年)は,教会指導者が,その勧告において手厳しいと感じられることがある理由について次のように教えました。「時折,わたしは多くの兄弟たちの目に手厳しいと映るかもしれません。時には叱責することもあります。しかし,わたしがそうするのは,燃える炎のような神の力が彼らの内面と周辺に宿るように生きてほしいと願うからです。」(Discourses of Brigham Young, sel. John A. Widtsoe [1954], 115)
2コリント2:5-11。人を赦すことの大切さ
わたしたちは,2コリント2:5-11からパウロの愛と思いやりに対する洞察を得ます。パウロが言及した罪人が1コリント5:1に記された人なのか,別の罪人なのかは分かりませんが,恐らくはパウロと彼の教えに反対したコリントの偽りの教師の一人だったのでしょう。その罪人がだれかにかかわらず,教会が宗紀処置を行ったことは明らかです(2コリント2:6参照)。パウロは,その人が「ますます深い悲しみに沈む」(2コリント2:7)ことがないように,教会員にその人を赦し,慰めるよう勧めました。
七十人のC・マックス・コールドウェル長老(1933-2012年)とリーン・G・オッテンは,人を赦さないことの危険性について次のように論じました。「隣人に対して赦さない姿勢をとるとき,その人が救いに向かって進歩するのを妨げようとしていることになります。この姿勢は……キリストのようなものではありません。生ける人の進歩を妨げ,贖罪のもたらす赦しの祝福をその人から奪おうとしているのです。この考えには,人を滅ぼそうとする不純な意図が満ちています。」(Sacred Truths of the Doctrine and Covenants, 2 vols. [1993], 1:314。教義と聖約64:9-11も参照)
2コリント2:11。「わたしたちは,〔サタンの〕策略を知らないわけではない」
もしコリント人の聖徒が教会の宗紀処置を受けた人を赦さなければ,彼らの間に不和が高じると,パウロは分かっていました(2コリント2:11参照)。サタンは,この人が罪を犯したときに一度勝利を得ました。聖徒たちがこの悔い改めた人を赦さなければ,サタンはもう一度勝利を収めることになるでしょう。パウロは,「サタンに欺かれることのない」(2コリント2:11)ようにする方法を聖徒たちに教えていました。
サタンに打ち勝つ力を受ける方法の一つは,サタンが人の子を欺こうとする方法を理解することです。十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,次のように話しました。「サタンは神の計画の中で最も重要な事柄に最も激しく攻撃の矛先を向けています。サタンは救い主とその神聖な権威を愚弄し,贖いの効力を無にし,偽りの啓示を広め,人々を真理から遠ざけ,自らの行いについて神に申し開きをする責任を否定し,男女の本来あるべき姿をゆがめ,結婚生活をないがしろにし,(子供を義にかなって育てようとする両親には特に,)子供をもうけることを思いとどまらせようとしています。」(「人に幸福を与える偉大な計画」『聖徒の道』1994年1月号,81)
2コリント2:14-17。「わたしたちは……神に対するキリストのかおりである」
聖徒は互いを愛し,赦すべきだと教えた後,パウロはイエス・キリストの弟子の特質についてより詳しく教えました。神は神の聖徒を常に支援し,「キリストの凱旋に伴い行〔く〕」(2コリント2:14)ようにしてくださると宣言しました。パウロは次に,聖徒は「神に対するキリストのかおりである」(2コリント2:15)と言ったときに,神殿で焼かれる犠牲と香の比喩を用いました。神殿のささげ物の煙は,神に対する香ばしいかおりとして描写されています(出エジプト29:18;レビ1:9,13,17;民数15:7参照)。同様に,義にかなった聖徒の生活は,彼らがキリストのようになりつつあることから,神に喜ばれるささげ物を表しました(2コリント2:15参照)。
16節は,聖徒とイエス・キリストの福音が,聞く者に及ぼした影響を述べています。聖徒と彼らのキリストに対する証は,キリストの敵にとって死に至らせるかおりですが,使徒とその教えを受け入れる者にとっては命に至らせるかおりです。
「いったい,このような任務に,だれが耐え得ようか」と尋ねたとき,パウロは,助けとなる救い主の恵みがなければ,救い主の代理となるに足る人はだれもいないことを認めました。そして,パウロとほかの弟子たちが「神の言を売物にせず」,真心を込めて「神のみまえで,キリストにあって語る」(2コリント2:16-17)と宣言しました。
2コリント2:17で使われている「売物にする」という言葉は,「行商人」に当たるギリシャ語に由来するもので,これは特に不純で粗悪な商品を売る人を指します。パウロはイエス・キリストの使徒として,当時コリントの一部の人がしていたように,金銭のために福音を宣べ伝えたり,福音のメッセージを不純なものにしたりはしませんでした。
2コリント3:1-2。教会員の模範によって教会を評価する人もいる
教会員の生活に見られる親切な行いと奉仕のために,世界中で多くの人が教会に好感を抱いている(2コリント3:2参照)。
コリントでパウロに反対し,信用を傷つけようとした人たちへの返答として,パウロは修辞的に「わたしが正当な使徒であることを証明する推薦状がほんとうに必要なのか」と尋ねました(2コリント3:1参照)。この質問でパウロは,ある地域を初めて訪問するときに推薦の手紙を携えた古代の習慣に言及しました(使徒18:27;ローマ16:1-2も参照)。このような手紙は通常,人を紹介する,人柄を証明する,その人が侵入者や詐欺師ではないことを証するものでした。パウロは次に,コリントの聖徒の一変した生活がキリスト御自身からの手紙のようなものであるので,その改めた生活が,すでにパウロが適切な権能を持っていることを証明する最高の「推薦状」となっていると宣言しました(2コリント3:2-3参照。1コリント9:2も参照)。
教会員は「すべての人に……読まれている」手紙のようなものであるというパウロの言葉は,多くの人にとって,初めて教会について知り,その真実性を判断する方法が,教会員個人の振る舞いであることを示しています。販売する商品によって店主が評価されるのと同じように,教会,そしてイエス・キリスト御自身さえも,わたしたちの生き方によって評価されることがあります。ブルース・R・マッコンキー長老は,次のように教えました。「結局のところ,福音は石の板や聖典に書かれるものではなく,忠実で従順な人々の体に記されるものであることから,聖徒は真理の生きた手紙であり,その生き方が記された書はすべての人が読めるように開かれているのです。」(Doctrinal New Testament Commentary, 3 vols. [1965–73], 2:414)
ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は次のように付け加えました。「この御業を辱める唯一のものは,会員たちがその教義や標準に添った生活をしないことです。ということは,わたしたち一人一人に,大きな責任が課せられているということです。世の人々は,わたしたちの行いを見て,この御業を判断します。神が,わたしたちに,信仰を持って歩む意志,またいついかなる場合でも,正しいことを行おうとする自己訓練,自分が接するすべての人々の前で,自らの生き方を通してこの御業について宣言しようとする決意を与えてくださいますように。」(「それは,片すみで行われたのではない」『聖徒の道』1997年1月号,61)
2コリント3:3。「人の心の板」
パウロは,モーセの律法の戒めは石の板に書かれたが,「生ける神の霊」は福音を「人の心の板」に書くことができると教えました(2コリント3:3)。十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン長老は,福音の教義がわたしたちの心の板に書かれるときについて次のように説明しました。「それらは……わたしたちの人格に必要な部分になるのです。」(「聖文の導きに従って生活する」『リアホナ』2001年1月号,21)福音の教義を自己の一部とするこの過程は,聖霊の力を通じて起こります。
「立法者モーセ」テッド・ヘニンガー画戒めはかつて石板に書かれていたが,「生ける神の霊」はそれらを「人の心の板」に書くことができる(2コリント3:3)。
2コリント3:6。「文字は人を殺し,霊は人を生かす」
パウロはコリント人の聖徒に対し,彼が「新しい契約」つまりイエス・キリストの新しい聖約に仕える者であると宣言しました。パウロは,モーセの律法である古い聖約を「文字」と呼び,新しい聖約を「霊」と呼びました。十二使徒定員会のクエンティン・L・クック長老は,わたしたちが神の戒めを守ることにおける「精神」つまり「理由」を理解する必要性に関してパウロの言葉を当てはめました。
「ほとんどの場合,教義は『なぜ』という質問に,原則は『何を』という質問に答えてくれます。『なぜ』するのか,または『何を』するのかということから目をそらして,『どのように』するのかということばかり力説するときに,的のかなたに目を向ける危険性があります。少なくとも,パウロがコリント人に語った次のようなわなに陥ることがあるのです。『文字は人を殺し,霊は人を生かす。』(2コリント3:6)
十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,アロン神権の執事の職の兄弟たちに聖餐会の教義と原則を教えることを例に挙げました。聖餐を配るときの規則(例えば,可能ならば白いシャツを着てネクタイを締め,敬虔な雰囲気を妨げないように聖餐を配る,など)を守ることによって,主が聖餐会でわたしたちに行ってほしいと願っておられる事柄(敬虔な態度で聖約を新たにし,贖いを思い起こすこと)が支えられていることを理解させるためです。〔「アロン神権と聖餐」『リアホナ』1999年1月号,41-43参照〕わたしたちは多くの分野で,規則ではなく,教義や原則によってのみ導きを受けます。預言者ジョセフ・スミスは次のように教えました。『わたしは人々に正しい原則を教えて,人々に自らを治めさせる。』〔『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』284〕そのような状況においてどう反応するか,それがわたしたちの主に対する責任なのです。」(「的のかなたに目を向ける」『リアホナ』2003年3月号,24)
2コリント3:6-17。新しい聖約についてのエレミヤの預言が成就した
2コリント3:6や14節で「契約(testament)」と訳されているギリシャ語のdiathēkēsのおもな意味は「聖約」です。このため,パウロはこの言葉を使ったとき,特に新約聖書(New Testament)に言及していたのではなく,イエス・キリストの福音の新しい聖約に言及していました。「古い契約を朗読する」と言ったとき(2コリント3:14),パウロはキリスト教徒が旧約聖書と呼んだ書物に記された古い聖約,つまりモーセの律法に言及していました。
新しい聖約が人の心に書かれると教えたとき(2コリント3:3参照),パウロはエレミヤの預言の成就を指摘しました。「主は言われる,見よ,わたしがイスラエルの家……に新しい契約を立てる日が来る。……わたしは,わたしの律法を彼らのうちに置き,その心にしるす。わたしは彼らの神となり,彼らはわたしの民となる……。」(エレミヤ31:31,33)また,モーセの顔の「おおい」と,聖文を読むときの人の心の「おおい」について話したときに,旧約聖書の比喩を用いました(2コリント3:13-16。出エジプト34:29-35も参照)。パウロの時代,イスラエルはモーセの律法への理解において「思いは鈍くなっていた」と教えました(2コリント3:14。ローマ11:7,25も参照)。
2コリント3:16のジョセフ・スミス訳では,「〔イスラエルの子らの〕心が主に向くときには,〔誤解の〕覆いは取り除かれる」となっています(ジョセフ・スミス訳2コリント3:16〔英文〕から和訳)。これは,主に心を向ける人全員に当てはまります。御霊は聖文と福音を完全に理解できるようにしてくださるからです(2コリント3:16-17;ジョセフ・スミス—歴史1:73-74参照)。
2コリント3:12。こうした望みをいだいている
望みの教義について読むには,へブル6:11,18-19の解説を参照してください。
2コリント3:17。主の御霊は自由をもたらす
パウロは,無知の覆いが心から取り去られるとき,主の御霊がわたしたちの生活に自由をもたらしてくれると教えました(2コリント3:17参照)。イエス・キリストの福音に従う人々は,サタンに捕らわれている状態から解放されます。ゴードン・B・ヒンクレー大管長は,次のように証しました。「福音は,非常に多くの人が考えているような,人を縛りつける哲学ではありません。それは自由を得させる計画であって,欲望を自制し,行動に方向性を与えるものです。その実は甘く,その報いは豊かです。」(in Conference Report, Apr. 1965, 78。ヨハネ8:30-32の解説も参照)
ブルース・R・マッコンキー長老は,選択の自由を失わせて自由を滅ぼそうとするのはサタンであり,神ではないと次のように教えました。「人は自由であるべきだという原則は,遠い昔から神とともに存在した永遠の原則です。神は,霊の子供たちが神に従うか,または神の律法に反抗してルシフェルとともに滅びに進むかを選べるように,〔前世において〕選択の自由の律法を定められました。次に,この世の試しにおいて,人は再度,選ぶ自由を与えられました。従順によって救いを得る,または不従順によって罰の定めを受ける自由です。サタンは常に人の選択の自由を失わせようとするので,教会と政府に影響を与え,礼拝の自由を拒絶するように,神の意思に反する行為を人に強要するようにします。自らの良心の命ずるところに従って神を礼拝する力を人から奪ったり,拒絶したりする政府と教会は,神によるものではありません。神の御霊の力によって導かれてはいません。」(Doctrinal New Testament Commentary, 2:415–16)
2コリント3:18。「同じ姿に変えられていく」
使徒パウロは,主の御霊がわたしたちの中で働くとき,わたしたちは「主と同じ姿に変えられ」(2コリント3:18),神に近づくと書きました。2コリント3:18にある「変えられ〔る〕」(metamorphoō)という言葉は,マタイ17:2とマルコ9:2では「姿が変り」と訳され,ローマ12:2で「造りかえられ」と訳されている言葉と同じものです。これは,劇的かつ根本的な変化である変容を示します。御霊は,神がわたしたちを神のような輝かしい存在に徐々に変えられる媒体です。アルマも同様に,わたしたちが神から霊的に生まれるとき,顔に神の面影を受けると教えました(アルマ5:14;ローマ8:29の解説参照)。
「栄光から栄光へ」という言葉は,「増加する栄光により」または「より高い栄光の階級へ」と訳すこともでき,したがって徐々に天の御父のようになる可能性を示唆しています。
さらに,わたしたちはキリストの子となるとき,霊的な御父であるイエス・キリストの面影,表情,そして特質を身につけ始めます(モーサヤ5:7参照)。
2コリント4:3-4。「この世の神」
「この世の神」とは,人の目をくらまし,霊的に迷った人から福音を隠すサタンです。ブルース・R・マッコンキー長老は,わたしたちがパウロの言及したことを理解できるように助けました。「この世とは,地上に住む人間の,肉欲や官能におぼれ,悪魔に従う社会です。それは,キリストが来られ,破滅,すなわち『世の終わり』〔ジョセフ・スミス—マタイ1:4〔英文〕から和訳〕に悪人が滅ぼされるまで続きます。」(Doctrinal New Testament Commentary, 2:417)
現代イスラエルの「土の器」(2コリント4:7)。パウロは自分自身と仲間の福音教導者を「輝く神の栄光の知識」という「宝」が入っている何の変哲もない土の器にたとえました(2コリント4:6-7)。謙遜で印象にも残らない宣教師たちと,彼らが持つ光,すなわちイエス・キリストの福音との対比によって,「測り知れない力は神のものであって,わたしたちから出たものでない」(2コリント4:7)という神聖な目的が明らかになると述べました。
2コリント4:5-10。「四方から患難を受けても窮しない」
パウロは自分自身と仲間の福音教導者を「輝く神の栄光の知識」という「宝」が入っている何の変哲もない土の器にたとえた(2コリント4:6-7)。謙遜で印象にも残らない宣教師たちと,彼らが持つ光,すなわちイエス・キリストの福音との対比によって,「測り知れない力は神のものであって,わたしたちから出たものでない」(2コリント4:7)という神聖な目的が明らかになると述べた。
2コリント4:8-10;6:4-10;11:23-33には,パウロが宣教師,そしてイエス・キリストの使徒として経験した数多くの危険についての話が載っています。危険の多くはきわめてひどいものでしたが,パウロはいつも神に支えられたおかげで神と聖徒たちに仕え続けることができたと証しました。ジェフリー・R・ホランド長老は,2コリント4:8-10にあるパウロの試練に関する描写を,救い主の大きな苦しみを説明するために用いることもできると次のように説明しました。「いつか〔わたしたちは〕イエスが受けられた不親切,拒否,不正,まさしく主が堪え忍ばれた不正を,当然のことながら思い起こすことでしょう。わたしたちもそのような経験を少しなりともするとき,キリストが,四方から艱難を受けても窮せず,途方に暮れても行き詰まらず,迫害に遭っても見捨てられず,倒されても滅びなかったことを思い起こすことができます(2コリント4:8-9参照)。」(「わたしを記念するため,このように行いなさい」『聖徒の道』1996年1月号,74)
大管長会のジョージ・A・スミス管長(1817-1875年)は,きわめて困難な状況にあったときに,いとこである預言者ジョセフ・スミスから,パウロの霊感を受けた言葉の精神にのっとった勧告を受けました。「ジョセフはわたしに,どのような困難に取り囲まれようとも,決して落胆してはいけないと言いました。ノバスコシアの炭鉱の底に沈められ,ロッキー山脈全体が頭上にのしかかってきたとしても,落胆せずに踏ん張り,信仰を働かせ,勇気を持ち続けるならば,ついには山の頂に出ることができるのです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』235)
2コリント4:17。現世の苦難を全体像の中で捉える
七十人のポール・V・ジョンソン長老は,わたしたちが現世における苦難を永遠の視点に立って見ることができるように,パウロの言葉を使いました。「使徒パウロは次のように教えました。『なぜなら,このしばらくの軽い患難は働いて,永遠の重い栄光を,あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。』〔2コリント4:17〕興味深いことに,パウロは『軽い患難』という言葉を用いました。その言葉の語り手は,なぐられ,石で打たれ,船が難破し,投獄され,そのほか多くの試練に遭いました〔2コリント11:23-28参照〕。わたしたちの多くが自分の苦難を軽いと考えるとは思えません。しかし,この世と永遠にわたって最終的に受ける祝福と成長に比べると,わたしたちの苦難はまったく軽いものです。」(「わたしたちを愛して下さったかたによって,勝ち得て余りがある」『リアホナ』2011年5月号,79。ローマ8:17の解説も参照)
ブリガム・ヤング大管長は次のように教えました。「栄光,不死不滅と永遠の命という冠を受けるすべての英知ある存在は,彼らが栄光と昇栄を得るために経験しなければならないすべての試練をくぐり抜けなければなりません。……アブラハムが得た栄光をわたしたちが得るには,アブラハムが取ったと同じ手段を取らなければなりません。わたしたちがエノク,ノア,メルキゼデク,アブラハム,イサク,ヤコブ,彼らの忠実な子供たち,忠実な預言者と使徒たちと交わるには,同じ経験をして,父なる神の日の栄えの王国に入るための備えとなる知識,英知,エンダウメントを受けなければなりません。……あなたがこれまでに堪え忍んできた試しと経験の一つ一つがあなたの救いに必要なのです。」(『歴代大管長の教え—ブリガム・ヤング』287-288)
2コリント5:1-4。復活した体を「上に着ようと……望みながら」
古代と現代のどちらにおいても,肉体は悪いものであり,肉体のない状態,すなわち霊だけで生きることが望ましいと誤って信じる人がいます。コリント人に手紙を書いたとき,パウロは死すべき体を捨てるのではなく,不死不滅の復活した体を「上に着〔る〕」という望みについて述べました(2コリント5:1-4。1コリント15:53も参照)。
中央若い女性会長として奉仕していたスーザン・W・タナー姉妹は,生まれたばかりの孫娘と,「清い肉体と結合したばかりの日の栄えの霊がいること」で感じた聖い気持ちについて次のように話しました。「わたしたちの体は神殿です。人に体があるということで,天の御父と人との相違点が広がるのではありません。そのことによってむしろ,人はもっと神に似ているのです。人は神の子供で,神の形に造られ,神のようになる可能性があることを証します。神聖な賜物である体を細心の注意を払って扱いましょう。いつの日か,ふさわしければ,わたしたちは栄光ある完全な体,生まれたばかりのわたしの孫娘のように純粋で清い体,分離しないように霊と結合した体を受けるでしょう。そして,長く待ち望んだ(教義と聖約138:50参照)その賜物を受けたことで再び喜び呼ばわるでしょう(ヨブ38:7参照)。」(「肉体の神聖さ」『リアホナ』2005年11月号,15)
2コリント5:6-7。「わたしたちは,見えるものによらないで,信仰によって歩いているのである」
パウロは,わたしたちが死すべき体にある間は「主から離れている」と教えました。これは現世では神の前にいないという意味です。この地上にいる間,わたしたちは「見えるものによらないで,信仰によって歩〔く〕」(2コリント5:6-7)必要があります。生まれたときに心に覆いがかけられ,前世の天の家についての記憶が隠されるのは神の計画の一部です。わたしたちは前世の記憶を持つことなく,学び,信仰によって生きようと努めます。ウィルフォード・ウッドラフ大管長(1807-1898年)が証したように,救い主が模範で示してくださった道をたどるならば,天の御父の最も豊かな祝福がわたしたちのものになります。
「幕の向こう側に行くときに,人は知識を得ることになります。そのときまでは,信仰によって生きるのです。しかし,まだ見ていない事柄にも,それが真実であるという証拠があります。復活も,永遠の裁きも,日の栄えの王国も,さらに,神殿の聖なる油注ぎとエンダウメントの中で神から授けられる大いなる祝福も,すべては未来に関するものです。そして,それはすべて永遠の真理なので,必ず成就します。肉にある間,肉の幕に覆われたままで,来るべき世で待ち受けているものを完全に理解することは決してないでしょう。しかし,この地上に住むわずかな期間に,神に仕え,神の戒めを守る人は皆,その報いを得るのです。」(『歴代大管長の教え—ウィルフォード・ウッドラフ』154)
2コリント5:10-11。わたしたちは裁かれるためにキリストの前に出る
この人生では信仰によって歩まなければならず,不死不滅の復活した体を得るように努めるべきであり,イエス・キリストに受け入れられるために働くべきであると教えた後(2コリント2:1-8参照),パウロは,わたしたち全員が,善と悪とを問わず,現世で行ったことを裁かれるためにキリストの前に立つと教えました(2コリント2:10参照)。パウロは,「主の恐るべきことを知っているので,人々に説き勧める」(2コリント5:11),つまり,パウロと同僚が,主を恐れて(崇敬して)いて,主に対して責任があることを知っているので,大いなる裁きの日に備えるよう人々を説得するために働いていると教えました。ブルース・R・マッコンキー長老は,裁きの日における救い主の役割について次のように書きました。
「御父ではなく御子が全地の裁き主ですが,御子の裁きは御父の御心に従って行われるため,公正です〔ヨハネ5:22,30参照〕。……
イエスは聖なる人の子であられるため,裁きを遂行する力,大いなる終わりの日に裁きの席に着く力,不死不滅の状態でイエスの法廷に立つようすべての人を呼び出す力を授かっておられます〔ヨハネ5:27参照〕。」(Doctrinal New Testament Commentary, 1:192, 195。ヨハネ5:22,27,30の解説も参照)
2コリント5:14-17。キリストにあって新しく造られた者
「救い主の衣のすそに触れる女」ジュディス・メアー画救い主の力が「長血をわずらって」いた女性を「救った」ように,救い主の贖罪には,贖罪を受け入れる人すべてを変える力がある(ルカ8:43-48)。
パウロは,イエス・キリストの贖罪がなければ,霊的に「すべての人が死んだ」と教えました。贖罪は,贖罪を受け入れるすべての人を変え,イエス・キリストに従うことを選ぶ人は「もはや自分のためにではなく,自分のために死んでよみがえったかたのために,生きる」ようになります。「新しく造られた者」になるのです(2コリント5:14-15,17)。十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は,キリストにあって「新しく造られた者」になることの意味を次のように教えました。
「イエス・キリストの福音の本質は,わたしたちの性質そのものを根本的かつ永遠に変えることです。それは救い主の贖罪によって可能となるのです。真の改心は,人の信条,心,生活に,神の御心を受け入れて従うという変化をもたらします(使徒3:19;3ニーファイ9:20参照)。それにはキリストの弟子になるという自発的な決意が伴います。
……わたしたちは救いと昇栄の儀式と聖約を尊び(教義と聖約20:25参照),『キリストを確固として信じ〔て〕……力強く進〔み〕』(2ニーファイ31:20),信仰をもって最後まで堪え忍ぶとき(教義と聖約14:7参照),キリストにあって新しく造られた者となります(2コリント5:17参照)。」(「主に帰依する」『リアホナ』2012年11月号,107)
2コリント5:18-21。「神の和解を受けなさい」
すべての人がその行為に責任を負っており,裁かれるためにいつの日かイエス・キリストの前に立つと教えた後で(2コリント5:9-11参照),パウロはキリストの贖罪を通じて神の和解を受けるようコリント人の聖徒に嘆願しました。イエス・キリストが完全に罪のない状態であられたことを明示する聖書の節は数節しかなく,2コリント5:21はそのうちの一つです(へブル4:14-15;7:26;1ペテロ2:22;1ヨハネ3:5も参照)。21節は,贖罪の目的と,神の和解を受ける方法に関する最も明瞭な聖句の一つでもあります。パウロは,「神はわたしたちの罪のために,罪を知らないかたを罪とされた。それは,わたしたちが,彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント5:21)と教えました。言い換えると,イエス・キリストの贖罪の結果として,イエスはわたしたちに「あなたの罪を取り去り,わたしの義を与える」と言うことがおできになるのです。イエス・キリストは,わたしたちの罪に対する身代わりの犠牲となられました。これは,罪を犯したことは一度もなかったにもかかわらず,わたしたちの罪のすべての責めが課せられ,イエスがそれらを背負われたことを意味します。わたしたちはこの大いなる犠牲のおかげで,悔い改めを条件として救い主の義にあずかることができるのです。
ブルース・R・マッコンキー長老は,和解についてのパウロの教えを次のように説明しました。「和解とは,人を罪と霊的な暗闇の状態から解放し,神と調和し,一致した状態に復帰させる過程です。それにより,神と人は敵ではなくなります。かつては肉欲に従って悪い生活をし,この世的な生き方をしていた人が,聖霊によって新しく造られた者となり,生まれ変わります。そして幼子のように,キリストによって生かされるのです。」(Doctrinal New Testament Commentary, 2:422–23。ローマ5:11の解説も参照)