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ヨハネ14-16章
ヨハネ14-16章の紹介とタイムライン
現世における務めの最後の夜,最後の晩餐が終わってから,救い主はヨハネ14-16章に記録されているように,弟子たちに教えを授けられました。そのとき,救い主は弟子たちに愛,従順,そして聖霊に関する重要な真理を教えられました。その真理とは,主が捕らえられ十字架へはりつけにされることに対して弟子たちを備えるだけでなく,主の王国における指導者としての役割にも弟子たちを備えるものでした。十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,このときの主の教えには「主の王国の奥義の一部,深く隠された教義の一部,御霊の力によってのみ理解できる幾つかの事柄」が含まれていると指摘しています(The Mortal Messiah: From Bethlehem to Calvary, 4 vols. [1979–81], 4:73)。聖霊がわたしたちのためにおできになることについての救い主の教えは,すべての聖文における聖霊に関する最も明白な説明の中の一つです。
ヨハネ14-16章の解説
ヨハネ14:1-3。「わたしの父の家には,すまいがたくさんある」
預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,ヨハネ14:2に記された「わたしの父の家には,すまいがたくさんある」という救い主の言葉は,次のような意味に理解すべきだと教えています。「『わたしの父の王国には,王国がたくさんある。』あなたがたは神の相続人となり,わたしと共同の相続人になるためである。……日の栄えの律法に従う人々のために住まいがあります。その律法に従わない人々のために別の住まいがあります。すべての人が自分の位に入るのです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』219)
十二使徒定員会のクエンティン・L・クック長老は,救いの計画の一環として,救い主はすべての人類のために「すまい〔を〕たくさん」すなわち栄光の王国を備えられたのだと説明しています。
「ジョセフ・スミスが啓示を受けて教会を組織したころ,当時の大多数の〔キリスト教の〕教会が,救い主の贖いは人類のほとんどを救うことはないだろうと教えていました。一般的に教えられていたのは,ごく少数の人だけが救われて,ほとんどの人が最も残酷で,言葉で表せないほど激しい,終わりのない苦痛を受けるように運命づけられているというものでした。預言者ジョセフに明らかにされたすばらしい教義によって,この世の生涯でキリストについて聞くことのない人や,責任を持てる年齢に達する前に亡くなった子供,理解する能力のない人をも含む全人類のための救いの計画が示されました。
……イエス・キリストの贖いのおかげで,この世に生まれたすべての霊は最終的に復活して霊と肉体が再び結合し,現世よりも優れた栄光の王国を受け継ぎます〔教義と聖約76:89参照〕。例外となるのは,サタンとその霊たちのように自ら神に反抗する人々です〔イザヤ14:12-15;ルカ10:18;黙示12:7-9;教義と聖約76:32-37参照〕。」(「御父の計画—すべての子供たちを救う壮大なもの」『リアホナ』2009年5月号,36-37)
聖書のジョセフ・スミス訳では,ならばという言葉をときに変えることによって,救い主の意図を明確にしています。「そして,行って,わたしがあなたがたのために場所の用意をするとき,またきて,あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ジョセフ・スミス訳ヨハネ14:3〔英文〕から和訳)
ヨハネ14:6。「わたしは道であり,真理であり,命である」
イエスは弟子たちに言われました。『わたしは道であり,真理であり,命である。だれでもわたしによらないでは,父のみもとに行くことはできない。』(ヨハネ14:6)主は道を知っているとはおっしゃいませんでした。主こそが道であり,真理であり,命であったのです。御父のもとに行くということは,イエス・キリストについて学ぶ以上のことをしなければならないことを意味します。すなわち,主に従い,主のようになるよう努めなければならないのです。「道」(ギリシャ語でhodos)は,ある場所から別の場所へ移動するための道路または幹線道路ですが,人の行動過程や「生き方」を指すこともあります。ブルース・R・マッコンキー長老は,ヨハネ14:6の重要性について次のように詳しく説明しています。「救いが主にあり,主によってもたらされることから,主は道なのであり,主は『だれでもわたしによらないでは,父のみもとに行くことはできない』と言われた。(ヨハネ14:6)。主は神聖な属性が具現化されたお方であり,神聖な属性そのものであることから真理である。(アルマ5:48)。そして,命のよりどころとなる光が主の内にあり,主と主の力によらなければ何も存在せず,主が命の光を隠されるとたちどころに死が勝利を得,主によらなければ不死不滅の命も終わりのない栄光に満ちた永遠の命もないことから,命なのである。」(Mormon Doctrine, 2nd ed. [1966], 832)
Shepherd’s View of Bethlehem, by Al Rounds.イエスは,この道のイラストに象徴されるように,御自身を「道」であると教えられた。
七十人のローレンス・E・コーブリッジ長老は,ヨハネ14:6を引用し,「道」としてイエス・キリストに従うよう勧めています。
「幸福と充足感を得る道はただ一つです。主がその道です。ほかの道は,どのような道であれ愚かな道です。……
一つは,主に従い,主の力を授かり,平安,光,強さ,知識,確信,導き,愛,喜びを得る道です。もう一つは,どのような道であれ他の方向へ進み,主の支えや力,導きを受けずに,混乱と疑惑,悲痛と絶望の中を孤独に生きる道です。どちらの道がたやすいでしょうか。……
幸福と充足感を得る道はただ一つです。イエス・キリストがその道です。」(「道」『リアホナ』2008年11月号,34,36)
ヨハネ14:7-11;16:25。「わたしを見た者は,父を見たのである」
ヨハネによる福音書は,イエス・キリストが教えられるとき,しばしば御父について言及されたことを記録しています。ヨハネの14-16章には,御父に対する40以上の言及が含まれています。イエスは御自分に従う者たちに,御自分が御父を愛し,尊敬し,すべてのことにおいて御父に従順であることを知ってほしかったのです。イエスは,ピリポの「わたしたちに父を示して下さい」という嘆願にこたえて,主を知ることは御父を知ることでもあると説明されました(ヨハネ14:8-11参照)。十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,天の御父はわたしたちが御父を愛し,御父に従い,御父を知るのを助けるために,御子を遣わされたと教えました。
「救い主は,特に贖罪の苦しみと犠牲によって,また地上に来て,語り,行われたすべての事柄を通して,永遠の父なる神とはどのような御方なのか,御父が,あらゆる時代と国に住む御自身の子供たちをどれほど深く愛しておられるのかを示してこられたのです。御子は言葉と行いにより,御自分の父親であられる天の御父の本質を明らかにし,御父の本質を人が自分で理解できるよう努めておられたのです。
主がそうされた理由の少なくとも一つは,時代を問わず,人はだれでも神をさらに愛し,完全に従うようになるには,神についてよく知る必要があるからです。……
そのため神は,人に神のことを知らせる究極の方法として,御自身の御姿に似せて造られた,独り子である完全な御子を地上に送られました。御子は日々の厳しい生活の中で,人とともに暮らし,奉仕されたのです。……
イエスは,……これまでも,そしてこれからも,常に愛してくださる御父を愛するよう人に説き勧めるために来られたのです。神の計画,神の御力,神の神聖さ,そればかりか神の怒りと裁きさえ理解する機会はありました。しかしキリストがおいでになるまで,神の愛,御自分の子供たちへの御父の深遠なる献身を,その子供たちはまだ十分に気づいていなかったのです。
キリストは飢えている人に食べさせ,病人を癒し,偽善者を叱責し,信仰の道を説き勧めることにより,御父がどのような御方であるかを示されたのです。御父はまた,『慈悲と恵みに満ち,怒るに遅く,長く堪え忍び,慈しみ深い』 御方です〔Lectures on Faith (1985), 42〕。御自身の生涯,中でも特にその死を通して,キリストはこのように宣言しておられます。『わたしはここに神の哀れみを示す。またこれはわたし自身の哀れみでもある。』」(「偉大な神の性質」『リアホナ』2003年11月号,70-72)
イエス・キリストが父なる神はどのような御方であるかを人類に示して来られた方法に関するさらなる洞察については,ヨハネ1:18の解説を参照してください。
God the Father and Jesus Christ, by Del Parson
ジョセフ・F・スミス大管長(1838-1918年)は,「わたしを見た者は,父を見たのである」という言葉の意味をさらに次のように説明しています。「神の御子イエス・キリストは御父の『本質の真の姿』です(へブル1:3)。イエスは一人の人間として,しかも完全な人として地上を歩まれました。質問を受けたイエスはこのように答えられました。『わたしを見た者は,父を見たのである。』(ヨハネ14:9)この答えだけでも,思慮深い,敬虔な思いを持つすべての人を満足させることができるはずです。この結論に異議を挟む余地はありません。神の御子が御父の本質の真の姿(似ていること)であるとすれば,御父も人の形をしておられることになります。なぜならば,神の御子はこの世に誕生されたときだけでなく,前世においても,そして復活後も人の形をしておられたからです。14歳の少年ジョセフ・スミスが最初の示現を受けたとき,御父と御子がそれぞれジョセフの前に御姿を現されたのは,まさしく人の姿だったのです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・F・スミス』334)
ヨハネ14:12。「もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」
イエス・キリストを信じる者がイエスの行われた業よりも大きなことをする,と言う人がいたら驚くかもしれません。しかし,信仰に関する講話(Lectures on Faith)は,この言葉がヨハネ17:20-24にある救い主の教えに関連させることでさらによく理解できることを示唆しています。「これらの聖句を合わせると,これ以上ないほど明白な言葉で,栄光を受けた聖徒の状態が説明されている。すなわち,聖徒たちはイエスがなさった御業を行い,イエスが彼らの中で行われた御業以上の業を行うのである。というのも,主が御父のみもとに行かれたからである。主は,彼らがこの世でこれらの業を行うと言われたのではなく,主が御父のみもとに行かれたので,彼らがより大いなる業を行うであろうと言われたのである。……主の御名を信じる者が行うことになるさらに大いなる業は,主が行こうとされていた永遠の世界,聖徒たちが主の栄光を目の当たりにする永遠の世界において行われるのである。」(Lectures on Faith, 77–78)
ヨハネ14:15。「もしあなたがたがわたしを愛するならば,わたしのいましめを守るべきである」
救い主の弟子たちに対する「もしあなたがたがわたしを愛するならば,わたしのいましめを守るべきである」(ヨハネ14:15)という言葉は,主の戒めを守ることによって,イエス・キリストに対する愛を示すことができると教えています。十二使徒定員会のジョセフ・B・ワースリン長老(1917-2008年)は,次のように説明しています。「主を愛するなら,従順は重荷ではなく,喜びになります。」(「いちばん大切な戒め」『リアホナ』2007年11月号,30)
ヨハネ14:16-23,26;15:26;16:7。「助け主」という聖霊とイエス・キリストの称号
新約聖書では,欽定訳で「Comforter」と翻訳されているギリシャ語の「paraklētos」という言葉は,ヨハネによる記述の中にのみ現れています。その言葉は「傍ら」を意味するparaと,「招かれた人」を意味するklētosとで構成されています。paraklētosとは,助け人,仲保者,または執り成す者として,だれかの傍らに招かれた人のことです。ヨハネが書いたものでは,paraklētosという称号は,御二方,すなわち,聖霊とイエス・キリストに用いられています。救い主は,御自分が去って行かれた後,弟子たちがほうっておかれることはなく,彼らを助けるために聖霊を伴侶として遣わすと約束されました(ヨハネ14:16,26;15:26;16:7参照)。弟子たちに聖霊を「別〔の〕助け主」(ヨハネ14:16;強調付加)として与えると約束されたことから,救い主御自身もまた助け主であったことになります。預言者ジョセフ・スミスは,御二人の慰め主について次のように語っています。
「言及されている慰め主は二人の御方です。一人は聖霊で,五旬節の日に与えられたものであり,信仰,悔い改め,そしてバプテスマの後にすべての聖徒が受けます。この最初の慰め主〔とは〕聖霊です。……
もう一人の慰め主は,大きな関心の的であり,恐らく今の世代にはあまり理解されなていないと思われます。キリストを信じる信仰を持ち,自分の罪を悔い改め,罪の赦しのためのバプテスマを受けて,(按手によって)第一の慰め主である聖霊を受けたら,続けて神の前にへりくだり,飢え渇くように義を求め,神の一つ一つの言葉によって生活してください。そうすれば主は間もなくその人に,『息子よ,あなたは昇栄するであろう』と言われるでしょう。主によって完全に試され,どんな困難にあっても主に仕えると決心していることが明らかになったとき,その人は自分の召しと選びとが確かなものとなったことを知るでしょう。そうすると,その人はもう一人の慰め主を受ける特権を得ます。この慰め主は,ヨハネ14章の12節から27節にある聖ヨハネの証に記録されているとおり,主が聖徒たちに約束された慰め主です。
16,17,18,21,23節に留意してください。……
さて,このもう一人の慰め主とはどなたでしょうか。それは主イエス・キリスト御自身にほかなりません。そして,これはすべての事柄の要点です。この最後の慰め主を受ける人は,イエス・キリスト御自身の訪れもしくは現れを時折受けます。そして主は御父を彼に現され,御二方は彼とともに住まうことでしょう。そして天の示現が彼に開かれ,主は直接彼を教えてくださいます。彼は神の王国の奥義に関する完全な知識を持つことが許されます。」(in History of the Church, 3:380–81)
ヨハネ14:18,23。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」
救い主は,亡くなる前の夕べに,しばらく弟子たちのもとを離れることになると繰り返し話しておられましたが,主はまた,彼らを捨てていないことを伝えて弟子たちを安心させられました。主は次のように言われました。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。」(ヨハネ14:18)ジェフリー・R・ホランド長老は,現世の旅路を行く弟子たちのために,主が慰めと同伴者を提供される様々な方法について次のように教えています。
「イエスがただ御独りでそのような長く孤独な道を歩まれたおかげで,わたしたちはそうする必要がないということです。イエスの孤独な旅は,その縮小版であるわたしたちの旅路に大いなる同伴者,すなわち天の御父の憐れみ深い御手,常に近くにいてくださる愛子,聖霊の大いなる賜物,天使たち,幕の両側にいる家族,預言者と使徒,教師,指導者,友人を与えてくれました。イエス・キリストの贖いと主の福音の回復により,これらだけでなく,さらに多くの同伴者がこの世の旅路をともに歩んでくれるのです。カルバリの出来事のおかげで,たとえ孤独を感じることがあっても,決して独りではなく,助けの手が差し伸べられるという真理をわたしたちは知っています。全人類の贖い主は確かに次のように言われたのです。『わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。〔御父とわたしは〕あなたがたのところに帰って来〔て,あなたとともに住まうであろう〕〔ヨハネ14:18;23節も参照〕。」(「だれも主とともにいなかった」『リアホナ』2009年5月号,88参照)
ヨハネ14:26。「あなたがたにすべてのことを教え,……ことごとく思い起こさせるであろう」
救い主が死の直前に弟子たちを教えられたとき,神が聖霊を遣わし,「あなたがたにすべてのことを教え,……ことごとく思い起こさせる」と約束されました(ヨハネ14:26)。聖霊の重要な二つの役割は,わたしたちを教えることと,わたしたちが学んだことを思い起こさせることです。ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は次のように教えています。
「聖霊は真理を証される御方です。聖霊は,人々が互いに教えることのできない事柄を教えてくださいます。……モロナイはこう宣言〔しました。〕『そして聖霊の力によって,あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。』(モロナイ10:4-5)」(「御父と御子と聖霊」『聖徒の道』1998年3月号,8)
七十人の一員として奉仕中,グレン・L・ペイス長老は,わたしたちにもたらされる霊的な証は,時には,聖霊が思い起こすよう助けてくださった真理であると教えています。「〔霊的な証〕を感じると,何かの記憶がよみがえったような気持ちになることがあります。わたしたちは最初,天の家で福音を学びました。そしてこの地上に来るときに忘却の幕を通りましたが,わたしたちの霊にはその記憶が眠ったまま残っています。聖霊はこの幕を開き,これらの記憶を眠りから呼び覚ますことがおできになります。」(「あなたは知っていますか」『リアホナ』2007年5月,79)
ヨハネ14:27;16:33。「わたしは平安をあなたがたに残して行く」
救い主が現世での生涯の終わりに向き合われたとき,主は,御自分の弟子たちがその後数年にわたり多くの困難な試練に直面することを御存じでした。主は弟子たちへの最後の説教の一部として,主の平安を約束し,悩んだりおじけたりしないように告げられました(ヨハネ14:27;16:33参照)。十二使徒定員会のM・ラッセル・バラード長老は,まことの平安を得る唯一の方法は,救い主を信じる信仰によると説明しています。
「栄えある,しかし壮絶な贖いの業が始まる数時間前,主イエス・キリストは使徒たちに重要な約束をされました。『わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。』(ヨハネ14:27)
主は愛する弟子たちに,ごく一般的な平安,つまり安全で,争いや混乱のない状態を与えると約束されたのでしょうか。歴史を見れば,そうでないことは明白です。最初に召された使徒たちは,その後の生涯を通じて多くの試しに遭いました。主が先ほどの約束に次のように付け加えられたのは恐らくそのためだと思われます。『わたしが与えるのは,世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな,またおじけるな。』(ヨハネ14:27)
さらにこう続きます。『これらのことをあなたがたに話したのは,わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは,この世ではなやみがある。しかし,勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。』(ヨハネ16:33;強調付加)
心の底から感じられる真の平安は,主イエス・キリストを信じる信仰によってしか得られません。」(「王国にかかわる平和をもたらす事柄」『リアホナ』2002年7月号,99)
ハワード・W・ハンター大管長(1907-1995年)は,試練のさなかに平安を得る方法の例として,わたしたちは救い主に目を向けることができると述べています。
「わたしたちは皆,人生において何らかの逆境を経験します。わたしたちがそう確信するのはもっともなことです。中には激しく,悲惨で,破壊的なものもあるでしょう。中には,わたしたちを救済する力のある愛に満ちた神を信じる信仰を弱めるものさえあるかもしれません。……
イエスはこう言われました。『あなたがたは,この世ではなやみがある。しかし,勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。』(ヨハネ16:33)また,同じときにこうも言われました。『わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは,世が与えるようなものとは異なる。』(ヨハネ14:27)主はその生涯とみ業を通して,平安について語られました。また,墓から出て弟子たちに姿を現されたとき,最初に言われた言葉は『安かれ』でした(ヨハネ20:19)。
しかし,イエスは悲しみや苦痛,苦悩や打たれることから免れることはありませんでした。主が背負われた言語に絶する重荷を語れる人はだれもいません。また,わたしたちには預言者イザヤがイエスを『悲しみの人』と表現した意味を理解する知恵もありません(イザヤ53:3)。イエスの舟はその生涯の大半荒波にもまれ,少なくともこの世的な観点からすれば,カルバリという苦難の岸に打ちつけられて砕け散ってしまいました。わたしたちはこの世的な目で人生を見ないように言われています。霊的な目で見れば,十字架上でまったく別のことが起きていたことが分かります。
どんなにすさまじい嵐が荒れ狂っていても,救い主の心と言葉は平安に満ちていました。そのようにわたしたちの心の中……にも,平安がありますように。」(「主よ,暴風すさび」『聖徒の道』1985年1月号,35-36参照)
ヨハネ14:28-31。二階の広間での結びの言葉
最後の晩餐が行われた二階の広間を去る前,イエスは使徒たちに,御自分は彼らのもとを去って御父のもとに行くが,もう一度彼らのところに帰って来ることを再び思い起こさせられました(ヨハネ14:28参照)。これは,復活に続く主の務めを指しています。主は,ルシフェルには御自分を支配する力はないと証されました(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」ヨハネ14:30参照)。主が御父を愛しておられることを全世界が知るために,主は地上での務めを全うすることを宣言されました(ヨハネ14:31参照)。救い主の最後の教えの残りの部分は,一同がゲツセマネに向かって行ったときに与えられました。
ヨハネ15:1-8。「わたしはまことのぶどうの木」
弟子たちに御自分との関係について教えるために,救い主はぶどうの木というたとえを用いられました。イスラエルの預言者は,弟子たちが容易に理解できるように,ぶどうの木やぶどう園をたとえとしてよく用いました(イザヤ5:1-7;エレミヤ2:21;ホセア10:1;ヤコブ5章参照)。十二使徒定員会のジェームズ・E・タルメージ長老(1862-1933年)は,地上に住むすべての人が主に依存しているのと同じように,弟子たちがイエス・キリストに完全に依存していることを,どのように救い主のぶどうと枝の比喩が教えているかについて,次のように説明しています。
「これほど崇高な『類推』は,世界のどんな文学にも見当たらない。主イエスによって聖任されたこれらの僕も,ぶどうの木から切り離された枝が無力であり,無益であるのと同じように,主がおられなければ無力であり,無益である。ぶどうの枝は根を張っている幹から栄養のある樹液を受けて初めて実をならせるが,もし幹から切り離されるか折り取られれば,枯れしぼみ乾き切って,焼いて薪にするほかまったくしようのないものとなる。これと同じように,これらの人々(使徒たち)も,神の使徒職に聖任されているとはいえ,主イエスと絶えず変わらない交通を保っているときに初めて強くなり,善い業の実を結ぶことができるのである。イエス・キリストがおられなければ彼らは何者であったか。彼らは無学なガリラヤ人にすぎず,数人が漁師で,一人が取税人で,残りの者は何ら目立った学識もなく,すべて弱い人間ではなかったか。」(『キリスト・イエス』第3版,586-587)
「枝がぶどうの木につながっていなければ,自分だけでは実を結ぶことができないように,あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。」(ヨハネ15:4)
ヨハネ15:4-5。「わたしにつながっていなさい。……わたしから離れては,あなたがたは何一つできないからである」
救い主がぶどうと枝のたとえを用いて教えられたとき,主はヨハネ15:1-10で繰り返しつながってという言葉を用いて,わたしたちが主に「つながって」いるべきであることを強調されました。救い主によって教えられたこの概念を理解するのを助けるために,ジェフリー・R・ホランド長老は以下のように説明しています。
「『わたしにつながっていなさい』(Abide in me)〔ヨハネ15:4〕は,欽定訳聖書の上品な英語で語られた,分かりやすい美しい概念ではありますが,『abide』という言葉は現代ではあまり使われていません。ですからこの表現を別の言語で知ったとき,この主の勧告に対する感謝の念が深まりました。この言い回しはスペイン語で『ペルマネセーデンミ』(permanced en mi )と言います。『ペルマネセール』(permanecer)は英語の動詞『abide』と同じく,『とどまる,滞在する』という意味です。しかしわたしのような外国人でも,この言葉の語源が,英語の『permanence』つまり『永久』と同じであることが分かります。つまり『永久にとどまる』というニュアンスになります。これは……世界中のすべての人に対する福音のメッセージの呼びかけです。来てください,そしてとどまってください。確信と忍耐をもって来てください。皆さん自身のためにも,そして皆さんに続く後のあらゆる世代の人たちのためにも,永久にとどまるつもりで来てください。……
イエスは言われました。『わたしから離れては,あなたがたは何一つできない……。』〔ヨハネ15:5〕この言葉が神の真理であることを証します。わたしたちにとってキリストはすべてであり,わたしたちはいつまでも,揺らぐことなく,確固として,永遠にイエスにつながっていなければならないのです。福音が実を結び,生活に恵みを与えるようになるためには,人類の救い主である主と,その聖なる御名を冠した主の教会とにしっかりとつながっていなければなりません。主はぶどうの木であり,強さの源,そして永遠の命の唯一の源です。」(「わたしにつながっていなさい」『リアホナ』2004年5月号,32)
ヨハネ15:10。「もしわたしのいましめを守るならば,あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」
ヨハネ15:10に記録されているように,イエスは弟子たちに,もし主の戒めを守るならば,彼らは御自分の愛のうちにいることを約束されました(ヨハネ14:15,21,23参照)。今日,主は同様の約束をされています。「神の戒めを忠実かつ熱心に守りなさい。そうすれば,わたしはあなたをわたしの愛の腕の中に抱くであろう。」(教義と聖約6:20)
神はその子供たちに対してそのように大いなる愛をお持ちなので,神の戒めを守るかどうかは問題ではないと感じている人々もいます。彼らは,神の愛によって,律法に従わなくても赦してもらえると感じています。十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,神はすべての子供たちを愛しておられ,神の普遍的な愛によってすべての子供たちに多くの賜物が与えられると説明しています。しかし,神の「選りすぐりの祝福」を受けるためには,神の戒めを守らなければなりません。
「神の愛は完全であり,そのために神は愛を込めて,戒めに従うことを求められるのです。なぜなら律法に従うことよってのみ,わたしたちは,神が現在完全であられるように完全な状態に変われるからです。……
神の選りすぐりの祝福が神の律法と戒めに従うときに与えられることは明らかです。現代の啓示から重要な教えを学べます。
『創世の前に天において定められた不変の律法があり,すべての祝福はこれに基づいている。
すなわち,神から祝福を受けるときは,それが基づく律法に従うことによるのである。』(教義と聖約130:20-21)……
イエスの教えを理解している人であれば,愛にあふれた天の御父と神の御子が愛は戒めに取って代わると信じておられるなどと結論づけることはあり得ません。」(「愛と律法」『リアホナ』2009年11月号,27-28)
ヨハネ15:13-15。イエス・キリストはまことの友情の模範である
救い主の苦しみと死の時が近づいたとき,主は愛する弟子たちに,彼らは御自分の友であると述べ,友とは「わたしが命じることを行う」人々であると説明されました(ヨハネ15:14)。弟子たちに対する主の言葉はまた,まことの友情の模範者として,主が全人類のために行われる大いなる犠牲も予示していました。主は弟子たちに次のように説明されました:「人がその友のために自分の命を捨てること,これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)これは主がしようとしておられたことです。ゴードン・B・ヒンクレー大管長は,わたしたちに対する友情の究極の行為として行われた救い主の犠牲について次のように話しています。「イエスはわたしの友です。イエスはだれよりも多くのものを与えてくださいました。『人がその友のために自分の命を捨てること,これよりも大きな愛はない。』(ヨハネ15:13)イエスはわたしのために命を捨ててくださいました。永遠の命に至る道を開いてくださいました。これができるのは神をおいてほかにいません。わたしは,イエスの友としてふさわしいと思われる人物でありたいと願っています。 」(「わたしの証」『リアホナ』2000年7月号,85)
七十人会長会で奉仕をしているとき,マーリン・K・ジェンセン長老は,ヨハネ15:13-14に記された救い主の言葉に言及し,教会の会員たちに,救い主のまことの友情の模範に従うよう勧めています。「わたしはこれまでキリストの友情により豊かに祝福されてきました。キリストがわたしたちにとってかけがえのない存在,すなわち真の友であられるように,わたしたちも人々に対して,そのような存在となれるようお祈りします。わたしたちが友となるとき以上に,キリストのようになるときはありません。わたしは,……友人には計り知れない価値があることを証し……ます。献身的に友情を示すとき,わたしたちは神の業,そして神の子供たちの幸福と進歩のために最も意義ある貢献をしているのです。」(「友情—福音の原則」『リアホナ』1999年7月号,76)
Christ Ordaining the Twelve Apostles, by Harry Anderson
ヨハネ15:16。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして,あなたがたを立てた」
ヨハネ15:16は,宗務上の権能の教義に関する重要な聖句です。この節の救い主の言葉は,主の教会において,様々な役職で奉仕するためにだれが召され,任命されるのかを決定する者が主であることを示しています。ゴードン・B・ヒンクレー大管長は,この原則が現在の教会の指導者にどのように反映されているかを次のように語っています。
「この教会の忠実な会員であれば, 自分から教会の召しに立候補するなど考えもしないでしょう。むしろ,『わたしたちは,福音を宣べ伝え,その儀式を執行するためには,人は預言によって,また権能を持つ者による按手によって,神から召されなければならないと信じる」と言うはずです(信仰箇条1:5)。
主は, ご自身でお選びになった十二使徒についてこうおっしゃっています。『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして,あなたがたを立てた。』(ヨハネ15:16)」(「教会は正しい方向に進んでいます」『聖徒の道』1993年1月号,64)
ヨハネ15:18-21。「あなたがたはこの世のものではない。……人々〔は〕……あなたがたをも迫害するであろう」
救い主は弟子たちに,主に従う者は,「わたしをつかわされたかたを……知らない」人々から,この世ではしばしば迫害に遭うであろうと警告されました(ヨハネ15:21)。十二使徒定員会のロバート・D・ヘイルズ長老は,批判や迫害にどのように対応するかについて,次のように勧告しています。
「信仰を問題視されたり批判されたりするのは,この世の大きな試しの一つです。そのようなときに,議論に備えて強気の構えをしたくなるかもしれません。しかし,そのようなときこそ,思慮深くあり,祈り,救い主の模範に従う大切な機会なのです。思い出してください。イエス御自身も世からさげすまれ,拒まれました。……非難する相手に救い主のように応じることは,わたしたちがキリストに似た者となるだけでなく,人々が主の愛を感じて主に従うように手を差し伸べることを意味しているのです。
キリストのように応じるための脚本や公式はありません。救い主はそれぞれの状況に,異なった方法で応じられました。邪悪なヘロデ王に対峙したときには沈黙を保たれました。ピラトの前に立ったときは,御自身の神性と目的について簡潔かつ力強く証されました。神殿を汚した両替商には,その神聖さを守るために,神としての責任を果たされました。十字架にかけられたときには,キリストとしての比類ない言葉を口にされました。『父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。』(ルカ23:34)……
預言者ジョセフ・スミスは生涯を通して〔クリスチャンとしての〕勇気を示しました。……ジョセフは報復することも,憎むこともありませんでした。キリストの真の弟子は皆そうですが,寛容に,憐れみ深く愛することにより,ジョセフは救い主とともに立ちました。これこそクリスチャンらしい勇気なのです。
報復しないで,もう一方の頬を向け,怒りを抑えるとき,わたしたちも救い主とともに立っているのです。主の愛を示すことは,反対者の心を和らげ,非難してくる人に非難せずに応じる唯一の力です。それは弱さではありません。それこそクリスチャンらしい勇気なのです。」(「クリスチャンらしい勇気—弟子としての犠牲」『リアホナ』2008年11月号,72)
ヨハネ15:22-16:6。「父をもわたしをも知らないからである」
イエスは使徒たちに御自身の死と復活の後,彼らが聖霊の力をもって出て行き,主を証するであろうと宣言されました。弟子たちの救い主についての宣教と教えと証に対する反響はどのようなものとなったでしょうか。「人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな,それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。彼らがそのようなことをするのは,父をもわたしをも知らないからである。」(ヨハネ16:2-3)黙示録として知られている,世界の歴史についてのヨハネの広範囲な示現は,同様の悲劇的な出来事が,何世紀にもわたって続く大背教の一部であったことを伝えています(黙示6:9参照)。
ヨハネ16:12-13。「あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」
救い主の弟子たちに対する最後の教えが終わりに近づいたとき,主は,聖霊が来て彼らを「あらゆる真理に導いてくれる」と約束されました(ヨハネ16:13)。この言葉は,神の啓示はイエス・キリストの死では終わらないことを明らかにしています。聖霊はすべての神権時代において救い主のまことの教会を導き,また,真理を見いだし,神の御心に従って生活する努力をするよう個人をも導いてくださいます。
十二使徒定員会のリチャード・G・スコット長老は,聖霊がわたしたちを真理に導くよう求めなければならないと次のように説明しています。「天の御父は皆さんが問題に直面し,判断能力を超えた選択を迫られることがあるのを御存じでした。御父は幸福の計画の中で,皆さんがそのような現世での問題や選択に対処する際に助けを受けられる方法を用意されました。この助けは,聖霊を通して霊的な導きとして来ます。」(「霊的な導きを得るために」『リアホナ』2009年11月号,6)
ダリン・H・オークス長老は,聖霊がわたしたちを導いてくださるようにするために何をすべきかを次のように説明しています。「どうすれば『自分の導き手として聖なる御霊を受け』ることができるのでしょうか。戒めにあるとおりに毎週自分の罪を悔い改めて聖餐を受け,聖約を新たにすることです。清い手と純粋な心をもってこれを行うのです(教義と聖約59:8-9,12参照)。こうすることによってのみ,『いつも御子の御霊を受け』る(教義と聖約20:77)という神の約束が成就します。その御霊とは,わたしたちを教え,真理に導き,御父と御子を証する使命を持っておられる聖霊のことです(ヨハネ14:26;ヨハネ15:26;ヨハネ16:13;3ニーファイ11:32,36)。」(「欺かれてはならない」『リアホナ』2004年11月号,45-46)
The Gift of the Holy Ghost, by Lyle Beddes.聖霊の賜物は按手によって授けられる
ヨハネ16:20-22。「その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」
クエンティン・L・クック長老は,この世の試練はしばしば悲しみをもたらすと教えています。しかし,救い主の弟子たちがしたように,救い主がわたしたちのためになさったことを理解することを通して,わたしたちは大いなる永続的な喜びを見いだすことができます。
「わたしたちに喜びをもたらすような気持ちの源は,救いの計画を理解することにあります。ヨハネによる福音書の中に,救い主が世の罪を御自身に負われ,今まさにこの世での生涯を閉じようとしておられたときのことが記されています。来るべきことに使徒たちを備えさせていたとき,主はこのように言われました。『しばらくすれば,あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし,またしばらくすれば,わたしに会えるであろう。』(ヨハネ16:16)しかし使徒たちは復活がどのようなものかを深く理解するまでには至っていませんでした。そこで救い主は,御自身がやがて彼らのもとを去って行くことになるが,また戻って来るであろうということを優しく説明し,御自身が去ったときに彼らが感じる悲しみについて話されました。『しかし,わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして,あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。』(ヨハネ16:22)
救い主の死が,悲しみをもたらしたと同じように,死,病,貧困,けがといったような人生の浮き沈みもまたしばしばわたしたちに不幸をもたらします。愛する人との別れは,どのような場合でも悲しみや嘆きを運んできます。確かに生きていくのは易しいことではありませんが,多くの人が経験する試練を,たとえどのような方法であっても軽くしてしまうのは適当なことではありません。
救い主によって成就した復活と贖い,また愛する人々とともに永遠の命にあずかれるという約束はとても意義深いことです。それにもかかわらず喜びを感じられないというのは,救い主の贈り物に対する理解が欠けていることを表しているのではないでしょうか。
喜びは,わたしたちが神の御霊を受けて生活しているときにもたらされるものです(アルマ22:15参照)。わたしたちは,神の御霊を受けているとき,救い主がわたしたちのためになされた業に対して喜びを感じることができるのです。」(「喜びなさい」『リアホナ』1997年1月号,32)
ヨハネ16:25。「あからさまに,父のことをあなたがたに話してきかせる」
救い主が御父に関して明らかにされたことについてさらに読むには,ヨハネ14:7-11;16:25の解説を参照してください。
ヨハネ16:33。「勇気を出しなさい」
現世における務めが間もなく終わり,弟子たちが大きな試練に直面することを御存じであったので,救い主は弟子たちに「勇気を出しなさい」と諭し,また御自分が「世に勝っている」ことを覚えておくよう諭されました(ヨハネ16:33)。七十人定員会の一員として奉仕をしているとき,アデマール・ダミアニ長老は,勇気を出す,あるいは元気を出すことの意味について次のように説明しています。
「この試しの世の一部として,人は苦しみや痛み,落胆を経験します。イエス・キリストにあってのみ,平安が見いだせるのです。主は人を元気づけ,この世の試練をすべて乗り越えられるようにしてくださいます。
元気を出すとはどんな意味でしょうか。それは,希望を持ち,落胆せず,信仰を失わないで,喜びに満ちあふれて生活することです。『人が存在するのは喜びを得るため』です〔2ニーファイ2:25〕。元気を出すとは,自信を持って生きることです。
イエス・キリストの福音によって強さを得,永遠を見通す人は,未来に元気に立ち向かうことができます。」(「元気を出しなさい,逆境の中で忠実でありなさい」『リアホナ』2005年5月号,94)
イエス・キリストの福音は,悲しみを平安と喜びに取って換える助けとなる。
七十人会長会で奉仕しているとき,ジョー・J・クリステンセン長老は,「勇気を出しなさい」とは,主からの戒めであることを思い起こさせています。「あなたの霊性のレベルは,『勇気を出しなさい』と『心を高めて喜びなさい』(教義と聖約31:3)という主の戒めに,どれほどうまく従っているかにも直接関係しています。主は聖典の中で,何回勇気を出しなさいと命じられたでしょうか。主は,『すべてうまくいったら勇気を出しなさい,すべての請求書を支払うのに十分なお金があれば勇気を出しなさい,〔気分が良い〕なら勇気を出しなさい』などとおっしゃったわけではありません。そうではないのです。わたしたちにとって勇気を出しなさいとは,単なる提案ではなく,戒めです。」(“Ten Ideas to Increase Your Spirituality,” Ensign, Mar. 1999, 59)