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第38章:1コリント1-11章


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1コリント1-11章

使徒パウロからコリント人への第一の手紙の紹介

コリント人への第一の手紙を研究する理由

争い,疑念,不道徳のさなかにある現代の世の中で,信仰を持ち,従順に生きることは困難になりかねません。コリント人への第一の手紙の現代の読者は,コリントの聖徒に対するパウロの言葉に力を見いだすことができます。コリントの聖徒は住んでいた社会の不一致,偽りの教義,不道徳な悪事に苦しんでいました。パウロはこの手紙で,教会内の一致を促す方法,神にかかわる事柄を学ぶ方法,聖霊が宿る宮としての肉体の役割,霊的な賜物の性質,復活の現実性など,様々な福音のテーマを採り上げました。

コリント人への第一の手紙の著者

コリント人への第一の手紙の最初の節には,これが使徒パウロと,ソステネという名前の弟子によって送られたことが記されています(1コリント1:1参照)。ソステネはパウロの筆記者として働いていたと思われます。ソステネの役割について詳細は分かっていませんが,書簡の内容はパウロの手によるものであることは明らかです(1コリント16:21-24参照)。古代において手紙を書くときに筆記者を活用することについての詳細は,ローマ16:22の解説を参照してください。

コリント人への第一の手紙の書かれた場所と時期

パウロは3回目の伝道の旅の初期にエペソへ行き,そこで約3年間教えを説きました(使徒19:1020:31参照)。パウロがコリントの支部に手紙を書いたのはこの間のことでした。すなわち紀元54年から57年の間のある時期であり(1コリント16:8参照),コリント人への第一の手紙として知られる書簡もその中の一つです。この手紙は恐らく,福音書を含む新約聖書のほかのどの書よりも早く書かれたようです。これがほんとうならば,1コリント11:23-2615:3-4にあるパウロの短い言及,すなわち最後の晩餐,十字架の刑,イエス・キリストの復活への言及は,新約聖書の中でこれらの出来事について記した最も早い記述になります。

欽定訳聖書には,1コリント16:24の後にある記述のように,パウロの各手紙の結びに短い説明文が含まれています。これらの説明文はサブスクリプション〔訳注—英語で「末尾に書かれるもの」の意〕と呼ばれ,原典の一部ではありません。だれがこれらの説明文を書いたのか,これらがいつ新約聖書の写本に加えられたのかを判断できるだけの根拠はほとんどありませんが,おおかたの学者は,これらに含まれる情報の大部分が不正確であるという意見に賛同しています。

コリント人への第一の手紙の対象読者とその理由

パウロの時代,コリントはローマの属州であるアカヤの州都でした。アカヤは古代ギリシャのうちマケドニア以南の大部分を占めていました。コリントは盛んな貿易の中心地であったためローマ帝国全土から多くの人が集まり,地域で最も多様性に富んだ都市の一つでした。コリントの宗教文化では偶像礼拝が中心で,町の至る所に数々の神殿や祭壇がありました。パウロが務めを果たした時代,コリント人はきわめて不道徳な民として知られていました。例えば,アフロディーテの神殿では,儀式的な売春が行われたと伝えられています。

パウロは,2回目の伝道の旅の間,コリントにキリスト教の支部を設立しました(使徒18:1-18参照)。パウロはコリントに18か月とどまり,福音を宣べ伝え,教会を組織しました。その後,3度目の伝道の旅の間にエペソで教えを説いていたときに,コリントにいる教会員から知らせを受けました。パウロはコリントの支部に返事を書きましたが(1コリント5:9参照),その手紙は残念ながら紛失したため,聖書正典の一部を成してはいません。後に,パウロはコリントの教会員から,コリントの教会が抱える問題に関してまた別の報告を受けました(1コリント1:11参照)。したがって,コリント人への第一の手紙として知られる手紙は,実際にはコリントの教会員に対するパウロの2通目の手紙です。

コリントの会員からパウロが受け取った元の文書は紛失して久しいため,今日の読者はパウロの返答を研究して,その手紙が提起した実際の質問と問題を推測しなければなりません。コリント人への第一の手紙は,教会員の一致が欠如していたことと,一部の​異教徒​の​信仰と習慣が福音の原則と儀式の遵守に影響を及ぼし始めていたことを明らかにしています(1コリント1:116:1-810:20-2211:18-22参照)。

現代の読者は,男女の関係に関するパウロの助言(1コリント11:3, 8-9),髪の覆い(1コリント11:4-7),礼拝における女性の役割(1コリント14:34-35)など,コリント人への第一の手紙は部分的に分かりにくいと感じるかもしれません。パウロが当時コリント人の聖徒の間にあった具体的な問題を解決するよう指示していたことを覚えておくと,イエス・キリストに従う人全員に当てはまる,関連する福音の原則を認識するために役立ちます。

コリント人への第一の手紙の特徴

新約聖書に記されたパウロの勧告は,コリントの教会員にあてたものが,ほかのどの支部にあてたものよりもたくさんあります。実際,パウロのコリント人への二つの手紙は,現存するパウロの全文書の4分の1を占めます。パウロはコリント人への第一の手紙で,過去の信条と習慣に戻らないよう苦心していたコリントの改宗者を強めようとしました。この手紙で採り上げた数多くのテーマの中で,パウロはイエス・キリストの贖罪(1コリント1:17-18,306:207:23参照),救い主の死(1コリント1:232:2,88:1110:1611:2615:3参照),救い主の復活(1コリント6:1415:4-8,12-23,55-57参照),イエス・キリストが地上に最終的に戻られること(1コリント1:7-84:55:5参照)に焦点を当てました。

ローマ人とガラテヤ人に対するパウロの記述では,救いは律法に従うことによって得るものではないことが明白に教えられていますが,パウロはコリント人への第一の手紙でさらにその一歩先を行き,「神の戒めを守ること」(1コリント7:19)とキリストの律法(1コリント9:21参照)の大切さを強調しました。

概要

1コリント1-11章パウロはコリントの教会に集まる会衆の分裂について警告した。教会員の一致の大切さを強調した。性的不道徳について会員に警告し,体は聖霊の宿る宮であることを教え,自制を促した。結婚,聖餐の儀式(主の晩餐)に関する質問,異教徒の偶像に供えられた肉を食べることが容認されるかされないかという質問に答えた。

1コリント12-14章パウロは,御霊の賜物を「得ようと熱心に努め」るべきだと教えた(1コリント12:31)。ほかのすべての霊的な賜物における慈愛の卓越性を強調した。慈愛がほかのすべての霊的な賜物よりも卓越していることを強調した。使徒,預言者,教師の重要性について,また教会員は気遣い合うべきだということについて,コリント人の聖徒に思い起こさせた。「神は無秩序の神ではなく,平和の神である」(1コリント14:33)と教えた。

1コリント15-16章パウロは,自身は復活されたキリストの多くの証人の一人であると証した。すべての人が復活することを教え,死者のためのバプテスマによって将来の復活の真実性が確認できると教えた。復活した体は栄光の階級に応じて異なり,イエス・キリストの死に対する勝利が死のとげを取り除くと説明した。エルサレムの貧しい聖徒のために献金を募った。

〔古代の神殿の遺跡の画像〕

紀元前600年ごろに建てられたコリントのアポロ神殿。パウロの時代,恐らくコリントで最も立派な建築物の一つであった。異教徒の神の像を納めた神殿と聖堂は,古代ギリシャ・ローマ世界の至る所に存在した。

1コリント1-11章の紹介とタイムライン

3回目の伝道の旅の間,コリントの支部で起こった問題について知ったとき,パウロはエペソで働いていました。改宗したばかりのコリントの会員はきわめてこの世的な環境に住んでおり,中には正しい原則に従って生活することに苦慮する者もいました。パウロはこれに対応するため,聖徒の福音への理解を深める目的で多様な教義を教えました。「キリスト・イエスにあってきよめられ」「聖徒として召された」ことを思い起こさせました(1コリント1:2)。そのため会員たちは自らの間の分争をなくさなければならず(1コリント1:10-16参照),神にかかわる事柄を理解するために福音の宣教と御霊の力を信頼しなければなりませんでした(1コリント1:17-2:16参照)。パウロはまた,道徳的に清い生活をする(1コリント3:16-176:9-20参照),結婚の大切さを認識する(1コリント7章11:11-12参照),主の晩餐の聖餐をふさわしい状態で受ける(1コリント10:16-1711:20-34参照)ようにも勧めました。

〔第38章のタイムラインの画像〕

1コリント1-11章の解説

1コリント1:1-9。パウロのあいさつ

1コリント1:1に記されているパウロの同僚ソステネは,かつてコリントの会堂司であったと思われます(使徒18:17参照)。パウロによって改宗し,バプテスマを受けたクリスポの後継者でした(使徒18:171コリント1:14参照)。現代の教会の公式文書が聖徒にあてられるのと同様に,この手紙のパウロのあいさつも聖徒にあてられていました。パウロのあいさつは,「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから,恵みと平安とが,あなたがたにあるように」(1コリント1:3)と,天の御父とイエス・キリストを独立した個別の御方として言及しています。パウロはコリントの聖徒に,彼らが言葉と知識のあらゆる面で,イエス・キリストによって「恵まれ」たと教えました(1コリント1:5)。

1コリント1:10-17。バプテスマに関する争い

コリント人の聖徒の中で有名だった女性,クロエの家で会合した聖徒たちから,パウロはコリントの教会での問題に関して報告を受けました(1コリント1:11参照)。教会員は派閥に分かれ,この分裂の幾つかは,だれがバプテスマを施したかに基づくものでした(1コリント1:12-16参照)。パウロは,特定の個人からバプテスマを受けることによって高い地位を得ることはないと教えました。会員は,キリストを頭として「同じ心,同じ思いになって,堅く結び合」うべきでした(1コリント1:10教義と聖約38:27も参照)。

パウロは後に,聖徒の中で起こった争いと分裂は,その中の幾人かが霊的ではなく肉の人であったからだと教えました(1コリント3:3参照)。

1コリント1:17-18,23-24。「キリストの十字架」

パウロの最初のメッセージは,信じる者を救う「神の力」であるとパウロが教えた「十字架の言」でした(1コリント1:18)。パウロは「十字架」という言葉を,贖罪への簡略な言及の一種として使いました(エペソ2:16ピリピ3:18も参照)。しかし,贖罪には十字架上のキリストの死以上のものがかかわっていました。七十人のC・スコット・グロー長老は次のように教えました。「救い主は苦しんで亡くなり,それによって全人類の罪を贖ってくださいました。その贖罪はゲツセマネに始まり,十字架上の死を経て復活で完了しました。」(「贖罪の奇跡」『リアホナ』2011年5月号,108。『真理を守る—福音の参考資料』15-17も参照)

〔ゲツセマネのキリストと十字架上のキリストの画像〕

贖罪にはゲツセマネの園と十字架上の両方におけるキリストの苦しみが含まれていた。

1コリント1:17-2:13。この世の知恵

パウロが「この世の知恵」を批判したとき(1コリント1:20),主が奨励される学習と教育の価値ある探求ではなく,彼の時代の誤った哲学的な言い伝えに言及していました(マタイ22:372ニーファイ9:29教義と聖約88:78-80参照)。パウロは1コリント1:17-2:13で,この世的な哲学と,それらを支持する人たちに言及するために「賢い」または「知恵」という言葉を繰り返し使いました。哲学的な考えは,公の場でよく論議された議題でした。パウロは,限られた人間の知恵と,十字架にかけられた神の独り子の力強いメッセージとを対比しました(1コリント1:17-25参照)。福音をあざける人がいようと,聖徒の信仰は「人の知恵によらないで,神の力によるもの」(1コリント2:5)であるべきです。

十字架にかけられたメシヤのメッセージは,ユダヤ人と異邦人の両方にとって受け入れ難いものでした。ローマの世界では,十字架の刑は犯罪者や奴隷に科せられるものであり,不名誉と敗北の象徴でした。だれかが他人のために身代わりとなって苦しんで死に,その後よみがえるという考えは,哲学志向のギリシャ人にとって「愚か」なことでした(1コリント1:23)。ユダヤ人にとっては,メシヤという概念は王位,権力,勝利への期待を伴うものであって,十字架上で亡くなったメシヤのメッセージは「つまずかせるもの」であり,受け入れられない考えでした(1コリント1:23)。

1コリント1:18-29。「神は……強い者をはずかしめるために,この世の弱い者を選〔ばれた〕」

多くのユダヤ人と異邦人が福音のメッセージを「愚か」だとして拒絶しましたが(1コリント1:18),パウロは「神の愚かさは人よりも賢く,神の弱さは人よりも強い」と教えました(1コリント1:19-25)。神はしばしば,世の人が「愚か」または「弱い」と見なす人物を通じて業を行われます(教義と聖約35:13-14124:1参照)。1コリント1:28では,「この世で身分の低い者」つまり地位の低い謙虚な者が,神の業を達成するために神がお選びになる者だとされています。十二使徒定員会のボイド・K・パッカー会長は,主が御自分の業を進めるために,どのように教会の一般的な会員をお使いになるかを次のように説明しました。

「この教会に職業聖職者はいません。世界のどこにおいても,指導する責任に召される人は会員の中から選ばれます。職業としての指導者を訓練する神学校もありません。

教会で行われるすべての業,すなわち導くこと,教えること,召すこと,聖任すること,祈ること,歌うこと,聖餐を準備すること,助言をすること,そのほかあらゆる事柄が,『世の弱い者』である普通の会員によって行われています。」(「教会の弱い者や純朴な者」『リアホナ』2007年11月号,6)

1コリント2:2-5。「巧みな……言葉によらないで」

パウロは並外れた知性を備え,十分な教育を受けていました(使徒22:3ガラテヤ1:14参照)。説得力,哲学,世俗の知識でコリント人に感銘を与えることもできましたが,簡潔かつ謙遜な方法でイエス・キリストのメッセージを教えることに意図的に焦点を当てました。ブリガム・ヤング大管長(1801-1877年)は,御霊の力によって教えた宣教師による自分自身の改宗について次のように説明しました。「もしこの世のあらゆる才能,才智,知恵,優れた能力を持つ人がモルモン書を手にわたしのもとに送られてきて,地上の雄弁の粋を集めて,この書物が真理であると宣言し,学識や地上の知恵で証明しようとしたとしても,わたしにとってそのようなものは,立ち上ってもすぐに消えてしまう煙のようなものでしかありません。しかし,わたしが会ったある人は雄弁でないどころか,人前で話す才能すらありませんでした。『わたしは聖霊の力によってモルモン書が真実であること,ジョセフ・スミスが主の預言者であることを知っています』としか言えませんでした。その人から発散される聖霊の力はわたしの理解を照らし,光と栄光と不死不滅がわたしの前に開かれました。わたしはそのようなものに取り囲まれ,満たされ,そしてこの人物の証が真実であると自ら知ったのです。」(Deseret News Weekly, Feb. 9, 1854, 24 Feb. 9,

1コリント2:6-16。神にかかわる事柄は御霊によって判断される

パウロは読者に,「神の御霊の賜物」は「御霊によって判断される」必要があるため,この世的な考え方の人には霊的な真理が理解できないことを思い起こさせました(1コリント2:14)。七十人のポール・V・ジョンソン長老が教えたように,霊的な知識は神が備えてくださった方法でしか得ることはできません。

「科学界では,真実や高度な知識を学ぶために科学的な方法が使われます。これは,何年にもわたってきわめて役に立っており,途方もない量の科学的知識を生み出してきました。そして今も,わたしたちの物理的な世界についての無知という幕を引き上げ続けています。しかし,霊的な事柄を学ぶには,科学的な事柄を学ぶこととは違ったアプローチが必要です。科学的な方法や知性は非常に有益なものですが,それだけで霊的な知識をもたらすことは決してありません。

霊的な事柄を学ぶということには知性も関係しますが,それだけでは十分ではありません。わたしたちは,御霊によってのみ霊的な事柄を学ぶのです。……

霊的な疑問に対する答えは,心をかたくなにすることなく,信仰をもって願い求め,受けると信じ,熱心に戒めを守る人に与えられます。このパターンに従ったとしても,わたしたちは答えを受けるタイミングを左右することはできません。すぐに答えを受けることもありますが,時折,その質問をしばらく保留しておいて,知っている答えから養われた信仰に頼らなければならない時もあります。」(“A Pattern for Learning Spiritual Things” [Seminaries and Institutes of Religion satellite broadcast, Aug. 7, 2012]; si.lds.org

十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,次のように教えました。「神聖な知識を得るために主が定められた方法は,研究によってのみ知識を得ようとする人々の方法とは異なっています。例えば,学術研究の場でよく用いられる方法に,対立する論者を立てて意見を闘わせる討議方法があります。わたし自身このような討議をかなり経験しました。しかし主は,古代および現代の聖典の中で,教義のいずれの点についても論争してはならないと教えられました。(3ニーファイ11:28-30教義と聖約10:63参照)……福音の真理や証は,敬度な気持ちで行う個人の勉強と,静かな瞑想によって聖霊から与えられるものです。」(「さまざまな他の声」『聖徒の道』1989年7月号,32)

1コリント3:4-7。「成長させて下さるのは,神である」

1コリント3:4-7で,パウロは,宣教師は神の手に使われる者であるが,「成長させて下さるのは,神である」つまり神が改宗につながる変化を人の心と魂に起こされるということを説明するために,植えて刈り取るという比喩を使いました。モルモン書では,アンモンも同じような見解を述べました(アルマ26:11-14参照)。

1コリント3:13。「かの日は……現れて」

1コリント3:13で触れられている「かの日」とは,わたしたちのすべての業が明らかになる裁きの日です。

1コリント3:16-17。「あなたがたは神の宮であって」

パウロは「あなたがたは神の宮で〔ある〕ことを知らないのか」と教えました(1コリント3:16)。この節で,パウロは代名詞の複数形「あなたがた」を使ってコリント人の聖徒を神の宮と総称しました。パウロの論点は,教会の会衆は神の御霊が宿れる宮の役目を果たすということでした(2コリント6:16エペソ2:21参照)。このたとえは,この後1コリント6:19でパウロが使用したものとはわずかに異なります。この節では人の肉体を宮にたとえました(1コリント6:19の解説参照)。

1コリント4:9-10。使徒たちの死

使徒は「死刑囚」であると教えたとき(1コリント4:9),パウロは使徒としての召しが自身の死につながることを示唆しました。また,コリントの多くの人が自らを賢く強いと考えながらも,パウロとほかの使徒たちを愚かで弱く,卑しめられていると見なしていることについても語りました(1コリント4:10)。使徒の死と,教会員による使徒の権能の拒絶という二つの要因は,最終的に大背教の一因となります。大管長会のヘンリー・B・アイリング管長は,次のように教えました。「もしもパウロの話を聞いた聖徒たちがパウロの保持する鍵の価値と力について証を持っていれば,恐らく地上から使徒たちが取り去られることはなかった〔でしょう。〕……パウロ〔は〕……神権の鍵が主から使徒を通して主の教会の会員に至る鎖のように連なっていることの大切さを感じてほしかったのです。」(「信仰と鍵」『リアホナ』2004年11月号,27参照)

1コリント4:20。「言葉ではなく,力である」

福音が力によって教えられることの大切さについて読むには,1テサロニケ1:5の解説を参照してください。

1コリント5:1-13。「その悪人を,あなたがたの中から除いてしまいなさい」

1節の「不品行」に当たる英語のfornicationという言葉は,結婚外のあらゆる性的関係を指すギリシャ語のporneiaを訳したものです。Porneiaは,pornography(ポルノグラフィー)の基になった語でもあります。

パウロが知った不品行の一例は,継母と性的な関係にあったコリントの教会員が関与するものでした。このような関係は,旧約聖書の律法で禁じられており(レビ18:8,29申命22:3027:20参照),キリスト教徒以外の間でさえも悪事と見なされていました(1コリント5:1参照)。パウロは,罪を犯したこの会員を処罰しなかったコリントの教会を叱責し,この罪人を「除いて」しまう,つまり会衆から追い出すよう勧告しました(1コリント5:13)。パウロは,罪を犯した人を教会に残しておくと,悪の影響が教会全体に広がると説きました(1コリント5:6-8参照)。

パウロの時代と同様に,今日の教会員は時折,罪深い行いによって破門されることがあります。正式な教会の評議会は,罪を犯した人を悔い改めのプロセスで支援することによって助け,救うという目的を常に持って宗紀上の処置を行います。十二使徒定員会のM・ラッセル・バラード長老は次のように教えました。

「聖文で,主は教会宗紀評議会に関する指示をお与えになりました(教義と聖約102章参照)。評議会という言葉は,人の役に立つ手続きを思い起こさせます。愛と気遣いの手続き,罪を犯した人の救いと祝福を最も考慮すべき事項とする手続きです。

会員から教会宗紀評議会を開く理由を尋ねられることがあります。その目的は,罪を犯した人を救うこと,罪のない人を保護すること,教会の清さ,高潔さ,名誉を守ることという3つから成っています。……

福音の奇跡は,わたしたち全員に悔い改めが可能だということです。組織の運営において,教会は教会宗紀評議会を求めます。しかし,主の制度は,悔い改めた後の回復も求めます。会員が選択しないかぎり,正会員資格の剥奪や破門によってすべてが終わるわけではありません。」(“A Chance to Start Over:Church Disciplinary Councils and the Restoration of Blessings,” Ensign, Sept. 1990, 15, 18

1コリント5:9-11。不品行な者たちと交際してはならない

パウロはコリント人の聖徒に「不品行な者たちと交際してはいけない」(1コリント5:9)と助言しました。十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は,この教えについて詳しく説明し,善い人でさえも不義の影響を受けないままではいられないことを指摘しました。「不品行な人たちと交際しないでください。これは,あなたが彼らにはもったいないほど善い人だからではなく,C・S・ルイスが書いたように,あなたの善良さが十分ではないからです。悪い状況は,善い人さえも打ち破ることがあると覚えておいてください。ヨセフはポテパルの妻から逃げ出す良識と丈夫な足の両方を持っていました。」(“The Stern but Sweet Seventh Commandment,” in Morality [1992], 29)

1コリント6:1-7。教会員同士の法的な争いを避ける

コリントの教会員の分裂の一因は,キリスト教徒が,民事上のささいな争いを巡って仲間の教会員を行政官の前に連れ出していたことでした。パウロは当事者間の意見の相違について,仲間の会員を相手取って訴訟を起こすのではなく,自分たちで解決に努めるよう教会員に勧告しました。パウロの勧告は,救い主が現世で務めを果たした間にお与えになった同様の教えを反映しています(マタイ5:2518:15参照)。現代の聖文は,教会員が国の法律によって法的な問題の解決策を求めることが適切な場合もあることを認めています(教義と聖約42:78-89参照)。

1コリント6:9-11。「正しくない者が神の国をつぐことはない」

1コリント6:9-10で,使徒パウロは,罪深い行動に固執する者は神の王国を受け継がないと警告しました(ガラテヤ5:19-21エペソ5:5にある同様の節を参照)。9節では,「男娼となる者」「男色をする者」と訳されたギリシャ語が同性愛関係を指すことに注意してください。性的不道徳はどのような形であれ神の律法に反します。しかし,神は心から悔い改める人に赦しの機会をお与えになります。パウロは,性的な罪を犯した人の中には,悔い改め,洗い清められ,「主イエス・キリストの名によって……義とされた」人がいる(1コリント6:11)と教えました。不道徳な行為に関するパウロの教えについては,ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)が述べたように,「罪を見過ごしにすることはできませんが,わたしたちは罪を犯した人々も愛してい」ると覚えておくことが大切です(「信仰と証があやなす織物」『聖徒の道』1996年1月号,99)。同性愛関係に関する主の教えについて詳しくは,ローマ1:26-27の解説を参照してください。

1コリント6:12-2010:23。「すべてのことは,……許されている」の意味

1コリント6:1210:23で,パウロは「すべてのことは,……許されている」またはすべてが容認されるというコリント人の社会の誤った考えを述べているように見受けられます。ジョセフ・スミス訳は,パウロが「すべてのことは,……許されている」という愚かな見解に反論したことを明確にしています。「これらすべてのことは,わたしに許されておらずそしてこれらすべてのことが益になるわけではない。すべてのことは,わたしに許されていないしたがって,わたしは何ものにも支配されることはない。」(ジョセフ・スミス訳1コリント6:12〔英文〕から和訳。ジョセフ・スミス訳1コリント10:23〔英文〕も参照)

1コリント6:15-18。「不品行を避けなさい」

パウロは,教会に入った人々はキリストの体の霊的な「肢体」としてキリストと一つになると教えました(1コリント6:15-18)。罪深い行動,特に「遊女につく」行為が,イエス・キリストとの霊的な関係,つまりキリストと一つになることと矛盾すると説明しました。今日の教会指導者たちも,性的な親密さを夫婦間のみにとどめることの大切さを強調し続けています。「結婚する前に,情熱的なキスをしたり,相手の上に覆いかぶさったり,服の上からであれ服を脱いでであれ,人の隠れた神聖な場所に触れてはなりません。性的な思いを刺激するいかなる行為もしてはなりません。自分の体に対してもそのような感情を刺激してはなりません。」(『若人の強さのために』36

1コリント6:19。「自分のからだは……自分の内に宿っている聖霊の宮」

古代コリントでは,多くの人が性的不道徳を容認できるものだと思っていました。パウロは,「からだは不品行のためではなく,主のためであ〔る〕」(1コリント6:13)と述べて,この考えに反論し,肉体は「聖霊の宮」(1コリント6:19)であるべきことを教会員が理解できるように助けました。十二使徒定員会のD・トッド・クリストファーソン長老は,わたしたちの体を尊重することの大切さを次のように強調しました。

〔オーディオアイコンの画像〕「肉体は進化が偶然に生み出した結果以外の何物でもないと考える人は,自分の肉体であるいは肉体に何をしようと,神に対してもだれに対しても責任を感じません。しかしながら,前世,現世,来世というもっと広遠な永遠の流れが存在することに証を持っているわたしたちは,神が最高傑作として創造してくださったこの肉体について,神に対する義務があることを認めなければなりません。パウロの言葉を紹介しましょう。

『あなたがたは知らないのか。自分のからだは,神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって,あなたがたは,もはや自分自身のものではないのである。

あなたがたは,代価を払って買いとられたのだ。それだから,自分のからだをもって,神の栄光をあらわしなさい。』(1コリント6:19-20

これらの真理……を念頭に置けば,わたしたちは,入れ墨で肉体を損なったり,薬物で痛めたり,私通や姦淫などの不道徳な行為で汚したりすることは決してしないでしょう。わたしたちの肉体は自分の霊の器なので,最善を尽くして大切に扱う必要があります。肉体の力を,奉仕をし,キリストの業を進めるために奉献するのです。パウロはこう言いました。『兄弟たちよ。そういうわけで,神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを,神に喜ばれる,生きた,聖なる供え物としてささげなさい。』(ローマ12:1)」(「奉献された生活についての熟考」『リアホナ』2010年11月号,17-18)

1コリント6:20。「あなたがたは,代価を払って買いとられたのだ」

十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,わたしたちがどのように救い主の憐れみ深い犠牲によって買い取られたのかを次のように説明しました。「救い主の霊的な苦しみと流された無垢の血は,愛を込めて,万人のためにささげられました。主はそれにより,アダムの背き,すなわち『最初のとが』(モーセ6:54)の代価を支払ってくださったのです。さらにキリストは全人類の罪,悲しみや苦痛のために苦しまれ,主が教えられた福音の原則と儀式に従うかぎり,わたしたちの罪を贖ってくださったのです(2ニーファイ9:21-23参照)。使徒パウロが書いているように,わたしたちは『代価を払って買いとられた』のです(1コリント6:20)。何と高価な代価であり,また何と憐れみ深い買い主でしょう。」(「わたしを記念するため,このように行いなさい」『聖徒の道』1996年1月号,72-73)

1コリント7:1-40。結婚についての疑問

性的不道徳は古代コリントにおいて広く行き渡っていましたが,一部の人は「男子は婦人にふれないがよい」(1コリント7:1)のだから,結婚していても,すべての性的関係を控えるべきだという正反対の考えを持っていました。

パウロの「みんなの者がわたし自身のようになってほしい」「わたしのように,ひとりでおれば,それがいちばんよい」(1コリント7:7-8)という勧告によって,パウロが結婚しておらず,結婚に勝る生き方として独身主義を勧めていると誤って信じる人が出てきました。しかし,パウロは恐らく既婚であったか,ある時点で結婚していました。学者の多くは,パウロがユダヤ人の統治団体すなわちサンヒドリンの一員であったか,その団体に近い関係者だったことを認めています(使徒8:39:1-222:526:10参照)。サンヒドリンの会員資格を満たすため,パウロは結婚している必要があったでしょう。単にサンヒドリンの議員であったとしても,一般に受け入れられていたユダヤ人の習わしのすべてに沿うことが期待されるため,結婚することも求められたはずです。さらに,パウロは結婚と家庭生活の大切さも明確に教えました(1コリント7:211:11エペソ5:21-6:41テモテ3:2参照)。

この章にあるパウロの教えの多くは,結婚が専任宣教師としての奉仕のために適宜延期されたことを理解できるよう教会員を助けるためのものだったと思われます。ジョセフ・スミス訳はこの結論を裏付けています。

「しかし,務めに召されているあなたがたに言う。兄弟たちよ,わたしの言うことを聞いてほしい。残りの時はほんのわずかであって,あなたがたは務めのために遣わされるからである。妻のある者はない者のようになるであろうあなたがたは主の業を行うために召され,選ばれているからである。……

しかし兄弟たちよ,あなたがたは自分の召しを尊んで大いなるものとしてほしい。思い煩わないようにしてほしい。未婚の男は,どうすれば主に喜ばれるかと,主のことに心を配る。だから,彼は勝利を得る。

しかし,結婚している男は,どうすれば妻に喜ばれるかと,世のことに心を配る。そこに相違がある。妨げを受けるからである。」(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」1コリント7:29,32-33

1コリント7:1-5。結婚における親密さ

1コリント7:1-5でパウロが答えた疑問のすべてを知ることは困難ですが,パウロは,夫と妻は結婚における性的な親密さを,互いに「その分」(1コリント7:3)を果たす大切な方法と見なすべきであると教えました。この原則は,今日も教会で教えられています。「夫婦間の身体的な親密さは美しく神聖なものです。それは子供をもうけるため,夫婦の間で愛情を表現するために,神によって定められました。性的な親密さは結婚の中でのみ用いるよう,神は命じられました。」(『若人の強さのために』35

これらの節にあるパウロの教えの背景を覚えておくことが大切です。一部の人は,独身生活が結婚よりも望ましいと考えました(1コリント7:1参照)。結婚している人でさえも禁欲を実践すべきだと信じる人もいたようです。この答えとして,パウロは,同意を得たうえで,特別な目的のための一時的な場合以外は,配偶者に親密さを示さないことが配偶者を「拒〔む〕」ことになると教えました(1コリント7:5)。パウロは,夫婦が結婚で要求してもよい事柄ではなく,結婚で与えるべき事柄について教えていました。ハワード・W・ハンター大管長(1907-1995年)はこの件について,夫は,特に親密な結婚関係において,妻に対して優しく,尊敬の念を持ち,親切に接するべきだと次のように勧告しました。

「夫婦間の愛情のこもった親密な関係を損なう,支配的あるいは尊敬に値しない行動を避けてください。結婚は神が定められたので,夫婦間の親密な関係は神の目にかなった尊いものです。神は夫婦が一体となり,増え,地に満ちるよう命じられました(モーセ2:283:24参照)。皆さんはキリストが教会を愛して御自身をささげられたように,妻を愛さなければなりません(エペソ5:25-31参照)。

利己心を避けて,愛情と尊敬を,夫婦間の親密な関係を育む原則としなければなりません。夫婦は互いの必要と望みに対し,常に敏感で思いやり深くなければなりません。」(「義にかなう夫,父親」『聖徒の道』1995年1月号,58参照)

1コリント7:12-19。信仰心のない配偶者

パウロは,不信者と結婚している会員に,不信仰を理由に離婚せず,婚姻関係を続け,キリストに忠実に従う者として生活するよう勧告しました。そうすることによって,結婚におけるパートナーは,信仰心のない配偶者を聖める媒体となることができます。

1832年,預言者ジョセフ・スミスは,1コリント7:14をより理解しようとしていたときに教義と聖約74章に記録された啓示を受けました。これは,パウロが対応していた問題に対する重要な背景を提供します。

1コリント7:14。子供は聖い

パウロは,子供が「きよい」(1コリント7:14)ことを教えました。教義と聖約で,主は1コリント7:14のパウロの言葉を明確にする啓示をお与えになりました。ユダヤ人には,小さな子供は汚れているという言い伝えがありました。しかし主は,「幼い子供たちは,イエス・キリストの贖罪によって聖められているので,聖い者である」と宣言し,男の子にモーセの律法で必要とされた割礼は不要であるとお教えになりました(教義と聖約74:4-7参照)。

1コリント8:1-1310:14,19-33。異教徒の犠牲に使われた肉についてのパウロの勧告

パウロの時代,コリントやほかの町の市場で売る肉の一部は,異教徒の神々の犠牲や奉納として処理されていました。忠実なユダヤ人は,この肉を食べることはモーセの律法によって禁じられていると思ったようですが,パウロの言葉によると,一部のキリスト教徒は食べることを制限されているとは思わなかったようです(1コリント8:1-1310:14,19-33参照)。

十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,この問題へのパウロの返答について次のように説明しました。「コリント人は,異教徒がその偶像にささげた肉を食べることについてパウロの勧告を求めました。パウロは,偶像はまことの神ではなく,実のところ見せかけの犠牲にはいずれにせよ宗教的な意義がないため,聖徒がそのような肉を食べるか食べないかは理論的にまったく重要ではないと答えますが,実際には,この肉を食べれば,信仰の弱い者が犠牲自体に徳と利益があると考え,惑わされる結果を招く恐れがあるため,食べないことが賢明だろうと説きます。」(Doctrinal New Testament Commentary, 3 vols. [1966-73], 2:348)パウロにとってより重要な関心事は,他人の信仰を弱めかねないことをして意図せずに罪に導いてしまうようなことはすべて避けるということでした。(選択に関するさらなる洞察については,使徒15:6-31の解説ローマ14:1-15:3の解説を参照してください。)

〔男性と動物のレリーフ像の画像〕

動物の犠牲の準備を表すローマの大理石レリーフ;2世紀初頭(1コリント8:4参照)。

1コリント8:5-6。「多くの主」

預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,1コリント8:5-6のパウロの記述について次のように述べました。

「わたしは常にこう宣言してきました。神は一人の御方であられ,イエス・キリストは父なる神とは別の御方であられ,聖霊も別の御方であって霊の御方であられると。この御三方は3人の異なった方々であり,3人の神々であられます。……

一部の人は,わたしが〔1コリント8:5にあるパウロの教えを〕彼らと同じように解釈していないと言います。彼らは,それは異教徒の神々を意味すると言います。パウロは,多くの神,多くの主があると言っており,これは複数の神のことです。……わたしは聖霊の証を持っています。そして,パウロがこの文で異教徒の神々を示唆してはいなかったという証があります。」(in History of the Church, 6:474–75)

1コリント9:20-23。「すべての人に対しては,すべての人のようになった」

パウロは,ユダヤ人であるか異邦人であるかを問わず,すべての人とイエス・キリストの福音を分かち合うことに尽力しており,様々な文化的背景を持つ人々をより効果的に教え導くために,言動を積極的に変えました。パウロの忠誠心は,どの文化や国にでもなく,イエス・キリストの福音を宣べ伝えることにありました。ブルース・R・マッコンキー長老は,この聖句に言及して次のように説明しました。「パウロはここで,人々に福音のメッセージを受け入れてもらうために,『すべての人に対しては,すべての人のようになった』と言っています。つまり,自分の教えや証に注意を引く手段として,あらゆる階級の人々の状態や状況に適応したということです。そして,それが彼らの偽りの教義や慣例を受け入れたり,福音をほかの偽りの礼拝形式と妥協させたりすることではないことを強調するために,救われるためには彼自身とすべての人々が福音の律法に従わなければならないということを急いで付け加えたのです。」(Doctrinal New Testament Commentary, 2:353)

1コリント9:24-27。「あなたがたは知らないのか。……賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも,賞を得るように走りなさい」

ギリシャ人とローマ人は,運動競技会を非常に重んじました。地中海世界全域で古代オリンピック大会を4年ごとに大いに楽しみにしていました。コリントでは2年ごとにイストミア祭が開催されました。選手たちは名誉のため,そして自然のオリーブ,月桂樹,または松の枝で作った勝利者の冠のために競いました。選手は「何ごとにも節制をする」(1コリント9:25)と指摘したとき,パウロは恐らく競技会に向けて訓練するときに選手が取り入れた厳しい食事制限と訓練を示唆していました。イエス・キリストに従う者は,誘惑を克服し霊的な自制心を得るために力を注ぎながら,同じように勝利に向けて努力するべきだと勧めました。聖徒はほかの人を相手に競走はしませんが,罪と現世における難題に立ち向かいます。その報いは「朽ちる」すなわち壊れやすい冠ではなく,永久に続く永遠の命の冠です(1コリント9:252テモテ4:7-8へブル12:1-2モーサヤ4:27も参照)。

〔リースの冠の画像〕

紀元前3世紀または4世紀のキプロスの金のリースの冠。パウロは,古代ギリシャ・ローマの選手は朽ちる冠を目指して競争するが,イエス・キリストに従う者は永遠の命の冠を得るための自制心を目指して努力すると述べた(1コリント9:24-25参照)。

1コリント10:1-9。例として古代イスラエルを挙げたパウロ

パウロは,コリント人の聖徒に弟子となることについて大切な教訓を教えるために,古代イスラエルの経験を例に挙げました(1コリント10:1-9参照)。モーセがエジプトからイスラエルの子らを連れ出したとき,主は数多くの奇跡で彼らを祝福されました。それにもかかわらず,多くの人が不平を言い,邪悪な事柄を渇望して,深刻な罪を犯しました。パウロは,こうした悪い模範に従わないようにコリント人の聖徒を諭しました。

ブルース・R・マッコンキー長老1コリント10:1-2に言及して,「モーセにつくバプテスマを受けた」という言葉の意味を次のように説明しました。「〔パウロ〕は,イスラエルが紅海を越え,世俗的なエジプトから逃げ出したときのように,彼らのキリスト教徒の子孫も,バプテスマによって,肉の欲望を捨てて信仰深い生活をしなければならないと言っているのです。」(Doctrinal New Testament Commentary, 2:355

1コリント10:10-13。神は誘惑から「のがれる道も備えて下さる」

パウロは,古代イスラエル人が荒れ野でさまよっていたとき,神から授かった数多くの祝福にもかかわらず,多くが誘惑に負けたことを物語りました。パウロはコリント人の聖徒に対し,誘惑に負けた者の先例に「気をつけ」るように勧めました(1コリント10:12)。ジョセフ・スミス訳は,コリント人の聖徒に対するパウロの勧告が,わたしたちにも向けられていることを明確にしています。「これらのこと……が書かれたのは,わたしたちに対する訓戒のためでもあり,世の終わりに臨むであろう者たちに対する訓戒のためである。」(ジョセフ・スミス訳1コリント10:11〔英文〕から和訳)パウロはまた,主に頼るならば,耐えられる力以上の誘惑を受けることはないと読者を安心させました(2ペテロ2:9アルマ13:28と比較)。神は御自分の民を邪悪な誘惑から常にお守りにはなれませんが,パウロは神が誘惑から「のがれる道」と力を与えてくださると約束しました(1コリント10:13)。大管長会のヘンリー・B・アイリング管長は,誘惑に直面するとき,助けを求めて祈ることができると次のように教えました。

「聖霊の助けによって,わたしたちは自戒することができます。罪深い思いが浮かんだらすぐに気づき,それを拒めるように祈ることができます。……そして,必要なときに,悔い改める謙遜さと信仰を祈り求めることができます。

わたしの言葉を聞いて,きっとこのように考える人もいるでしょう。『しかし,誘惑はわたしにはあまりにも大きい。できるかぎり拒んできたが,わたしにとって,戒めは厳しすぎる。標準が高すぎるのだ。』

そんなことはありません。救い主は御父に対するわたしたちの弁護者です。わたしたちの弱さを知っており,誘惑を受けた人を助ける方法を知っておられます。」(「幼子のように」『リアホナ』2006年5月号,17)

1コリント10:16-21。杯とパンに「あずかる」

パウロは,「一つのパンを……いただく」者として,ともに食べ,ともに飲む教会員について話しました(1コリント10:16-17)。古代中近東の文化では,同じテーブルでともに食事をすることは,一致,平和,友情の表れでした。食事の席に着く前に,個人の間に問題や意見の相違があれば,解決され,全員が和解しました。パウロは,彼が「あずかること」という言葉で表した聖餐について話したとき,聖徒たちにこの考えを思い起こさせました。1コリント10:16で「あずかること」と訳されている言葉は,親密な友情,協力関係,分かち合いを意味します。したがって,会員が聖餐の儀式で「一つのパン」(一塊のパン)を頂くとき,会員はキリストだけでなく,互いの一体性,つまり一致を確認します(1コリント10:17)。彼らは「主の食卓……にあずかる」者(1コリント10:21)であり,キリストと和解して,キリストとのより大いなる交わりを享受する機会があります。

〔祈る女性の画像〕

この紀元3世紀のローマの地下墓地プリシラカタコンベの絵には,頭に覆いをかけ(1コリント11:6参照),両腕を上げた,習わしに従って祈るキリスト教徒の女性が描かれている(列王上8:22詩篇28:21テモテ2:8教義と聖約109:16-19参照)。

1コリント11:11-12。「主にあっては,男なしには女はないし,女なしには男はない」

パウロはコリントの聖徒に対し,男性と女性は依存し合っており,主に従うときにともに働くよう意図されていることを明確にしました。この真理は,教会でともに礼拝して奉仕すること,そして特に夫婦関係においてともに成長することに当てはまります。ジョセフ・F・スミス大管長(1838-1918年)は,パウロの教えがどのように結婚に当てはまるかについて次のように話しました。「女性なくして神の王国で救われ,昇栄を受ける男性はいません。そして,一人で神の王国で完全と昇栄を達成できる女性もいません。……神は時の初めに結婚を定められました。神は御自身の形に,御自身にかたどって人を創造し,男と女を創造されました。この創造の意図は,男と女は聖なる結婚のきずなによって結び合わされるべきこと,また男は女なくして,女は男なくして完全ではないということでした。」(Gospel Doctrine [1939], 272

十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は,男性と女性の相互依存を次のようにさらに明確にしました。「地球が創造された後,アダムはエデンの園に置かれました。しかし,重要なことに,神は『人が独りでいるのは良くない』と言われました(モーセ3:18創世2:18も参照)。そしてエバがアダムの妻となり助け手となりました。幸福の計画を実行するには,男性と女性の霊と肉体,精神と情動の独特な結合が必要だったのです。『主にあっては,男なしには女はないし,女なしには男はない』のです(1コリント11:11)。男性と女性は互いに学び,強め,祝福し,補うのです。」(「わたしたちは純潔を信じる」『リアホナ』2013年5月号,41)

〔若い新郎新婦の画像〕

男女の間の結婚は神の計画の一部である(1コリント11:11参照)。

1コリント11:3。「女のかしらは男であ〔る〕」

ハワード・W・ハンター大管長は,家庭で管理する夫の役割について次のように教えました。

「主は,妻が夫の助け手,つまり対等で不可欠の,完全な協力者となるよう望んでいらっしゃいます。義にかなった管理をするには,夫婦間の責任分担が必要となります。家庭のもろもろの事柄に知恵を出し合い,協力して取り組むのです。これに反して,妻の気持ちや助言を無視するか,尊重せずに家庭を管理する男性は,不義な支配をしているのです。

……皆さんはキリストが教会を愛して,御自身をささげられたように,妻を愛さなければなりません(エペソ5:25-31参照)。」(「義にかなう夫,父親」『聖徒の道』1995年1月号,58参照)家庭で管理する夫の役割に関して,詳しくはエペソ5:25の解説を参照してください。

1コリント11:17-29。主の晩餐の聖餐

主は,最後の晩餐で取った食事の間に聖餐を定められました(マタイ26:26-29マルコ14:22-25ルカ22:19-201コリント11:23-25参照)。教会の初期の会員は,食事を一同で取り,その後聖餐を執り行うという習慣を保っていました。食事は平和や一致,会衆が分かち合う友情のしるしで,会員の物質的な必要を満たすために仕える手段でもありました。しかし,この食事は,会員全員が到着する前に食べられてしまい,空腹のまま帰宅する人,仲間の聖徒に腹を立てる人が出るときに,争いの原因となることもありました(1コリント11:17-22参照)。これは,ともに集うことの目的の一つ,つまり「主の晩餐」を頂きながら友情を育むという目的を台なしにしてしまいました(1コリント11:17-18,33-34)。パウロは聖徒たちに,このような類いの争いを避け,調和を保つ方策を講じるように教え,聖徒は食べ始める前に全員が到着するのを待ち,食事の後でもまだ空腹ならば,後で家で食べるべきだとしました(1コリント11:33-34参照)。

1コリント11:27-29。聖徒はふさわしい状態で聖餐にあずかるべきである

1コリント11:27-29で,パウロは聖餐を受けるときの本人のふさわしさの重要性を強調しました。聖餐会での礼拝を,個人的な評価の時間にするよう読者に勧めました。七十人のタッド・R・カリスター長老は次のように書いています。

「聖餐会は……深い反省と自己評価の時間です。パウロは,『だれでもまず自分を吟味し,それからパンを食べ杯を飲むべきである』(1コリント11:28)と勧めました。聖餐会とは,救い主を覚えるだけでなく,生活を偉大な模範である主の生活に合わせる時なのです。自己欺瞞をすべて取り去る時であり,絶対的で崇高な真理の時です。すべての言い訳,すべての見せかけを捨て去り,ありのままの魂が天の御父の御霊と心を通わせて交流できるようにするのです。そのとき,わたしたちは自分の生活が実際どのような状態にあるか,本来どうあるべきなのかを熟慮し,自分自身の裁判官になるのです。ダビデも次のように嘆願したとき,このように感じたに違いありません。『神よ,どうか,わたしを探って,わが心を知り,わたしを試みて,わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て,わたしをとこしえの道に導いてください。』(詩篇139:23-24)……

……〔救い主〕は,わたしたちの弱さゆえに,バプテスマの際に一度決心するだけでなく,その後何度も決心する必要があることを御存じです。毎週,毎月,毎年,主の象徴を頂くために手を伸ばすとき,わたしたちは主に仕え,主の戒めを守り,生活を神の標準に調和させるために,どれほどの価値であろうとも自分の名誉にかけて決心します。」(The Infinite Atonement [2000], 291–92