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第​14​章​: マルコ11-16章


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マルコ11-16章

マルコ11-16章の紹介とタイムライン

マルコ11-16章には,救い主の現世での務めにおける最後の一週間の出来事について記されています。これらの章の対象となる期間はわずか数日ですが,マルコによる福音書の3分の1以上を占めており,語られている出来事の重要性を示しています。これらの章には,マルコ8-10章に記録された,主の苦しみと死,また復活に関する,イエス・キリストが預言された事柄の成就が記録されています。マルコ14-15章には,救い主のゲツセマネでの苦しみから十字架上での死,そして埋葬までの,贖罪の出来事についてのマルコの記述が含まれています。しかし,この記述は,マルコ16章に記されている,イエスが死者の中からよみがえられたというマルコの結びの証がなければ不完全だったでしょう。救い主の贖罪は復活によって完成されました。これは,マルコの著作をほんとうの意味で「福音書」,つまり「良き知らせ」の宣言とするクライマックスの出来事でした。この結びによって,マルコによる福音書は,イエスがまことに神の御子であられ,主がわたしたちの贖罪の代価を支払うという使命を果たされたことを証しています(マルコ10:45参照)。

本章では,救い主の最後の一週間についての内容で,マルコの福音書特有のものに焦点を当てます。これらの重要な出来事の詳細については,マタイ21-28章,ルカ19-24章,ヨハネ12-21章それぞれの解説を参照してください。

〔第14課のタイムラインの画像〕

マルコ1-4章の解説

マルコ11:1-11。救い主の勝利の入城

エルサレムへの救い主の勝利の入城は,主がメシヤであられることを公に宣言しました。この出来事には,旧約聖書の言い伝えとのつながりがあり(列王上1:38-40列王下9:1-13参照),旧約聖書の預言を成就しました(詩篇118:25-26ゼカリヤ9:9-10参照)。勝利の入城に関する詳細を読むには,マタイ21:1-11の解説を参照してください。

マルコ12:28-34。二つの大切な戒め

マルコ12:28-34には,どの戒めが第一の戒め,つまり最も大切な戒めなのか主に尋ねた律法学者に対するイエスの回答が記録されています。その答えの中で,救い主は二つの旧約聖書の聖句を引用されました。主はまず申命6:4-5に言及されました。戒律を順守するユダヤ教徒によって毎日2回暗唱される「シマ」と呼ばれる祈りの冒頭は,4節の「イスラエルよ聞け。われわれの神,主は唯一の主である」という言葉で始まります。これは,神こそが礼拝と献身に値する唯一の御方であることを認めるものです(申命6:5,147:910:17参照)。救い主は次に「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」というレビ19:18に言及し,これが第二の大切な戒めであることを明確にされました。二つの大切な戒めに関する詳細を読むには,マタイ22:35-40の解説を参照してください。

マルコ12:41-44貧しいやもめのレプタ(ルカ21:1-4も参照)

貧しいやもめが神殿のさい銭箱に寄付した「レプタ」(小さいという意味のギリシャ語)は,小さなユダヤの小さな硬貨でした。重さは約2分の1グラム(1オンスの50分の1以下)で,当時最小額のローマ硬貨であったコドラント1枚の価値もないものでした(マルコ12:42参照)。

〔銅貨の画像〕

救い主がその務めを始められる前の世紀に鋳造された銅貨レプトンの両面。

やもめが「あらゆる持ち物」を差し出したという事実は,律法学者たちの偽善とは対照的に,彼女の神に対する心からの献身を実証しています(マルコ12:38-40参照)。十二使徒定員会のジェームズ・E・タルメージ長老(1862-1933年)は,やもめのささげ物が比較的少額の献金だったにもかかわらず,主が彼女を称賛なさった理由を次のように説明しました。「富んでいる人々は多くの金銀をささげたが,それ以上を持っていた。ところがこのやもめの贈り物は,その生活費全部であった。彼女のささげ物を特に快く受け入れられるようにしたのは,その量が少ないからではなくて,ささげ物をするために持っていた犠牲の精神と信仰篤い心とであった。」(『キリスト・イエス』545)タルメージ長老は,「その最上の贈り物が,人から,または国からのものであるかにかかわらず,清い思いをもって喜んでささげられた贈り物であれば,たとえそれがほかと比べて劣っているとしても,常に神の目にこの上なくすばらしいものである」とも述べています(The House of the Lord, rev. ed. [1968], 3)

マルコ14:-2,10-11イエス・キリストに対する陰謀

救い主の務めの初めから,権力を持つ立場の政治家たちは,自分たちの権力が主によって脅かされていると感じ,主を殺そうとしました(マルコ3:6参照)。ヘロデはベツレヘムの幼児を殺すように命じてキリストを殺そうとしました(マタイ2:16参照)。イエスがエルサレムの宮を清められたとき,祭司長たちは主を殺そうと企てました(マルコ11:18参照)。これらの秘密のはかりごとには,大祭司の職にある者さえも関与しました(マタイ26:3-4参照)。救い主は,公にエルサレムに入られるとすぐに主を殺す陰謀の標的となりました。それにはイスカリオテのユダと祭司長たちとの合意も含まれていました。それは救い主を裏切り,主を殺したい人々の手に主を渡すというものでした(マルコ14:1-2,10-11参照)。

マルコ14:3-9埋葬のためにイエスに油を注いだ女性(マタイ26:6-13ヨハネ12:1-8も参照)

マルコ14:3-9に記録されている出来事についてのヨハネの記録で,ヨハネはイエスに油を注いだ女性をマルタとラザロの妹マリヤとして特定しています(ヨハネ12:1-3参照)。「石膏のつぼ」とは,香水として,また死人に油を塗るために用いられた「ナルドの香油」が入った瓶でした(マルコ14:3)。イエスがまだ生きている間に主に油を注ぐことによって,その女性は主の差し迫った死と埋葬を認めていました。救い主は「わたしのからだに油を注いで,あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである」と言われました(マルコ14:8)。香油は大変高価であり,300デナリ以上の価値がありました(マルコ14:5参照)。また一般労働者のおよそ1年分の賃金に相当するものでした。

ジェームズ・・タルメージ長老は次のように述べています。「客の頭に油を注ぐことは,その油の質が並のものであってもその客を敬うしるしであった。そして客の足にも油を塗ることは並外れて特別に敬うしるしであった。しかし,客の頭と足に高価なナルドの香油を,しかもこのように多量に塗るというのは,王や諸候にもまれにしか与えられない,恭しい尊敬の意を表すことであった。マリヤの行為はまことに熱烈な敬慕の表れであって,尊敬と愛情に満ちあふれた心のほとばしりであった。」(『キリスト・イエス』499参照)

救い主は,この女性の行いが世界中で「記念として語られるであろう」と言われました(マルコ14:9)。この出来事を忘れられることのない記念とされるにふさわしいものとした理由は何だったのでしょうか。このベタニヤの女性は,彼女のあふれ出る感謝の気持ちに加えて,マルコによる福音書の中で,救い主が苦しみ死ななければならないという主の教えを理解し,公に受け入れた最初の弟子として際立っています。タルメージ長老は,この記述がマルコとヨハネの両方で「マリヤがはっきりした厳粛な目的を持っていたことを暗示している」と指摘し,マリヤは「キリストが,御自分の命は間もなく犠牲になるのだと使徒たちに言われた言葉から思い合わせて,そのように結論していたのかもしれない」と提言しました(『キリスト・イエス』500)。主に油を注ぐマリヤの話に関するさらなる情報については,ヨハネ12:1-8の解説を参照してください。

マルコ14:15。「二階の広間」

マルコは,最後の晩餐がエルサレムの「二階の広間」で執り行われたことを指摘しました(マルコ14:15)。古代イスラエルの町では,家の二階の部屋は,町の通りの人ごみを眼下にし,プライバシーを提供したことから最も良い部屋であり,最後の晩餐の神聖な出来事に適切な環境でした。

〔エルサレムの風景の画像〕

From the Rooftop of the Last Supper, by Al Rounds.この絵は,最後の晩餐が行われたと言い伝えられている場所の屋上から見渡せたと思われるエルサレムの神殿とオリブ山を背景として描かれています。

マルコ14:17-25。The Last Supper

最後の晩餐と聖餐の象徴に関連する象徴的意味について読むには,マタイ26:17-30の解説マタイ26:26-28の解説を参照してください。

マルコ14:32-36ゲツセマネでの救い主の苦しみ(マタイ26:36-39ルカ22:39-44も参照)

マルコの言葉は,救い主の苦しみの現実性と過酷さを証しています(マルコ14:23-36参照)。文中で「恐れおののき」と訳されているギリシャ語の言葉は,驚嘆,畏怖の念,大きな衝撃に続く驚き,そして計り知れない嘆きを含む,様々な感情を指します。「悩み」と訳されているギリシャ語の動詞には,悲観する,落胆する,苦悩または悲しみに満たされるという意味があります。これらの言葉はともに深く極端な悲しみを表現します。救い主は,「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」と言われました(マルコ14:34)。つまり,主の苦悩は,今にも死んでしまうと感じるほど激しかったのです。

ジェームズ・E・タルメージ長老は次のように述べました。「ゲツセマネの園におけるキリストの苦悩は,その大きさにしても原因にしても,人間の心では計り知れないものである。イエスが死を恐れて苦しんでおられたという考えは,受け入れられない。イエスにとって死は,復活に先立つ過程であり,……御父のもとへ,勝利を得て,……戻って行かれることであった。……イエスは,これまでこの世に生を受けた人が,考えつくこともないような重荷の下に苦悶し,うめかれた。イエスに,あらゆる毛穴から血が吹き出るほどの苦痛を与えたのは,肉体の苦しみでもなければ,心の苦しみでもなく,それは神だけが経験することのできる,身と霊の両方にかかわる霊的な苦悶であった。」(『キリスト・イエス』594参照)

十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は,贖罪の苦しみについて話したときに,マルコのこれらの聖句を引用しました。

video icon「……イエスはゲツセマネで,『恐れおのの〔く〕」ほどの苦痛を経験されます(マルコ14:33)。ギリシア語でこの『恐れおののく』という言葉は,『畏敬の念に打たれた』や『驚いた』という意味を含んでいます。

この世のみならず多くの世を想像されたエホバが驚かれたのです。想像できるでしょうか。イエスはご自身の苦痛を知識としては知っておられました。しかし経験はしておられませんでした。贖罪の厳しく困難な過程を身をもって知ることはかつてなかったのです。ですから苦痛が最高潮に達したとき,それはイエスの特別な知力をもってしても想像し得ないものとなりました。……

……過去,現在,未来の全人類の罪の重荷が,完全で,罪のない,繊細なお方に課せられたのです。……わたしたちの不完全さや病気は,何らかの形で主の贖罪の一部をなしているのです。(アルマ7:11-12; イザヤ53:3-5; マタイ8:17を参照。)苦しみにあってイエスは,その時を,そして杯を取りのけてくれるように嘆願されたわけではありませんでした。御心のとおりになるよう求められたのです。『そして言われた,「アバ,父よ,あなたには,できないことはありません。どうか,この杯をわたしから取りのけてください。」』(マルコ14:35-36)……

この極限の状態でイエスは,アブラハムと同じように,雄羊がやぶの中にいることを願ったのでしょうか。わたしには分かりません。…… イエスが味わった苦痛は筆舌に尽くせないものであり,十字架上で『わたしをお見捨てになったのですか』という言葉を引き出したほどでした。(マタイ27:46参照)。

それでもなおイエスは,ゲツセマネのときの崇高な服従の心を維持しておられました。『しかし,わたしの思いのままにではなく,みこころのままになさって下さい。』(マタイ26:39)」(「喜んで服従する」 『聖徒の道』1985年7月号,73-74)

ゲツセマネ

Gethsemane, by Liz Lemon Swindle.イエスは「恐れおののき……はじめ」,「悲しみのあまり死ぬほど」になられました(マルコ14:33-34)。

マルコ14:36。「アバ,父よ」

マルコは,イエス・キリストが祈りの中で,「父」または「わたしの父」を意味するアバというアラム語の言葉を使って御父を呼ばれたことを記録した唯一の福音書の著者です。イエス・キリスト以外に神をこのように呼んだ人の聖文の記録はありません。旧約聖書における祈りの中で神を呼ぶ典型的な方法には,「主なる神よ」,「万軍の神,主よ」,「アブラハム,イサク,イスラエルの神,主よ」,「われわれの救いの神よ」がありました。後年,一部の人々の間で,神の統治権,栄光,寛大さ,そのほかの神聖な特質に敬意を表す称号を繰り返すことで神に呼びかける風潮が高まりました。救い主の「アバ,父よ」という言葉の使用は,この習慣とはきわめて対照的なものでした。この呼びかけは,簡素であれども奥深いものであり,人格を持つ御方との密接で個人的な関係を示していました。救い主は,「天にいますわれらの父よ」というように,祈りの中では御父として神に呼びかけるよう弟子たちにお教えになりました(マタイ6:9)。

十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,ゲツセマネの園における救い主の御父への嘆願の重要性について次のように語りました。「人類史上最も耐え難い苦難に遭ったとき, 主の体のすべての毛穴から血が流れ出, 苦悩に満ちた叫びが主の口から発せられ, キリストはそれまでいつも頼っていた御自分の御父により頼み,『父よ』と叫びました〔マルコ14:36〕。……これは非常に個人的な事柄で,引用するだけでも神聖さを汚すような気がします。癒されることのない苦痛にさいなまれた子供と,まことの力の源であったその父が, 一晩中苦難をともに耐えたのです。」(「父親らの手で」『リアホナ』1999年7月号,18-19参照)ホランド長老は,別の機会にこれについてさらに言及しました。

「マルコは,〔イエス〕がひれ伏して『アバ,父よ』と叫ばれたと語っています。これは神学の象徴的な理論などではありません。息子が父親に向かって実際にこう嘆願したのです。『あなたには,できないことはありません。どうか,この杯をわたしから取りのけてください。』(マルコ14:36

このような嘆願を無視できる親がどこにいるでしょう。ほかならぬ完全な御子がこう嘆願しておられるのです。『あなたは何でもおできになります。そのことをわたしは知っています。ですから,どうかこの杯を取りのけてください。』

マルコの記述によれば,御子はこの祈り全体を通して,もしできることなら救いの計画からこのいっときを取り去ってくださいと祈られたのでした。要するに主はこう言われたのです。『別の道があればわたしはその道を行きます。別の方法があれば—何かほかの方法がありさえすれば—わたしは喜んでそれに従います。』……しかし,結局それはかないませんでした。

最終的に,主は御自身の意志を御父の御心に従わせ,こう言われました。『わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください。』(ルカ22:42)」(「教え,宣べ伝え,癒す」『リアホナ』2003年1月号,21)

マルコ14:36。「この杯」

救い主は,主の贖いの苦しみと死を「杯」として語られることがありました(マルコ14:36マルコ10:38ヨハネ18:11も参照)。この言葉は,聖文上の象徴の長い歴史に由来するものです。「杯」とは,神の怒りを象徴する場合があります。また,邪悪な者に対する裁きと罰を表すこともあります(詩篇75:8イザヤ51:17モーサヤ3:24-26参照)。イザヤは,主が御自分の民の訴えを聞き,主の民が「再びこれを飲むことはない」ようにするために,彼らの手から「よろめかす杯〔と〕わが憤りの大杯」を取り除く日が来ると預言しました(イザヤ51:22)。

復活の後,救い主はニーファイ人に次のようにお教えになりました。「わたしは,父がわたしに下さったあの苦い杯から飲み,世の罪を自分に負うことによって父に栄光をささげた。 わたしは世の罪を負うことによって,初めから,すべてのことについて父の御心に従ってきた。」(3ニーファイ11:11)「怒りの杯」に加えて,旧約聖書には祝福と救いの杯への言及も記述されています(詩篇16:523:5116:13参照)。贖罪の大いなる代償において,救い主は,わたしたちに「祝福の杯」を与えることができるように(1コリント10:16),わたしたちのために「苦い杯」からお飲みになりました(3ニーファイ11:11教義と聖約19:18)。「杯」に関する詳細については,マルコ10:38-39の解説を参照してください。

マルコ14:50-52。「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った」

イエス・キリストは武装した群衆から身を守るに十分な力をお持ちでしたが(マタイ26:51-54モルモン書ヤコブ2:15参照),主がそうなさるおつもりではないことを理解した弟子たちは,恐れて逃げ去りました(マルコ14:50参照)。マルコは,救い主の後について行った,身に亜麻布をまとった若者について詳しく述べています(マルコ14:51-52参照)。彼は,群衆の何人かが「彼をつかまえようと」したために,その亜麻布を彼らの手に残して逃げて行きました。聖書のジョセフ・スミス訳は,その若者がイエス・キリストの弟子であったことを述べています(ジョセフ・スミス訳マルコ14:57〔英文〕参照)。とりわけ,この記述はイエスが弟子たちによって見捨てられ,この後待ち受ける残虐行為に直面するために独り取り残されたことを示しています。

マルコ14:53-65。議会の前での裁判(マタイ26:57-68ルカ22:63-71ヨハネ18:19-24も参照)

ユダヤ人議会の前でのイエスの裁判に関するマルコの記述は,四福音書に記されている中で最長のものです。マルコだけが書き残した重要な詳細の一つは,救い主に不利な証言をした証人たちが矛盾する証言をしたということです(マルコ14:56-59参照)。モーセの律法では,だれかに死刑を宣告するためには少なくとも二人の証人が必要であったため,イエスに対する罪状は無効でした(民数35:30申命17:619:15参照)。救い主は何事にもお答えにならず,黙っておられました。

〔「The Lord Jesus Accused before Caiaphas」の画像〕

The Lord Jesus Accused before Caiaphas, by Debra Whipple

大祭司カヤパはついに,イエスにあからさまに尋ねました。「あなたは,ほむべき者の子,キリストであるか。」(マルコ14:61)マルコによる福音書における「わたしがそれである」という救い主の確言は,四福音書に記録された発言の中で最も率直なものです。イエスはこの力強い発言に,「あなたがたは人の子が力ある者の右に座し,天の雲に乗って来るのを見るであろう」と付け加えられました(マルコ14:62)。このように宣言することにより,救い主は,「人の子」は「天の雲」に乗って来ると言明するダニエル7:13-14と,メシヤは神の右に座すと言明する詩篇110:1を含む,聖文の預言を引き合いに出されました(マルコ12:3613:2616:19も参照)。イエスが御自分についてなされたこの証は,メシヤ,つまり「人の子」としてのイエスの使命を明らかにしました。

救い主の証はまた議会に対し,今は彼らが主を裁いているがやがて主が王座に就き,彼らを裁く時が来ると警告しました。救い主の答えは,目前の苦しみではなく,その先にある将来の勝利,特に御父のもとへの昇天と,将来栄光のうちに再臨される未来を見越しておられたことを示しています。「イエス……は,自分の前におかれている喜びのゆえに,恥をもいとわないで十字架を忍び,神の御座の右に座するに至った」のです(ヘブル12:2)。冒瀆の嫌疑に関する詳細については,マタイ26:61-66の解説を参照してください。

マルコ15:1-2。「ユダヤ人の王」

マルコ15:1-2に記録されているとおり,ユダヤ人議会は,ローマ当局を代表するピラトのもとにイエスを引き連れて行こうと決定しました。議会は,ローマ人には関係のないユダヤ人の問題であった冒瀆の罪ではなく,ローマ人指導者にとって深刻な懸念であった反逆の罪をイエスに負わせたかったのです。ユダヤ人の議会が,冒瀆の罪のためにモーセの律法で定められている投石でイエスを罰した場合(レビ24:14参照),イエスを信じる多くの人々の間で暴動が引き起こされる可能性がありました(マルコ12:37参照)。そのような社会不安はローマ当局からの厳しい報復をもたらします。しかし,ユダヤ人指導者たちが,イエスは自分自身を王にしようとしているとローマ人を説得することができれば,カイザルに対する反逆者としてローマ人自身がイエスを処刑することになります(ルカ23:2参照)。

〔ピラトの前のイエスの画像〕

Jesus before Pilate for the First Time, by James Tissot

マルコ15:23。「イエスに,没薬をまぜたぶどう酒をさし出したが,お受けにならなかった」

旧約聖書は,瀕死の人の苦しみを和らげる麻酔剤としてぶどう酒を使用するユダヤ人の習慣を示唆しています(箴言31:6-7参照)。マルコは,十字架に釘で打ち付けられる直前,救い主に「没薬をまぜたぶどう酒」が差し出されたと記録しました(マルコ15:23)。イエスはそれを拒否し,感覚を鈍らせたり,十字架の刑の痛みを減らさないことを意図的に選択されました。主は意識をはっきりさせておき,贖いの苦しみの残りの部分にかかわるすべての事柄を経験すると決意されたのです(マルコ14:25アルマ7:11-13参照)。

マルコ15:34。「エロイ,エロイ,ラマ,サバクタニ……わが神,わが神,どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46も参照)

死の直前の救い主の言葉を記録するに当たり,マルコは元のアラム語とその翻訳「わが神,わが神,どうしてわたしをお見捨てになったのですか」の両方を記録しました(マルコ15:34)。マルコは,これまでにも福音書で数回このように記録しましたが,これはアラム語を理解しなかったローマ人読者のためのものだったと思われます(マルコ5:417:3414:36参照)。救い主の「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは,詩篇22:1に記録された,罪のために苦しむダビデの言葉をなぞったものでした。イエス・キリストは罪を犯したことが一切なく,そのために御父から霊的に引き離されたことはありませんでしたが,主は,わたしたちの罪による苦しみが十字架上で続く中,その恐ろしい霊的な別離を経験されました(イザヤ53:5-62コリント5:21参照)。

イエス・キリストはその生涯を通じて,常に御父の御霊の祝福を余すところなく受けて来られており(ジョセフ・スミス訳ヨハネ 3:34〔英文〕参照),この御霊が取り去られたとき,救い主は最大の苦痛,悲しみ,そして苦しみを感じられました。しかし,キリストの勝利が完全となるには,このように御父の支え励ます影響力が取り去られることが必要でした。

ジェフリー・R・ホランド長老は,御父がその御霊を御子から取り去られた理由について話しました。

video icon「わたしは自らの確信に基づいて,イエスが完全に御父の御心にかなっておられたこと,完全な御方である御父はその瞬間に御子をお見捨てにはならなかったことを証します。実際,わたしは,キリストが地上で教え導かれた間を通じて,恐らくこの最後の苦悩のときほど,御父が御子の近くにおられたことはなかったと信じています。それでも,御子の至高の犠牲は,それが自発的であればあるほど,また孤独であればあるほど完全なものになるという理由から,御父は短い間,御父の霊がもたらす安らぎと,御父御自身の存在による支えをイエスから取り去られたのです。悪口を言ったことがなく,過ちを犯したことがなく,汚れたものに触れたことがないこの完全な御子は,人類,すなわちわたしたち全員がこれらの罪を犯したときにどのように感じるかをお知りにならなければならなかったのです。無限にして永遠の贖罪を成し遂げるために,イエスは肉体だけでなく霊が死ぬということがどのようなものかを実感し,神の霊が退き,独り残されてこれ以上ないほどの悲惨極まる,絶望的な孤独を感じることがどのようなことかを御自身で理解される必要がありました。

しかし,イエスは堪え忍び,使命を果たし続けられました。極限の苦悩の中にあっても,御自身に備わる至善によって勝利への信仰を持ち続けられたのです。……イエスがただ御独りでそのような長く孤独な道を歩まれたおかげで,わたしたちはそうする必要がないということです。」(「だれも主とともにいなかった」『リアホナ』2009年5月号,87-88)

マルコ15:39。「まことに,この人は神の子であった」

〔十字架上のイエスの画像〕

百卒長は「まことに,この人は神の子であった」と言いました(マルコ15:39)。By James Tissot

マルコの記述では,救い主が亡くなられた後で最初に口を開いた人は,「まことに,この人は神の子であった」と言ったローマ人の百卒長でした(マルコ15:39)。これは,マルコがその福音書の冒頭で述べた「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という言葉を思い起こさせる言葉です(マルコ1:1)。これらの言葉は,ともに救い主の現世における務めに関するマルコの記述の骨組みを作り,イエス・キリストが神の御子であられるというマルコの証を際立たせています。

マルコ15:39。贖罪は御父と御子の御二方の愛を示す

ジェフリー・R・ホランド長老は,イエス・キリストの贖罪がすべての人類のために果たされることをお許しになった御父の愛に対する感謝の気持ちを表しました。

「わたしは,復活された主イエス・キリストだけではなく, 主のほんとうの父であり, わたしたちの霊の父であって神である御方にも感謝をささげたいと思います。……『神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである。〔ヨハネ3:16

未熟ではあっても, わたしも父親の一人です。しかし,あのような方法で自分の愛する息子の深い苦しみとはりつけを見守らざるを得なかった天上の神の苦しみを理解することなどとうていできません。御父の本能と衝動が,苦しみとはりつけを阻止し, 御使いを遣わして妨げようと叫んでいたに違いありません。しかし御父はそうなさいませんでした。目の前に展開されたすべてを堪え忍ばれました。それがアダムとエバに始まり世界の終わりに至るすべての御父の子供たちの罪に対して, 救いの代価を払い得る唯一の方法であったからです。完全である御父と御子に,わたしはとこしえに感謝することでしょう。御二方は苦い杯に臆することはなさいませんでした。また,不完全で力に欠け,容易につまずき, すぐに失敗するわたしたちを見捨てられなかったのです。」(「父親らの手で」『リアホナ』1999年7月号,16参照)

マルコ16:1-7。「イエスはよみがえっ〔た〕」(マタイ28:1-7ルカ24:1-8ヨハネ20:1-3も参照)

マルコはその福音書を「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」,つまりイエス・キリストについての良き知らせと称することで始めました(マルコ1:1)。つまるところ,マルコによる福音書の記述を「良き知らせ」にしているのは,イエス・キリストの贖いの犠牲と復活についてのマルコの証です。ハワード・W・ハンター大管長(1907-1995年)は,イエス・キリストの復活が非常に重要である理由を説明しました。

video icon「イエス・キリストの福音は, 復活がなかったならば, 説明しがたい奇跡と金言の単なる繰り返しにすぎなくなります。すなわち, 究極の勝利のない金言と奇跡になってしまうのです。しかし, 究極の勝利はあの究極の奇跡にあります。なぜならば, 人類の歴史上, 初めて, 死んだ人が不死不滅の命によみがえったのです。その御方こそ神の御子であり, 不死不滅の命を持つ父なる御方の御子でした。肉体と霊の死にまさるその御方の勝利は,キリスト教徒ならばだれしもが唱えるべき喜びの教えです。……

『イエスはよみがえって,ここにはおられない。』(マルコ16:6)この簡潔な言葉の中に, 歴史上最も偉大な出来事である主イエス・キリストの復活が雄弁に語られています。……そして3日目に,確かによみがえられました。主は全人類の救い主であり,復活の初穂であられるのです。この贖いの犠牲により, すべての人は死から救われ, 再びよみがえります。」(「復活についての使徒の証」『聖徒の道』1986年7月号,16-17)マタイ28:6の解説ヨハネ20:11-18の解説を参照してください。

〔残された埋葬用の布の画像〕

右――「もうここにはおられない」ウォルター・レーン画

マルコ16:9-20。マルコによる福音書の結び

マルコによる福音書の初期の写本で最も信頼性の高いものにはマルコ16:9-20が含まれておらず,これらの節で使用されたギリシャ語の文体は,マルコの残りの部分とは異なっています。これは,これらの結びの節がマルコによって書かれたものではなく,マタイ,ルカ,ヨハネによる福音書,使徒行伝の記述とマルコによる福音書の最後をよりよく調和させるために,復活後に救い主が御姿を現された記述を付け加えた筆記者たちによって書かれた可能性があることを示唆しています。写本の差異にどのような理由があるとしても,教会はマルコ16章のすべてを,霊感を受けた聖文として受け入れています。聖文の価値は,だれが書いたかではなく,真理に関する霊感を受けた証に基づいています(2テモテ3:16-172ペテロ1:21教義と聖約68:4参照)。

マルコ16:11-14。弟子たちの当初の疑念

大管長会のジェームズ・E・ファウスト管長(1920-2007年)は,弟子たちにとって,イエス・キリストが死者の中からよみがえられたと信じることが当初非常に難しかった理由を次のように説明しました。

「イエスは十字架につけられ墓に埋葬された後に,栄光に満ちた御方として再び地上に戻られました。けれども,この事実を使徒たちが信じなかったからといって,あまり彼らを責め立ててはいけないと思います。なぜなら, このようなことはそれまでだれも経験したことのなかった前代未聞の出来事だったからです。これは,ヤイロの娘や(マルコ5:22,24,35-43参照),ナインの若者(ルカ7:11-15参照),ラザロ(ヨハネ11:1-44参照)を死からよみがえらせたこととは, まったく異質の出来事でした。この場合には皆また死にました。ところが,イエスの場合には,復活体,すなわち二度と死ぬことのない体になられたのです。……

この経験についてデビッド・O・マッケイ大管長は次のように言っています。『世の人々は,主が十字架におかかりになったときの使徒たちのような,迷いと失望と疑惑に満ちた者たちに動かされることは決してなかったであろう。

この弟子たちをイエス・キリストの福音の確信に満ち, 恐れを知らない英雄的な指導者に変えたのは一体何であろうか。それはキリストが墓からよみがえられたとの啓示であった。主の約束は守られ,メシヤに関する預言は成就した。……復活に対する信仰は,偏見や先入観念と縁のない,懐疑心に満ちた目撃者たちの言葉を土台にしてその強固な基が築かれているのである。』(Treasures of Life, comp. Clare Middlemiss, Salt Lake City: Deseret Book Co., 1962, pp. 15–16.)

「いにしえの使徒たちのように,このような知識と信仰を持つならば,わたしたちは皆,神の御子であるキリストに従う者として,自信を持ち,疑いも恐れも抱かず,平安に生活することができるはずです。そしていかなる重荷にも耐え,いかなる悲しみをも乗り越えて,この世であらゆる喜びと幸福を心ゆくまで味わうことができるはずです。」(「神の賜—贖罪」『聖徒の道』1989年2月号,14-15)

マルコ16:16。バプテスマの必要性

バプテスマの必要性に関する説明については,ヨハネ3:5の解説を参照してください。

マルコ16:17-18。「信じる​者​に​は……​​しるし​が​伴う」

マルコ16:17-18に記録されているように,救い主は弟子たちに,福音を宣べ伝えるために信仰を持ち続けるならば,彼らの努力に奇跡が伴うと約束されました。信じる者には常に奇跡が伴うからです。十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,信じる者には今もしるしが起こり続けていると教えました。

「多くの奇跡が,教会の業において,また会員の生活において,毎日,起こっています。皆さんの多くが,自分で気づいている以上に,奇跡を目の当たりにしています。……神権の力によって行われる奇跡は,いつもイエス・キリストのまことの教会に存在しています。モルモン書は次のように教えています。『神は人が信仰によって偉大な奇跡を行うことができるように,一つの手段を与えてくださいました。』(モーサヤ8:18)神から与えられたこの『手段』とは神権の力であり(ヤコブの手紙5:14-15教義と聖約42:43-48参照),その力は信仰によって奇跡を行います(エテル12:12モロナイ7:37参照)。聖典にはそのような奇跡について多くの記述が含まれています。エリヤがやもめの息子をよみがえらせたこと,そしてペテロが足の不自由な者を癒したことは,聖書からのよく知られている二つの例ですが(列王上17:8-24使徒3章参照),ほかにもたくさんの記述があります。……

当時十二使徒定員会の一員であったスペンサー・W・キンボール長老(1895-1985年)はこのように述べました。『今日も,わたしたちが考える以上に奇跡が起こっています。

どのような奇跡が起こっているのでしょうか。啓示,示現,異言,癒し,特別な導きと指示,悪霊を追い出すことなど,あらゆる種類の奇跡です。それらはどこに記録されているでしょうか。教会の記録,日記,新聞や雑誌の記事,そして多くの人々の心と記憶の中に記されています。』〔‘The Significance of Miracles in the Church Today,’ Instructor, Dec. 1959, 396〕

わたしたちのほとんどは,わたしたちや愛する人々の生活の中で起こった奇跡を知っています。誕生と死,奇跡的な癒しなどです。これらはすべて,『わたしの名を信じるすべての者に,わたしは数々の奇跡としるしと不思議を示そう』という主の現代の約束の成就なのです(教義と聖約35:8)。」(“Miracles,” Ensign, Jun. 2001, 6, 8–9).

マルコ16:19。「主イエスは……天にあげられ,神の右にすわられた」(ルカ24:51使徒1:9も参照)

マルコ16:19は,救い主が天に昇られたことに関する新約聖書の最初の記述です。これには,天の神の右に座すという救い主の以前の宣言の成就が記録されています(マルコ12:35-3614:62詩篇110:1参照)。大管長会のヒュー・B・ブラウン管長(1883-1975年)は,イエス・キリストの贖罪の集大成としての昇天の重要性について次のように記しています。「わたしたちは,キリストの贖罪の物語が,これまでに語られたすべての史実の中で最高の物語であると信じています。贖罪の達成に不可欠であった主の復活と昇天の記録は,この物語のクライマックスです。そして,その出来事から2,000年たった今でも,キリスト教のまことの原理すべての中枢であり,きわめて重要な記録なのです。」(Continuing the Quest [1961], 74).