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第7章:マタイ19-23章


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マタイ19-23章

マタイ19-23章の紹介とタイムライン

イエス・キリストの現世における務めが終わりに近づいてきました。ガリラヤからユダヤへの最後の旅,そしてエルサレムでの数日間の後,その務めが完了します。現世の生涯が残り数週間となった救い主は,結婚の神聖さ,聖約を守る者に対する永遠の命の報い,そして神を愛し,隣人を愛するという二つの大切な戒めなどの王国の教義をお教えになりました。何が待ち受けているかを御存じであった救い主は,エルサレムに正々堂々と入られてユダヤ人指導者たちと相対し,主を殺そうという彼らの秘密のたくらみを明かして,その偽善をおしかりになりました。

〔第7章のタイムラインの画像〕

マタイ19-23章の解説

マタイ19:1-12。「神が合わせられたものを,人は離してはならない」(マルコ10:2-21も参照)

救い主が現世における務めをなされた時代,離婚は厄介な問題であり,結論が出ないままラビたちの間で討論されていました。多くの人はささいな理由でさえも離婚を正当化していました。パリサイ人は,離婚についてイエスに尋ねることによって,イエスを論争に巻き込もうとしました。それに対し,救い主は夫婦の一致と永久性の理念を示したアダムとイブに言及して,結婚の神聖さを強調しお答えになりました(マタイ19:4-6参照。創世2:24も参照)。

マタイ19:7には,パリサイ人が申命記第24章1節を参照したと記録されています。彼らの指導者の一部はこの聖文を,男性が女性と結婚し,女性が男性を喜ばせなければ,男性はその女性に離縁状を渡すことができるという意味に解釈していました。モーセが離婚を許した理由を尋ねられたイエス・キリストは,「モーセはあなたがたの心が,かたくななので,妻を出すことを許したのだが,初めからそうではなかった」と言われました(マタイ19:8;強調付加)。末日の聖文は,結婚が主の幸福の計画において永遠に続くように意図されていることを確かにしています(教義と聖約132:15-20伝道3:14モーセ4:18参照)。

十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,離婚の深刻さについて次のように教えました。

「現代の預言者は,結婚を『自分の都合で始め,……最初の困難に直面するとすぐに破棄する単なる契約と〔見なすことは〕,……邪悪であり,厳しい罪の宣告を招く』〔デビッド・O・マッケイ,Conference Report, Apr. 1969, 8–9で引用〕と警告しています。特に子供たちを苦しめる場合はそうです。

古代においてだけでなく,現在教会員が住んでいる一部の国の部族内のしきたりにおいても,男性はささいなことで妻を離縁する権限を持っています。女性に対するそのような不義で不当な権力行使は,救い主によって拒否されました。〔マタイ19:8-9参照〕」(「離婚」『リアホナ』2007年5月号,70)

ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は次のように教えました。「ときには,正当な理由があって離婚することもあるでしょう。離婚が絶対に悪いとは申しません。しかし,各地でなお増えつつあるこの災いは,神から来るものではなく,義と平和と真の敵である者の働きによるものであると,はっきり申しあげます。」(「神が合わせられたもの」『聖徒の道』1991年7月号,75)

マタイ19:9。離婚した人が再婚するのは姦淫となるのでしょうか。(マルコ10:11ルカ16:18も参照)

ダリン・H・オークス長老は,わたしたちの時代,離婚した人は新たな結婚が姦淫と見なされることなく再婚できるが,日の栄えの王国では離婚はないと説明しました。「昇栄を目指す結婚には,離婚は想定されていません。結婚生活は永遠に存続すると信じ,互いに神のようになることを目標としているからです。二人は主の神殿において永遠に結婚します。しかし,ある結婚はそうした理想に向かって進みません。『〔わたしたち〕の心が,かたくななので』〔マタイ19:8〕主は日の栄えの標準に基づく結果を今は強要なさいません。主は離婚した人も,より高い律法で定められている不道徳の染みがないものとして,再び結婚することを認められるのです。」(「離婚」70)

マタイ19:12。「天国のために,みずから進んで独身者となったもの」

マタイ19章の12節は,救い主が独身でいること,または自傷行為を認めておられるように見受けられるかもしれません。しかし,現代の預言者と使徒は,「男女の間の結婚は神によって定められたものであり,家族は神の子供たちの永遠の行く末に対する創造主の計画の中心を成すものであること……増えよ,地に満ちよ,という神の子供たちに対する神の戒めは今なお有効」であることを明確にしました(「家族—世界への宣言」『リアホナ』2010年11月号,129)。

十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,昔,独身生活を追求すべきだという誤った信念を持っていた人がいたことについて説明しました。「自ら宦官となった男性は,そのような自傷行為が自分の救いをいっそう確実にするという背教的概念によって,自分の体を故意に傷付けたようです。この行為が,まことの福音によって求められるべきものではなかったことは明白です。意図的な去勢などというものは福音にはありません。そのような概念は,生殖や日の栄えの結婚の真の原則すべてに反しています。」(Doctrinal New Testament Commentary, 3 vols. [1965–73], 1:549

マタイ19:13-15。幼子

聖書のジョセフ・スミス訳マタイ19:13-14には次のように書かれています。

「そのとき,イエスに手をおいて祈っていただくために,人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが,弟子たちは彼らをたしなめた。『その必要はない。幼い子供たちは救われると,すでに主が言っておられる。』

するとイエスは言われた,『幼子らをわたしのところに来させ,それをとめてはならない。天国はこのような者の国である。』」(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」マタイ19:13。14節は英文から和訳)

マタイ19:16-22。キリストと金持ちの若い役人(マルコ10:17-22ルカ18:18-23も参照)

金持ちの若者がイエスのもとに来て,永遠の命を得るには何をする必要があるかと尋ねました(マタイ19:16-22参照)。救い主はこの世的な所有物をすべて手放して主に従うよう彼に言われましたが,富はこの若者の心を非常にしっかりと掴んでいたため,彼は永遠の命を受け継ぐために必要な犠牲を払おうとせず,悲しみながら去っていきました。この記述は,現世における真の目標が何なのかを曖昧にしてしまう物質的所有物の力を表しています。しかし,この若者の判断が最終的なものであったかは伝えられていません。彼がイエスの指示を完全に拒否したのかどうかは分かりません。

〔「Christ and the Rich Young Ruler」の画像〕

Christ and the Rich Young Ruler, by Heinrich Hofmann

十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は,この金持ちの若者の教訓を引用して,救い主の勇敢な弟子であるとは,罪を避けるだけでなく,積極的に良いことを行うという意味であると教えました。

「キリストの弟子となることにおいて勇敢にならなければ,大きな幸せを逃してしまいます。このため,積極的に邪悪を避けることの後には,義への積極的な関与が続かなければなりません。そうすることによって,わたしたちは真の喜びを知ることができます——つまるところ,『人が存在するのは喜びを得るため』なのです(2ニーファイ2:25)。

わたしたちが霊的に完全になることを妨げるのは,怠惰の罪であることが大半です。これは,わたしたちにまだ特定の何かが欠けているからです。イエスのもとに来て『先生,永遠の生命を得るためには,どんなよいことをしたらいいでしょうか』と尋ねた金持ちで義にかなった若者のことを覚えていますか。……

その結果,その若者だけの特別な戒めが彼に与えられました〔マタイ19:21-22参照〕。それは彼が行わなければならなかったことであり,彼が完全になることを妨げているためにやめる必要があったことではありませんでした。」(“The Pathway of Discipleship” [Brigham Young University fireside, Jan. 4, 1998], 4; speeches.byu.edu

マタイ19:24。らくだを針の穴に通す

針の穴とはエルサレムの城壁にある小さな入口で,そこを通り抜けるにはらくだがその荷を下ろさなければならなかったと言う人もいますが,そのような入口がかつて存在したという証拠はありません。また,ギリシャ語本文の1文字を変更することで,聖文が,らくだではなくロープを針の穴に通さなければならないという意味に変わると主張した人もいます。しかし,イエス・キリストが針の穴を通るらくだについて言われたのは,恐らく誇張法,つまり「富んでいる者が天国にはいるのは,むずかしい」(マタイ19:23)ことを教えるための意図的な誇張表現の例であったと思われます。聖書のジョセフ・スミス訳では次のように付け加えています。「富に信頼を置く者にはできないが,神に信頼を置き,わたしのためにすべてを捨てる者にはできるこのような者には,これらのどんなことでもできるからである。」(ジョセフ・スミス訳マルコ10:26〔英文〕から和訳)

ブリガム・ヤング大管長(1801-1877年)は,富を蓄えるときに人々が直面する困難について話しました。「この民についてわたしが最も恐れていることは,この国で豊かになり,神と神の民を忘れ,肥え太り,自分自身を教会から追い出してしまうことです。……この民は暴徒の暴徒,略奪,貧困,そしていかなる迫害にも耐え,忠実さを貫くでしょう。しかし,わたしがもっと恐れているのは,彼らが富に耐えられないことです」(James S. Brown, Life of a Pioneer [1971], 122–23で引用)。

マタイ19:27-29。イエス・キリストのためにこの世を捨てる

イエス・キリストに従うために所有物を手放そうとしなかった金持ちの若者とは対照的に,ペテロは,彼と仲間の使徒たちが,救い主に従うために「いっさいを捨て」たと宣言しました(マタイ19:27)。今の時代,わたしたちも救い主の弟子として必要とされる犠牲を進んで払う必要があります。十二使徒定員会のM・ラッセル・バラード長老は,自分の家を捨て,荒れ野を越えなければならなかった末日聖徒たちが払った大きな犠牲を思い返し,また,彼らの霊的な力は福音の聖約を守ることによってもたらされたと教えました。

〔ビデオアイコンの画像〕「初期の聖徒が耐えた困難や払った犠牲についてよく耳にし,わたしたちはこう言います。『開拓者はどうやってそんなことができたのだろうか。』……初期の末日聖徒らは神と聖約を交わしました。そしてその聖約は心の中で消せない炎のように燃えたのです。

わたしたちは時々,聖約より自分の都合に合わせて生活するよう誘惑を受けることがあります。確かに,福音の標準に添って生活し,真理を擁護し,回復を証するというのは,都合のいいことばかりではありません。福音をだれかに分かち合うのも,たいてい不都合なことです。教会の召しを受けること,特に自分の能力を上回るような召しを受けることも,必ずしも都合のいいことではありません。またわたしたちは,意義ある方法で奉仕をすると聖約しましたが,そのような機会がこちらの都合に合わせて訪れることはまれです。だからといって自分の都合に合わせて生活すると,そこに霊的な力は宿りません。そのような力は,わたしたちが聖約を守るときにもたらされるのです。」(「消せない炎のように」『リアホナ』1999年7月号,103)

〔十二使徒をお教えになるイエスの画像〕

十二使徒をお教えになるイエス

マタイ20:1-16。労働者のたとえ

イエスの時代では,人が集まる中心地に地主が出向き,日雇い労働者を雇うことが一般的な慣習でした。このたとえでは,家の主人は朝6時ごろに市場に行き,1デナリ(当時の平均的な日給)で働く労働者を雇いました。彼が午前9時,午後3時,そして午後5時に市場に戻ると,働く意欲がある人が他にもいたので,彼らを雇い,「相当な賃金」(マタイ20:4,7)を払うと約束しました。

労働時間が最も少ない人から順に賃金を払うこと(マタイ20:8参照)は珍しかったと思われますが,このたとえは,イエスがマタイ19:30で「多くの先の者はあとになり,あとの者は先になるであろう」とお教えになったことの延長です。午後5時に雇われた人たちは,晩年に改心し,その後王国で熱心に働く人を表すのかもしれません。このたとえが示している一つの真理は,人が青少年期,青年期,晩年期に,または時には霊界でキリストの弟子となるかどうかにかかわらず(教義と聖約137:7-8参照),永遠の命は主との神聖な聖約を交わし,それらを守る人すべてに対する報いだということです(教義と聖約76:9584:3888:107参照)。

ジェフリー・R・ホランド長老は,この労働者のたとえから,次の追加の教訓を教えました。

「このたとえは,羊や山羊のたとえと同様,ほんとうは労働者や賃金について述べているのではありません。神の慈しみ,神の忍耐と赦し,主イエス・キリストの贖いについての物語です。寛容と哀れみの物語であり,恵みについての物語です。何年も前に聞いたことですが,神御自身が最も喜ばれるのは,憐れみを受けることを期待していない人やその資格がないと感じている人に,憐れみを施されるときであり,このたとえが言わんとしていることは,まさにそれを表しているのです。

……自分でもう手遅れだと思い込み,機会を逃したと考え,多くの過ちを犯してしまったと感じていても,あるいは自分には才能がないと思い,家庭や家族からも,神からも,遠く離れてしまったと感じていても,わたしは証します,あなたは神の愛が及ばないほど遠くにいるわけではありません。キリストの贖いの無限の光が届かない深みなどあり得ないのです。

……永遠という時が流れてもなお実現することのない夢など一つもありません。たとえ自分は11時間忘れられていた最後の労働者だと感じたとしても,ぶどう園の主は今なお立って招いておられます。

……神の関心は,皆さんが最後にどのような信仰にたどり着くかであって,いつたどり着いたかではないのです。

ですから,聖約を交わした人は守ってください。まだの人は聖約を交わしてください。交わした聖約を破っている人は,悔い改めて,正してください。ぶどう園の主人がまだ時間があると言われるかぎり,遅すぎることは決してないのです。」(「ぶどう園の労働者たち」『リアホナ』2012年5月号,32,33)

マタイ20:22-23。救い主の杯を飲むことは何を意味しますか。

救い主の杯を飲むことが何を意味するのかを理解するための助けについては,マルコ10:38-39の解説を参照してください。

マタイ20:28。イエス・キリストは「多くの人のあがないとして,自分の命を与えるため」に来られた

イエス・キリストが払われた「代価」を理解するための助けについては,マルコ10:45の解説を参照してください。

マタイ20:29-34。目の不自由な人の癒し

目の不自由な二人の人の癒しについて読むには,マルコ10:46-52の解説を参照してください。

マタイ21:1-11。ろばでのエルサレムへの入城(マルコ11:1-10ルカ19:29-44ヨハネ12:12-19も参照)

過越の祭の間の救い主のエルサレムへの勝利の入城は,ゼカリヤ9:9-10に記録された預言がそのまま成就し,イエスがメシヤであられることを公に宣言しました。古代,ろばはユダヤ王族の象徴でした。サウロ王が即位して以来,ユダヤ人は古代イスラエルの君主制時代に,王がろばに乗ってエルサレムに入城する再即位の儀式を毎年行っていました。ろばに乗った王は,市の東側からエルサレムに近づき, オリブ山とケデロンの谷を通り,神殿にやって来ました。これらの儀式は,これと同じ方法でメシヤが人々のもとに来られるときを待ち望むものでした。かくして,エルサレムがユダヤ人で溢れ返っているときに,イエスは御自分がメシヤ,イスラエルの王であられることを示す方法でエルサレムに入城されました。ろばに乗っておられたことは,イエスが軍馬に乗った征服者としてではなく,平安な「身を低くされた」救い主として来られたことも示していました(ゼカリヤ9:9-10参照)。

再臨のとき,イエスは偉大な力と栄光をもって地上に戻られます。ヨハネの黙示録では,イエスの栄光の象徴として,イエスがエルサレムまで乗られたろばではなく,「白い馬」に乗って地上に来られることが説明されています(黙示19:11-16参照)。

〔「Christ’s Triumphal Entry into Jerusalem」の画像〕

Christ’s Triumphal Entry into Jerusalem, by Harry Anderson

マタイ21:8。「自分たちの上着を道に敷いた」群衆(マルコ11:8ルカ19:36も参照)

ブルース・R・マッコンキー長老は,主がエルサレムにお入りになったときに群衆が上着と木の枝を主の前に敷いたことの重要さについて説明しました。「このような並外れた尊敬のしるしを受けるのは王や征服者しかいませんでした。(列王下9:13)……賛美と救いと解放に対する嘆願の叫びの真っただ中,わたしたちは,主の通り道に勝利のしるしであるしゅろの枝を敷く弟子たちを見ます。この劇的な場面はすべて,『大ぜいの群衆』……が『白い衣を身にまとい,しゅろの枝を手に持って,御座と小羊との前に』立ち,大きな声で『救は,御座にいますわれらの神と小羊からきたる』と叫ぶ,将来の集合を予示しています。(黙示7:9-10)」(Doctrinal New Testament Commentary,1:578

マタイ21:9-11。「ホサナ」(マルコ11:9-10ルカ19:38ヨハネ12:13も参照)

ホサナとはヘブライ語で「『お救いください』の意味。賛美や嘆願の中で用いられる。……主がエルサレムへの勝利の入城をされたときに,群衆は『ホサナ』と叫び,イエスが通られる所になつめやしの枝を敷いた。それは,イエスが昔イスラエルを救い出された主と同じ御方であることを,彼らが理解していたことの表れである(詩篇118:25-26マタイ21:9,15マルコ11:9-10ヨハネ12:13)。彼ら​は,長く​待ち望んで​きた​メシヤ​として​キリスト​を​認めた​の​で​あった。」(『聖句ガイド』「ホサナ」の項,scriptures.lds.org)「町中がこぞって騒ぎ立ち」(マタイ21:10)という表現は,イエスの勝利の入城が町中に言い広められ,多くの人が知っていたことを示唆しています。

マタイ21:17-22。実を結ばないいちじくの木

〔いちじくの画像〕

いちじく

Photograph by Richard L. W. Cleave

いちじくの木に生い茂った葉は,すでに実がなっていることを思わせますが,この木には実がありませんでした。この木は,その紛らわしい外見のために偽善の象徴とされ,その結末は,義を公言しながらも救い主の死をたくらんだ人々を待ちうける結末を表していたのかもしれません。ジェームズ・E・タルメージ長老(1862-1933年)は,この記述から学ぶもう一つの真理は,イエスが「一言で滅ぼす力」をお持ちであったことであると述べました。この真理は,それからほんの数日後,自ら進んで捕らえられ,十字架におかかりになったことが「まったくイエスの心から出たもの」であったことに対して,わたしたちが感謝の気持ちを持つ助けとなります(『キリスト・イエス』第3版,513)。

マタイ21:12-16,23-27。「何の権威によって,これらの事をするのですか」

エルサレムのユダヤ人指導者たちは,イエスのエルサレムへの勝利の入城と宮の清めを彼らの権威に対する挑戦と見なしました(マタイ21:15-16参照)。宮の中で行われていた両替は宮の祭司たちが管理し,それによって利益を得ていました。イエスが台をくつがえし,宮を「わたしの家」と言われたとき(マタイ21:13),主はそれらを行う彼らの権威について公然と疑問を投げ掛けられたのでした。その後,イエスが宮でお教えになっておられたとき,ユダヤ人指導者たちは「何の権威によって,これらの事をするのですか」と尋ね,大げさな態度でイエスに挑戦しました。(マタイ21:23

祭司たちは彼らの祖先,律法学者たちは彼らの教育,そして長老たちは彼らの社会的立場と富に基づいたそれぞれの権威を主張しました。しかし,救い主は御父からの権能をお持ちであり,それは民への務めの全般における主の教えと業に現れていました(マタイ7:29マルコ1:27ヨハネ3:2参照)。救い主は,ユダヤ人指導者たちの挑戦に別の質問でお答えになり,彼らを黙らせました(マタイ21:25参照)。それは,明白な教えを与える絶好の機会を作りだしました。救い主は挑戦者たちとそれを聞く群衆に,悔い改めず,主を信じないユダヤ人指導者たちにかかわるたとえを3つ続けて教え始められました(マタイ21:28-4422:1-14参照)。

マタイ21:28-32。二人の息子のたとえ

ブルース・R・マッコンキー長老は,このたとえの意味を説明しました。

「息子たちの父親は,地上のぶどう園で子供たち全員に仕事を提供してくださる神御自身です。父親のぶどう園で働くことを最初は拒否したものの,後で心を変えて父親のために働いた息子の一人は,以前の罪を悔い改めて,御父のために忠実な僕となった取税人と遊女の象徴です。……

ぶどう園での仕事を喜んで引き受けたものの,任された仕事を行わなかったもう一人の息子は,御父の業のためだと公言しながら,実際にはぶどう園を衰退させているユダヤ人指導者たちの象徴です。……

マタイ21:31で,イエスは〕……悔い改めが,実際に効力のある現存かつ不変の原則であることを力強く分かりやすい言葉でお教えになります。『キリスト・イエスは,罪人を救うためにこの世に来てくださった。』(1テモテ1:15)取税人と遊女が,ほんとうに神の王国に入れるのでしょうか。入るのです。悔い改めて戒めを守るならば,祭司長,律法学者,長老たちでさえも同様です。」(Doctrinal New Testament Commentary,1:589–90

マタイ21:33-46。邪悪な農夫のたとえ

このたとえでは,主人が神御自身を,農夫がイスラエルの指導者たちを,そして僕がイスラエルの民を教えるために遣わされた預言者を表します。主はこのたとえを通じて,これまでの数世紀の間,イスラエルの指導者たちがエリヤ,イザヤ,エレミヤ,アモス,その他数多くの預言者たちを拒んできたとお教えになりました(列王上19:10歴代下36:15-16参照)。「最後に」やってきて,「ぶどう園の外に引き出」されて殺された「あと取り」(マタイ21:37-39)はイエス・キリストを表します。たとえのこの部分は,イエスが市外に連れていかれ,殺される3日後に成就します(へブル13:12参照)。

次に,捨てられた石が「隅のかしら石」になる(マタイ21:42)という預言に言及することによって,主はユダヤ人指導者たちに対し,御自身がメシヤであり,主を拒むことが恐ろしい結果を生むとお伝えになりました。

マタイ22:2-10。王の息子の婚宴のたとえ

王からの招待は命令と同じです。招待を拒むことは,王とその権威を拒むことになります。主はこのたとえを通じて,ユダヤ人指導者たちが招かれた客として,神によって催された宴にあずかることを拒否しているとお教えになりました。招待をあからさまに断る(マタイ22:3参照),王の招待に応じるよりも,自分がしたい事の方が大切だと感じる(5節参照),王の僕を拒絶する(6節参照)といった態度は,客が王を拒んでいることを示していました。これらは,現代社会においても表れている態度であり,神の王国に入るにはふさわしくないことを示します。(これに似た晩餐のたとえに関する洞察については,ルカ14:12-24の解説を参照してください。)

マタイ22:11-14。「礼服をつけていないひとりの人」

古代,王などの裕福な人が,婚宴などの行事のための着用にふさわしい衣服を招待客に提供することが習わしであったこともありました。婚宴に招待されていたにもかかわらず,この人は王の望んだ方法ではなく,自分のしたいように出席することを選択したため,その場に残ることを許されませんでした。全員が招かれているとは言えども,神の王国に入るには必要な条件があります(マタイ22:9参照)。必要な衣服の意味は記載されていませんが,聖文のほかの箇所では,衣と上衣が主の御前に入るために必要な資質である義と純潔を象徴していることが頻繁にあります(イザヤ61:10黙示19:82ニーファイ9:14教義と聖約109:76参照)。今日神殿で着用する衣服は,わたしたちが神の御前に入るための準備として,聖約,義,純潔の衣をまとうことを象徴します。主の贖いの守りの衣を受け入れ,身に着けなければ,神の御子のすばらしい「婚宴」に参加することはできません(黙示19:8-9参照)。

マタイ22:15-22。カイザルのものはカイザルに,神のものは神に返しなさい

マタイは,パリサイ人とヘロデ党の者たちの両者が,「カイザルに税金を納めてよいでしょうか,いけないでしょうか」という質問でイエスをわなにかけようとしたことを記録しました。(マタイ22:17ハワード・W・ハンター大管長(1907-1995年)は,この質問が生じたジレンマを説明し,救い主の回答から学ぶ真理を明らかにしました(創世1:26-27黙示 3:12アルマ5:14も参照)。

「もしイエスが『税金を治めなさい』とお答えになっていれば,反逆者と呼ばれ, イエスとイエスに従う人々との間に亀裂を生み,対立が起こっていたでしょう。もし『税金を払うのは許されない』とお答えになっていれば,反逆の罪でイエスをローマの手に引き渡されていたでしょう。

イエスの敵対者は,イエスがどちらの窮地を選んでも,その角で突かれるように仕向けたのです。

〔救い主の〕回答の英知は,二重主権の欠点と,天と地の二つの帝国の管轄権を定義しています。貨幣に刻まれた君主の像は,現世の物が現世の主権者に属することを示し,人の心と魂に刻まれた神の像は,人の才能と力のすべてが神に属し,これらが神への奉仕に使われるべきであることを示しています。」(Conference Report, Apr. 1968, 64–65で引用)

マタイ22:23-30。復活時における結婚

マタイ22:30にある救い主の言葉を,永遠の結婚が存在しないことを意味するものとして誤って解釈している人がいます。ジェームズ・E・タルメージ長老は,救い主の言葉は復活後に結婚が存在しないのではなく,復活後には結婚が執り行われないことを述べていると指摘しています。「復活の状態で,彼らはめとったり嫁いだりしないであろう。……夫婦の状態に関するあらゆる問題が,そのときまでにすでに解決されるに違いないからである。」(『キリスト・イエス』534)

救い主のこの言葉を理解するうえで重要な点は,それが『復活ということはない』(マタイ22:23)と主張していたサドカイ人たちに向けられたものであったと覚えておくことです。そのため,彼らが救い主に尋ねた質問は偽善的なものであり,復活時における婚姻関係について心から知りたいとは思っていなかったのです。『復活のときには,彼らはめとったり,とついだりすることはない』(マタイ22:30;強調付加)という救い主の答えは,質問者が『わたしたちのところに七人の兄弟がありました』(マタイ22:25;強調付加)と言ったことから,サドカイ人であったその当人たちについて言及したものでした。永遠の結婚をしない人たちの結婚は,来世まで続くものではありません(教義と聖約132:15-17)。この末日に,主は,結婚が主の律法に基づいて,権能を持つ者によって執り行われ,約束の聖なる御霊によって結び固められる場合にのみ永遠となり得ることを明らかにされました(教義と聖約132:19)。

救い主の言葉を理解するためのもう一つの重要点は,サドカイ人がモーセの言葉を参照したとき(マタイ22:24),彼らが時折「レビレート婚」とも呼ばれる結婚を指していたことです。モーセの律法によると,結婚して子供が無いまま夫が死亡した場合,その夫の兄弟が故人の妻と結婚して彼女を養い,故人のために子供をもうけることになっていました(申命25:5Bible Dictionary“Levirate marriage”参照)。

永遠の結婚の教義は聖書で明確に教えられていませんが,聖書には,夫と妻について「いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者」(1ペテロ3:7),「すべて神がなされることは永遠にかわることがな〔い〕」(伝道3:14),「主にあっては,男なしに女はないし,女なしに男はない」(1コリント11:11)と記されています。

マタイ22:35-40。二つの大切な戒め

エズラ・タフト・ベンソン大管長(1899-1994年)は,第一の大切な戒めの重要さと,この戒めの第二の戒めとの関係について話しました。

〔ビデオアイコンの画像〕「心を尽くし,思いを尽くし,精神を尽くし,体力を尽くして神を愛するということは,すべてを燃焼し尽くすということです。いい加減な努力ではだめです。肉体的に,精神的に,情緒的に,そして霊的に,わたしたちの存在すべてをかけて主を愛するのです。

この神への愛は,人生のあらゆる面に広がっていきます。わたしたちの望みは,霊的なものであれ,物質的なものであれ,主への愛に根ざしたものでなければなりません。思いや感情は主を中心としたものであるべきです。……

主はなぜこの戒めを第一にもってこられたのでしょうか。それは,わたしたちが心から主を愛せば,他のすべての戒めも守りたいと思うことを御存じだったからです。……

わたしたちは生活の中で神をすべてのものよりも先に置かなければなりません。

ヨセフはエジプトで何を頭としたでしょうか。神でしょうか,仕事でしょうか,それともボテパルの妻でしょうか。ポテパルの妻の誘惑に対してヨセフはこう言いました。『どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって,神に罪を犯すことができましょう。』(創世39:9)……ヨセフはこの選択に迫られたとき,雇い主の妻ではなく神に喜んでいただくことを考えました。わたしたちも選択しなければならないとき,上司や教師,隣人,恋人ではなく,神に喜んでいただく方を選ぶでしょうか。

もしだれかが神殿以外で皆さんと結婚したいと言ったら,皆さんは神と人のどちらに喜んでもらおうとしますか。神殿に参入する資格を身につけてください。そうすれば,神殿以外ででも結婚したいと思うほど良い相手などいないことが分かるでしょう。神殿以外で結婚できるほど良い人であれば,自らを神殿で結婚できる状態に備えることでしょう。

わたしたちは,第一の戒めを第一に置く時に,同胞に最も大きな祝福を及ぼすことができます。」(「偉大な戒め—主を愛する」『聖徒の道』1988年6月号,4-6。マルコ12:28-34も参照)

マタイ22:41-46。「あなたがたはキリストをどう思うか」

〔石の座の画像〕

「モーセの座」(マタイ23:2)。この石の座はコランジにある会堂の発掘時に見つかったもので,同じような石の座がほかの古代会堂でも発見されています。これらは,モーセの律法の律法学者と他の教師によって使われたのかもしれません。だれかの座席に座るということは,その人物の後を継ぎ,彼に代わって役割を果たすことを意味しました。律法の教師として,律法学者はモーセの後継者でした。

Photograph by James Jeffery

イエスはマタイ22:41-46で,ダビデの霊感を受けた詩(詩篇110:1参照)を参照されました。ダビデはこの詩で,ダビデの子がメシヤとなると預言されていたにもかかわらず,メシヤを彼の主と呼びました。パリサイ人は,メシヤがイスラエルの国を救う地上の王であると信じていましたが,ダビデは御霊によって霊感を受け,メシヤが神の御子であることを知っていました。このため,ダビデは自分の子孫を主と呼ぶことができたのです。救い主は,パリサイ人自身の聖文によると,キリストは単にダビデの子であるだけではなく,神の御子でもあるとパリサイ人にお教えになりました。

デビッド・O・マッケイ大管長(1873-1970年)は,「あなたがたはキリストをどう思うか」という質問の重要性についての洞察を教えました。「キリストについて心の中で真剣に考えていることが,あなたがどのような人物かを決定し,将来どのような行動を取るかを大きく左右します。この聖なる御方を研究し,主の教えを受け入れる人で,自分を鼓舞し,洗練させる力が自分自身の中にあることに気づかない人はいません。」(Conference Report, Apr. 1951, 93で引用)

マタイ23:1-5。「彼らは経札を幅広くつく〔る〕」

〔経札の画像〕

前腕周りと額につけられた現代の経札

Photograph by James Jeffery

イエスは,律法学者とパリサイ人が人を神に近づける真理を教えており,それらが従われるべき教えであると認めることによって,彼らに対する批評を始められました。しかし,律法学者とパリサイ人は自らの教えに従っておらず,自尊心と利己心から行動していました(マタイ23:1-5参照)。

律法学者とパリサイ人が「経札」を身に着けた方法は,彼らの自尊心を表していました。ユダヤ人は,出エジプト記第13章9節申命記第6章8節の伝統的な解釈から,額と腕に固定される小さな革製の箱であるテフィリン,つまり経札を着用する習慣を取り入れました。経札の中には小さな羊皮紙の巻物が入っており,これには幾つかの旧約聖書本文(出エジプト13:2-10,11-16申命6:4-911:13-21)の全文または一部が刻み込まれていました。ユダヤ人の大半は祈りの時間のみ経札を着けていましたが,パリサイ人は時折,経札を一日中着けていました。パリサイ人は,彼らの信仰深さに注意を引くように,「衣のふさを大きく」した,つまり大きくした箱を着用していました(マタイ23:5)。救い主はまた,「長い衣」を着て人の注目を集める律法学者の例に倣わないよう弟子たちに警告されました(ルカ20:46)。

マタイ23:5-6,11-12。「あなたがたのうちでいちばん偉い者は,仕える人でなければならない」

救い主は,人に見られ,褒められようとする律法学者とパリサイ人の努力について彼らをおしかりになりました。ハワード・W・ハンター大管長も同様に,地位を気に留めることなく奉仕するよう勧告しました。「地位に対して意識過剰にならないでください。『上座(じょうざ)』や『上席(じょうせき)』を好んだ人々に対して主がどのような助言をお与えになったかを思い出してください。『あなたがたのうちでいちばん偉い者は,仕える人でなければならない。』(マタイ23:6,11)感謝を受けることも大切ですが,わたしたちの関心は義を行うこと,奉仕することになければなりません。人に認められ,地位を得ることへ関心が注がれてはなりません。毎月毎月,黙々とその責任を果たしている訪問教師がいますが,主の御業という観点から見れば,彼女たちは一部の人々が教会でより高いと考えている地位にある人々と,重要であることに何ら変わりはないのです。目に見える物が価値を決定するわけではないのです。」(「教会の姉妹たちへ」 『聖徒の道』1993年1月号,109)

マタイ23:13-33。偽善者に宣告された災い

偽善者」という言葉は「役者」を意味するギリシャ語の訳で,何かのふりをする人,何かを誇張する人,不正直なために行動に矛盾がある人を指します。主は,心は傲慢で不誠実であるのに,モーセの律法に対する表面的な従順さを誇張していることについて律法学者とパリサイ人を非難されました。救い主は,偽善的な行いのために律法学者とパリサイ人に降りかかる一連の8つの「災い」を宣告されました。災いという言葉は,大きな苦痛または不運によってもたらされる悲惨な状態,苦悩,悲しみを意味します。次の図は,主が偽善とされた律法学者とパリサイ人の行動の幾つかを簡単に説明したものです。

マタイ23章

偽善とされた律法学者とパリサイ人の行動

13節

キリスト,キリストの教会,そしてキリストによって差し伸べられた救いを拒んだだけでなく,他者がキリストとその救いを受け入れることも妨げようとした。

14節

欲深く物質主義で,他人の不幸につけこんだ。

15節

人の心を偽りの信仰に向けさせた。

16-22節

誓いを通じて,宮が賛美する主よりも,宮の金と調度品を敬った。

23節

律法に従ってはいたが,その律法の基であったより重要な教義や原則を無視した。

25-28節

義の外面的な見せ掛けの下に,内面的な貪欲さと利己心を隠した。外面的には清く良い人に見えるが,内面的には堕落と霊的な腐敗でいっぱいだった。

29-30節

この世を去った預言者に対する忠誠を主張する一方で,生ける預言者を拒んだ。

マタイ23:23-28。律法の中でもっとも重要な事柄は,内面的な必要に焦点を当てている

救い主が「律法の中でもっと重要な〔事柄〕」を見逃していると律法学者とパリサイ人を非難されたとき,主は彼らが「盲目な案内者〔で〕……ぶよはこしているが,らくだはのみこんでいる」と言われました(マタイ23:23-24)。これは,ごく小さい汚れた生き物を誤って飲み込まないように飲み水を注意深くこすという一部のユダヤ人指導者たちの習慣に触れたものでした。しかし,彼らは象徴的に,汚れた生き物の中で最も大きいらくだを飲み込むのです(レビ11:4参照)。

大管長会のジェームズ・E・ファウスト管長(1920-2007年)は,救い主の教えが,どのように神の律法で「もっと重要な」内面的な必要に焦点を当てているかを説明しました。

「救い主は『公平とあわれみと忠実』が『律法の中でもっと重要』であると教えられました〔マタイ23:23〕。

はっきり申し上げたいと思いますが,救い主の祝福と約束を受けるには神の戒めを守らなければなりません。十戒は今でもキリストの福音の重要な部分ですが,主の降臨に伴って,完全な喜びと幸福をもたらす新しい光と命が与えられました。イエスは人々の行いについて,より高度で難しい標準を導人されました。それは外面的な条件よりも内面に焦点を当てているので,より難しくもあり,簡潔でもありました。人からしてほしいと望むことは,人にもそのとおりにしなさい。自分を愛するように隣り人を愛しなさい。あなたの頬を打つ者にはほかの頬も向けてやり,上着を求める者には下着も与えなさい。一度だけでなく,七を七十倍するまで赦しなさい。これは新しい福音の真髄です。してはいけないことよりも,すべきことがいっそう強調されました。各自に幅広い選択の自由が与えられたのです〔マタイ7:1222:37-39ルカ6:29マタイ5:4018:21-22参照〕。」(「律法の中でもっと重要な,公平とあわれみと忠実」『聖徒の道』1998年1月号,62)

七十人のリン・G・ロビンズ長老は,偽善には人がする行為と,その人がどのような人物かという「もっと重要な」事柄との間における矛盾が関与すると教えました。

〔ビデオアイコンの画像〕「救い主はしばしば,善意なく善を行う人を偽善者と非難なさいました。『この民は,口さきではわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている。』(マルコ7:6善意なく善を行うのは偽善であり,本性を隠す人はうそつきです。……

救い主は律法学者やパリサイ人を偽善者だと厳しく非難されました。『あなたがたは,わざわいである。 はっか,いのんど,クミンなどの十分の一を宮に納めておりながら(彼らが行った事柄),律法の中でもっと重要な,公平とあわれみと忠実とを見逃している。』(マタイ23:23)言い換えれば,彼らはなるべき人物になっていませんでした。

救い主は善を行うことの大切さを認めながらも,良い性質を持つことを『もっと重要な』こととしています。良い性質を持つことの大切さを示す例を挙げてみましょう。

•バプテスマの水に入るのは大切な行いです。しかしその前に,イエス・キリストを信じる信仰を持ち,心の大きな変化を経験した状態がなければなりません。

•聖餐を取るのは大切な行いです。しかし,聖餐を取るにふさわしくなることの方がもっと重要で,はるかに大切です。

•神権に聖任されるのは,大切な行為であり,行いです。しかし,もっと重要なのは,「義の原則に」基づく神権の力(教義と聖約 121:36)や神権者の状態です。」(「あなたがたはどのような人物であるべきか」『リアホナ』2011年5月号,103-104)

マタイ23:25-28。「あなたがたは白く塗った墓に似ている」

新約時代は墓の表面を白く塗ることが一般的だったため,死体が墓の中で腐敗していても外側はきれいに見えました。外側をどれだけ塗り固めても,内部で起こっていることを無効にすることはできません。救い主は,外側はきれいでも内側が汚れた杯の比喩と併せてこの比喩を用い,偽善者の内面と外面の状態のひどい食い違いを描写されました。ダリン・H・オークス長老は,この教えをポルノグラフィーを見る人に当てはめました。

「救い主の印象的な教えの一つは,隠れてポルノグラフィーを見ている人に当てはまります。

『偽善な律法学者,パリサイ人たちよ。あなたがたは,わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが,内側は貪欲と放縦とで満ちている。

盲目なパリサイ人よ。まず,杯の内側をきよめるがよい。そうすれば,外側も清くなるであろう。』(マタイ23:25-26アルマ60:23も参照)……

このような偽善が霊にすぐに及ぼす影響は破滅的です。」(「ポルノグラフィー」『リアホナ』2005年5月号,88)

マタイ23:34。「わたしは,預言者……をあなたがたにつかわす」

イエス・キリストが「わたしは,預言者……をあなたがたにつかわす」(マタイ23:34)と言われたとき,その言葉は,イエスが旧約聖書のエホバであり,すべての時代の霊感を受けた神権指導者たちを導く御方であることを明らかに示唆していました。イエスは,御自身と十二使徒を含めた,ユダヤ人を救うために遣わされた預言者たちと,その取り組みのために迫害され,殺される預言者たちを指しておられました。

マタイ23:37-39。エルサレムについて嘆き悲しまれたイエス・キリスト

救い主の務めの終わりが近づいたとき,主はエルサレムについて嘆き悲しまれました(マタイ23:37-39ルカ13:34-35参照)。聖書のジョセフ・スミス訳には,救い主の悲しみに対する心に触れる説明が加えられています。「その時,主はエルサレムについて涙を流し始められた。」(ジョセフ・スミス訳ルカ13:34〔英文〕から和訳)

イエスがエルサレムについて涙を流されたのはどうしてでしょうか。ブルース・R・マッコンキー長老は次のように述べました。

「聖なる都,エルサレム!

『〔霊的に〕ソドムや,エジプトにたとえられている』堕落の都,エルサレム!(黙示11:8

霊的に絶望的で,いっときではあれども見捨てられてしまうエルサレム。(ルカ19:41-44参照)

宮のある場所,預言者の故郷,主の務めの都,エルサレム。

『彼らのほかには,自分たちの神を十字架につけるような国民は,地上のどこにもいない』ため,『世の人々の中でいちばん邪悪な者』によって神の御子が十字架につけられた都,エルサレム。(2ニーファイ10:3

そこから『主の言葉』がすべての人々にもたらされる未来の世界の首都,世界の中心,エルサレム。(イザヤ2:3

エルサレムのような歴史は実に,ほかのどの地域にもありません。そしてイエスは実に,イスラエルの子供たちの背きという理由のために泣かれたのです。」(Doctrinal New Testament Commentary,1:626

〔エルサレムを見渡されるキリストの画像〕

O Jerusalem, by Greg K. Olsen