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第​13​章​:マルコ8-10章


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マルコ8-10章

マルコ8-10章の紹介とタイムライン

8-10章はマルコによる福音書の転換点です。救い主の務めのこの時点まで,ほとんどの人々は,主がどのような御方であるかを理解することができませんでした。パリサイ人は主を冒瀆者と呼び,律法学者たちは悪霊の力を持っていると言って主を非難し,ゲラサ人は主を恐れてその地を去るように頼みました(マルコ2:73:225:15-17参照)。イエスに従った人々の多くは,イエスを影響力のある教師,または奇跡を起こすことができる御方であると見なしましたが(マルコ1:405:23,286:56参照),主に最も近い者でさえも主をなかなか理解できませんでした(マルコ1:224:416:2,51-52参照)。イエスの本質に関するこの混乱は,マルコによる福音書の中で,救い主に教えられた人々に見られる「霊的な盲目」を示しています。8-10章に記録された出来事と教えを見ると,人々がどのようにしてイエス・キリストをメシヤとして見るようになっていったかが分かります。メシヤとは贖罪の苦しみと死により人類の霊的な敵に最終的に打ち勝たれる御方です。

マルコ8-10章には,救い主が弟子たちに,御自身に迫り来る苦しみ,死,そして復活について3度教えられたことが記録されています(マルコ8:31-339:30-3210:32-34参照)。それぞれの預言の後,救い主は,弟子たち自身の役割についてさらに教えることによって,弟子たちの「将来に対する見通し」を明らかにされました。イエス・キリストの使命が,謙遜,苦しみ,死と深くかかわっていたのと同様に,弟子たちの使命もそれぞれの十字架を負うこと,主のために命を失うこと,すべての人の僕となることがかかわっていました(マルコ8:34-389:32-37,43-4810:35-45参照)。

〔第13課のタイムラインの画像〕

マルコ1-4章の解説

マルコ8:1-94,000人に食べ物を与えることは,異邦人に福音がもたらされることをあらかじめ示すものだった(マタイ15:29-38も参照)

マルコ7:31によると,4,000人に食べ物が与えられたのは,ガリラヤの海の南東沿岸の,大部分が異邦人で占められたデカポリス地方でした。この地域には,少なくとも救い主が大勢の悪霊を追い出して男を癒されたとき(マルコ5:19-20マタイ4:25参照)からイエス・キリストを信じていた人々がおり,信者の数は「大ぜいの」群衆となるまで増えていました(マルコ8:1)。

十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,異邦人の間で4,000人に食べ物が与えられた出来事は,世界のすべての国民に福音の祝福がもたらされることの予兆であったと教えました。「この4,000人に食べ物が与えられた奇跡は,少し前にベツサイダの近くで5,000人に食べ物が与えられた奇跡の単なる重複または繰り返しではありません。以前,主は御自分の民であるイスラエルの部族と交流しておられましたが,今回は,デカポリスの住人であることから大部分が異邦人と推定されるほかの群衆を教えておられます。以前,主は命のパンに関する類いまれな説教の基を築かれましたが,今回は,異邦人の国々に将来示される生けるパンをあらかじめ示しておられます。そして何よりも,ヨルダンの東から来た様々な国の人々は,選ばれた子孫の一員よりも主を進んで受け入れ,主の内にある創造の力を用いることで何千もの人々に食べ物を与えるという比類ない奇跡を,より分別ある正しい視点で捉えました。」(Doctrinal New Testament Commentary, 3 vols. [1965–73], 1:375

マルコ8:4-6。「七つのパンを取り,感謝して」

弟子たちは5,000人に食物を与えるという奇跡を目の当たりにしました。しかしその少し後で,それより小規模の群衆に直面し,救い主に「こんな荒野で,どこからパンを手に入れて,これらの人々にじゅうぶん食べさせることができましょうか」と尋ねました(マルコ8:4)。前に目撃した奇跡の後で,弟子たちがそのような質問をしたのはなぜでしょうか。考えられる理由の一つは,以前奇跡を目撃したにもかかわらず,弟子たちの信仰がまだ若干弱かったということです。救い主はこの機会に,理解力の欠如と心の鈍さについて弟子たちを叱責されました(マルコ8:17-21参照)。

また,弟子たちは救い主が異邦人に対してそのような奇跡を行われるかどうか分からなかったのかもしれません。十二使徒定員会のジェームズ・・タルメージ長老(1862-1933年)が述べたように,彼らは「奇跡をもう一度起こしていただくことを暗に催促するのは,自分たちのすることではない,もしくは特権ではないと考えた」のかもしれません(『キリスト・イエス』第3版,351)。

トーマス・S・モンソン大管長は,4,000人に食べ物を与えることは,神に感謝の気持ちを表すことがどのように神の力を招くのかを示していると教えました。

「『〔救い主は〕七つのパンと魚とを取り,感謝してこれをさき,弟子たちにわたされ,弟子たちはこれを群衆にわけた。』

救い主はそこにあった分について感謝されたのです。すると奇跡が起こりました。『一同の者は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると,七つのかごにいっぱいになった。』〔マタイ15:32-38参照;強調付加。マルコ8:1-8も参照〕……

時間を取って祝福についてよく考えるなら,どのような状況にあっても,感謝するべきことがたくさん出てくるはずです。……常に心に感謝を抱いて生きることで,わたしたちは天に触れることができるのです。」(「感謝という神の賜物」『リアホナ』2010年11月号,88,90)

マルコ8-10章本資料のほかの箇所にある解説

マルコ1-4章に記載されている救い主の務めにおける教えと出来事の多くは,マタイおよびルカによる福音書にも記載されています。次の表は,これらの教えと出来事に関する生徒用資料の解説を見つけることができる箇所を示したものです。

マルコによる福音書内のトピックの場所

本資料の解説

マルコ8:10-12。しるしを求めるパリサイ人。

マタイ16:1-4

マルコ8:14-21。パリサイ人のパン種を警戒しなさい。

マタイ16:6-12

マルコ8:27-30。「あなたこそキリストです。」

マタイ16:13-19

マルコ8:31。「人の子」。

マタイ8:20;9:6;10:23;11:19;12:8,32,40

マルコ9:1-13。イエスはペテロ,ヤコブ,ヨハネの前で御姿を変えられた。

マタイ17:1-1317:217:317:3-517:3-9(ペテロ,ヤコブ,ヨハネに神権の鍵が授けられた);17:3-9(変貌の山で起こった出来事)

マルコ10:13-16。幼な子らをそのままにしておきなさい。

マタイ19:13-15

マルコ10:2-12。結婚と離婚についての教え。

マタイ19:1-12マタイ19:9

マルコ10:17-31。金持ちの若者。

マタイ19:16-22

マルコ8:22-25。目の不自由な人の段階的な癒し。

〔「He Anointed the Eyes of the Blind Man」の画像〕

He Anointed the Eyes of the Blind Man, by Walter Rane

マッコンキー長老は,この奇跡から学ぶことができる真理を指摘しました。

「この奇跡は他に類を見ないものです。イエスが一人の人物を徐々に癒やされたということが記録されている唯一の例です。主がこのようにされたのは,まだ弱いとはいえ,強くなりつつあるこの盲人の信仰を強めようとされたためかもしれません。イエスと肉体的に接触するという一連の出来事は,この盲人にとって希望,確信,信仰を増し加える効果があったと思われます。イエスは個人的に,(1)この盲人の手を取って村の外に連れ出し,(2)盲人の目に御自身のつばきをつけ,(3)按手の儀式を行い,(4)盲人の目の上に再度両手を当てられました。

この癒しが行われた過程は,部分的な癒しにしか足りていないとしても,人は力と信仰を尽くして主の癒しの恵みを求めるべきであると教えているに違いありません。」この部分的な癒しを受けた後で,「人は完全によくなるというさらなる確信と信仰を得ることができます。神の計画と目的に調和した生活をするときに,人はしばしば,徐々に,段階的に,霊的な病からも癒やされるのです。」(Doctrinal New Testament Commentary,第1巻,379-380)

マルコ6:14-32。「ペテロはイエスをわきへ引き寄せて,いさめはじめた」

先任使徒のペテロが,特に「あなたこそキリストです」(マルコ8:29)と証したすぐ後で救い主をいさめるとは,意外なことに思えるかもしれません。この出来事を理解する鍵は,マルコ8:29に記録されているペテロの証と,マルコ8:32に記録されている救い主に対するペテロの非難の間に何が起きたのかを知ることです。マルコ8:31に記録されているように,イエスは人の子が苦しみを負い,殺されると預言されました。勝利者メシヤに対するユダヤ人大衆の期待のため,ペテロ,そして当時の多くのユダヤ人にとって,メシヤが苦しみ,死ぬという概念は理解し難く,受け入れ難いものでした。

パウロは「十字架につけられたキリスト」,すなわち苦しみ,亡くなられたメシヤについて宣べ伝えることは「ユダヤ人にはつまずかせるもの」となったと記しています(1コリント1:23)。現在,わたしたちが救い主の贖いに関する預言として明確に認識している旧約聖書の聖句の多くは,主の復活の前にはそれほど明確に理解されてはいませんでした。例えば,イザヤ53章にある預言には「メシヤ」という言葉が使われておらず,これらの預言がだれについて述べているかも特定されていません。キリストの贖罪に関するこれら,そしてそのほかの預言は,主の復活の後になってようやくペテロとほかの弟子たちに明瞭になりました(ルカ24:13-27,36-471ペテロ2:21-25参照)。

マルコ8:30。イエスが使徒たちに, 御自分がメシヤであることを人に言わないよう指示されたのはなぜか

共観福音書,そして特にマルコによる福音書には,イエス・キリストが弟子たちとほかの人々に行われた奇跡,または御自分がどのような御方であるかについて話さないよう指示されたことが記されています(マルコ1:34,445:437:368:26,30参照)。聖文は,救い主が特定の出来事を秘密にしておくか,それについて黙っておくように求められたことについて考えられる理由を幾つか挙げています。

  1. マルコは,イエス・キリストの名声が非常に高くなったために困難が生じたことについて言及しています。イエスが特定の村に入れなかったり,イエスを見たかった人が群衆に遮られてしまったり,イエスと弟子たちが,食事をする時間や場所を見つけることができないほど大勢の人々に悩まされたりしたこともありました(マルコ1:452:23:20参照)。御自身の奇跡について話さないよう人々に指示することは,救い主が御自分の全体的な使命を妨げないようにするために,そのような困難を慎重に管理された一つの方法であったのかもしれません。

  2. 救い主は,機が熟すまで,十字架の刑につながる反感を未然に防ぐために沈黙を求められたという可能性もあります(マルコ9:30-31参照。ヨハネ7:1-10マタイ26:18と比較)。祭司長たちは,イエスが彼らの社会的地位を損なうことを望んでいなかったため,イエスについて知る人が増えれば増えるほど,主に対する反感を増幅させました。イエスは,御自分をメシヤとしてはっきり,かつ公然と宣言する方法でエルサレムに入られてから1週間もたたないうちに捕らえられ,殺されました(マルコ11:8-1114:1-215:22-252ニーファイ10:5参照)。

  3. 黙っているようにという救い主の命令の一部は,イエスを神の御子だと声に出して認めた悪霊に向けられたものでした(マルコ1:24,343:11-12参照。使徒16:16-18と比較)。マッコンキー長老は次のように教えました。「〔イエスは〕,〔悪霊〕が御自身の神性を証することを毅然としてお許しになりませんでした。改心に導く証は,ルシフェルからではなく,神からもたらされるものです。もしもイエスが汚れた霊を叱責されなかったとしたら,また,(たとえ悪霊の言うことが真実だったとしても)悪霊が証するのを主が黙認なさっていたとしたら,主に偽りの罪を着せようとしていたユダヤ人たちは,自分たちの主張が正当であるとしてこう言うことができたでしょう。『彼は悪霊に取りつかれて,気が狂っている。どうして,あなたがたはその言うことを聞くのか。』(ヨハネ10:20)。」(Doctrinal New Testament Commentary, 1:168

  4. 救い主は,当時のユダヤ人のほとんどが,メシヤに,イスラエルの政治的な敵を葬り去り,ユダヤ人の王として君臨することを期待していると知っておられました。多くの人が期待したメシヤとして見られないようにすることを,イエスが望んでおられたのは明らかです。このため,御自分がキリストであることを人に言わないよう救い主が弟子たちに指示された(マタイ16:20マルコ8:29-30参照)理由は,おそらく,主がどのような救いを携えてこられたかを人々に新たに理解するよう教えることを望んでおられたからだったと考えられます。主は,ローマを屈服させるためではなく,人類の永遠の敵,つまり死,罪,苦しみに打ち勝つために来られたのです。

マルコ8:31-339:30-3210:32-34。救い主の苦しみ,死,そして復活についての3つの予告

ゴルゴタ

Golgotha, by Scott M. Snow.「人の子は必ず多くの苦しみを受け,……また殺され,そして三日の後によみがえるべきことを,彼らに教えはじめ〔られた。〕」(マルコ8:31

マルコ8-10章には,救い主の苦しみ,死,復活についての3つの予告が記録されています(マタイ16:21-2317:22-2320:17-19ルカ9:22,44-4518:31-34も参照)。十二使徒定員会のロバート・D・ヘイルズ長老は,次のように述べました。「イエスは, 御自分が神の御子であることを御存じでした。また, 贖罪を通して御父の御心を果たすという目的も理解しておられました。イエスが思い描いておられたのは,『人の不死不滅と永遠の命をもたらす』という, 永遠に関する事柄でした(モーセ1:39)。」(「忍び抜いた人たちはさいわいであると, わたしたちは思う」『聖徒の道』1998年7月号,80)

マルコ8:33。救い主が「サタンよ,引きさがれ」と言ってペテロを叱責されたのはなぜか(マタイ16:23も参照)

迫り来る救い主の死のみに注目していたペテロは,全人類の贖いという, イエス・キリストの真の使命を理解していませんでした。救い主がペテロを叱責し,彼を「サタン」と呼ばれたとき(マルコ8:33),主は,ペテロがルシフェルであると示唆されたのではありません。ヘブライ語のサタンという言葉は「敵または誘惑する者」を意味します。したがって,キリストはその時点で,ペテロは,人々を救う救い主の究極の使命に反対するという,敵対的な役割を自分自身にさせようとしていることを認識されたのです。

イエス・キリストが苦しみを負い,殺されなければならないという教えに反対したとき,ペテロは善意でそうしたのでしょう(マタイ16:22マルコ8:32参照)。しかしながら,イエスが贖罪の苦しみを避けることにより,ペテロの願いを受け入れていたなら,罪の贖いも死を征服する復活もなかったことでしょう。全人類は絶滅を余儀なくされ(アルマ34:9参照),「人の不死不滅と永遠の命」をもたらす神の業は成就されず(モーセ1:39),この全てが,サタンの破壊的な目的に役立っていたことでしょう。衝動的に抗議した瞬間,ペテロは無意識のうちに敵に味方していたのです。

前世におけるサタンの背きは,実質上,自分自身の欲望に対応させるために天父の計画を変えようとする試みでした(教義と聖約29:36-39モーセ4:1-4アブラハム3:27-28参照)。これを考慮すると,救い主の叱責は,「神の御心と和解しなさい。悪魔の意志と肉の思いに自らを従わせてはならない」こと(2ニーファイ10:24),つまり自分の望みに合わせて神の計画を変えることはできないということをわたしたちに思い起こさせてくれます。

マルコ8:34-38。救い主に従うために自分の十字架を負い,命を失う

救い主の十字架の刑の前であったからこそ,「自分の十字架を負う」というイメージは(マルコ8:34参照),弟子たちにとって身近であり,おそらく不安を引き起こすものであったと思われます。はりつけは,ローマ帝国における処刑の一般的な手段で,その受刑者は,処刑の場所まで自分の梁を運ばなくてはなりませんでした(ヨハネ19:16-17)。それを想像させることで,救い主は,弟子たちがどのようなことに備えなければならないかを教えられ,生活の中で御父の御心に添うために主の模範に従うよう弟子たちを召されました。」(New Testament Student Manual〔教会教育システム手引き,2014年〕,122)ルカ9:23は,わたしたちが日々進んで自分の十字架を負い,イエスに従うべきことを付け加えています。聖書のジョセフ・スミス訳は,「そして,自分の十字架を負う者は,すべての不信心とあらゆる世の欲を捨て,わたしの戒めを守らなければならない」と説明しています(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」マタイ16:26)。

イエス・キリストに従うことは,ペテロ,パウロ,または預言者ジョセフ・スミスといった殉教者のように文字どおり命を失うことをわたしたちに求めてはいませんが,わたしたちの生活を主への奉仕にささげることによってその意思を示すことができます(ジョセフ・スミス訳マルコ8:37-38〔英文〕参照)。

エズラ・タフト・ベンソン大管長(1899-1994年)は,現代においてイエス・キリストに従う者が,救い主のお教えになったように「命を捨てる」ことができる方法を幾つか挙げました。「自己を捨ててほかの人々のために働く機会は,日々の生活の随所に見られます。子供たちを世話する母親, 時間を取って子供たちを教える父親,家庭生活のためにこの世的な楽しみを放棄する両親,年老いた両親を世話する子供たち, ホームティーチング, 家庭訪問, 慈善奉仕, さらには慰めを必要としている人々を慰めること, 教会の召しを熱心に果たすこと,地域社会の一員あるいは公民として自由を守るために活動すること, 什分の一, 断食献金,宣教師援助, 福祉活動, 建築,神殿計画などで経済的なささげ物をすることもこれに含まれます。犠牲の日とは決して過去のことではないのです。」(「今日は犠牲の日」『聖徒の道』1979年10月号,49)

聖書のジョセフ・スミス訳は,主のために命を失うことに関する救い主の教えに対してさらなる洞察を提供しています。「自分の命を救おうと思う者はそれを失う。あるいは,自分の命を救おうと思う者は,わたしのためにそれを喜んで捨てる。また,わたしのためにそれを喜んで捨てない者は,それを失うであろう。」ジョセフ・スミス訳マルコ8:37〔英文〕から和訳マルコ8:35と比較)ベンソン大管長は,救い主のために「命を失う」人々の生活の中で起こる事柄について説明しました。「自分の命をささげて神の御心をなそうとする人は,神が当のわたしたちが考えている以上に,わたしたちの能力を引き出して多くのことを成し遂げられることに気づくでしょう。神はそのような人々に対して,さらに大きな喜びと展望を与え,また理解力を増し加え,肉体を強め,精神を高め,祝福を豊かに注ぎ,さらに多くのすばらしい機会を授け,慰め,友人,平安を与えてくださることでしょう。神の御業に仕えて自分の命をささげる人は,すべて,永遠の命を見いだすことができるのです。」(「イエス・キリスト—賜と私たちへの期待」『聖徒の道』1987年12月号,4)

マルコ8:38。救い主に従うという選択の結果

聖書のジョセフ・スミス訳は,主を「恥じる」選択,または主のために自分の命を捨てる選択の結果に関する救い主の教えについて,さらなる情報を提供しています。

「そして〔救い主を恥じた〕者は,主が来るとき,その復活にあずかることはないであろう。

それゆえ,まことに,あなたに言う。主は来られる。わたしのために,また福音のために命を捨てる者は,主とともに来て,雲の中で主の栄光に包まれ,人の子の右にいるであろう。」ジョセフ・スミス訳マルコ8:42-43〔英文〕から和訳。マルコ8:38と比較)

マルコ94章エライアス

聖書のジョセフ・スミス訳は,バプテスマのヨハネも変貌の山に現れたことを示しています(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」マルコ9:3参照)。バプテスマのヨハネがイエス,ペテロ,ヤコブ,ヨハネの前に現れたことは,末日にバプテスマのヨハネがアロン神権を回復するために来るときの彼の役割をあらかじめ示していました。わたしたちの聖典には記録されていない多くの出来事が変貌の山で起こりました(2ペテロ1:16-19教義と聖約63:21参照)。「エライアス」という言葉に関する洞察については,マタイ17:3の解説を参照してください。

マルコ9:17-29。「信じます。不信仰なわたしを,お助けください」

信仰がどんなにささいなものであったとしても,信じる者にはどんなことでも可能です。十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,救い主に「信じます。不信仰なわたしを,お助けください」と叫び求めた父親についての新約聖書の記述を引用しました(マルコ9:24)。ホランド長老は,この記述から学ぶべき3つの教訓を強調しています。

「この話を観察して最初に気づくのは,信仰を持つようにと言われた父親が,まず自分の強い点を主張し,それから弱い点を認めることです。彼は最初に肯定的な言葉を,躊躇せずに言います。『主よ,信じます』と。わたしはもっと信仰が欲しいと望む人に申し上げます,この男性を覚えておきなさい,と。恐れや疑いがあるとき,困難なときには,たとえ小さくてもすでに得ている土台にしがみついてください。わたしたち皆がこの世で遂げなければならない成長を遂げるために,この子供の病気や,この父親の絶望と同じような経験が一人一人に訪れます。問題が発生したときに,なかなか解決しないときに,すでに知っていることに固くしがみついて,新たな知識を得るまで,強くあってください。……

〔息子を抱く男とキリストの画像〕

“Master, I Have Brought unto Thee My Son,” by Walter Raneマルコ9:17

第2の観察は第1の観察のバリエーションです。問題に遭遇し,疑問が生じるときに,自分にはどれだけ欠けているか,つまり『不信仰』であるかをまず述べてから信仰を求めないでください。……持っていない信仰を持っているふりをするように言っているのではなく,持っている信仰に忠実になるように言っているのです。ときどきわたしたちは,信仰を正直に言い表すよりも疑いを正直に言い表す方が,勇気のある証拠であると勘違いすることがあります。そうではありません!この聖文の明確なメッセージを覚えておきましょう。疑問があるときには,必要なだけ率直にそれを認めてください。人生には様々な分野において多くの疑問があるからです。しかし,自分と家族が癒されるように願っているときには,そのような疑問が奇跡を起こす妨げとならないようにしてください。……

最後の観察です。疑いや困難に遭遇したとき,助けを求めることを恐れないでください。あの父親のように,謙遜に,正直に助けを望んでいれば,得ることができます。この心からの望みは聖典では『誠心誠意』と呼ばれ,『十分に固い決意をもって……神の前に決して偽善と欺きを行うことなく』追求されるものです〔2ニーファイ31:13〕。このように願い求めるならば,神は必ず幕の両側からわたしたちの信仰を強める助けを送られると,わたしは証します。」(「主よ,信じます」『リアホナ』2013年5月号,93-94)

マルコ9:18,28-29。祈りと断食はわたしたちの霊的な力を増す(マタイ17:19-21も参照)。

救い主が耳と口が不自由な子供から悪霊を追い出されたとき,主は,マルコ9:28-29で記録されているように,その機会を断食と祈りの力について弟子たちに教えるために用いられました(マタイ17:19-21も参照)。小冊子『真理を守る』には,この経験がわたしたち一人一人にどのように当てはまるかが説明されています。「この話は,神権の祝福を与える人とそれを受ける人が祈りと断食により力を増し加えられることを教えてくれます。またこの話は福音に従った生活を送ろうとするあなたの個人的な努力にも応用できます。自分に弱点や罪があり,その弱点や罪を克服しようと懸命に努力している場合,自分が求めている助けや赦しを受けるために断食し祈る必要があるかもしれません。キリストが追い出された悪魔のように,あなたの問題も祈りと断食を通してのみ解決する性質のものかもしれません。」(『真理を守る—福音の参考資料』,141-142)わたしたちの弱点と信仰の欠如を克服することにおいて断食と祈りが担う役割に関するさらなる情報については,マタイ4:2の解説を参照してください。

マルコ9:33-3710:35-45。奉仕と指導者についての救い主の教え(マタイ18:1-520:20-28ルカ22:24-26も参照)。

マルコ9:33-37マルコ10:35-45に記述されている出来事において,神の王国におけるリーダーシップに関する理解が使徒たちに不足していたことが明らかにされました。救い主はどの場合においても,彼らの召しが栄光と名誉を受けることではなく,謙遜になってほかの人々に奉仕することであると弟子たちに忍耐強くお教えになりました。

マルコ10:35-45に記録されているとおり,ゼベダイの子のヤコブとヨハネはイエスのもとに来て質問しました。彼らは,自分たちが永遠の王国でイエスの右と左の栄光の座に着くことができるか知りたかったのです。救い主は,御自分が耐えなければならないすべてのものに耐えることができるかどうかを彼らに尋ねてから,そのようなことは御父がお決めになると宣言し,彼らを叱責されました。それからイエスは十二使徒を御自分の周りに集め,ほかの人々に権力を振るう異邦人の指導者のようであってはならないことを理解できるよう彼らをお助けになりました。神の王国で最も偉大な人は,すべての人の僕です。

〔奉仕する人の画像〕

七十人の一員として奉仕していたスペンサー・J・コンディー長老は,神の王国で指導者とは奉仕することであると教えました。「ソロモンの40年間にわたる統治の後,息子レハベアムがシケムへ行き,王になりました。彼はどのように統治するかについて長老たちの助言を仰ぎました。『彼らはレハベアムに言った,「もし,あなたが,きょう,この民のしもべとなって彼らに仕え,彼らに答えるとき,ねんごろに語られるならば,彼らは永久にあなたのしもべとなるでしょう」。』(列王上12:7;強調付加)救い主は弟子たちに同じような助言を与えています。『だれでも一ばん先になろうと思うならば,一ばんあとになり,みんなに仕える者とならねばならない。』(マルコ9:35)神の王国では,指導者になるということは仕えることなのです。」(「指導者にかかわる聖典の教え」『聖徒の道』1990年7月号,30-31)

十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン長老は,主の教会の指導者は「どの地位で奉仕するかではなく,いかに奉仕するか」であることを覚えておくべきだと説明しました。

「教会にあって人を高めるのは地位ではありません。忠実さです。人から注目を浴びる地位に昇ることを求め,僕よりも主人になることを望む人は,奉仕する人の士気を損なうのみならず,御業の精神をも台なしにしてしまうのです。

時として,僕と主人について混乱が起こります。聖書には弟子たちが『だれが一ばん偉いかと, 互に論じ合っていた』とあります。イエスは言われました。『だれでも一ばん先になろうと思うならば, 一ばんあとになり,みんなに仕える者とならねばならない。』〔マルコ9:34-35;強調付加〕」(「あなたはわたしのほかに,なにものをも神としてはならない」『聖徒の道』1996年7月号,19)

マルコ9:36-37。救い主を受け入れる人々に対する主の約束

聖書のジョセフ・スミス訳は,救い主が御自分を受け入れる人々にお与えになった約束をさらに詳しく説明しています。この追加の情報は,救い主を受け入れる人は御父をも受け入れるということを明確にしています。「だれでも,これらの幼な子のひとりのようにへりくだり,わたしを受け入れる者は,わたしの名によって受け入れるのである。そして,わたしを受け入れる者は,わたしを受け入れるだけではなく,わたしをお遣わしになった方,すなわち御父さえも受け入れるのである。」(ジョセフ・スミス訳マルコ9:34-35〔英文〕から和訳)

マルコ9:38-40「わたしたちに反対しない者は,わたしたちの味方である」(ルカ9:49-50も参照)

救い主の「わたしたちに反対しない者は,わたしたちの味方である」(マルコ9:40)という言葉と「わたしの味方でない者は,わたしに反対するものであ〔る〕」(マタイ12:30)という言葉を,どのように調和させればよいのか疑問に思う人もいます。これらの言葉は,それぞれが述べられた背景を調べることによって理解することができます。マタイ12章に記録された状況では,パリサイ人たちが,救い主は悪霊の力によって悪霊を追い出したと言いました。救い主は,神の力によって悪霊を追い出されたことと,パリサイ人は主について中立的な立場を取ることはできないことを宣言されました。「わたしの味方でない者は,わたしに反対するものであり,わたしと共に集めない者は,散らすものである。」(マタイ12:30マタイ12:30の解説参照)

マルコ9:38-40に記録された状況はこれとは異なります。イエスの力に対する信仰の欠如を表明するパリサイ人の代わりに,明らかにイエスを信じていた人が悪霊を追い出していたのです。しかし,使徒ヨハネはこの人について懸念を示しました。「先生,わたしたちについてこない者が,あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが,その人はわたしたちについてこなかったので,やめさせました。」(マルコ9:38

ブルース・R・マッコンキー長老は,次のように説明することで,ヨハネの懸念の理由を示唆しました。「〔その人は〕常に主と旅し,食べ,眠り,親しく語り合った中核的な弟子の一人ではありませんでした。ルカには『その人はわたしたちの仲間でない』と記されています〔ルカ9:49;強調付加〕。つまり,彼は自分たちの旅の仲間の一人ではないということです。しかし,主の返答から,彼が王国の一員であり,神権の権威と信仰の力をもって行動していた律法上の管理者であったことは明らかです。ヨハネは彼を知らなかったので彼には権能がないと誤解していたのか,あるいはヨハネは悪霊を追い出す力は十二使徒に限られており,それが忠実な神権者にまで及んでいないと不当にも思い込んでいたのです。悪霊を追い出した者が七十人であった可能性も十分にあります〔ルカ10:1,17参照〕。」(Doctrinal New Testament Commentary, 1:417

マルコ9:40に記録された救い主のヨハネへの返答は,その人が使徒ではないものの,権能を持った弟子であるとヨハネと十二使徒たちに再確認させました。

マルコ9:42-48。「もし,あなたの片手が罪を犯させるなら,それを切り捨てなさい」

マルコ9:42-48の「罪を犯させる」という言葉は,「障害や妨げで邪魔をすること,罪を犯させること」を意味するギリシャ語のskandalizōに由来するものです。わたしたちの手,足,または兄弟がわたしたちに罪を犯させるならば,それを切り捨てるべきであると教えることによって,救い主は,わたしたちの生活から,神の国に入ることを妨げる交友関係や影響力を,たとえそれがどれほど大切であっても取り除かなければならないとお教えになりました。七十人会長会のウォルター・F・ゴンザレス長老は,これらの節のジョセフ・スミス訳を引用して,わたしたちの生活の中でふさわしくない影響力を「切り捨て〔る〕」ことの意味を教えました。

video icon「〔救い主〕はこう言われたのです。『だから,もしあなたの片手が罪を犯させるなら,それを切り捨てなさい。すなわち,あなたの兄弟があなたに罪を犯させ,その罪を告白することも捨てることもしないならば,彼を切り捨てなければならない。』(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」マルコ9:40;強調付加)

幸いなことに,片手を切り捨てることの意味を,救い主自らが教えてくださいました。『切り捨てる』とは肉体への自傷行為のことではなく,あしたの〔逆境の時〕に備えるのに妨げとなる影響力を今日の生活から取り除くことです。わたしにとって悪い影響を及ぼす友人がいるとしたら,わたしへの主の勧めは明白です。『あなたとあなたの兄弟が地獄に……投げ入れられるよりは,兄弟抜きで命に入る方がよい。』『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」マルコ9:41;強調付加)主は,危険な影響を及ぼすようになった兄弟たちのところから出て行くようにニーファイに警告されたとき,この同じ原則を当てはめられたのです(2ニーファイ5:5参照)。

「切り捨てることは,友人だけでなく,不適切なテレビ番組,インターネットのサイト,映画,印刷物,ゲーム,音楽など,悪い影響力を持つあらゆるものに当てはまります。この原則を心に刻み込むことにより,悪の影響力に屈するようにという誘惑に対抗することができます。」(「今がその時です」『リアホナ』2007年11月号,54-55)この教えに関するさらなる洞察は,マタイ5:29-30の解説に記載されています。

マルコ9:49。「人はすべて火で塩づけられねばならない」

〔「Jesus Goes Up to Jerusalem」の画像〕

Jesus Goes Up to Jerusalem, by James Tissot.「さて,一同はエルサレムへ上る途上にあったが,イエスが先頭に立って行かれたので,彼らは驚き怪しみ,従う者たちは恐れた。」(マルコ10:32

救い主は,マルコ9:43-48に記録されているとおり,王国に入るためには,イエス・キリストに従う者はそれぞれの生活におけるふさわしくない部分(手,足,または目によって表現されている)を,進んで犠牲にしなくてはならないことを強調されました。マルコ9:49に記録されているとおり,救い主は次に,人の体全体を神への犠牲として話されました(ローマ12:1と比較)。古代イスラエルの犠牲には塩と火が使われました。塩は主とイスラエルとの間における聖約の重要な象徴であり(レビ2:13参照),火はしばしば霊的な維持,清め,試練,神への完全な献身の象徴とされました。

マッコンキー長老は,マルコ9:49では「教会のすべての会員は,それぞれが『死に至るまでも』聖約に従うかどうかを確かめるために(教義と聖約98:14),すべての事柄において試され,試練を受ける」ことが教えられていると説明しました(Doctrinal New Testament Commentary, 1:421)。

マルコ10:38-39「あなたがたは,わたしが飲む杯を飲〔む〕……ことができるか」

マッコンキー長老は,「杯を飲む」という言葉が「『人生における巡り合わせによって課された事柄を行う』ことを意味する比喩的表現」であると説明しました。マッコンキー長老はまた,「わたしが受けるバプテスマを受ける」という言葉が「わたしの道に従い,迫害を受け,人に拒絶され,ついには真理のために殺されること」を意味するとも説明しています(Doctrinal New Testament Commentary, 1:566)。「あなたがたは,わたしが飲む杯を飲み,わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」(マルコ10:38)という質問をすることによって,救い主は,栄光と名誉を受けることではなく,御父の御心を果たすことにヤコブとヨハネの注意を向けさせたのでした。

マルコ10:45「多くの人のあがないとして,自分の命を与えるためである」

「人の子がきたの〔は〕……多くの人のあがないとして,自分の命を与えるためである」という言葉は(マルコ10:45),福音書の中でもイエス・キリストの苦しみ,死,復活の意味と目的に関する最も明瞭な言葉の一つです。それらは,すべての人類を贖うために主が支払われた代価でした。「あがない」はギリシャ語の言葉lutronから翻訳されたもので,だれかが束縛や監禁から解放されることを確実にするために支払われた金額を意味します。旧約時代,だれかが束縛されていた場合,その人を解放するための代価は,その人の近親者によって支払われることが期待されていました(レビ25:48-49参照)。イエス・キリストは,天の御父の長子として,全人類を罪の束縛から解放するために必要な代価を払われました。1ペテロ1:18-19によると,この代価は「銀や金のような朽ちる物によったのではなく,……キリストの尊い血によっ〔て〕」支払われました。

〔聖餐のパンとカップの画像〕

マルコ10:45の「多くの人の」という表現は,ギリシャ語のanti pollōnという表現に由来するもので,「多くの場所において」という意味です。贖われる多くの人は,彼らの贖いのために代価を支払われる御方と対照を成しています。これはイザヤ53章でも教えられています。「主はわれわれすべての者の不義を,〔イエス・キリスト〕の上におかれた。……義なるわがしもべはその知識によって,多くの人を義とし,また彼らの不義を負う。」(イザヤ53:6,11;強調付加)

マルコ10:46-52。バルテマイの癒し

バルテマイという目の不自由な人の信仰と根気強さは,彼がイエス・キリストの憐れみを叫び求めた方法に見受けられます。バルテマイは,多くの人々が彼をしかって黙らせようとしても叫び続けました(マルコ10:47-48参照)。スペンサー・W・キンボール大管長(1895-1985年)は,バルテマイの「目が見えるようになったの〔は〕, 彼が絶えず一心に主に近づこうとしたから」だと指摘しています(「キンボール大管長, 癒しの儀式について語る」『聖徒の道』1982年8月号,43)。