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第4章:マタイ8-12章


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マタイ8-12章

マタイ8-12章の紹介とタイムライン

マタイ8-12章には,マタイ4:23で要約された救い主のガリラヤでの務めの続きが書き記されています。「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて,……教え,……宣べ伝え,……あらゆる病気,あらゆるわずらいをおいやしにな」りました(マタイ9:35も参照)。5-7章で,救い主の教え宣教の重要な点を記録したマタイは,次にイエス・キリストが行われた数多くの奇跡を8-9章に記録しました。これらの奇跡は,万物に対する救い主の力と権能を表しており,マタイ10章を読む準備をさせてくれます。10章には,救い主が使徒たちを召し,同じような奇跡を行う力をお授けになったことが記録されています。救い主の力は,主のもとに来るすべての人々が重荷を軽くされ,主の約束に入れるという自信を与えてくれます。(マタイ11:28-30参照)

〔第4章のタイムラインの画像〕

マタイ8-12章の解説

マタイ8:2-4。重い皮膚病

重い皮膚病に関する情報については,マルコ1:40-45,『聖句ガイド』の「重い皮膚病」の項を参照してください。

マタイ8:5。カペナウム

カペナウムは,救い主の「自分の町」として記載されています(マタイ9:1)。カペナウムは豊かな町で,古代エジプトと,シリア,メソポタミアとを結ぶ有名なローマ街道であるウィア・マリス(「海への道」)上にありました。この町は,使徒の長であったペテロと,その弟で十二使徒でもあったアンデレの故郷でした。イエスは,カペナウムにあった会堂で力強い説教をなさいました(ヨハネ6:24-65)。カペナウム以上に多くの奇跡が記録されている場所はありません。

マタイ8:5-13。百卒長の僕の癒し

百卒長の僕の奇跡に関する洞察については,ルカ7:2-10の解説を参照してください。

マタイ8:14-17。ペテロのしゅうとめの癒し

十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,救い主によってペテロのしゅうとめが癒された記述を用いて,「主御自身が選ばれた弟子たちは,特別に召される僕たちがいつでもそうであるように,妻や子供という家族を持つ既婚者でした」と教えました(The Mortal Messiah: From Bethlehem to Calvary, 4 vols. [1979–81], 2:37).

マタイ8:209:610:2311:1912:8,32,40。イエス・キリストは「人の子」であられる

「人の子」という称号は,四福音書で救い主が好んで御自分を称されたものであったようです。イエスは,御自分を称するためにこの称号を80回以上使われました。マタイ12:8マルコ8:29-31などの節には,これがメシヤの称号であることが明確にされています。イエスがこの称号を使われた理由は定かではありませんが,次のような理由であると思われます。

第1に,ダニエル7:13には「人の子」の来臨の預言が記載されています。イエスは,御自分がこの預言を成就する者だということを示すためにこの称号を使われたのかもしれません(マルコ14:61-62と比較)。

第2に,モーセ6:577:35では,父なる神の別の名前が「聖なる人」であることが分かります。「キリストが御自身を人の子と呼ばれたとき,これは御父との聖なる関係を公にされた宣言」でした(『聖句ガイド』「人の子」の項参照;scriptures.lds.org)。十二使徒定員会のジェームズ・E・タルメージ長老(1862-1933年)は,次のように書いています。「『御父』が最高の位に昇られた唯一の『人』であって,その御子であるイエスが霊としても肉体を持つ者としても,その『人』から生まれた子であることを知っておられたことによるのである。すなわちイエスは,御父の霊の子の長子であり,肉体を持つ者としては御父の独り子であられる。このことから,イエスはいつの時代にも,『聖なる人』,エロヒム,永遠の御父の子であられる。」(『キリスト・イエス』140)

第3に,「人の子」という称号は,イエス・キリストが天の御父の性質を明らかにすることを意図された一つの方法であったのかもしれません。預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は次のように説明しました。「神御自身,かつては今のわたしたちのようであられました。そして今は昇栄した御方であって,かなたの天で御座に着いておられます!……わたしは申し上げますが,もし今日皆さんが神を目にしたならば,皆さんは神が人に似た形をしておられること,すなわち,体,形,姿がすべて皆さん自身のようであられることを知るでしょう。なぜなら,アダムは神の姿,形に,神にかたどって創造された〔のです〕。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』40)

マタイ8:21-22。「その死人を葬ることは,死人に任せておくがよい」

「その死人を葬ることは,死人に任せておくがよい」という言葉の意味についてよりよく理解するには,ルカ9:59-60の解説を参照してください。

マタイ8:23-27。海を静められたイエス

イエスが大荒れの海を静められた記述に関する洞察については,マルコ4:35-41の解説を参照してください。

マタイ8:28-34。悪霊につかれた者の癒し

救い主が悪霊につかれた者から悪霊を追い出されたことについて読むには,マルコ5:1-20の解説を参照してください。

マタイ9:1-8。まひ患者を癒されたイエス

何らかのまひ症状に苦しめられていた寝たきりの人が,彼の友人4人によってイエスのもとに運ばれて来ました。イエスは彼らの信仰に心を動かされましたが,その人をすぐに癒す代わりに,はるかに重要なことをお話しになりました。「人よ,あなたの罪はゆるされた」と言われたのです(ルカ5:20)。ユダヤ人指導者の中には,罪を赦すことができるのは神のみであるから,そのような言い方は冒瀆だと苦言し,批判する者もいました。イエスはほんとうに神であられ,その人の罪を赦されたのです。主は,様々な神権時代において,強い信仰は人の罪に赦しをもたらすことができるとお教えになりました(ヤコブ5:15参照)。赦しは,救い主について熱心な証を述べること(教義と聖約62:384:61参照),そして福音の宣教に全力を尽くすこと(教義と聖約31:560:7参照)によってももたらされます。まひ患者の癒しについての詳細を読むには,マルコ2:2-5の解説を参照してください。

マタイ9:9-13。マタイの召し

〔「He Saw a Man Named Matthew」の画像〕

He Saw a Man Named Matthew, by Harry Anderson

取税人(ラテン語のpublicani)という言葉は,イスラエルでの税金の徴収を監督することに関してローマ政府に責任を負っていた人や,彼らのために働き,実際に税を徴収した人を指します。各収税所は毎年決まった金額を政府に払う必要がありましたが,市民からは税金を自由に好きなだけ徴収することができました。このため,イエスの時代,取税人たちはユダヤ人の中でも最も腐敗し,忌み嫌われていた人々でした。取税人になったユダヤ人は,しばしば破門されました。

主の最初の十二使徒の一人であるマタイ(改心する前はレビとしても知られていました)は取税人でした。マタイ9:9は,マタイにイエス・キリストの弟子となる準備ができていたことを強調しています。「わたしに従ってきなさい」というシンプルな招きによって,マタイは収税所から去り,イエスに従いました。マタイは,パリサイ人が罪人と見なした取税人が多く参加する宴を開きました。イエスはこの機会を利用し,高慢について力強い教訓をお教えになりました(ルカ5:27-32参照)。この中から多くの取税人がイエスに従いました(マルコ2:15参照)。新約聖書に記録されている取税人の多くが福音を受け入れました。これは恐らく,彼らがその社会的に低い身分によって謙虚になっていたからでしょう(マタイ9:9-1110:2-321:31-32ルカ7:2918:13-1419:2,8参照)。

マタイ9:14-17。真新しい布ぎれと新しい革袋

ヨハネの弟子たちが救い主のもとに来て,救い主の弟子たちが断食しない理由を尋ねました。イエスは,御自身を花婿に,そしてイエスの弟子たちを花婿の客にたとえてお答えになりました。婚宴は,救い主が友人の中におられたときと同様に,大きな喜びの時でした。この時代の断食は通常悲しみに関連付けられており,救い主が彼らの中におられるときにはふさわしいものではありませんでした。救い主は遅からず彼らから去られることになっており,その時こそ断食の時なのです。

〔ぶどう酒用皮袋の画像〕

ぶどう酒用皮袋。イスラエルのナザレで撮影された写真

Photograph by James Jeffery

マタイ9:17でイエス・キリストが言われた「皮袋」は,たいていの場合ぶどう酒用皮袋を指し,今日一般的に念頭に浮かぶガラスや陶器製のものではありません。ぶどう酒用皮袋は時間とともに伸び,裂け目が入ってもろくなりました。新しく作られたぶどう酒の発酵によって発生したガスが古いぶどう酒用皮袋を膨張させて引き伸ばし,袋を破裂させることもありました。マタイ9:16にある「真新しい布ぎれ」とは縮んでいない布のことです。古い布は新しい布ほど強くないため,新しい布が縮むときに周りの布を引き裂いてしまうことから,つぎ当てには好ましくありませんでした。

真新しい布と新しい皮袋のどちらの類比も,古いものと新しいものが相いれないことを指摘しています。パリサイ人に対する救い主の回答の文脈において,救い主は,救い主が与えてくださる福音が,ユダヤ教を修復するだけでなく,救い主の時代の多くの宗教的,文化的習慣に取って替わるとお教えになっているように見受けられます(マタイ9:14-15参照)。同じように,救い主はわたしたちをより良い人にするためだけでなく,「新しく造られた者」とするために来られました(2コリント5:17ガラテヤ6:15モーサヤ27:26も参照)。ジョセフ・スミス訳は,「新しいものが来ると,古いものは捨てられることになる」と付け加えています(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」マタイ9:21)。

マタイ9:18,23-26。会堂司の娘の癒し

会堂司の娘の癒しについて読むには,マルコ5:22-24,35-42の解説を参照してください。

マタイ9:20-22。長血を患う女性の癒し

長血を患う女性の救い主による癒しについて読むには,マルコ5:25-34の解説を参照してください。

マタイ9:37-38。「収穫は多いが,働き人が少ない」

救い主がガリラヤの「すべての町々村々」(マタイ9:35)でお教えになると,群衆が救い主の話を聞くために集まりました。救い主は福音を受け入れるであろう人が大勢いることを見抜き,「働き人が少ない」と言われました。福音を宣べ伝える僕がより多く必要だったのです。このすぐ後の章に記録されているとおり,十二使徒が召され,権能を与えられて,遣わされました(マタイ10:1参照)。その後,救い主は福音を宣べ伝えるために七十人を遣わされました(ルカ10:1参照)。十二使徒定員会のM・ラッセル・バラード長老は,わたしたちの時代の教会にも多くの働き手が必要だと教えました。バラード長老は,教会の会員が友人や隣人と福音を分かち合うことに積極的に関与するときに何が起こり得るかについて,次の例を挙げました。

〔ビデオアイコンの画像〕「何年も前,忠実な改宗者であるジョージ・マクラフリン兄弟が,メイン州ファーミンデールで会員20人の小さな支部の支部長に召されました。マクラフリン兄弟は謙遜な人で,牛乳を運搬するトラックの運転で生計を立てていました。断食と熱心な祈りにより,地域で教会が発展するために,会員とともに何をすればよいのか御霊によって知ったのです。確固とした信仰と,継続した祈り,力強い模範によって,マクラフリン兄弟はどのように福音を伝えたらよいか会員たちに教えました。これはすばらしい話です。この神権時代における最も偉大な伝道の話です。ほんの1年間で,450人の改宗者がこの支部でバプテスマを受けたのです。翌年もさらに200人の改宗者がバプテスマを受けました。……

その5年後,メイン州オーガスタステークが組織されました。この新しいステークの指導者は,大半がファーミンデール支部の改宗者でした。どうしてこのような成功が当時見られたのか不思議に思うかもしれませんが,それは,教会を強める必要性が切迫していたからだと言えます。その緊急性が,教会のすべてのユニットにおいて今日も変わらないことを皆さんにお伝えしておきましょう。」(「会員伝道のきわめて重要な役割」『リアホナ』2003年5月号,38-39)ルカ10:2の解説も参照してください。

マタイ10:1-5。イエスは彼らに「権威をお授けに」なり,遣わされた(ルカ6:12-13マルコ3:13-15も参照)

マタイ10章には,十二使徒の召しと,彼らに対する主の教示が記録されています。使徒という言葉は,「遣わされた者」を意味します(『聖句ガイド』「使徒」の項)。この呼び名は,「遣わされた」人物に権能があり,宣言するメッセージを持っていることも示唆します。この末日に,主は使徒たちが「全世界におけるキリストの名の特別な証人」として遣わされると宣言しておられます(教義と聖約107:23)。

〔「These Twelve Jesus Sent Forth」の画像〕

These Twelve Jesus Sent Forth, by Walter Rane

十二使徒定員会のL・トム・ペリー長老(1922-2015年)は,現代の使徒には新約時代の使徒と同じ責任があると説明しました。「十二使徒は今でも引き続き『遣わされた者』です。わたしたちが割り当てを果たすために旅をするときと,教会初期の使徒たちが旅をしたときとでは,状況が異なっています。現在,世界中を旅する方法は初期の使徒たちの時代とは随分違うのです。しかし,わたしたちの責任は,かつて救い主がお与えになったのと同じです。主は御自分が召した使徒にこう指示を出されました。『それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によって,彼らにバプテスマを施し,あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。』」(「『定員会とは何ですか』」『リアホナ』2004年11月号,24)

ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は,末日の使徒は「主の神性の証し人〔であり〕……主が生きておられることを高らかに証〔する〕」と述べた後,使徒の業についてさらに説明しました。「その最大の関心事はこの地上における神の業の伸展であり,教会の内外を問わず,天父の子供たちの福祉にあります。また,悲しんでいる人を慰め,弱い人々に力を与え,たじろいでいる人を励まし,友のない人の友になり,生活に困っている人を養い,病人を祝福し,証を述べることに全力を尽くします。彼らの証は単なる信仰ではなく,神の子,友であり,主であるお方に対する確かな知識に基づくものです。彼らは主の僕なのです。」(「キリストの特別な証し人」『聖徒の道』1984年7月号,91-92参照)

マタイ10:2-4。十二使徒

以下の図は,救い主の最初の十二使徒についての概要です。

イエス・キリストの十二使徒

名前

別名

出身地

その他

シモン

ペテロ,ケパ,シメオン,アンデレの兄弟

ベツサイダ(ヨハネ1:44参照)およびカナペウム(マルコ1:21,29参照)

アンデレとゼベダイの家族とともに働いた漁師。救い主死後の先任使徒で,遠くはローマまで出向いた宣教師。伝承によると,紀元64-68年ごろローマで十字架に逆さにはりつけられた。ヤコブとヨハネとともに,ジョセフ・スミスにメルキゼデク神権を授けた。

アンデレ

ペテロの兄弟

ベツサイダ(ヨハネ1:44参照)およびカナペウム(マルコ1:21,29参照)

ペテロとゼベダイの家族とともに働いた漁師。ペテロを最初にイエス・キリストに紹介した。伝承によると,スキタイ(ウクライナとロシア),ギリシャ,小アジアで福音を宣べ伝え,X形の十字架にはりつけられた。

ヤコブ

ゼベダイの子。ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネは「ボアネルゲス」,つまり「雷の子」であった。

恐らくベツサイダ

ヨハネ,ペテロ,アンデレとともに働いた漁師。エルサレムとユダヤで福音を宣べ伝えた。ペテロとヨハネとともに大管長会の一員であった。紀元44年,エルサレムでヘロデに首をはねられた(使徒12:2参照)。十二使徒最初の殉教者。

ヨハネ

「愛弟子」。ヨハネとヨハネの兄弟ヤコブは「ボアネルゲス」,つまり「雷の子」であった。

恐らくベツサイダ

ヤコブ,ペテロ,アンデレとともに働いた漁師。ペテロとヤコブとともに大管長会の一員であった。小アジア,特にエペソの教会で働いた。パトモスの島に隠れ,そこで黙示録を書いた。後に身を変えられた(教義と聖約7参照)。

ピリポ

ベツサイダ(ヨハネ1:4412:21参照)

長く待ち望まれたメシヤの知らせをナタナエルに知らせた。伝承によると,小アジアで福音を宣べ伝え,ヒエラポリスで死去した。

バルトロマイ

ナタナエル

カナ(ヨハネ21:2参照)

伝承によると,アラビア南部で福音を宣べ伝え,皮を剥がれて殺された,または十字架の刑に処された。

マタイ

レビ,アルパヨの子

カペナウム

取税人(マタイ9:9参照)。伝承によると,パルティアとエチオピアで福音を宣べ伝え,そこで殉教者として死去した。

トマス

デドモ

恐らくガリラヤ

伝承によると,トマスはパルティア(現在のイラン)とインドに赴いた宣教師で,祈っていたときに矢に打たれて死去した。

ヤコブ

小ヤコブ,若いヤコブ,アルパヨの子

恐らくガリラヤ

伝承によると,パレスチナとエジプトで福音を宣べ伝え,エジプトで十字架の刑に処された,またはイエスについて宣べ伝えたためにユダヤ人に石打ちにされた。

シモン

カナン人,熱心党

恐らくガリラヤ

イギリスとエジプトで福音を教えた可能性がある。伝承によると,十字架の刑に処されて死去した。

ユダ

ヤコブの子,タダイ,レバイ

恐らくガリラヤ

伝承によると,アッスリヤとペルシャで福音を宣べ伝え,そこで殉教した。

イスカリオテのユダ

イスカリオテ

ケリオテ(ユダヤ)

イエス・キリストを裏切り,その後首をつった。

使徒たちの伝道の旅と伝承されてる死因についての情報は,Richard Neitzel Holzapfel, Eric D. Huntsman, and Thomas A. Wayment, Jesus Christ and the World of the New Testament (2006), 303に基づくものです。

マタイ10:5-6。異邦人の道に行くな,むしろイスラエルの家に行け

これらの節にある救い主の指示から,救い主の時代,神の王国についての宣教は「ユダヤ人をはじめ」に行い,その後で異邦人に宣べ伝えるものであったことが分かります(ローマ1:16マタイ15:24も参照)。救い主の復活の後,救い主は福音のメッセージを全世界,つまりユダヤ人と異邦人の両方に伝えるよう使徒たちに指示されました(マタイ28:19-20使徒1:88:4-25参照)。キリストの時代におけるユダヤ人とサマリヤ人の間の緊張関係に関する詳細を読むには,ヨハネ4:20-24の解説を参照してください。

マタイ10:9-10。財布も袋もなしで

救い主の時代,財布は金銭を入れるもので,袋は食物とその他必需品を運ぶために使う大きなかばんでした。救い主は使徒たちに,食物,衣服,宿,またはその他物質的な必要について心配しないようお教えになりました。使徒たちは,生活手段について主と他人の慈悲に頼ることになっていました。これは,当時のもてなし,そして社会的な慣習と調和するものでした。後に,ルカ22:35-36で,イエスは人のもてなしに頼るというこの命令を撤回されました。これは恐らく,使徒たちが程なくもてなしについて同じ基準を持たない異邦人の国々に福音を伝えることになるため,また使徒たちが世界に出て行くときにユダヤ人からの反対に遭うことになるためであったと思われます(ヨハネ15:18-22参照)。

マタイ10:14。「〔あなたがたの〕足のちりを払い落としなさい」

ジェームズ・E・タルメージ長老は,足からちりを払うことに関する救い主の指示についてこう洞察しました。「他人に反対する証として足からちりを払う行為は,兄弟同士の関係を断絶し,続いて起こるかもしれない結果に対して一切責任を負わないという象徴である……〔と〕ユダヤ人は……解釈していた。この行為は,……主が使徒たちに指示されたことによって,非難の証をする儀式となった〔マタイ10:14〕。現代の神権時代にも,主は,僕たちに,彼らが権能を授けられた者として説き教える真理に対して悪意をもって故意に反対する者がいれば,同じようにするよう命じられた。」(『キリスト・イエス』338参照。教義と聖約24:1575:18-2284:92-96も参照)しかし,その深刻な性質のため,この行為は大管長会と十二使徒定員会の指示がなければ決して行われるべきではありません。

マタイ10:16。へびのように賢く

救い主が福音を宣べ伝えるために弟子たちを遣わされたとき,主は彼らに「へびのように賢く,はとのように素直であれ」と言われました(マタイ10:16)。現代において,救い主は「へびのように賢くありなさい。しかし,罪を犯してはならない」と宣言され,同様の勧告をお与えになりました(教義と聖約111:11)。どちらの記述も,救い主の弟子は知恵に純真さと純粋さを兼ね備えるべきだと教えています。聖書のジョセフ・スミス訳には,主の賢い僕であることの重要性を強調し,「だから,賢いであり,はとのように素直であれ」と書いてあります(ジョセフ・スミス訳マタイ10:14〔英文〕から和訳。マタイ10:16と比較)。

マタイ10:34-37。「わたしより父または母を愛する者」(ルカ14:26も参照)

これらの節で,イエス・キリストは,キリストのメッセージが常に平和をもたらすわけではないことを宣言されました。実際に,人生において神を最優先するという選択は,家庭内に亀裂を生む結果となってしまうことさえあります。エズラ・タフト・ベンソン大管長(1899-1984年)は,この節について述べたとき,人が行う最も困難な選択の一つは,神か家族かの選択であると指摘しました。

〔ビデオアイコンの画像〕「だれにとっても最も大きな試しは,愛し尊敬する人,特に家族を喜ばせるか,神を喜ばせるかのどちらかを選ぶように迫られたときです。

ニーファイは父が主に少しの間不平をこぼしたときにこの試しに会いましたが,賢明に対処しました(1ニーファイ16:18-25参照)。妻から神をのろって死ぬように言われたヨブも,主に対して誠実さを保つことができました(ヨブ2:9-10参照)。

聖文にはこうあります。『あなたの父と母を敬え。』(出エジプト20:12モーサヤ13:20も参照)時には,肉親の父親よりも天の御父を敬うことを選ばなければならないときがあります。」(「偉大な戒め—主を愛する」『聖徒の道』1988年6月号,5参照)

マタイ10:39。「わたしのために自分の命を失っている者は,それを得るであろう」(マタイ16:25マルコ8:35ルカ9:2417:33も参照)

大管長会のジェームズ・E・ファウスト管長(1920-2007年)は,命を失うとは,利己的な考えを克服し,自らを他人への奉仕にささげることだと教えました。

「必要なときに必要な場所で必要とされる奉仕の人でいることによって,無私の精神を示すことができます。人々のために無私の精神を発揮する機会は毎日のように訪れます。無私の行為は無限にあります。優しい言葉,助けの手,優しい笑顔などは,簡単ですが,無私の行為です。

救い主の次の勧告を考えてみてください。『自分の命を得ている者はそれを失い,わたしのために自分の命を失っている者は,それを得るであろう。』〔マタイ10:39〕人生の逆説の一つはこうです。『何の得になるのだろう』といつも考える人は金銭や財産,土地を手に入れるかもしれませんが,最終的に,才能や賜物を人々に惜しみなく分かち合う人が得るような満足と幸福を得ることはないでしょう。

……人生最大の充実感は『何の得になるのだろう』と考えているときではなく,人々に仕えるときに得られます。」(「何の得になるんだ」『リアホナ』2002年11月号,21-22参照)

十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は,命を失うとは,自分ではなく神の意思に従うことによって,真の自分を見いだすことだと教えました。「非常に多くの人が完全な奉献をためらうのは,神の御心にのみ込まれるのが,自己を失うことだと思い違いをしているからです(モーサヤ15:7参照)。わたしたちがほんとうに心配しているのは,もちろん自分を捨てることではなく,地位や時間,称賛,財産など,利己的なものを諦めることです。救い主が自分を捨てなさいと教えられたのも,もっともです(ルカ9:24参照)。主が求めておられるのは,新しい自分を得るために,古い自分を捨てることです。自己を失うのでなく,真の自分を見いだすことが,問題なのです。」(「『御父の御心にのみ込まれる』」『聖徒の道』1996年1月号,25)主のために命を失うことが何を意味するのかに関するさらなる洞察については,マルコ8:34-38マルコ8:38の解説を参照してください。

マタイ10:41。預言者の名のゆえに預言者を受け入れる

預言者を「預言者の名のゆえに」受け入れるとは,預言者を預言者として受け入れ,預言者の言葉を主から来るものとして認識することを意味します(教義と聖約1:38参照)。M・ラッセル・バラード長老は,ゴードン・B・ヒンクレー大管長を預言者として受け入れたことを行いによって示した若い女性の模範について話しました。バラード長老は,イヤリングを1組だけ着けるようにという若い女性への勧めを含む,ヒンクレー大管長が教会の若人に与えた身だしなみに関する勧告(「若人への預言者の勧告と祈り」『リアホナ』2001年4月号,30参照)を引用した後,このように語りました。

「ある17歳の若い女性は,預言者から勧告を受ける少し前に,両耳に二つ目の穴を開けました。彼女はファイヤサイドから帰宅すると,2組目のイヤリングを外して,両親にこう言いました。『ヒンクレー大管長がイヤリングは1組だけにすべきです,とおっしゃるなら,わたしは1組で十分だわ。』

この若い女性にとって,2組のイヤリングを着けることは,永遠の結果につながるかもしれませんし,つながらないかもしれません。しかし,預言者に進んで従おうとする姿勢は,永遠の結果につながります。彼女が今,比較的容易な事柄に従っているのなら,もっと重要な事柄が求められたときでも,預言者に従うのは彼女にとってたやすいことでしょう。」(「『彼の言葉を受け入れなければならない』」『リアホナ』2001年7月号,80)

マタイ11:2-6。バプテスマのヨハネはイエスがメシヤであることを疑ったのか

イエスがガリラヤの市全域で教え導いておられたとき,ヘロデによって投獄されたバプテスマのヨハネは,「二人の弟子がそれぞれの信仰について確信を得られるように彼らをイエスのもとに遣わし質問させた。多くの人は,この出来事はヨハネが彼自身の考えに自信を持っていなかったことを反映することだと考えたが,イエスはこれを機に,ヨハネが行った偉大な業についての証を述べ,彼が揺るぎなく,忠実であることを強調された。」(Bible Dictionary,“John the Baptist”).

ロバート・J・マシューズはさらに,ヨハネは彼に従う者がイエス・キリストの弟子になるよう望んでいたと説明しました。「彼らがイエスに尋ねることになっていた質問は,彼らを啓発するための質問で,ヨハネ自身のためのものではありませんでした。ヨハネは,ほかのだれよりもイエスがどなたであるかを知っており,それを長い間心得ていました。ヨハネはこれについて天から啓示を受けており,自分の目で確かめ,自分の耳で聞き,聖霊の証を得ていたのです。……最も納得のいく答えは,ヨハネが証してきた真理を弟子たちが自分で直接理解できるように,イエス御自身に尋ねるよう遣わしたということだと思われます。」(A Burning Light: The Life and Ministry of John the Baptist [1972], 92).

マタイ11:11。「最も小さい者」

「最も小さい」者となることに関する洞察については,ルカ7:28の解説を参照してください。

マタイ11:13-14。イエス・キリストの先駆者であったバプテスマのヨハネ

ヨハネの弟子たちが去った後,イエスはバプテスマのヨハネの偉大さについて人々に教え始められました。バプテスマのヨハネは,イエス・キリストの先駆者となるように予任されていました。これは,聖書のジョセフ・スミス訳で明確にされたとおり,旧約聖書の預言の成就でした。

しかし,激しく襲う者たちが力を失う日が来る。すべての預言者と律法とがヨハネの時に成就するからである。

まことに,預言したすべての者たちがこれらの日を予告した。

そして,もしあなたがたが受けいれるならば,彼こそ来るべきエリヤであり,すべてを備える者である。」(ジョセフ・スミス訳マタイ11:13-15〔英文〕から和訳

次の聖句,イザヤ40:3マラキ3:1ルカ1:76-771ニーファイ10:7-10教義と聖約84:27-28は,バプテスマのヨハネのイエス・キリストの先駆者としての予任された使命を説明しています。

マタイ11:16-19。広場の子供たち

マタイ11:16-19で救い主は,救い主とバプテスマのヨハネを否定した人々の矛盾と不信仰を描写されました。ブルース・R・マッコンキー長老は,これらの節を次のように言い換えました。「信仰のないユダヤ人たちよ,あなたがたの心の狭さ,強情,不誠実を何に例えようか。あなたがたは,空想遊びをする気まぐれな子供たちのようだ。結婚式遊びをすると,遊び友達は踊ろうとしない。遊びを葬式に変えても,嘆き悲しもうとしない。これと同じように,あなたがたは宗教遊びをしているだけである。あなたがたはどっちつかずの子供たちのようである。ヨハネが厳格なナジル人だということで彼を受け入れない,また,わたしが人間らしく振る舞って人々と交わる,ということでわたしを受け入れない。」(Doctrinal New Testament Commentary, 3 vols. [1965–73], 1:263).

マタイ11:28-30。「わたしのもとにきなさい」

救い主は,人生の試練がどれだけ困難であろうとも,主のもとに来る人すべてに休息を約束されました。十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,救い主の「わたしのもとに来なさい」という度重なる招きにどのように従うかを説明しました。

「『ごくわずかな』信仰であろうと,ただ信じ続けてください。……この簡単なステップを,主イエス・キリストを中心に据えて行うことこそが,主の永遠の福音の第一原則なのです。この原則は過去も将来も変わることがありません。これこそが,絶望の淵から這い上がる第一歩なのです。

第2に,変えられるところは何でも変えることです。時としてそこが問題なのかもしれません。端的に言えば,悔い改めるのです。これはキリスト教関係の用語の中で一番希望と勇気を与えてくれる言葉です。……自分で変えられる部分があれば,変えるべきです。力が及ばない部分については,自分を責めてはなりません。このようにするとき,不完全なわたしたちに,救い主の贖いの効力が確実に及びます。できない部分は主が引き受けてくださるからです。

第3に,あらゆる点で可能なかぎり救い主の特性を身に付けるよう努力することです。これは救い主の御名を受けることに始まります。主の御名は,福音の救いの儀式に含まれる聖約によって正式に与えられます。聖約はバプテスマのときに始まり,神殿での聖約に至ります。そのほかにも,聖餐にあずかることなど,生涯を通じていろいろな場面でわたしたちは聖約を交わします。それぞれの機会に祝福が増し,主を思い起こすことができます。……

これらの最も基本的な教えに従うようになると,様々な面でキリストとすばらしい関係が築けるようになります。キリストの御心について祈りや断食,瞑想をするようになります。聖文を深く味わい,人々に奉仕をするようになります。『弱い者を助け,垂れている手を上げ,弱くなったひざを強め』るようになります〔教義と聖約81:5〕。そして何よりも『キリストの純粋な愛』をもって人々を愛するようになります。この愛は賜物であって,『いつまでも絶えることがな〔く,〕すべてを忍び,すべてを信じ,すべてを望み,すべてに耐える』のです〔モロナイ7:45〕。間もなく,わたしたちはそのような愛を抱く人々の生活には,主に至る道がたくさんあることに気づきます。わたしたちが手を伸ばせば,たとえほんのわずかであろうと主に求めるならば,主はいつでも手を差し伸べようとされていたことが分かります。」(「壊れたものを元どおりに」『リアホナ』2006年5月号,70参照)

マタイ11:28-30。「わたしのくびきを負〔いなさい〕」

過去の時代,木のくびきは通常,それらを取り付ける動物の首に合うように,大工によって注意深く作成されました。くびきは1頭の動物を別の動物に固定するために使われたため,わたしたちを救い主に結びつけて,主と「ともに引く」ことを可能にする聖約的関係の象徴と見なすことができます。ハワード・W・ハンター大管長(1907-1995年)は次のように説明しました。

〔ビデオアイコンの画像〕「聖書の時代に,くびきは畑を耕す者にとって非常に助けとなる道具でした。くびきを使えば,畑を耕したり荷車を引いたりするときに荷重を分散させながら,2頭の動物が力を合わせて働くことができました。1頭ではとても負い切れない荷重でも,くびきでつながれた2頭が一緒になれば,それぞれ同じ力で難なく引くことができるのです。……

キリストはお尋ねになります。なぜ独りで人生の重荷に立ち向かおうとするのですか。なぜ一時的な解決にしかならないこの世的な力に頼ろうとするのですか。そうした大きな重荷を負うためには,神の導きを身近に受けることにより力と平安を得られるキリストのくびきが必要です。キリストのくびきは,この困難な試しの世にあっていろいろな難問を乗り越え,各自の務めを果たすために必要な支えと,バランスと力を与えてくれるのです。

もちろん人生の重荷は,人によって様々に異なりますが,だれもが負っているものです。さらに言えば,人生の試練の一つ一つは,わたしたちの個人の能力と必要をよく御存じの愛に満ちた天の御父によって用意されたものなのです。もちろん,悲しみの中には,天の御父の勧告に従わずに世の罪に染まったためにもたらされるものもあります。理由はどうあれ,人生のチャレンジから完全に逃れられる人はだれもいないように思われます。キリストは一人一人に,そしてすべての人にこう呼びかけておられます。『いずれにせよ皆が何らかの重荷を負い,くびきを負わなければならないのであれば,わたしのくびきを負ってみたらどうでしょうか。わたしのくびきは負いやすく,わたしの重荷は軽いと約束しましょう。』(マタイ11:28-30参照)」(「『わたしのもとにきなさい』」『聖徒の道』1991年1月号,19参照)

〔くびきの画像〕

救い主のくびきを負う者に対し,救い主は「魂に休みが与えられる」と約束しておられます(マタイ11:29)。この約束された「休み」とは,わたしたちの重荷が軽くなること(モーサヤ24:15参照),そして最終的には主の完全な栄光となり得ます(教義と聖約84:24へブル4:1-11参照)。

マタイ12:1-13。「安息日に良いことをするのは,正しいことである」(マルコ2:27-3:5ルカ6:9も参照)

安息日に「正しく」あることに関する洞察については,マルコ2:23-3:7マルコ2:27-28マルコ3:4-6の解説を参照してください。

マタイ12:22-30,33。「木が良ければ,その実も良いとし,木が悪ければ,その実も悪いとせよ」

パリサイ人は,悪霊につかれた人を癒すことによって,良いことを行うために悪魔の力を使ったとイエスを非難するという不条理な見解を示しました(マタイ12:22-24参照)。救い主は,「良い木が悪い実をならせることはないし,悪い木が良い実をならせることはできない」とお教えになりました(マタイ7:18)。パリサイ人に「木が良ければ,その実も良いとし,木が悪ければ,その実も悪いとせよ」と反論することによって,彼らがイエスを選ぶかどうかの選択を迫られました(マタイ12:33)。イエスの良き業のため,パリサイ人はイエスを一貫して悪だと言うことはできず,中立的な立場を取ることもできませんでした(マタイ12:30参照)。イエスの証と良き業に迫られたパリサイ人は,イエスをキリストとして受け入れ,イエスに従うかどうかを選択しなければなりませんでした。

キリスト教著者であるC・S・ルイスは,わたしたちもイエス・キリストにすべて従うか否かどちらか選択をしなければならないと教えました。「 あなたは,この方〔イエス・キリスト〕が,神の息子であるか,または,狂人か,さらにもっとひどい何者かのどれかという選択をしなければいけません。彼をばか者だと決めつけるか,つばを吐きかけ悪魔と呼んで殺すか,それとも彼の前にひれ伏して,彼を主である神としてあがめるかの選択です。しかし,主を人間として単なる偉大な教師であると見るようなナンセンスは避けましょう。イエスは,わたし達にそのような選択の余地は与えませんでした。そんな意図は最初からなかったのです。」(『キリスト教の精髄』C.S.ルイス宗教著作集4〕柳生直行訳,新教出版社参照)

パリサイ人が使用したベルゼブルという言葉は,逐語的に「蝿の王」を意味します(マタイ12:24)。これは,悪魔の長であった古代フェニキア人の神を指しています。聖文では,ベルゼブルは悪魔の別名です。

マタイ12:30。「わたしの味方でない者は,わたしに反対するもの」

ブルース・R・マッコンキー長老は,マタイ12:30の救い主の声明に由来する真理について話しました。

「要するに福音に関して言えば,どっちつかずの立場というようなことはあり得ないのです。イエスは,『わたしの味方でない者は,わたしに反対するものであり,わたしと共に集めない者は,散らすものである』と言われました(マタイ12:30)。……あらゆる面で神の王国を支持し擁護するのでなければ,主の目的以外のことに手を貸していることになるわけです。」

マッコンキー長老はさらにこのように説明しました。「あらゆる事柄について,主がわたしたちに何を望んでおられるのか,また地上の王国の任命された役員を通してどんな勧告を与えておられるのか確かめなくてはなりません。真の末日聖徒たる者は,主が地上の王国を導く人々に啓示されたことに対して決して反対の態度は取らないでしょう。」(「キャラバンは行く」『聖徒の道』1985年1月号,83参照)

〔パリサイ人とイエスの画像〕

パリサイ人は,繰り返しイエス・キリストの行いと教えに反対しました。

マタイ12:31-32,43-45。「聖霊に対してい逆らう」

「聖霊に対して言い逆らう」とは,「聖霊を否定する」または「赦されない罪」という言葉と同じ意味で使われる場合があります。ほかにも,赦されない罪についての理解を深めさせてくれる聖文があります(へブル6:4-6教義と聖約29:43-4576:30-3788:32参照)。

預言者ジョセフ・スミスは,この冒瀆を次のように定義しました。「人は,何をしたら赦されない罪を犯すことになるのでしょうか。聖霊を受けて,もろもろの天が開かれ,神を知るようになってから後に聖霊に逆らわなければなりません。聖霊に逆らう罪を犯した者には,まったく悔い改めの余地がありません。このような者は輝く太陽を見ていても太陽は輝いていないと言い,自分にもろもろの天が開かれているのにイエス・キリストを否認し,自分の目をしっかりと真理に据えたうえで救いの計画を否定するのです。」(History of the Church, 6:314).

スペンサー・W・キンボール大管長(1895-1985年)は,この罪を犯す人はほとんどいないことを指摘しました。「聖霊に逆らう罪はかなり特別な知識を必要とするので,普通の人〔教会員〕にはそのような罪を犯すことは不可能です。」(『赦しの奇跡』123参照)

十二使徒定員会のボイド・K・パッカー会長も,教会員に対して同じようなことを改めて確認しました。「完全な福音を知った後で滅びの道を選んだごく少数の人は別として,悪習,薬物の乱用,反抗,背き,違反などのために,完全な赦しという約束から除外される人は一人もいないのです。」(「輝かしい赦しの朝」『聖徒の道』1996年1月号,20)

ジョセフ・スミス訳は,救い主がマタイ12:43-45で聖霊に対する冒瀆の罪について説明しておられることを明確にしています。人がこの罪を犯すと,聖霊はその人に戻らないからです。

「律法学者の数人がやって来て,『先生,すべての罪が赦されると書かれていますが,あなたは聖霊に対して言い逆らう者は赦されることがないとおっしゃいます』と言い,『どうして,そんなことがあり得ましょうか』と尋ねた。

すると,イエスは彼らに言われた。『汚れた霊が人から出ると,休み場を求めて水のない所を歩きまわるが,見つからない。しかし,人が聖霊に対して言い逆らうとき,,霊が出てきた元の家に帰ろうと言って帰ってみると,その人は空いていて,掃除がしてあるうえ,飾り付けがしてあった。良い霊がその人から去ってしまったからである。」(ジョセフ・スミス訳マタイ12:37-38〔英文〕から和訳

マタイ12:39-40。しるしを求める

パリサイ人が救い主にしるしを求めたとき,救い主は「邪悪で不義な時代は,しるしを求める」とお答えになりました(マタイ12:39)。預言者ジョセフ・スミスは,救い主のこの言葉に言及しました。「しるしを求める者は不義を犯す者です。この原則は永遠であり,不変であり,天の柱のように堅固です。しるしを求める人を見たならば,その人を不義を犯す者と見なして差し支えないでしょう。」(in History of the Church, 3:385).ジョセフ・スミスは別の機会に,しるしを求めることについて「信仰はしるしによってではなく,神の言葉を聞くことによってもたらされるのです」と教えました(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』383)。

マタイ12:41-42。「ニネべの人々」と「南の女王」

首都をニネべとした古代アッスリヤは,戦争捕虜の残忍な扱いで有名でした。捕虜たちは,たいていの場合拷問を受け,首をはねられ,家族の前で手足を切断され,生きたまま皮を剥がれ,弱い火であぶられたり,強制移住や公開処刑のためにアッスリヤに送還されました。そんな国の,しかもイスラエルの子孫でもなかったニネべの古代住民が,ヨナの悔い改めの呼び声に応じたのです(ヨナ3:1-9参照)。同様に,イスラエルの子孫ではなかった南の女王(シバの女王)も,イスラエル王ソロモンを心から尊敬しました(列王上10:1-13参照)。

救い主は,救い主を信じないパリサイ人を叱責する中で,ニネべの人々とシバの女王について言及されました。救い主は「ヨナにまさる者」(マタイ12:41)であり,「ソロモンにまさる者」(マタイ12:42)でした。しかし,イスラエル人であり,もっとよく理解しているはずのユダヤ人指導者は恥ずべきことに,最も偉大な御方であるイエス・キリストをたたえ,従うことを拒みました(マタイ8:1011:20-24ルカ4:25-27にある同様の叱責を参照)。

マタイ12:48-50。御父の御心を行う者は,御父の永遠の家族に属する

これらの節で救い主は,救い主の家族の到着を待って,天の御父の御心を行う者は御父の永遠の家族に属することを教えられました。ブルース・R・マッコンキー長老は,救い主の言葉について次のように述べました。「天の祝福は,代償や報酬なしで惜しみなくすべての人々に与えられます。すべての人が肉体的な方法で神の子としてこの世に生を受けることはできませんが,義を通じて,すべての人が永遠の神の家族に数えられ,キリストとともに,御父の完全な栄光と力の相続人となることができるのです。」(Mortal Messiah, 2:227).

この神権時代,救い主はもう一度この原則をお教えになりました。「まことに,まことに,あなたに言う。わたしを受け入れるすべての者,すなわち,わたしの名を信じる者に,わたしは神の子となる力を与えよう。」(教義と聖約11:30