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マタイ16-18章
マタイ16-18章の紹介とタイムライン
マタイ16章には,救い主がペテロに天国の鍵を授けると約束されたことが記録されています(マタイ16:18-19参照)。6日後,主はペテロ,ヤコブ,ヨハネを山に連れて行かれました。主は彼らの前で姿を変えられ,モーセと,エライアス〔訳注—邦訳『新約聖書』中では,エリヤと訳されている〕であったエリヤが現れました(マタイ17:1-13参照)。末日の預言者は,ペテロ,ヤコブ,ヨハネがこのときに約束された鍵を授けられたと教えています。マタイ18章に記録されているとおり,その後救い主は,御自身が去られた後に,教会を導くうえでこれらの鍵を用いることができるように,教義と原則を弟子たちにお教えになりました。
また,マタイ16章に記録されているとおり,ペテロはイエスがキリストであられることを証し,救い主はペテロが啓示によってその知識を得たと説明されました。
マタイ16-18章の解説
マタイ16:1-4。しるしを求めたために叱責されたパリサイ人とサドカイ人
救い主は,天からのしるしを見せるよう救い主に要求したパリサイ人とサドカイ人をおしかりになりました。救い主は,彼らが夕方の空の様子から天気を予測することができるのに,「時のしるし」を見分けることができない(マタイ16:3)と言われました。救い主は,「時のしるし」という言葉に御自分が約束されたメシヤである証拠を示しておられました。
十二使徒定員会ニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は,邪悪で不思議な時代がしるしを求める(マタイ16:4)理由を説明しました。「『なぜ,今の時代はしるしを求めるのだろう。』イエスは深いため息をついてこのように尋ねました(マルコ8:12参照)。不義で邪悪な時代の人々であればあるほど,信仰を表す条件としていっそうしるしを要求します。肉体的な感覚に生きる人は,常に感覚が満たされることを望みます。しかしイエスの弟子たちはそうではなく,まだ見ていないほんとうのことを喜んで受け入れ(へブル11:1;アルマ32:21参照),神の霊的な賜を静かに用いつつ信仰によって歩み,『信仰によ〔っ〕て打ち勝ち』(教義と聖約76:53)ました。」(「答えなさい」『聖徒の道』1989年2月号,34参照)マタイ12:39-40の解説も参照してください。
マタイ16:4。「ヨナのしるし」(マタイ12:39-41;ルカ11:29-30も参照)
十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,預言者ヨナのしるしを次のように定義しました。「ヨナが『大いなる魚』に飲まれ,吐き出されたこと(ヨナ1:15-17;2)は,キリストの死,埋葬,復活を象徴します。」(Doctrinal New Testament Commentary, 3 vols. [1965–73], 1:278)
マタイ16:6-12。「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を,よくよく警戒せよ」(マルコ8:14-21;ルカ12:1も参照)
救い主は,パリサイ人とサドカイ人の「パン種」,つまり彼らの教義を警戒するよう弟子たちにお教えになりました。ブルース・R・マッコンキー長老は,救い主のこの教えは,すべての時代において偽りの教義と哲学を警戒する必要性に例えることができると説明しました。「文字通り,パン種とは発酵を起こす物質であり,パンを膨らませるイーストのことです。パン種は,比喩として,その発酵作用,つまり影響を拡大することによって,特定の方法で信じ,行動するよう集団に影響を与えるあらゆる要素のことを指しています。従って,パリサイ人とサドカイ人のパン種を警戒するとは,彼らの偽りの教義,例えばメシヤがしるしによって自身の神性を証明しなければならないという概念を避けるということです。今日も同様に,この警告は,その偽りの教義と反キリスト的哲学によって,人が回復された福音の真理を受け入れることを妨げる集団のパン種を警戒せよということになります。」(Doctrinal New Testament Commentary, 1:379)
マタイ16:13-19。弟子たちに啓示についてお教えになった救い主
ピリポ・カイザリヤは,小さな町で構成された地域です(マタイ16:13;マルコ8:27参照)。この地域はヘルモン山の麓に位置し,ヨルダン川の水源の一つであり,その地域の最も顕著な地質的特徴であるヘルモン山の麓の大きな岩石層を望む場所です。マタイ16:13-19に記録されているように,救い主と弟子たちとの大切な会話が交わされたのはこの地域でした。その会話で,救い主は個人的な啓示と教会を管理するために必要な啓示の両方についてお教えになりました。十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン長老は,イエスと弟子たちの間で交わされた会話に対するこの環境の適切さについて書いています。
ピリポ・カイザリヤ近隣のヨルダン川源流
「現代のピリポ・カイザリヤの眺めはユニークです。大きな岩で麓が形成された山があり,その岩から水が流れ出しているように見えます。これらの小さな滝の流れは,まさにこの国の水源であるヨルダン川の3つの主要源流の一つを構成します。現世における務めを終える準備をなさっていたイエスは〔十字架の刑が行われたのはこの6ヵ月後〕,ここで主の教会の将来の指導者たちを訓練されました。救い主は,ヨルダン川の流れる水がイスラエルを養うように,この雄大な山が,キリストの岩を象徴し,そこから彼らに光と命の啓示がもたらされるという教訓を教えるために弟子たちをこの場所に連れてこられたのでしょうか。」(“Why This Holy Land?”Ensign, Dec. 1989, 15–16)
モーセが杖で岩を打つとそこから水が流れ出し,荒れ野にいたイスラエルの人々を死から救ったのと同様に,救い主は岩であり,そこから救いの教義と儀式が流れ出し,永遠の命を獲得するようにわたしたちを力づけておられます(民数20:11;1ニーファイ17:29;2ニーファイ25:20参照)。
マタイ16:17-18。イエス・キリストの証のために必要な個人の啓示
マタイ16:17-18の記録によると,イエス・キリストは,ペテロの証が他人の証や物理的な証拠によるものではなく,天の御父からの啓示によるものだと認識し,ペテロを称賛されました。大管長会のディーター・F・ウークトドルフ管長は,わたしたちの証の中核はイエス・キリストに対する信仰であるべきで,この証は個人的な啓示を通じて各自が得なければならないと教えました。
「人の証に依存することはできません。自分で知る必要があります。ゴードン・B・ヒンクレー大管長はこう語りました。『すべての末日聖徒は,イエスが復活された,生ける神の生ける御子であられることを,はっきりと知る責任があります。』(「善を行うことをおそるるなかれ」『聖徒の道』1983年7月号,140)
この確かな知識と確信をもたらすのは,神から与えられる啓示です。……
聖なる御霊が内なる霊に語りかけてくださるときに,わたしたちはこの証を受けます。穏やかで揺るぎない確信は,文化や人種,言語,社会や経済的環境にかかわりなく,わたしたちに証と確信をもたらす源となります。人の論理だけでなく,御霊によるこれらの導きに頼ることが,証を築き上げる真の基盤となります。
この証の核となるのが,イエス・キリストとその神聖な使命に対する信仰と知識です。」(「個人の証が持つ力」『リアホナ』2006年11月号,38)
マタイ16:18。教会が築かれる基の岩である啓示
救い主が啓示についてペテロにお教えになったとき,主はペテロの名前にかけた言葉遊びを用いて,シモンに「あなたはペテロ〔ペトロス(Petros)〕である。わたしはこの岩〔ぺトラ(petra)〕の上にわたしの教会を建てよう」(マタイ16:18)と言われました。ギリシャ語のペトロス(Petros)は,切り出された小さい岩石を意味します。ギリシャ語のぺトラ(petra)は,「石」という意味でも使われますが,それに加えて,石質の土壌,岩盤,または大きな岩のかたまりを指すこともあります。これらの言葉から,教会が人としてのペテロを基として築かれるのではなく,啓示という岩盤の上に築かれることが分かります。ペテロの名前がケパから変えられたことの重要性について読むには,ヨハネ1:42の解説を参照してください。
ハワード・W・ハンター大管長(1907-1995年)は,次のように教えました。「『わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。』どの岩の上でしょうか。ペテロでしょうか。人の上に建てるのでしょうか。そうではありません。人の上ではなく,〔救い主と弟子たち〕が話していた啓示の岩の上です。イエスは『あなたにこの事をあらわしたのは,血肉ではなく,天にいますわたしの父である』と言われたばかりでした。イエスがキリストであるというこの啓示は,イエスが御自身の教会を築かれる土台なのです。」(Conference Report, Oct. 1965, 112で引用。『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』194-196も参照)。
マタイ16:18。「黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」
この聖文にある「黄泉の力」という言葉は,死の力,または悪の力という意味も持ち得ます。このため,「黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」という救い主の約束は,死と悪が教会を恒久的に抑圧することはないという意味になります。末日における教会の回復は,この約束が成就された方法の一つです。黄泉の力が勝利しない理由の一つは,マタイ16:18-19で述べられている鍵が「人の子らの救い,すなわち死者と生者の両方の救い」における手段となるからです(教義と聖約128:11)。
ハロルド・B・リー大管長(1899-1973年)は,亡くなった愛する人々に神殿の儀式を提供することは,黄泉の力が主の教会に勝利することを防ぐもう一つの方法であると説明しました。「もし死者の救いに関する儀式がなかったとしたら,地獄の門は主の業を打ち負かしていたことでしょう。福音の救いの儀式を執り行う神権が地上になかった時代に,地上に生を受けた人々は数多くいました。その中には,忠実な人々も数多くいました。もし,福音を知らずに死んでいった人々のために,福音の救いの儀式を行う方法がなかったなら,地獄の門は御父の救いの計画を打ち負かしていたことでしょう。」(『歴代大管長の教え—ハロルド・B・リー』109)。
マタイ16:19。「わたしは,あなたに天国のかぎを授けよう」
紀元1世紀,鍵は通常鉄でできており,現代の家の鍵よりもごつごつと大きく,高価で,あまり一般的ではありませんでした。家の鍵を持つということは,大きな信頼を伴う役割でした。このため,鍵は特別な権能,責任,そして目的にふさわしい象徴でした。古代の聖文では,鍵という象徴を何度も使用しています。それは施錠や解除,開閉,入室許可や阻止といった力を表しています(イザヤ22:22;マタイ16:19;18:18;黙示1:18;3:7;9:1;20:1参照)。
イスラエルで見つかったローマ時代の鍵の描画
イエスがペテロに「わたしは,あなたに天国のかぎを授けよう」と言われた6日後(マタイ16:19;17:1),ペテロは,変貌の山でヤコブとヨハネと共に約束された鍵を授けられました(マタイ17:1-9参照。History of the Church, 3:387で引用)。
ジョセフ・F・スミス大管長(1876-1972年)は,神権の鍵を次のように定義しています。「一般に神権は神に代わって行動するために人に与えられた権能です。神権のいかなる職であっても聖任された人は皆,この権能が委譲されています。しかし,この権能の下で執行されるすべての行動は適切なときに,適切な場所で,正しく,秩序に従って実施されなければなりません。これらの働きを指示する力が神権の鍵です。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・F・スミス』141)ブルース・R・マッコンキー長老は,神権の鍵は「管理する権利であり,導き,支配し,統治する力」であると書いています(Mormon Doctrine, 2nd ed. [1966], 411)。
ペテロは,新しい使徒の選出を管理したとき(使徒1:15-26参照),サマリヤへの伝道を監督したとき(使徒8:14-25参照),異邦人改宗者についての啓示を受けたとき(使徒10:9-48参照),エルサレム会議を管理したとき(使徒15:6-29参照)に,これらの神権の鍵を行使しました。
末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長は,王国の鍵のすべてを持っています。大管長と顧問たち,つまり大管長会には,教会を管理する権利があります(教義と聖約81:2;107:22参照)。
マタイ16:19。「あなたが地上でつなぐことは,天でもつながれ〔る〕」(マタイ18:18;ヨハネ20:23も参照)
ペテロとそのほかの使徒たちは,彼らの行いや判断を,現世と永遠の両方で拘束力のあるものする神権の鍵を授けられました。ラッセル・M・ネルソン長老は,マタイ16:19でペテロに約束された鍵には,今日わたしたちの神殿で行使される結び固めの権能,すなわち家族が永遠に結びつけられることを可能にする権能が含まれていたと説明しました。「わたしたちは,神殿の結び固めの権能について理解しておく必要があります。イエスは,はるか昔に,御自分の使徒たちに教えていたときに,この権能について触れて次のように言われました。『あなたが地上でつなぐことは,天でもつながれ……るであろう。』〔マタイ16:19〕ここで言われたものと同じ権能が,この末の日に回復されています。ちょうど神権が永遠であり,初めもなく終わりもないのと同様に,家族を永遠に結びつける神権の儀式の効果も永遠なのです。」(「神殿の祝福を受けるための個人の備え」『リアホナ』2001年7月号,37-38)
鍵を持つ使徒ペテロ。デンマーク,コペンハーゲンのVor Frue Kirke(聖母教会)に置かれたベルテル・トルバルセンによる彫像
ボイド・K・パッカー会長は,昔ペテロに授けられた鍵を現代の使徒たちが所有するとスペンサー・W・キンボール大管長が証した経験について話しました。
「1976年にデンマークのコペンハーゲンで開かれた大会の後,スペンサー・W・キンボール大管長はわたしたちを誘って小さな教会へ出かけて行き,ベルテル・トルバルセン作のキリストと十二使徒の彫像を見学しました。この『クリスタス』像は祭壇の奥に立っていました。礼拝堂の側面に沿って順番に並んでいるのは十二使徒の像ですが,イスカリオテのユダに代わってパウロが立っています。
キンボール大管長が年配の管理人に語ったところによると,トルバルセンがデンマークでこれらの美しい彫像を制作していたまさしくそのときに,アメリカではイエス・キリストの福音の回復が起こりつつあり,かつて権能を持っていた人々が使徒と預言者たちにその権能を授けていたのです。
キンボール大管長はその場にいた人々を自分の周りに集め,その管理人にこう言いました。『わたしたちは主イエス・キリストの生きた使徒です。』そしてピネガー長老を指して,『新約聖書の中で語られている七十人と同じ七十人がここにいます』と言いました。
わたしたちはペテロ像の近くに立っていましたが,ペテロの手には彫刻家が刻んだ,王国の鍵を象徴する鍵が握られていました。キンボール大管長はこう言いました。『わたしたちはペテロと同じようにまことの鍵を持っており,それらを毎日使っています。』
その後経験したことを,わたしは決して忘れることがないでしょう。この温厚な預言者キンボール大管長はコペンハーゲンステークのヨハン・H・ベンシンステーク会長の方を向き,命じるような口調でこう言ったのです。『デンマーク中の聖職者〔教会指導者〕の方々に伝えてください。彼らは王国の鍵を持っていません。わたしがそれらの鍵を持っているのです。』
そのとき,末日聖徒には知られていても実際に経験したことのない人には言い表すことが難しい証……がわたしにもたらされました。まさにその場に,王国の鍵を持つ生ける預言者が立っていることをわたしは知ったのです。」(「信仰の盾」『聖徒の道』1995年7月号,7-8参照)
マタイ16:20。イエスは「だれにも言ってはいけない」と弟子たちを戒められた
イエスが弟子たちに「自分がキリストであることをだれにも言ってはいけない」(マタイ16:20)と言われた理由に関する情報については,マルコ8:30の解説を参照してください。
マタイ16:21-23。「サタンよ,引きさがれ」
ペテロと救い主の会話に関する洞察については,マルコ8:33の解説を参照してください。
マタイ16:24-28。「自分の十字架を負うて,わたしに従ってきなさい」
自分の十字架を負って,主のために尽力することに関する救い主の教えについて読むには,マルコ8:34-38の解説を参照してください。
マタイ17:1-13。変貌
マタイ17:1-13には,救い主がペテロ,ヤコブ,ヨハネの前で御姿を変えられた輝かしい経験である「変貌」が記録されています。この出来事は,イエスがキリストであられるとペテロが証してから6日後に,変貌の山と呼ばれることもある無名の山で起こりました(マタイ16:16参照)。聖文全体を通じて,山は人間に対する神聖な教示と啓示の場として使われました(出エジプト3:1;列王上19:8;1ニーファイ17:7;エテル3:1;ジョセフ・スミス—歴史1:51-54参照)。マタイによる福音書には,救い主が山を霊的な瞑想や教示の場として使われたときのことが多数記録されています(マタイ5:1;14:23;15:29-39;21:1;24:3;28:16-20参照)。
ヘルモン山を背景にしたピリポ・カイザリヤ。ヘルモン山は変貌の場として信憑性のある場所の一つです。
Photograph by Richard L. W. Cleave
救い主は,幾度となくペテロ,ヤコブ,ヨハネを他の使徒たちから区別されました。ヤイロの娘が死からよみがえったのを目撃したのはこれら3人の使徒たちだけです(マルコ5:22-24,35-43参照)。神権の鍵を授けられた変貌の山にいたのもこの3人だけです。ゲツセマネの特定の場所に連れていかれ,救い主がこの世の罪を御自分に負われたときの主の苦しみを見たのも彼らだけです。これらの経験,そして恐らくその他多くの経験が,イエス・キリストの死後,彼らが教会の大管長会として奉仕するときのために,ペテロ,ヤコブ,ヨハネを備える助けとなりました(Joseph Fielding Smith, Doctrines of Salvation, ed. Bruce R. McConkie, 3 vols. [1954–56], 3:152参照)。
マタイ17:2。「彼らの目の前でイエスの姿が変わ〔った〕」
『聖句ガイド』では,変貌を「天におられる御方の臨在や栄光に堪えられるように外見や肉体の性質が一時的に変えられた人の状態。つまり,霊的に高い水準に変えられた状態」と定義しています(「変貌」の項,scriptures.lds.org)。
マタイ17:3。エライアス
救い主の変貌についてのマタイの記述では,預言者エリヤを指すためにエライアス〔邦訳『新約聖書』中では,エリヤと訳されている〕という名前が使われています。『聖句ガイド』では,エライアスという名前または称号が,聖文において幾つかの異なる意味を持つと説明されています。
「エリヤ——マタイ17:3-4,ルカ4:25-26,ヤコブ5:17にあるエライアス(Elias)は,エリヤ(Elijah,ヘブライ語)の新約聖書(ギリシャ語)での書き方である。これらの聖句にあるエライアスは,列王紀上と列王紀下にその務めが記録されている古代預言者エリヤであった。
先駆ける者——エライアスは先駆ける者の称号でもある。例えば,バプテスマのヨハネはエライアスであった。彼はイエスのために道を備えるように遣わされた(マタイ17:12-13)。
回復する者——エライアスという称号は,黙示者ヨハネ(教義と聖約77:14)や,ガブリエル(ルカ1:11-20;教義と聖約27:6-7;110:12参照)など,特別な使命を持つ人々に対しても用いられる。
アブラハムの神権時代の人——アブラハムの時代に生存していたと思われる,イザヤスあるいはエライアスと呼ばれる一人の預言者(教義と聖約84:11-13;110:12)。」(『聖句ガイド』「エライアス」の項参照;scriptures.lds.org)
エライアスという称号は,イエス・キリスト御自身に対して使われる場合もあります(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」ヨハネ1:28参照)。
聖書のジョセフ・スミス訳は,バプテスマのヨハネが救い主の最初の来臨の道を備えるために遣わされたエライアスであったとペテロ,ヤコブ,ヨハネが理解していたことを明確にしています。また,別のエライアスが「やって来て万事を元どおりにすると預言者たちが書き記している」(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」マタイ17:10-14)とも教えています。この聖文で,万事を元どおりにするために来るエライアスは預言者ジョセフ・スミスでした。
マタイ17:3-5。変貌と末日における福音の回復
上の図は,変貌の山にいた人物が,末日における福音の回復において重要な役割を果たしたことを示しています。この図は,以前の神権時代に保持されていたものと同じ神権の権能と鍵が,この最後の神権時代に回復されたことを理解するために役立ちます。
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変貌と回復に関与した人物 | ||
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人物 |
変貌 |
福音の回復 |
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父なる神 |
雲の中から「これはわたしの愛する子……これに聞け」と言われた(マタイ17:5)。 |
聖なる森で「これはわたしの愛する子である。彼に聞きなさい」と言われた(ジョセフ・スミス—歴史1:17)。 |
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イエス・キリスト |
山上で御姿を変えられた(マタイ17:2-8参照)。 |
聖なる森やカートランド神殿で父なる神と共に御姿を現された(ジョセフ・スミス—歴史1:17;教義と聖約110章参照)。 |
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ペテロ,ヤコブ,ヨハネ |
姿を変えられ,天の御使いから神権の鍵を授けられた(マタイ17:1,3-8参照)。 |
天の御使いとして,メルキゼデク神権とその鍵のすべてをジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに授けた(ジョセフ・スミス—歴史1:72;教義と聖約27:12-13参照)。 |
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バプテスマのヨハネ |
山上に霊として現れた(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」マルコ9:3参照)。 |
復活した者として,アロン神権をジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに授けた(ジョセフ・スミス—歴史1:68-71;教義と聖約13章参照)。 |
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モーセ |
身を変えられた者として山上に現れ,イスラエルの集合の鍵をペテロ,ヤコブ,ヨハネに授けた(マタイ17:3参照)。 |
復活した者として,カートランド神殿でイスラエルの集合の鍵をジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに授けた(教義と聖約110:11参照)。 |
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エリヤ |
身を変えられた者として山上に現れ,結び固めの権能の鍵をペテロ,ヤコブ,ヨハネに授けた(マタイ17:3参照)。 |
復活した者として,カートランド神殿で結び固めの権能の鍵をジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに授けた(教義と聖約110:13-16参照)。 |
この表は,D. Kelly Ogden and Andrew C. Skinner, Verse by Verse: The Four Gospels (2006), 343から翻案されたものです。
マタイ17:3-9。ペテロ,ヤコブ,ヨハネに神権の鍵が授けられた(マルコ9:2-13;ルカ9:28-36も参照)
預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は,「救い主,モーセ,エライアス〔エリヤ〕は,山で,ペテロとヤコブとヨハネが救い主の前で変貌したとき,彼らに鍵を授けました」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』104)と教えています。また,変貌の山では,大管長会として,程なく義にかなう人々を福音へと集合させるために宣教師を遣わせることになるペテロ,ヤコブ,ヨハネに対し,モーセがイスラエルの集合の鍵を授けました。エリヤは,神権の結び固めの権能を授けました。これは,地上で行われる儀式が天で結ばれる,または解かれることを可能にしました。ジョセフ・スミスはエリヤの使命の大切さを次のように要約しました。「エリヤの霊と力と召しとは,すなわち皆さんには啓示,儀式,神託,力,エンダウメントの鍵を持つ力があるということです。それは,メルキゼデク神権と地上における神の王国のすべてにかかわるものです。それは,神の王国に属するすべての式を受け,得,執行するためのもの……です。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』311)
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は,ペテロ,ヤコブ,ヨハネは結び固めの力を受けたが,救い主の復活後までは死者のためにそれを使うことができなかったと教えました。
「〔結び固めの力〕がペテロ,ヤコブ,ヨハネに授けられました。……それゆえに,わたしたちは,その神権時代の聖徒たちが,人の救いと昇栄のために必要な鍵と権能のすべてを受ける機会に恵まれたという結論に達します。しかし,これらの力が,死者のためにも行使されるようになったのは,キリストの復活後で,それまでは,生者に対してのみ行使されていました。……
……〔生者と死者の救いのための〕これらの鍵は,ペテロ,ヤコブ,ヨハネが山の上でエライアス〔エリヤ〕とモーセからこの力を受けたときに彼らに授けられ,モーセはイスラエルの集合の鍵を授けました。キリストは彼ら(わたしは,彼らが山の上でエンダウメントを受けたと考える)に,復活後まではこの示現と起こった事柄について話してはならないと言われました。」(Doctrines of Salvation, 2:164–65)
The Transfiguration, by W. H. Margetson
マタイ17:3-9。変貌の山で起こった出来事
新約聖書の記述や預言者ジョセフ・スミスを通じて明らかにされた知識から,ブルース・R・マッコンキー長老は,わたしたちが変貌の山で起こったと理解している出来事を次のように要約しました。
「(1)イエスは十二使徒からペテロ,ヤコブ,ヨハネを選び出し,彼らを無名の山に連れて行かれた。そこでイエスは彼らの前で姿を変えられ,彼らは主の栄光を見た。……〔ペテロ〕は自分たちが『そのご威光の目撃者』だと語った。(2ペテロ1:16)
(2)ペテロ,ヤコブ,ヨハネは,彼ら自身も『救い主の前で変貌した』〔『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』104〕,……このため,彼らは天使を受け入れ,示現を見,神の事柄を理解することができた。……
(3)復活の日に先立つまさしくこのときに,触れることのできる肉体をもって戻ることができるように,身を変えられ,死を味わうことなく天に取り上げられた古代の預言者であるモーセとエライアス〔エリヤ〕は,山上に現れ,イエスと共にペテロ,ヤコブ,ヨハネに王国の鍵を授けた〔『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』104〕。
(4)以前ヘロデによって首をはねられたバプテスマのヨハネもそこにいたようである。……
(5)ペテロ,ヤコブ,ヨハネは示現の中で地球の変貌を見た。つまり,彼らは地球が新しくされ,楽園の状態に戻るのを見たのである。これは,福千年の時代を迎え入れるとき,主の再臨と共に起こることになっているものである。(教義と聖約63:20-21……)
(6)ペテロ,ヤコブ,ヨハネは,山上でエンダウメントを受けたと思われる〔Joseph Fielding Smith, Doctrines of Salvation,2:165〕。……また,彼らがより確実な預言の言葉を授けられ,永遠の命に結び固められたことが彼らに明らかにされたのも山上にいたときであったと見受けられる。(2ペテロ1:16-19;教義と聖約131:5)
(7)イエス御自身がモーセとエリヤによって強められ,励まされたようである。それは,無限無窮の贖罪を成し遂げることに関連して,御自身の前に迫った無限の苦しみと苦痛に備えるためであった〔ジェームズ・E・タルメージ『キリスト・イエス』第3版,366〕。……
(8)選ばれた3人の使徒たちが「主の死,また主の復活について」率直に教えられたのは確かである〔ジョセフ・スミス訳ルカ9:31〔英文〕から和訳〕。……
(9)過去の古い神権時代が過ぎ去ってしまい,(モーセがその象徴であった)律法と(エリヤがその典型的な代表であった)預言者は,今や彼らが耳を傾けるよう命じられた救い主の支配下にあることも彼らにとって明らかであったはずである。
(10)雲におおわれ,隠されてはおられたが,父なる神もその山にいらっしゃったようである。」(Doctrinal New Testament Commentary, 1:399–401)
マタイ17:14-21。「このたぐいは,祈りと断食によらなければ,追い出すことはできない」(マルコ9:29も参照)
マタイ17:14-21にある救い主の教えについてよりよく理解するには,マルコ9:18,28-29の解説を参照してください。
マタイ17:20。「からし種一粒ほどの信仰」
マタイ17:20は,聖文の中で「からし種一粒ほどの信仰」(マタイ17:20)があれば山を動かすことも可能であるという救い主の教えが記録されている唯一の箇所です。ヤレドの兄弟が信仰によって実在の山を動かしたことは聖文に記録されていますが(エテル12:30参照),管理ビショップリックのリチャード・C・エッジリービショップは,信仰を行使することによって奇跡的に動かすことができるほかの種類の「山」について話しました。「わたしは山が実際に移動するのをこの目で見たことはありません。しかし,信仰により疑いや絶望の山が移り,希望や楽観に取って代わられるのを見たことがあります。信仰により罪という山が悔い改めと赦しに取って代わられるのを直接見たこともあります。また,信仰により苦しみという山が平安,希望,そして感謝に取って代わられるのを直接見たこともあります。」(「信仰—選択するのはあなたです」『リアホナ』2010年11月号,33)
マタイ17:24-27。宮の納入金の支払い
マタイ17:24-27で言及されている納入金,つまり税金は,20歳以上のイスラエル人男性全員に課されていた宮の納入金でした(出エジプト30:11-14参照)。この納入金は,香,祭司が着た衣,ランプ用の油など,宮にかかわる日常的な費用を賄うために使われていました。イエスはペテロに,その宮はイエスの御父の家であるため(マタイ17:25-26;ヨハネ2:16参照),イエスにはこの税金を支払う義務がないとお教えになりました。しかし,ほかの人々がイエスの模範に従うであろうことを御存じで,罪を犯す動機を与えたくないと思われたため,イエスは聖なる先見の明をもって,ペテロに支払いの準備をする方法をお教えになりました。
ニール・A・マックスウェル長老は,救い主が奇跡的に税を支払われたこの経験を,万物に対する救い主の知識の例として用いました。「〔救い主〕は,海に行って魚を釣ると,その中に必要な銀貨が見つかると弟子たちに言われました。……彼らはそのとおりにし,銀貨は納入金を支払うためにぴったりの金額でした。わたしたちにこの驚くべき全知を理解することはできませんが,それはわたしたちの人生を祝福するためにそこにあり,機能しているのです。」(“We Can’t Comprehend the Capacity of God,” Church News, Feb. 22, 2003, 3)
マタイ18:1-22。イエス・キリストは弟子たちにキリストの教会を導くために用いる原則をお教えになった
マタイ18:1-22に記録されているとおり,救い主は弟子たちに,御自分の死と復活の後で教会を導くために彼らを助ける重要な原則をお教えになりました。これらの原則には,効果的な指導者とは,個人的に改心している(3節参照),へりくだっている(2-4節参照),過ちを悔い改める(7-9節参照),子供たちを心に留める(10節参照),迷った人を捜し出す(11-14節参照),他人の罪を鋭敏に,かつ慎重に扱う(15-17節参照),その業において結束し,主の助けを求める(19-20節参照),他人を赦す(21-22節参照),ということが含まれています。
マタイ18:1-4。神の王国で偉大な者となるには,幼子のようにならなければならない
天国で一番偉い人はだれかという質問にお答えになったイエス・キリストは,天国における偉大さは,改心し,幼子のように自らを低くすることによって達成されることを強調されました。聖文には,従順,柔和,忍耐強い,愛にあふれている,キリストによって生きている,罪がないことを含む,幼い子供の好ましいその他の資質が記録されています(モーサヤ3:19;モロナイ8:12;教義と聖約74:7参照)。大管長会のヘンリー・B・アイリング管長は,「幼子のようになるとは,子供っぽくなることでは〔ありません〕。それは救い主のようになることです。救い主は,天の御父の御心を行える力を祈り求め,実際に御心を行われました。……わたしたちの性質を変えて,幼子のようにならなければなりません」(「幼子のように」『リアホナ』2006年5月号,15)と教えました。
ハワード・W・ハンター大管長は,真の偉大さとは,救い主のために命をささげ,福音に生きるために全力を尽くす毎日のプロセスであると教えました。それは「神が全人類に共通して授けたもうた責任」を着実に行うことです。
「〔これには〕人々や主のために自らの生活をささげて行う奉仕や犠牲など,数えきれない程,様々な小さな事柄が含まれるのです。また,天の御父や福音についての知識を得ることもそうです。人々をこの信仰,この王国に導き入れることもそうです。……つまり,いろいろな困難や失敗に遭ってもベストを尽くし,苦しいことの続くこの世の人生にあって長く耐え忍ぶこと,そうした苦難が他の人の進歩や幸福,そして自らの救いに寄与するのだと考えて努力すること,それが真の偉大さなのです。……
神が定めたもうたことを行うのは,大切なことであり,欠くことのできないことなのです。たとえ世間がそれをつまらないものと見なしたとしても,わたしたちは,やがては真の偉大さへと導かれるのです。」(「真の偉大さ」『聖徒の道』1982年7月号,32-33,35)
BYUエルサレムセンターにあるひきうす(マタイ18:6参照)
Photograph by James Jeffery
マタイ18:5-10。小さい者に罪を犯させないようにという警告
イエスが小さい者に罪を犯させないことについて厳しい警告をお与えになったとき,イエスはイエスの時代の指導者たちにお話しになっていましたが,マタイ18:5-10に記録されているメッセージはわたしたち全員に当てはまります(「幼い子供たち」の広義については,教義と聖約50:40-41を参照してください)。わたしたちは,福音の計画に対する理解を深めようとしている人を信仰においてつまずかせてはならず,永遠の命への進歩を妨げる事も一切行うべきではありません。ブルース・R・マッコンキー長老は,この警告について次のように教えました。
「偽りの教義を教え,人を神と救いから引き離すことほど目に余る邪悪な罪はめったにあるものではありません。……真理を教え,人を救いに導く人々に与えられる報いが永遠の喜びであるならば,偽りの教義を教え,人を破滅に導く者が報いとして永遠の後悔を受けるのは当然なことでしょう。(教義と聖約18:10-16)
……生きて人々を真理から遠ざけ,それによって自身に永遠の罰の定めを受けるよりは,死んで,この世で生き続ける祝福を拒まれる方がよいのです。」(Doctrinal New Testament Commentary, 1:420)
マタイ18:12-14。迷い出た羊を探す
迷った羊を探すことについて読むには,ルカ15:3-7とルカ15:11-32の解説を参照してください。
マタイ18:15-20。証人の律法
マタイ18:15-20の救い主の教えは,証人の律法について言及しています。二人か三人の証人が特定の事柄を確証する,あるいは決定することを必要とするこの律法の基盤は,申命19:15に定められています。救い主の教えは,変貌の山でペテロ,ヤコブ,ヨハネに最初に与えられ(マタイ17:1-13;18:18参照),その後すべての使徒たちに与えられた権能の鍵のパターンも確立しています。このパターンは,わたしたちの時代にも,王国の鍵がジョセフ・スミスに最初に与えられ,その後十二使徒に与えられた時に,受け継がれました(教義と聖約13章;27:5-14;128:18-21;132:46-47参照)。
マタイ18:21-22。「七たびを七十倍」するまで他人を赦す
ブルース・R・マッコンキー長老は,他人を赦すことについてのペテロの質問と,救い主の回答の意味を次のように説明しました。「ラビの教義は,罪人にその兄弟と和解する過程を始めることを求め,どの罪人に対しても3回以上赦しを与えるべきではないと定めました。まだ聖なる御霊によって心が燃やされていなかったペテロは,彼が,ラビたちによって課されたものよりもはるかに自由なルールだと考え,見なしたに違いない事柄について質問しました。『主よ,兄弟がわたしに対して罪を犯した場合,幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか。』イエスは,『わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい』と言われました。これは,人がその兄弟たちを赦すべき回数に限りはないという意味です。」(The Mortal Messiah: From Bethlehem to Calvary, 4 vols. [1979–81], 3:91)
弟子たちに教えを説かれるイエス・キリスト
マタイ18:23-35。無慈悲な僕のたとえ
他人を何度赦すべきかというペテロの質問の後,救い主は,無慈悲な僕のたとえを話すことで,赦す必要についてさらに弟子たちにお教えになりました。このたとえでは,王は主を表し,最初の僕は主に負債を負うわたしたちそれぞれを,そして二番目の僕はわたしたちの気分を害した人を表しています。
このたとえは,「一万タラント」(24節),「百デナリ」(28節)について触れています。「紀元1世紀のころ,1万タラントは1億デナリに相当したと推定されます。1デナリは,一般労働者の典型的な日給でした。労働者が1年のうち300日働いたとしたら,1タラントを手に入れるには約33年かかります。そして,僕の負債の合計金額であった一万タラントを稼ぐには,30万年以上かかることになります。」(Jay A. Parry and Donald W. Parry, Understanding the Parables of Jesus Christ [2006], 95)比較すると,仲間の僕の負債額100デナリは,最初の僕の負債額の約100万分の1です。
十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,インスティテュートクラスの生徒だったときに無慈悲な僕のたとえにあった金額の価値について学び,このたとえで教えられた永遠の真理を幾らか理解したときのことを回想しました。
「〔教師は,〕互いに与え合うことがわたしたち全員に期待され,結構な金額であるとだれもが認めていた100デナリの赦しが,キリストがわたしたちに与えて下さった一万タラントの赦しを考えれば,きわめて少ない要求であると指摘しました。
〔教師は〕一万タラントの負債,つまりわたしたちの負債は,理解できないほど桁外れな金額であるとわたしたちに言い聞かせました。彼は,これこそが,この教えで主が伝えようとされた事であり,たとえの最も重要な部分であると言いました。イエスは,聴衆たちに,イエスの憐れみ,赦し,贖罪の永遠に広がる範囲と計り知れない賜物をほんの少しでも感じ取ってもらおうとされたのです。わたしは,わたしのためにキリストが払ってくださった犠牲の大きさといったものを人生で初めて感じたことを覚えています。今になってもおおよそ理解できるものではない賜物であるとは言え,人を赦して,人の気持ち,必要,状況について,どんなときでも寛容であることのわたし自身の必要性について初めて真剣に考えさせられた賜物です。」(“Students Need Teachers to Guide Them” [Church Educational System satellite broadcast, June 20, 1992], 3; si.lds.org)
マタイ18:33。「わたしがあわれんでやったように,あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」
無慈悲な僕のたとえのメッセージの一つは,わたしたちが主から赦しを受けるなら,わたしたちも他人を赦さなければならないということです(マタイ5:7;6:12,14-15参照)。ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)もこの原則を教え,わたしたちそれぞれが,わたしたちに対して罪を犯す人たちにより寛大であるよう求めました。
「偉大な贖罪は,究極の赦しの行為でした。贖罪の重要性を完全に理解することはわたしたちにはできません。わたしが知っているのは,贖罪が行われたという事実,そしてそれがわたしと皆さんのためであったということだけです。救い主の苦しみはあまりに大きく,苦悶はあまりに激しいものでした。そのため,主が全人類の罪のために身代わりとして御自身をささげられたときのことを理解できる人はだれもいません。
わたしたちは救い主を通して赦しが得られるのです。そして救い主を通して全人類が死から復活し,救いの祝福を受けるという確かな約束を得ることができます。
神の助けを受けて,もう少し優しくなり,もっと寛大になり,もっと赦し,もっと喜んで2マイル歩き,罪を犯したけれどもすでに悔い改めの実を結んでいる人に手を伸ばして引き上げ,昔の恨みを忘れ,二度と恨みを増幅させることがありませんように。」(「赦す」『リアホナ』2005年11月号,84)
七十人会長会の一員として奉仕していたデビッド・E・ソレンセン長老は,わたしたちが人を赦すとき,過去を拭い去り,信仰と愛で未来に向かって進むことができると教えました。
「自分や自分の気にかけている人々が傷つけられたとき,その痛みは計り知れないものであることがあります。まるでその痛みあるいは不当な行為こそ,世の中で最も重要なことであって,復讐を企てる以外に選択肢がないかのように感じられることがあります。しかし平和の君であるキリストは,より良い方法を教えてくださいます。自分に加えられた危害についてだれかを赦すことは非常に難しいことがありますが,そうするときに,わたしたちにはもっとすばらしい未来が開かれるのです。もうほかのだれかの不当な行いに自分の進路を左右されることはありません。人を赦すことによって,わたしたちは自分自身の人生の生き方を自由に選べるようになるのです。赦しとは,もう過去の問題に自分の行く末を決定されることなく,心に神の愛を抱きながら未来に焦点を合わせることができるという意味なのです。」(「赦しは苦しみを愛に変えるであろう」『リアホナ』2003年5月号,12)