わたしに従ってきなさい
隠された宝
聖文を深掘りすることで得られる豊かな知識に気づいてください。
イラスト/ティム・ブラッドフォード
教会はあらゆる人々の貢献を必要としています。
教会を機械に例えるなら、多くの部品から成る巨大な機械です。一部の部品はほかの部品よりも目立ち、より「重要」に見えますが、小さな隠れた歯車やボルトもそれぞれの役割を果たしています。
主は言われました。「それゆえ、各人をそれぞれの職に就かせ、それぞれの召しにおいて働かせなさい。頭は足に向かって、足は要らないと言ってはならない。足がなければ、体はどうして立つことができるであろうか。体はまたあらゆる部分を必要としていて、すべてがともに教化され、全体が完全に保たれるのである。」(教義と聖約84:109-110)
教会のワードや支部には、話が上手な人だけでなく、聞き上手な人も必要です。ビショップと扶助協会会長だけでなく、日曜学校書記や託児指導者も必要です。物静かな人も、大胆な人も、面白い人も、落ち着いた人も必要です。内向的な人も、外向的な人も、エンジニアも、アーティストも必要です。教会は一人一人の異なる才能や長所を必要としています。
どれほど「立派な」仕事かは関係ありません。教会のあらゆる働きは主にとって大切なのです。
立つべき「聖なる場所」とは、どこでしょうか。
主が「戦争がすべての国々のうえに押し寄せる」(教義と聖約87:3)と明らかにされたとき、それにどのように対処するべきかについても聖徒たちに語られました。
「あなたがたは聖なる場所に立ち、動かされないようにしなさい。」(教義と聖約87:8)
「聖なる場所」とはどこでしょうか。もちろん、(ふさわしい状態で参入するならば)神殿は聖なる場所です。教会堂もそうです。指導者は、家庭も聖なる場所とするようにと言っています。そのためには、家庭で愛と一致を示し、福音を研究し、御霊を招きます。
しかし、主はわたしたちが常に家や教会堂、神殿に隠れていることを望んではおられません。わたしたちが世に出て喜びを広め、人々に奉仕することを望んでおられるのです。
聖霊がおられるのはそのためです。御霊が宿る所ならば、どんな場所も「聖なる場所」となるのです。
あなたが謙遜で、忠実で、誠実であれば、教室、校庭、職場、車、待合室、スポーツジムなど、どこへ行っても霊感を受けることができます。
もちろん、賢くなければいけませんし、良からぬ環境や危険な環境を求めてはなりません。しかし主が強調されたのは、末日の災いについて心配しすぎる必要はないということです。学校、仕事、娯楽、生活など、自分のやるべきことを行う際に御霊の導きに従うならば守られます。
だれかを注意しなければならないときは、少し愛を加えるとうまくいきます。
愛する人を注意しなければならない経験をしたことがありますか。難しいですよね。たいていのことと同じように、救い主の模範に倣うとよいでしょう。教義と聖約の中で、主は幾度も人々を懲らしめておられますが、常に愛をもって行われました。
例えば第93章で、ジョセフ・スミス、フレデリック・G・ウィリアムズ、シドニー・リグドンは皆、何らかの点で正される必要がありました。主は彼らを「僕」(41、44、45節)と呼んでおられますが、その後次のようにはっきりと述べておられます。「言い換えれば、あなたがたを友と呼ぼう。あなたがたはわたしの友であり、わたしとともに受け継ぎを得るからである。」(45節)その後、救い主は彼らを「友」と呼ばれました(51節)。
なぜこれが重要なのでしょうか。懲らしめられるのはつらいことですよね。主は、ジョセフたちに、たとえ過ちや弱さがあっても、結局のところ彼らは主の友だということを思い起こさせ、いっそうの愛を示されたのです。
主の友。つまり、主が好かれ、そばにいたいと望んでおられる人々なのです!主はあなたに対しても同じように感じておられます。わたしたちは皆、主の友です。