YAウィークリー
母親であることが「すばらしい」と感じられないとき
『リアホナ』2026年1月号


幼い子供の母親向け

母親であることが「すばらしい」と感じられないとき

母親の務めには、喜びと困難が入り混じっていることがあります。

赤ちゃんを抱く疲れ果てた母親

自分の子供が生まれたばかりのころ、わたしは疲れ果てていました。新生児を抱えて一晩中起きていたわたしは、やっとの思いで教会にたどり着きました。集会の後、優しい年配の女性がわたしの腕をつかんで言いました。「母親になるって、すばらしいことね。」

わたしはあまりにイライラしていたので返事ができませんでした。これまでずっと母親になりたいと思っていましたし、母親になることにはすばらしい側面が多くあることは認めていましたが、そのときは「すばらしい」とは感じられませんでした。

産後の不快な思いや心配事が頭に浮かび、罪悪感を覚え始めました。母親になりたくなかったとしたら、どうしよう。新生児と奮闘するとき、わたしはほかのお母さんたちが表現しているような絶え間ない「驚き」を感じていませんでした。また、母親になりたいと切望する女性たちのことを思うと胸が痛み、母親としての一瞬一瞬を喜べない自分をわがままだと思いました。

それは、自分が悪い母親だということでしょうか。このような気持ちを感じているのは、わたしだけでしょうか。

すばらしさを見いだす

わたしは、出産したばかりの友人数人にメールを送ってみました。みんな同じように昼夜大変だったことを聞いて、何だかほっとしました。彼らと話す中で、はっとさせられることがありました。

母親であることに関して「すばらしい」という言葉を使うのは、困難と同時に物凄い感動が訪れるからかもしれません。

母親であることを表すのに、「すばらしい」という言葉が「困難」や「自己犠牲」、「全身全霊」といった言葉に代わって使われていることに、わたしは不満を感じました。年中無休で赤ちゃんが頼ってくるので、わたしにとっては後者の方が現実味を帯びていました。教会のあの女性が「母親って大変よね」と言ってくれたらよかったのにと思うほどでした。

ふと、賛美歌の「主イエスの愛に」の歌詞が心に浮かびました。

「奇しき御業。ああ、奇しき主の御業。」〔訳注―「奇しき」は英語で「すばらしい」を意味する"Wonderful"の訳〕

救い主の贖罪は、「困難」で「自己犠牲」を伴う「全身全霊」を尽くす出来事でした。それなのに、歌の中では、「Wonderful(すばらしい)」という言葉で表現されています。

母親であることが教えてくれたこと

今、息子は1歳になり、母親になってからの昨年を振り返ると、わたしは多くのことを学びました。そして何より、イエス・キリストに近づけるようになりました。

十二使徒定員会会長代理のジェフリー・R・ホランド会長の次の言葉をよく思い出します。「この世のどのような愛よりも、献身的な母親の子供 に対する無私の愛ほどイエス・キリストの 純粋な愛に近いものはありません。」

母親になるとはどういうことかを学ぶにつれ、わたしは救い主をより深く理解できるようになりました。

また、優しい母と、彼女が生涯にわたってわたしのために払ってくれた数え切れない犠牲に対して、より深い感謝の念を抱くようになりました。「Wonderful(すばらしい)」は、わたしが母を表すのに使う言葉です。

聖文は、母親について、また母親であることについて絶えず言及しています。母親としてそれらを読むことで、人生に新たな視点がもたらされました。

例えば、イザヤ書第49章15節の言葉も、子供を絶えず養うことがどのようなことか分かる今、より現実味を帯びてきます。「女がその乳飲み子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あたなを忘れることはない。」

わたしのこの体は、自分を頼りにしている子供がいることを忘れることはあり得ません。それでもなお、救い主がわたしたちに抱いておられる完全で永遠の愛には及びません。

息子を育てることで、神殿の聖約で約束された祝福をよりよく理解できるようになり、救い主の教えの模範となるという大きな目的意識が生まれました。

母親としての毎日は、様々な困難と喜びが伴いますが、たとえそのように感じられないことがあっても、「すばらしい」という言葉が母親であることを完璧に表現していますす。

自分が常に「すばらしい」母親であると感じるわけではありませんが、わたしは日々、救い主イエス・キリストのようになり、息子に主の足跡をたどることを教えられたらと願っています。