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マタイ13-15章
マタイ13-15章の紹介とタイムライン
マタイ13-15章の出来事は,イエス・キリストと弟子たちが,多くのパリサイ人からの高まる反発に直面していたころのものです(マタイ12:14;15:1-20参照)。救い主の民への務めのこの時点で,救い主は霊的な事柄に関してそれぞれのレベルで聴衆に伝わる教授方法を用いられました。たとえを使って教え始められたのです(マルコ4:34参照)。イエス・キリストは,マタイ13章にあるたとえを用いて,やがて起きる背教と末日の回復を含む,天の王国,つまり教会についての真理をお教えになりました(『聖句ガイド』「神の王国;天の王国」,「たとえ」の項参照)。
マタイ14章にあるイエス・キリストがガリラヤの海の水の上を歩かれた記述は,自然界を支配される救い主の力の例を示しています。この出来事は,水の上を歩き,嵐を静めることがおできになる救い主には,反発の嵐の中で弟子たちを引き上げ,平安を与えることも可能であることを教えてくれます。この嵐は,主と主の弟子たちが当時直面していた反発の象徴として見ることもできます。引き上げ,癒す救い主の力は,マタイ15章に記述されている癒しによって,さらに詳しく描写されています。
マタイ13-15章の解説
マタイ13章。たとえ
マタイは,第13章に救い主の8つのたとえを記録しました。たとえという言葉は,「比較」または「並べて置く」ことを意味します(Bible Dictionary“Parables”の項)。マタイ13章に記録された8つのたとえは,それぞれ「天国」を実際の物や物体と比較しています。(「天国」の定義については,マタイ13:11の解説を参照してください。)たいていの場合,たとえには,たとえが話された聴衆,またはイエスがお答えになっている質問など,たとえの解釈を明確にする文脈上のヒントがあります。預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)は次のように教えています。「わたしには,聖文を理解するためのコツがあります。答えを引き出した質問が何であったか,またはイエスがたとえを話されたきっかけが何であったかを調べるのです。意味を解明するには,その本質を突き止め,イエスにその言葉を言わしめたものが何であったかを確かめる必要があります。」(History of the Church, 5:261で引用)
時には,救い主御自身が解釈を説明されました。例えば,イエスは種まきのたとえ,および麦と毒麦のたとえの意味を説明されました(マタイ13:3-8,18-30,36-43参照)。通常,たとえには意図された解釈が一つありますが,現代の状況に応用できる多くの教訓と真理が存在する場合もあります。
大管長会のヒュー・B・ブラウン管長(1883-1975年)は,救い主のたとえは,恐らく日常的な経験から生まれたものであろうと指摘しています。「救い主のたとえは想像から編み出されたものではありません。これらは,救い主が人々と共に暮らす中で目にされた事柄の言葉による描写でした。救い主は,畑で働く種まき,羊と羊飼い,悔い改めて父親のもとに帰る息子,実を結ばないいちじくの木を御覧になったことがあり,取税人とパリサイ人を御存じで,思慮の浅いおとめたちのランプに油がなかった婚宴に参加されたのです。救い主は,御自身の生活の豊かさからお教えになり,人々を愛されるがゆえにお教えになりました。」(Eternal Quest, sel. Charles Manley Brown [1956], 181)
マタイ13:3-52。集合のたとえ
預言者ジョセフ・スミスは,マタイ13章にある救い主のたとえが,新約時代,および末日の地上での福音の確立における教会への人々の集合について理解する助けになると教えました。「マタイによる福音書第13章に記録された救い主の言葉は,……わたしが思うに,聖書に記録されたあらゆる記録と同様に,集合という重要な課題に対するわたしたちの理解を明確なものにしてくれます。」(History of the Church, 2:264で引用)
以下の表は,マタイ13章のたとえについての預言者ジョセフ・スミスの教えの一部を要約し,それらのたとえがイスラエルの集合について,およびイエス・キリストの時代から福千年までの天の王国(教会)の驚くべき成長と運命について何を教えているかを示しています。
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マタイ13章のたとえ |
集合 |
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種まき(3-23節) |
福音の宣教を聞く人々は,様々な反応をする。また,教会は時の中間にイエスと使徒たちによって設立された。 「この〔種まきの〕たとえは,御言葉を宣べ伝えることによって生じる結果を示すために語られました。またその時代〔新約聖書の時代〕における王国の始まり,すなわち王国の設立について直接言及したものであると,わたしたちは信じています。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』297-298) |
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麦と毒麦(24-30,36-43節) |
義人と悪人は新約聖書の時代に共に増大したが,最終的には大背教へとつながった。末日においては,悪人が滅ぼされ,義人が神の王国に集められるこの世の終わりまで,どちらも共に増大する。 「このたとえから,実を結んだ良い種が象徴する救い主の時代における王国の設立についてだけでなく,毒麦が象徴する教会の腐敗についても学ぶことができます。毒麦は敵によってまかれたもので,もし救い主の承認があったとしたら,弟子たちは進んで毒麦を抜いていた,すなわち教会を清めるためにそれらを取り除いていたでしょう。しかしすべてのことを御存じである主は,そうしてはならないと言われました。それはあたかも次のように言っておられたかのようです。すなわち,あなたがたの考えは正しくない。教会は幼年期にあり,もしそのような性急な措置を講じるなら,小麦すなわち教会を,毒麦と一緒に滅ぼすことになるだろう。だから収穫のときすなわち世の終わりまで,それらが一緒に育つままにしておく方がよい。世の終わりとは悪人の滅亡を意味し,それはまだ成就していない。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』299) |
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からし種(31-32節) |
教会は末日に回復される。 「『天国は,一粒のからし種のようなものである。』〔マタイ13:31-32〕……さて,終わりの時に出て来る教会を表すためにこのたとえが用いられていることは明らかです。……モルモン書を例に考えてみましょう。ある人がそれを取って丘に隠し,終わりの時に,すなわち定められたときに出て来るように,信仰によってそれを安全に保管しました。それが地の中から出て来るのを見てみましょう。実際にあらゆる種の中で最も小さいと考えられていますが,それが枝を伸ばし,さらに空に向かって高く枝を広げ,神のような尊厳をもって高くそびえ立つことに注目してください。そしてからし種のように,あらゆる草木の中で最も大いなるものとなるのです。……神は御自分の力と賜物と天使を遣わして,その枝に宿らせておられます。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』300-301) |
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パン種,および新しいものと古いもの(33,52節) |
末日の教会は,3人の証人の証と末日の聖典というパン種の力を借りて世界中に広がる。 「『天国は,パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると,全体がふくらんでくる。』〔マタイ13:33〕末日聖徒の教会は,三人の証人に与えられた少しばかりのパン種から興ったと理解することができます。これがどれほどたとえと一致するかを考えてください。パン種は急速に塊の一部を膨らませており,やがて全体を膨らませるでしょう。…… 『そこで,イエスは彼らに言われた,「それだから,天国のことを学んだ学者は,新しいものと古いものとを,その倉から取り出す一家の主人のようなものである。」』〔マタイ13:52〕 このたとえで述べられている業については,モルモン書が心の倉から出て来たことに目を向けてください。また末日聖徒に与えられた聖約〔教義と聖約〕や,聖書の翻訳も同様です。このように新しいものと古いものとを心の倉から取り出しています。またイエス・キリストの啓示と,終わりの時にすでにこの業を始めている天使たちの働きに触れて聖められている三斗の粉にたとえられるように,それは塊全体を膨らませるパン種のようになるでしょう。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』301,303) |
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義人の集合。 「聖徒たちはこの〔隠してある宝の〕パターンに従って機能します。末日聖徒の教会を見てください。災いの日に共にいて,お互いの苦難を担うために,持っている物をすべて売り払い,受け継ぎのために購入する場所に自ら集まります。 ……シオンとその杭または残りの者たちのための場所を探すために旅する人たちを見てください。彼らは,シオンのための場所,つまり高価な真珠を見つけるとき,すぐさま持っている物を売り払い,それを購入します。」(History of the Church, 2:272で引用) なお,教会初期の時代,聖徒たちにはノーブーまたはソルトレーク・シティーなどの共通の地域に集まることが奨励されていましたが,今日,教会指導者たちは現在住んでいる市および町に留まり,そこで教会を築き上げることをわたしたちに奨励している点に留意すべきです。 | |
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網(47-50節) |
あらゆる種類の人々が教会に集められる。 「『また天国は,海におろして,あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。それがいっぱいになると岸に引き上げ,そしてすわって,良いのを器に入れ,悪いのを外へ捨てるのである。』〔マタイ13:47-48〕このたとえで述べられている業については,ヨセフの子孫が地の面に福音の網を広げ,あらゆる種類の人を集めていることに目を向けてください。良いものを救って用意された器の中に入れるためであり,悪いものについては天使たちが対処するでしょう。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』302) |
マタイ13:4-8。異なる種類の土(マルコ4:1-20も参照)
The Sower, by George Soper
種まきのたとえ(土のたとえとも呼ばれます)では,畑が世界を表し,種まきが使徒を表します。異なる種類の土は,人々の心の状態を表します。救い主は,「御国の言」は「〔人の〕心にまかれ〔る〕」(マタイ13:19)とお教えになり,このたとえは福音の言葉に対する人々の様々な反応を表現しています。
道ばたは,畑のまわりの道,または畑を通る道です。この道は,そのうえを農夫や旅人がいつも歩いていたために固くなりました。その道の固さは,そこに落ちた種が土に沈んで根を張ることを妨げたため,鳥たちは簡単に種を見つけて食べることができました。石地とは,肥沃な土で薄く覆われただけの岩だらけの土地です。種は根を浅く張ることはできますが,地表のすぐ下にある石によって根を深く張ることができず,芽は日中の焼け付く暑さに耐えられませんでした。いばらが生えた土地は肥沃ではありましたが,いばらとそのほかの雑草が生い茂っており,実りの多い植物から水分と必要な栄養を奪って枯れさせてしまいました。良い地は,健康な根のために十分な深さのある肥沃な土で,植物は成長して,様々な量の実を結ぶことができました。
マタイ13:10-12。「持っている人は与えられ〔る〕」(マルコ4:11-12も参照)
マタイ13:12にある主の言葉の意味については,2ニーファイ28:30にある「わたしは受け入れる者にさらに多く与え,『もう十分である』と言う者からは,彼らが持っているものさえも取り上げる」という御言葉から理解を深めることができます(ジョセフ・スミス訳マタイ13:10-11〔英文〕も参照)。従って,マタイ13:12の救い主の言葉の意味は,「〔受け入れる能力を〕持っている人は与えられる」と解釈することができます。これは,福音を理解することにおける個人の選択の自由の大切さを明確に示しています。全能の神でさえも,受け入れない人に与えることはできません。モルモン書にあるもう一つの聖句もこの原則を強調し,人が霊的な真理に対して心をかたくなにし続けると,かつて持っていた霊的な知識も失ってしまう場合があると教えています(アルマ12:10-11参照)。
マタイ13:11。天国
「天国」という言葉はマタイ13章で8回繰り返されています。十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,マタイで使用されている『天国』とは,「地上における教会と神の王国,時の中間に主イエス・キリストによって正式に設立され,組織された教会」を意味すると説明しています。(Doctrinal New Testament Commentary, 3 vols. [1965–73], 1:296。『聖句ガイド』「神の王国;天の王国」の項も参照)
マタイ13:13。「見ても見ず」
救い主は,霊的な準備ができていない人からは意味を隠し,それらを受け入れる準備が整っている人には偉大な真理を明らかにするためにたとえを使われました(マタイ13:10-16参照)。「たとえは,信仰と知性に応じて聞き手に宗教的真理を正確に伝える。『見ても見ず』心が鈍く霊感を受けていない者にとっては,ただの物語にすぎない。一方で,教えを受け入れる霊的な者にとっては,天国の奥義や秘密を明らかにする。したがって,たとえはすべての真の知識の状態を明らかに示す。求める者だけが見いだす。」(Bible Dictionary“Parables”の項)このため,救い主のたとえには,それらが持つ真理の理解をさらに求めなさいという暗黙の招きが含まれており,理解を求めた者にはよりすばらしい啓蒙が与えられました(マタイ13:10,36参照)。
十二使徒定員会のジェームズ・E・タルメージ長老(1862-1933年)は,たとえで教えられている真理を理解できない人がいる理由について,シンプルな例を挙げました。「今二人の人が同じ教えの言葉を聞いたとする。そのうちの一人は不承不承,どうでもよいと思って聞き,もう一人は教えの言葉が伝えるすべてを知ろうと一心になって聞く,そして聞いてしまうと,勤勉な人は直ちに行って勧められたことを実行する。ところが,不注意な人は教えを無視し,忘れてしまう。勤勉な人は賢明であり,もう一方の人は愚かである。そして賢明な者は教えを聞いて永遠の命を得,愚かな者は教えを耳にしても永久の滅びに至る。」(『キリスト・イエス』第3版,291)
マタイ13:23。心の良い土を準備する(マルコ4:20;ルカ8:15も参照)
大管長会のジェームズ・E・ファウスト管長(1920-2007年)は,福音のメッセージに対する心の受容力を高めることができる方法を教えました。
「信仰の種を生活の中で膨らませるには,サタンの影響を取り除かなければなりません。
わたしたちはまた,信仰を育てるために自分自身の苗床を作らなければなりません。そのためには,強さと赦しを求める祈りを毎日ささげることによって地面を耕す必要があります。高慢な心に打ち勝つことによって畑を〔掘り起こし〕ならす必要があります。能力の限りを尽くして戒めを守ることによって苗床を作る必要があります。」(「種と土壌について」『リアホナ』2000年1月号,56)
大管長会のヘンリー・B・アイリング管長は,神の御言葉の研究は,霊的な事柄に対してわたしたちの心を開くことができると教えました。「神の御言葉とは,イエス・キリストと預言者によって教えられた教義です。アルマは神の御言葉には偉大な力があることを知っていました。神の御言葉は民の心を開き,霊的なこと,目に見えないものを見せてくれます。また,神と真理への愛を抱けるよう心を開いてくれます。」(「教義を教える力」『リアホナ』1999年7月号,86)
マタイ13:24-30,36-43。麦と毒麦のたとえ
「〔毒麦とは〕小麦によく似た草で毒を持つもの。生長して大きくなるまでは,小麦と見分けがつかない。」(『聖句ガイド』「毒麦」の項)救い主は,毒麦を集めて燃やすことが,世の終わりに悪人が滅びることを表していると説明されました(マタイ13:38-42参照)。大管長会のマリオン・G・ロムニー管長(1897-1988年)は,「邪悪と破滅の速度は大きく加速されています……,そして麦の収穫も同様に加速しています。今もなお,毒麦は自らを縛って束にし,畑が焼かれるための準備を整えています」と述べました(Conference Report, Oct. 1966, 53で引用)。
The Enemy Sowing Tares, by James Tissot
マタイ13:36-43で主がお与えになったこのたとえの説明に加え,主は教義と聖約86:1-7でもさらに説明を加えられ,たとえがどのように背教や回復や世の終わりに当てはまるかを明確にされました。主は,麦の収穫はこの神権時代に行われており,毒麦の焼却は主が勝利者として戻られるときに起こるとも言われました(教義101:63-68参照)。
マタイ13:31-32。大きな木に育つ小さなからし種(マルコ4:30-32;ルカ13:18-19も参照)
からし種は非常に小さいですが,鳥たちが住み,枝の間に安全な場所を見つけることができる木に成長できます。1830年に教会が回復されたとき,教会は小さなからし種のようでした。その後,教会はその「枝」が地上のほとんどすべての国で見られるほどに成長し,その会員は教会に霊的な「家」と,この世から守られる場を見いだします。救い主はからし種のたとえを使って,主の教会が,始めは小さくとも,非常に大きな組織に成長するとお教えになりました(ダニエル2:44;教義と聖約65:1-2と比較)。
ウィルフォード・ウッドラフ大管長(1807-1898年)は,1834年4月にオハイオ州カートランドで開かれた神権会に集まった兄弟たちに対する預言者ジョセフ・スミスの言葉を次のように回想しました。「預言者は言いました。『兄弟の皆さん,……主の御前で皆さんに申し上げたいと思います。皆さんはこの教会と王国の行く末について,母親のひざにいる幼子ほどしか知っていません。皆さんはまだ理解していません。』わたしはとても驚きました。ジョセフはこう言ったのです。『今夜ここで皆さんが見ているのは,わずか一握りの神権者だけですが,この教会は南北アメリカを満たし,世界を満たすでしょう。』」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』137)
左:からし種(からしの鞘と比較したサイズ)
右:からしの木。
マタイ13:35。「世の始めから隠されていること」
マタイは,救い主のたとえが「世の始めから隠されている」真理を明らかにすることによって預言(詩篇78:2-3参照)を成就したと書きました(マタイ13:35)。十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン長老は,主はわたしたちの時代にも引き続きこのような真理を明らかにされると教えました。「主は長い間,『世の初めから隠されていること』〔マタイ13:35〕を明らかにする計画を立てておられました。モルモン書に記録されている啓示がその一部であり〔2ニーファイ27:10参照〕,聖なる神殿の儀式と聖約もそうです〔教義124:40-41参照〕。主は預言者ジョセフ・スミスに次のように言われました。『わたしは創世の前から隠されてきたこと,すなわち時満ちる神権時代に関することを,わたしの教会に示そうと思う。』〔教義と聖約124:41〕」(「堅固な土台」『リアホナ』2002年7月号,84)
マタイ13:44-46。隠してある宝と高価な真珠
隠してある宝と高価な真珠のたとえには,共通点が幾つかあります。どちらも,登場人物が価値のあるもの,つまり宝と真珠を買うために,持っている物をすべて売り払いました。どちらの場合も,価値のある物はイエス・キリストの福音を表しています。これらのたとえを並べて比較することによって,イエス・キリストの福音の偉大な価値が強調されます。これら二つのたとえにおける違いの一つは,宝と真珠がどのように見つけられたかということです。畑の宝は偶然見つけられるように見受けられますが,商人は真珠を積極的に探しています。これは,イエス・キリストの福音を見いだした方法が,一見すると偶然であったか,あるいは意図的に探し出したかにかかわらず,福音を得るためには,持っている物すべてを犠牲にする価値があることを描写しています。
マタイ13:55-56。イエス・キリストの家族
マタイ13:55-56には,イエス・キリストの家族について四福音書で最も詳しく書かれています。これらの節によると,イエス・キリストの降誕後,ヨセフとマリヤは,ヤコブ,ヨセフ,シモン,ユダと二人以上の娘の,少なくとも6人の子供を持ったと思われます。ヤコブは後に使徒職に召されました(ガラテヤ1:19参照)。これらの節に父ヨセフの名前がないことは,彼がすでに亡くなっていたことを示唆していると多くの人が推測しています。
マタイ14:1-12。バプテスマのヨハネの死
バプテスマのヨハネの死に関する洞察については,マルコ6:14-29の解説を参照してください。
マタイ14:13-14。「深くあわれんで」
マタイは,イエス・キリストが寂しい所へ行かれた理由を書き残しませんでしたが,考えられる理由の一つは,イエスがバプテスマのヨハネの死を独りで悼むために行かれたということです(マタイ14:13参照)。独りになることを望まれたにもかかわらず,大勢の人々が御自分を探すのを見られたときのイエスの反応は,憤りや苛立ちではなく,哀れみでした。
福音書の著者たちは,救い主の哀れみについて繰り返し言及しました。トーマス・S・モンソン大管長は,救い主の偉大な哀れみについて話しました。「主は『哀れみ』という言葉を行いで表してくださいました。愛を伝える方法を示し,わたしたちが従うべき道を明らかにされました。無私の奉仕は主の生涯を特徴づけるものでした。……救い主の働きは終始,隣人愛を具現したものでした。」(「主の道」『聖徒の道』1996年7月号,62)
マタイ14:15-21。五千人に食べ物を与える(マルコ6:34-44;ルカ9:11-17;ヨハネ6:3-14も参照)
「女と子供を除いて,おおよそ五千人」に食べ物を与える奇跡についての詳細を学ぶには,マルコ6:32-44およびヨハネ6:15の解説を参照してください。
マタイ14:22-33。「夜明けの四時」にガリラヤの海の上を歩かれたイエス(マルコ6:45-52;ヨハネ6:15-21も参照)
ローマ人は夜の時間帯を,それぞれ午後6時-9時,午後9時-午前0時,午前0時-3時,午前3時-6時の4つの当直時間に分けていました。夜明けの4時ごろに救い主が弟子たちのもとに来られたとき(マタイ14:25参照),彼らは逆風の中,夜通し船を漕いでいました。中央若い女性会長として奉仕していたスーザン・W・タナー姉妹は,辛抱する必要はあれども,主はわたしたちそれぞれのもとに来られると証しました。
「主の深い憐れみと小さな,また大きな奇跡が現実のものであることを知っています。それらは主の方法と時刻表に従って与えられます。わたしたちが限界に達したときにしか与えられないこともあります。イエスの弟子たちはガリラヤの海で逆風の中,イエスが助けに来られるまで,一晩中船をこがなければなりませんでした。イエスは夜明け近くの4時まで来られませんでした。それでも,主は確かにいらっしゃいました(マルコ6:45-51参照)。時には夜明けの4時まで待つ必要があるとしても,奇跡は必ず起きると,わたしは証します。」(「わたしは主に関することに喜びを感じる」『リアホナ』2008年5月号,83)
初期の使徒たちは,小さな釣り船でガリラヤの海を渡りました。
Photograph by James Jeffery
マタイ14:26。「弟子たちは,イエス……を見て……恐怖のあまり叫び声をあげた」
十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,救い主が水の上を歩かれた記述を使って,恐怖心が,どのようにキリストを信じ,キリストのみもとに来る妨げになるかについて説明しました。
「この聖文の記述は,キリストのみもとに来る,またはキリストにわたしたちのもとに来ていただくための,最初の一歩を踏み出すとき,恐怖に似た感情でいっぱいになる場合があることに気付かせてくれます。恐れを抱かせるはずのものではなくても,そのような気持ちにさせられることがあるのです。福音の大いなる皮肉の一つは,人間の先見の明のなさによって,わたしたちに与えられている助けと安全の源から,わたしたちが逃げようとしてしまう可能性があるということです。理由こそ分かりませんが,バプテスマから逃げ出す求道者を見たことがあります。伝道の召しから逃げ出す長老たちを見たことがあります。結婚から逃げ出す恋人たちを見たことがあります。そして家族と未来に対する恐怖心から逃げ出す若いカップルを見たことがあります。あまりにも頻繁に,あまりにも多くの人が,わたしたちを祝福し,救い,慰めてくれるであろう事そのものから逃げています。わたしたちは,福音に対する献身と戒めを,恐れ,見捨てるものとして見なすことが多すぎます。」(“Come unto Me” [Brigham Young University fireside, Mar. 2, 1997], 8; speeches.byu.edu)
マタイ14:27-31。「しっかりするのだ,わたしである。恐れることはない」
「しっかりするのだ」(マタイ14:27)という言葉は,標準聖典の中で頻繁に使われています。ほとんどの場合,この心強い言葉は,使徒たちのような個人が絶望的,または悲観的な状況にいるときに救い主からかけられるものです。ハワード・W・ハンター大管長(1907-1995年)は次のように教えています。
「弟子たちは不安をつのらせ,不安が極みに達したとき,暗闇の中に,風に衣をなびかせながら,うねる波の上を自分たちの方に向かって歩いてくる人影が見えました。その光景を見て,弟子たちは恐怖のあまり叫びました。波の上を歩く幽霊だと思ったのです。弟子たちが経験した嵐と暗闇はわたしたちにもしばしば訪れます。人生の暗闇の中で,海はあまりにも大きく,自分の舟はあまりにも小さく思えるときがあります。そのとき,最も大きな安心感を与えてくれる声が聞こえてきたのです。それはこのような簡潔で力強い言葉でした。『わたしである。恐れることはない。』するとペテロが大声で言いました。『主よ,あなたでしたか。では,わたしに命じて,水の上を渡ってみもとに行かせてください。』そこでキリストはペテロにお答えになりました。それはわたしたちすべてへの答えと同じでした。『おいでなさい。』
ペテロは舟から荒れる海へ降りました。そして,主にしっかりと目を向けている間は,風に髪が巻き上げられ,水しぶきで衣がびしょぬれになっても平然としていました。ところが,信仰が揺らぎ,主から目をそらして,足もとの荒れ狂う波と暗い海に目を向けたとたん,まさにその瞬間にペテロは沈み始めたのです。またもや,わたしたちの大半がするように,ペテロは叫びました。『主よ,お助けください。』そしてまた,イエスも,ペテロを見捨てることはされませんでした。手を伸ばし,おぼれかかっている弟子をつかまえて,優しくおしかりになりました。『信仰の薄い者よ,なぜ疑ったのか。』……(Adapted from [Frederic W.] Farrar, The Life of Christ, pp. 310–13。マタイ14:22-33参照)
個人,家族,地域社会,そして国として,ペテロのようにイエスをしっかりと見つめるなら,『不信仰という荒波』に勝ってそのうえを歩き,『疑いという激しく吹きすさぶ嵐の中にあってもひるむことはない』と,固く信じています。しかし,もしわたしたちが,信仰を寄せるべきキリストから目をそらしたらどうなるでしょうか。それはたやすく起こり得ることです。この世にはそのような誘惑があふれています。わたしたちを助け,救う力のある御方ではなく,周囲に渦巻く破壊的で恐ろしい嵐の猛威に目を奪われたら,争い,悲しみ,失望の海の中に沈んでいくに違いないのです。
皆さんが洪水に押し流され,信仰を激しく揺さぶられ,今にも深みに飲み込まれてしまうのではと感じるときに,その嵐と闇の中から必ず,世の救い主のあの優しい言葉を聞くことができるように祈っています。『しっかりするのだ,わたしである。恐れることはない。』(マタイ14:27)」(「平和な港の光」『聖徒の道』1993年1月号,22)
Christ Walking on the Water, by Robert T. Barrett
マタイ14:30。吹き荒れる風
前述のとおり,ペテロが注意を主からそらす原因となったのは吹き荒れる風でした。中央若い女性会長会第二顧問として奉仕していたパトリシア・P・ピネガー姉妹は,わたしたちの心と思いを救い主から離れさせる今日の雑音を幾つか挙げました。
「〔ペテロが〕周りで起きていることに注意を向けたとき,つまり『吹き荒れる風』に気を取られたとき,体が沈み始めました。わたしたちの生活の中で,吹き荒れる風とは何に当たるでしょうか。救い主からわたしたちの気持ちをそらし,わたしたちの心と思いを救い主から離れさせるものとは何でしょうか。それは神に喜ばれるよりも友達やほかの人に喜ばれようと思うことかもしれません(ヨハネ5:44参照)。またそれはテレビやビデオ,音楽から聞こえる,騒がしくて混乱を招く声かもしれません。ときには,まったく気にしないでいることもあります。わたしたちの心はかたくななのです(ヨハネ12:37参照)。わたしたちの気をそらすこの風は,常に吹き荒れています。しかし主に心を向け,信頼し,従うという選択をするならば,信仰を増すことができるのです。
ペテロが沈み始めた時,ペテロは主に心を向け,叫びました。『主よ,お助けください。』するとイエスはすぐに『手を伸ばし,彼をつかまえ』られたのです。イエスはわたしたちにも同じようにしてくださいます。わたしたち一人一人にそうしてくださるのです〔マタイ14:30-31〕。」(「信仰を増す」『聖徒の道』1994年7月号,104)
マタイ15:1-9。「洗っていない手」
洗っていない手に関する議論を理解するための助けについては,マルコ7:1-13の解説を参照してください。
マタイ15:8。「口さきではわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている」
マタイ15:8に記録されているとおり,救い主はイザヤ29:13を引用して,それを救い主の時代の人々に当てはめられました。彼らは口では神をたたえても,心は遠く離れていました。十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は,最後の裁きでは,福音が真実であると知り,それを明言するだけでは不十分であると教えました。
「世の教育機関は,わたしたちにある事柄について知りなさいと教えます。それとは対照的に,イエス・キリストの福音は,わたしたちにある特質を身につけた者になりなさいとチャレンジするのです。……
……〔イエス〕はシモン・ペテロに言われました。『しかし,わたしはあなたの信仰がなくならないように,あなたのために祈った。それで,あなたが立ち直ったとき〔訳注——「あなたが立ち直ったとき」は,英文では「あなたが改心したとき」を意味する「when thou art converted」となっている〕には,兄弟たちを力づけてやりなさい。』(ルカ22:32)……
このチャレンジから,イエスは天国に入りたいと願う(マタイ18:3参照)人々に,単に福音が真実であると証することとは別の次元の改心を求めておられたことが分かります。証するとは,知ること,そして宣言することです。福音はわたしたちに『改心する』ようチャレンジしています。改心するとは行うことであり,なることなのです。」(「主の望まれる者となるというチャレンジ」『リアホナ』2001年1月号,40-41)
マタイ15:21-28。カナンの女
ユダヤ人に福音が宣べ伝えられており,異邦人にはまだ伝えられていなかったとき,ある異邦人の女性はイエスが「ダビデの子」,約束されたメシヤであると気づきました。「小犬」と翻訳されたギリシャ語は,家庭のペットになり得る小さな犬を指します。このようなペットは,食卓から与えられた,またはうっかり落とされた食べ物の切れ端を食べました。救い主がイスラエルと異邦人を区別されていることを理解したこの女性は,家庭のペットは捨てられたものを食べることが許されると的確に指摘しました。彼女は,イエスの言葉に腹を立てることなく,自分をイスラエルの食卓についた物乞いだと謙遜に認めたのです。救い主は,彼女の信仰の表現をお褒めになりました。
この記述は,異邦人に福音をもたらすという主の計画に関するマタイによる福音書のテーマの一環です。この女性は異邦人でありながら強い信仰を持っていましたが,弟子たちは彼女を追い払うようイエスに頼みました。その代わりに,イエスは彼女を癒されました。弟子たちが異邦人に福音をもたらすときには(マタイ28:19-20参照),この女性のように彼らのメッセージを受け入れる備えが整った多くの人々を見つけることを期待することができました。
マタイ15:29-39。四千人に食べ物を与える(マルコ8:1-9も参照)
「女と子供を除いて,おおよそ四千人」に食べ物を与える奇跡に関する情報については,マルコ8:1-9の解説を参照してください。