長嶺顕正兄弟が逝去される
─沖縄初の日本人地方部会長・ステーク会長,また東京神殿会長を歴任─
沖縄の教会の礎を築いた開拓者,
長嶺兄弟は1936年,沖縄県那覇市に生まれた。8歳のある日,父親と兄が帰って来るなり「米軍の上陸が迫っているので,すぐに避難するように」と伝えた。身重の母親の
長嶺兄弟が高校を卒業し,就職のためタイプ学院に通っていたとき,高校時代の親友に誘われて教会の英会話に出席した。そのうち教えに興味を持った。救いの計画について「この教えはどこかで聞いたような」と心に強く感じるものがあったという。1958年,21歳でバプテスマを受ける。しかし,家の仕事も手伝わず教会にばかり行こうとする,と家族からは反対されていた。窓から家を抜け出して教会に集ったこともあった。
その後,就職して銀行員となり,教会で
1962年,日本人初の沖縄地方部会長に召され,教会堂の建築と伝道に力を入れた。1980年に沖縄那覇ステークが組織されると初代ステーク会長に召された。1995年にステーク祝福師に召されると,長嶺兄弟はその任にふさわしくあろうと断食と祈りを繰り返したという。
1997年夏のある早朝,電話が鳴る。─「長嶺兄弟,お元気ですか?」ゴードン・B・ヒンクレー大管長から直接の通話であった。東京神殿の第8代神殿会長に召されたのである。「わたしは信仰も弱く知識もありません」と大管長へ答えたものの,戒めを守り全力を尽くすときに主は御手を差し伸べてくださることを長嶺兄弟は知っていた。長嶺ご夫妻は多くの人に慕われつつ3年間の任期を全うする。
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ステーク会長在任中の長嶺兄弟は常に,沖縄戦で不本意な生涯を終えた多数の住民や日米の軍人たちが地の中から救いを求めているように感じていた。1983年に発表されたステークのビジョンには,「沖縄伝道部,沖縄神殿,ブリガム・ヤング大学沖縄校」の3つがあった。
それから40年後の2023年,日本沖縄神殿が奉献される。積年の思いの結実である神殿を仰ぎ見ながら長嶺兄弟は半年間,結び固め執行者として奉仕した。
長嶺兄弟が沖縄那覇ステーク会長を解任されたとき,十二使徒だったヒンクレー長老は彼の傍に立ってその労をねぎらった。それを見ていたある会員の心に聖書の一節が浮かぶ。「『良い忠実な僕よ,よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから,多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。」その場面は,長嶺兄弟の歩んだ人生をまさに象徴するものであった。◆