総大会
応援し合う
2025年10月総大会


11:53

応援し合う

わたしたちの限界と能力を完全に理解しておられるのは主だけなので、わたしたちの成果を完全に審査することがおできになるのは、主御一人だけです。

最近読んだ記事にあった経験談に、深く胸を打たれました。それは、シニアアスリートの大会である、全米マスターズ陸上競技選手権での出来事でした。

1,500メートル走に参加者した一人のランナーは、100歳のオービル・ロジャースでした。筆者はこのように書いています。

「スタートの合図とともにランナーが走り出すと、オービルはすぐにほかの選手から離され、レース中ずっと一人で後方を走りました。オービル以外のすべてのランナーがゴールした〔とき〕、オービルにはまだ2周半も残っていました。約3,000人の観客は、オービルがほかの選手と比べるとゆっくりとしたペースで黙々と、孤独にコースを走る様子を、静かに座って見守っていました。

〔しかし、〕彼が最後の一周に入ると、観客は立ち上がり、応援と拍手を送りました。そして彼が最後の直線に差し掛かるころには、観客は熱気にあふれていました。何千人もの観客の歓声を浴びながら、オービルは、最後のエネルギーを振り絞りました。彼がゴールしたとき、観客は歓喜の声を上げ、オービルはともに走った選手たちに迎え入れられました。オービルは、謙虚に、そして感謝の気持ちを込めて観客に手を振り、新しい友人たちとコースを後にしました。」

今回はオービルにとって5回目のレースであり、これまでのレースでも同様に最下位でした。オービルに対して、彼の年齢で競技に出るべきではない、彼の競技が長引いたせいで全員を待たせたのだから、走るべきではなかったなどと裁く誘惑に駆られた人もいたかもしれません。

しかし、最後にゴールしたにもかかわらず、その日オービルは、5つの世界記録を樹立したのです。レースを観戦していた人は皆、無理だと思っていましたが、オービルの走りを審査するのは観客でも競走相手でもありませんでした。オービルは、ほかの競技者と同じ条件で走り、認定員も基準を下げたりはしませんでした。彼は、ほかの選手と同じレースを、同じ条件で走りましたが、年齢と肉体的な制限から来る難易度が考慮され、100歳以上部門の選手として出場していました。そしてその部門において、オービルは5つの世界記録を樹立したのです。

毎回競技に参加するために、オービルが多くの勇気を振り絞ったように、わたしたちの姉妹や兄弟の中には、多くの勇気を振り絞って日々の生活というレースに挑む人たちがいます。彼らは、周りから不当に裁かれる可能性を承知のうえで、厳しい状況の中でも救い主に従い、主の聖約を守るために、自らの最善を尽くしているのです。

わたしたちがどこに住んでいようと、あるいは何歳であろうとも、どのような状況や制限のもとにあっても、わたしたちが帰属意識を感じ、人生には目的と意味があり、自分が必要とされ求められていると感じられることは、わたしたち全員が必要とする、人間の基本的欲求です。

レースの最後の一周で、観客はオービルに熱烈な声援を送り、彼は進み続ける力を得ました。最下位でゴールしたことは関係がなく、選手にとっても観客にとっても、順位以上のものがありました。多くの点で、これは救い主の愛の表れを示す一つの例とも言えます。オービルがゴールしたとき、会場にいた全員が一緒になって喜びました。

このマスターズ選手権大会のように、教会や家庭を、互いに裁かず応援し合い、直面している試練を乗り越えられるように力と励ましを与え合う集合の場所にすることができます。また、互いへのキリストの愛という動機に突き動かされた聖約の民にとっての集合の場所にすることができます。わたしたちは、互いを必要としています。一致は、天の力をもたらすので、サタンはわたしたちを引き離そうとします。

残念ながら、わたしたちの中には、様々な理由から、教会に出席するのが難しいと思う人もいます。それは、信仰に関する疑問を抱えていたり、社会への不安やうつ病に悩まされているからかもしれません。国や人種の違い、人生経験、あるいは物の見方の違いで、自分はその場になじめていないと感じているからかもしれません。赤ちゃんや小さな子供の育児により、寝不足で精神的に疲れている親の皆さんや、夫婦や家族でいっぱいのユニットにいる独身の人かもしれません。長い間出席していなかったために、行くための勇気を奮い起こそうとしていたり、自分は不十分で居場所がないと感じていたりするかもしれません。

ラッセル・M・ネルソン大管長はこう言いました。「同じワードの夫婦が離婚したり、若い宣教師が早期帰還したり、10代の若者が自分の証に疑問を抱いたりしても、彼らは皆さんからの裁きを必要としてはいません。彼らは、皆さんの言動に表れる、イエス・キリストの純粋な愛を味わう必要があるのです。」

教会での経験は、わたしたちの霊的、情緒的な幸福に必要な、主との、また互いとの重要なつながりをもたらすことを意図しています。バプテスマをはじめ、わたしたちが神と聖約を交わすとき、互いに愛し助け合う責任が生じます。単にするように望まれていることのリストを終わらせるためにするのではなく、神の家族の一員として、キリストにあって一つの体となり、行うのです。

キリストのような愛と思いやりは、より高く、より神聖なものです。キリストの純粋な愛とは、慈愛のことです。ラッセル・M・ネルソン大管長は次のように教えています。「慈愛は、重荷を負わせ合うモーサヤ18:8〕のではなく、『互いに重荷を負い合う』よう駆り立てます。」

救い主はこのように言われました。「互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。」ネルソン大管長はこう付け加えました。「慈愛は、イエス・キリストに真に従う者が持つ主要な特徴です。……救い主のメッセージは明快です。主の 真の弟子は、……人を育て、高め、励まし、説得し、鼓舞〔します〕。……だれかと話す態度やだれかについて話すときの態度は、本当に大切なのです。」

救い主はこのことを簡潔に教えられ、その教えは、人からしてほしいことは、人にもそのとおりにしなさいという黄金律に要約されています。自分がその人の立場だったら、自分にどう接してほしいかを、その人の立場になって考えるのです。

キリストのように人々に接することは、わたしたちの家族や教会員以外にも当てはまります。わたしたちとは異なる信仰を持つ人や、信仰を持たない人、ほかの国や文化の兄弟姉妹、異なる政治的な考え方を持つ人も含まれます。わたしたちは、神の家族の一員であり、神は、神のすべての子供を愛しておられます。神は、わたしたちが神と互いを愛することを望んでおられます。

救い主の生涯は、社会からのけ者、けがれた者と見なされた人さえも愛し、集め、高められた模範でした。わたしたちは、主の模範に従うよう命じられています。わたしたちがここにいるのは、キリストのような特質を伸ばし、いつか救い主のようになるためです。主の福音は、やるべきことのリストではなく、主のようになるための福音、つまり、のようになり、のように愛するための福音なのです。主は、わたしたちがシオンの民になることを望んでおられます。

20代の後半に、わたしは重いうつ病を患い、そのときに、神が存在なさるという現実が突然消えてしまったかのように感じました。そのときの気持ちは、完全に見失ったという言葉以外では言い表せないほどでした。わたしは幼いころからいつも、天の御父がおられ、御父と話すことができることを理解していました。しかしその当時は、神がいらっしゃるのかすら分からなくなってしまいました。そのような経験は人生で初めてのことで、土台のすべてが崩れ落ちていくように感じました。

そのため、わたしは教会に出席するのが難しくなりました。それでも行き続けたのは、「不活発」だとか「信仰が弱い」といったようなレッテルを貼られるのを恐れていたからだということ、わたしのフェローシップとしてだれかがあてがわれるのが嫌だったからでした。その当時わたしがほんとうに必要としていたのは、批判ではなく、周りの人からの純粋な愛や理解、支えを感じることでした。

自分は、人からこう思われているかもしれないと心配していた事柄は、わたし自身が、教会に定期的に来なくなったほかの人に対して抱いていた思いと同じでした。その時のつらかった経験から、わたしは、互いを不義に裁いてはいけない理由について、貴重な教訓を学ぶことができました。

自分が抱える試練に対し、ほかの人がどのような反応をするかが心配で、苦しんでいることを打ち明けられない人はいませんか。

わたしたちが走る人生のレースで直面する、ほかの人には見えない重荷や試練、障害の難易度を完全に理解しておられるのは、主だけです。人生を変えるような傷、そして、今でも悩まされている過去のトラウマを完全に理解しておられるのは、主御一人だけです。

わたしたちは、レースに遅れをとっている、と自分自身を厳しく批判することがあるかもしれません。わたしたちの限界と能力を完全に理解しておられるのは主だけなので、わたしたちの成果を完全に審査することがおできになるのは、主御一人だけです。

姉妹、兄弟の皆さん、どんな状況にあっても、オービルの話の観客のように、弟子としてのわたしたちの旅路にあって、互いを応援し合いましょう。そのために、ルールを破ったり、基準を下げたりする必要はありません。応援し合うのは、自分を愛するように隣り人を愛する大切な第二の戒めです。救い主はこのように言われました。「……これらの最も小さい者のひとりにしたのは、〔良いことも悪いことも、〕すなわち、わたしにしたのである。」また、「もしもあなたがたが一つでなければ、あなたがたはわたしのものではない。」とも言われました。

それぞれの人生の中で、助けと励ましを必要とする時がやって来ます。互いのためにいつも励まし合うと、今ここで決意しましょう。そうするときに、さらに一致を育み、救い主がわたしたち一人一人を癒し、変えていただくための場を築くことができます。

人生のレース、つまりこの現世での旅路で、大幅な遅れを取っていると感じている皆さん、どうか進み続けてください。レースのどの地点に今いるべきかを完全に判断することがおできになるのは救い主だけで、主は思いやり深く、公正な御方です。は、人生のレースにおける偉大な審判であられます。走っていようが、歩いていようが、もしくは足を引きずっていようが、あなたのレースを完全に理解しておられるのは、主だけなのです。主は、あなたの心の望みだけではなく、あなたの限界、能力、人生経験、抱えている隠れた重荷を考慮してくださいます。もしかしたら、あなたは、象徴としての世界記録を達成しているのかもしれません。どうか、希望を失わないでください。進み続けてください。残ってください。あなたには、居場所があります。主はあなたを必要としておられ、わたしたちもあなたを必要としています。

世界のどこに住んでいようとも、とても遠いところにいようとも、天の御父と救い主は、あなたのことをすべて御存じで、完全に愛しておられます。あなたは、御二方から忘れられることは決してありません。御二方はあなたがみもとに戻って来ることを願っておられます。

救い主にひたすら目を向けましょう。は、あなたの鉄の棒です。主から手を離さないでください。主が生きておられ、あなたが主を信頼することができると証します。また、主があなたを応援してくださっていることを証します。

わたしたちが皆、救い主の模範に従って、互いに応援し合えますように。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。