40
1コリント15-16章
1コリント15-16章の紹介とタイムライン
コリントの一部の人々が死者の復活はないと教えていたことがパウロに報告されていました(1コリント15:12参照)。復活された主の多数の目撃者の一人として,使徒パウロは,イエス・キリストと全人類の復活の現実性についてコリントの支部の人々にはっきりと力強く教えました。コリント人への手紙はどの福音書の物語よりも前に書かれた可能性が高いことから,パウロが救い主の生涯の最後の出来事や主の復活について述べたものとしては(1コリント11:23-26;15:3-8に記載),新約聖書に記録されたこれらの出来事の記事の中でも最も初期に記録されたものだと思われます。
パウロは,もし復活がなかったとしたら,死者のためのバプテスマの実践にはほとんど意味がないと説明しました(1コリント15:29,55-57参照)。パウロは,3つの栄光の王国があることも教え,それらを日,月,星にたとえました(1コリント15:40-41参照)。この手紙を終えるに当たり,パウロはコリントの会員に対し,エルサレムの貧しい聖徒たちのために惜しみなく献金を集めるよう勧めました(1コリント16:1参照)。パウロはまた,霊的に苦しんでいるコリントの聖徒たちを「信仰に立ちなさい」と励ましました(1コリント16:13)。
1コリント15-16章の解説
1コリント15:1-11。「あなたがたに伝えたのは,わたし自身も受けたことであった」
イエス・キリストの死後,福音書の物語が書かれる前に,キリストに従う人々は,イエスがこの世における務めの間にお教えになった事柄と,行われた事柄についての物語を分かち合い,話し合うために集まりました。これらの口述の報告を分かち合うことは,弟子たちがイエスの言葉と行いを覚えておくために役立ち,それらが最終的に記録され,保存されるまでは頻繁に語られたことでしょう。パウロがコリントの聖徒に「あなたがたに伝えたのは,わたし自身も受けたことであった」と書いたとき,パウロはこのような情報のことを指していたのかもしれません。これは,パウロ自身が得た福音の知識を伝え,保存しようとするパウロの努力を表しています(1コリント15:3,11。使徒20:35;1コリント11:23も参照)。
パウロが受け,伝えた事柄の概要には,キリストがわたしたちの罪のために亡くなられ,埋葬されてから3日後によみがえり,そして多くの人に目撃されたことが含まれています(1コリント15:3-8参照)。預言者ジョセフ・スミス(1805-1844年)も同様に,これらの教えを次のように福音の中核と見なしています。「わたしたちの宗教の基本原則は,使徒と預言者たちがイエス・キリストについて立てた証です。すなわち主が亡くなり,葬られ,3日目に再びよみがえって,天に昇られたことです。わたしたちの宗教に関するほかのすべての事柄は,それに付随するものにすぎません。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』49-50)
1コリント15:3-4。イエスは「聖書に書いてあるとおり」亡くなられ,よみがえられた
パウロが「キリストが,聖書に書いてあるとおり,わたしたちの罪のために死んだ」(1コリント15:3参照)と記述したとき,彼がどの特定の聖句について考えていたのかは分かっていませんが,ほかの箇所で十字架上の死について教えたときに申命21:23を引用し(ガラテヤ3:13の解説参照),復活について教えたときはイザヤ25:8とホセア13:14を引用しました(1コリント15:54-55参照)。3日目のイエスの復活が「聖書に書いてあるとおり」でもあったというパウロの記述は,ホセア6:2とヨナ1:17を示唆しているのかもしれません(マタイ12:39-40参照)。初期の聖徒たちによって認められたイエス・キリストの贖罪の使命のもう一つの預言は,イザヤ53章でした(マタイ8:17;マルコ15:28;使徒8:27-35;1ペテロ2:21-25参照)。
イエス・キリストに関する旧約聖書のさらなる預言のリストについては,“Jesus Christ, Prophecies about”と“Jesus Christ, Types of, in Anticipation”の項を参照してください(in the Topical Guide of the LDS English version of the Bible)。新約聖書で引用された旧約聖書の節のリストについては,Bible Dictionary(『聖書辞典』)の“Quotations from the Old Testament in the New Testament”の項を参照してください。
トーラーの巻物。イエス・キリストの死と復活は,旧約聖書の預言者たちによって預言されていた。
1コリント15:3-8,12。復活の多数の証人
1コリント15章の大部分は,「死人の復活などはない」(1コリント15:12)と言ったコリントの人々への,パウロの返答です。復活を信じることを拒んだ人々は,霊が不死不滅であることは受け入れても,肉体の復活は拒絶した一般的なギリシャ哲学に影響を受けていたのかもしれません。この偽りの教えに反論するため,パウロは,驚くほど多くの人々が復活されたイエス・キリストを目撃したことについて述べました(1コリント15:5-8参照。ヨハネ20:29-31の解説にある表も参照)。復活された救い主が異父兄弟のヤコブの前に姿を現されたことは,1コリント15:7にしか記録されていません。トーマス・S・モンソン大管長は,よみがえられた主についての古代と現代の目撃者の力強い証について,次のように話しています。
「キリストの神性を疑う今日の人々に対して,論破することのできない証拠,実際にその目で見たという証を引用しましょう。聖書の時代に,残虐な殉教を遂げたステパノは,天を仰いで叫びました。『ああ,天が開けて,人の子が神の右に立っておいでになるのが見える。』〔使徒7:56〕
コリント人に告げたパウロの力強い証から,確信を受けない人がいるでしょうか。彼はこう言いました。『キリスト〔は〕,聖書に書いてあるとおり,わたしたちの罪のために死んだ……,そして葬られた……,聖書に書いてあるとおり,三日目によみがえった……,ケパに現れ,次に,十二人に現れた……。……そして最後に……わたしにも,現れたのである。』〔1コリント15:3-5,8〕
わたしたちの神権時代にも,これと同様の証を預言者ジョセフ・スミスが雄々しく語りました。シドニー・リグドンとともにこう証しています。『そして今,小羊についてなされてきた多くの証の後,わたしたちが最後に小羊についてなす証はこれである。すなわち「小羊は生きておられる。」』〔教義と聖約76:22〕
これこそわたしたちを支える知識です。わたしたちを慰める真理です。そして悲しみに打ちひしがれた人を影から光へと導き出す確信なのです。」(「主は生けりと知る」『リアホナ』2007年5月号,23)
1コリント15:12-19。イエス・キリストの復活の重要性
イエス・キリストの復活は贖罪における最も偉大な出来事で,救い主の死と罪に対する勝利を表していました。このためパウロは,死者の復活はないと主張したコリントの人々に対し,もしキリストが死からよみがえられていなければ,罪の赦しも永遠の命に対する希望もあり得ないと返答しました。ハワード・W・ハンター大管長(1907-1995年)は,復活の重大な意義について次のように話しています。「自然の再生の法則があり,墓が空になっていたことについての証があっても,なおかつ死は最終の目的地であると思っている人がいます。しかし,復活の教義は,キリスト教の中で,最も根本的かつ大切な教えです。」(「復活についての使徒の証」『聖徒の道』1986年7月号,16)
パウロは,復活がなければ「わたしたちは,すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」(1コリント15:19)とも教えました。一方,十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老が次のように教えているように,復活の現実性について理解するとき,わたしたちはよりすばらしい喜び,視野,目的を見いだします。
「復活が永遠の旅路を支配する『贖いの計画』(アルマ12:25)の中で重要な役目を果たすことを理解すると,使徒パウロがなぜ『もし死人の復活がないならば,……わたしたちの宣教はむなしく,あなたがたの信仰もまたむなしい』と説いたのかが分かってきます(1コリント15:13-14)。また,父なる神がその豊かなあわれみにより,『イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ,それにより,わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ』られた事実について,使徒ペテロが述べた理由が分かります(1ペテロ1:3。1テサロニケ4:13-18も参照)。
復活によって得る『生ける望み』とは,死がわたしたちの存在の終わりではなく,単に死すべき状態から不死不滅へと移行するうえで必須の段階であるという確信です。この移行は神が定められたものです。この望みはこの世に対する見方を全面的に変えるものです。復活と不死不滅への確信は,死すべき状態における肉体的な問題への対処の仕方や生き方,人とどう接するかに影響を及ほします。
復活への確信はわたしたちに力と広い視野を与え,わたしたち自身や家族が先天的,後天的を問わず抱える肉体的,精神的,情緒的障害などのこの世での試練に耐える力を与えてくれます。そうした障害は復活までのほんの一時的なものであることが分かるからです。
復活への確信は,この世での生涯において神の戒めを守るための力強い動機づけになります。」(「復活」『リアホナ』2000年7月号,18)イエス・キリストの福音における復活の重要な役割に関する詳細を読むには,マルコ16:1-7の解説とマタイ28:6の解説を参照してください。
1コリント15:20,23。イエス・キリストは「眠っている者の初穂」であられる
モーセの律法では,毎年の作物収穫が始まるときに,農夫それぞれが,主がすべての祝福の源であることを感謝して,穀物の最初の一束を主へのささげ物としてささげるように定められていました(レビ23:9-14;申命26:1-11参照)。パウロが復活した救い主を死者の「初穂」として説明したとき(1コリント15:20,23。2ニーファイ2:8-9も参照),「あなたの土地の初穂の最も良い物」(出エジプト23:19)という比喩を用いました。農夫の「初穂」が,収穫される多くの穀物の最も早いものであったように,イエス・キリストも復活するすべての人の最初の御方であり,それによって,同じように死からよみがえる道を,この世界に住むすべての者のために開いてくださいました。十二使徒定員会のジョセフ・B・ワースリン長老(1917-2008年)は,すべての人が復活するというパウロの輝かしい教えを次のように確認しています。
「墓からよみがえられた救い主は,だれもしたことのない,また成し得なかったことをされたのです。救い主は,御自身だけでなく,義人も悪人も,生を受けたすべての人のために,死の縄目を断たれました〔ヨハネ5:28-29参照〕。
キリストは墓から出てよみがえりの初穂となり,万人がその賜物を得られるようにしてくださいました。その崇高な出来事により,愛する大切な人を失った人々の心を苦しめ,人を打ちのめすひどい悲しみは和らげられました。」(「日曜日は必ずやって来る」『リアホナ』2006年11月号,29)
1コリント15:21-22。「キリストにあってすべての人が生かされる」
アダムの堕落のため,わたしたちは皆肉体的な死の対象となります。しかしながら,イエス・キリストの贖罪と復活を通じて,わたしたちは再び生かされます(1コリント15:22;ヨハネ5:28-29;2ニーファイ9:21-22;アルマ11:42-44;教義と聖約29:26-27参照)。十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は,復活が地上のすべての人々に授けられた無条件の祝福であると次のように教えています。「主が達成された贖罪のおかげで,ばく大な数の人々に無条件の復活がもたらされました。いつ,どうして死を迎えたかにかかわりなく,すべての人が等しく墓から解き放たれます。晴れた夜に輝く星々の寿命は人知では計り知れないものですが,星は不滅ではありません。しかし有り難いことに,わたしたちは不滅なのです。」(「愛の腕の中に抱かれて」『リアホナ』2002年11月号,16)
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は,復活の普遍的な特質は,神の正義の現れであると次のように教えています。「この地上に生き,死んだ人で復活を拒まれる人はいません。道理がこれを教えています。これは,単に正義の問題なのです。アダムは死に対する責任を一人で負ったため,主がほかの人をこの罪に問われることはありません。正義の要求は,死に対する責任のない人がその責任を負わされることはないということです。そのため,パウロが宣言したように『アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされる』のです。」(Doctrines of Salvation, comp.Bruce R. McConkie, 3 vols. [1954–56], 2:274)
無条件の復活に関する詳細を読むには,マタイ27:52-53の解説を参照してください。
シリアのドゥラ・エウロポスの家庭教会で紀元240年ごろに建築された,これまでに発見されたもので最も初期のキリスト教のバプテスマフォントの描画。フォントの上には,牧場の羊の群に合流するために羊を肩に背負う羊飼いの絵があり,フォントの下には,善悪を知る木の実を食べるアダムとエバの小さな描写がありました。これらの絵画は,初期キリスト教徒にとって,バプテスマが善き羊飼いによって救い出されて教会に迎え入れられることを表していたことを示唆しています。また,イエス・キリストがアダムの堕落の影響を克服されたというパウロの教えの記憶もとどめています(1コリント15:21-22,45-49;ローマ5:12-21参照)。
1コリント15:23。復活には順序がある
パウロは,復活が確立された順序あるいは順番に従うと説明しました(1コリント15:23参照)。十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,復活が起こる順序を次のように要約しています。「復活における順序は,福音の律法に対する従順さによって決定されます。最も義にかなった人が最初で,最も邪悪な人が最後になります。キリストが最初で,滅びの子が最後です。」(Doctrinal New Testament Commentary, 3 vols. [1965–73], 2:394)
最初に復活されたのはイエス・キリストです。イエスの復活の直後に,墓からよみがえった義にかなった聖徒たちがいました(マタイ27:52-53)。再臨において,復活は「主の来臨に際してキリストに属する者たち」(1コリント15:23)であるほかの義にかなった聖徒たちの出現によって継続されます。末日の啓示を通じて,わたしたちはこれらの人々が日の栄えの王国を受け継ぐことを学んでいます(教義と聖約76:50-70;88:97-98参照)。次に,月の栄えを受ける人たちの復活が起こります(教義と聖約76:71-79;教義と聖約88:99参照)。彼らの後には,福千年の終わりに,星の栄えを受ける人々が続きます(教義と聖約76:81-86;88:100-101参照)。最後に,どの栄光の階級も受けず,「彼らが受けることのできたはずのものを進んで享受しなかったので,彼らが進んで受け入れるものを享受するために,再び彼ら自身の場所に帰る」者,「汚れたままの者」,「滅びの子」らがよみがえることによって復活が終結します(教義と聖約76:31-39,43-44;88:28-32,35,101-102参照)。
1コリント15:29。死者のためのバプテスマ
救い主が霊界を訪れてパラダイスと霊の獄との間の大きな隔たりの橋渡しをされる以前に,死者のためのバプテスマは行われていませんでした。身代わりのバプテスマが行われたのは,イエスが復活された後のことです。1コリント15:29は,聖書の中で身代わりの死者のためのバプテスマについて述べている唯一の節ですが,ほかの古代文書でも初期のキリスト教徒によって死者のためのバプテスマが行われていたことが証言されています。ハワード・W・ハンター大管長は,復活なしでは死者のためのバプテスマに意味がないことを次のように説明しています。
「『そうでないとすれば,死者のためにバプテスマを受ける人々は,なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば,なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。』(1コリント15:29)
これは深く考えさせられる質問です。復活がないのならば,なぜ死者のために身代わりのバプテスマを行っているのでしょうか。歴史は,この儀式の恩恵を受けることなく亡くなった人のためにバプテスマを施す習慣の事実を明らかにしています。パウロが尋ねた質問からも,この身代わりの儀式がコリントの教会支部で行われていたことは確実であると思われます。パウロの質問は十分に考慮すべきものです。復活がなければ,このような儀式にはまったく意味がなかったでしょう。復活がなければ何も意味がありません。すべては死の闇に帰すからです。」(in Conference Report, Apr. 1969, 13)
イエス・キリストは,永遠の命を得るためにはバプテスマが必要だとお教えになりました(ヨハネ3:5参照)。パウロ自身もバプテスマを受け,この重要な儀式によってわたしたちは「新しいいのちに生きる」ことができると教えました(ローマ6:4。使徒9:18も参照)。それにもかかわらず,何百万人もの天の御父の子供たちがイエス・キリストに関する知識を得ず,欠かすことのできないバプテスマの儀式を受けることなく亡くなっています。パウロの死者のためのバプテスマについての言及は,初期の教会員が死者を贖うための神の計画を知っていたことを示唆しています(ヨハネ5:25,28;1ペテロ3:18-19;4:6も参照)。
ユタ州オーカーマウンテン神殿の神殿バプテスマフォント
死者の贖いのための神の計画に関する知識と,身代わりのバプテスマの儀式は,わたしたちの時代に回復されました(教義と聖約124:29-33;128:12-18,22参照)。大管長会のジェームズ・E・ファウスト管長(1920-2007年)は,死者のための身代わりの儀式がきわめて重要であることを次のように指摘しています。「水と霊によるバプテスマが完全な救いのために不可欠であるということは,永遠の見地から見て,何世紀も前の人々も含めて神のすべての子供たちがこの機会を得なければならないことになります。……大切なことを自分ではできないでいる人々のために,わたしたちが代わりにしてあげるのはまことのキリストの精神です。イエスは全人類の罪の贖いのために命をささげられました。わたしたちが自分自身ですることができないので,代わりにしてくださったのです。預言者マラキはこの概念について,預言者エリヤの訪れに関する話の中でこう述べています。『彼は父の心をその子供たちに向けさせ,子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て,のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。』〔マラキ4:6〕このことはほとんど,死者のための代理の儀式を通じて成就しています。」(「新しく生まれる」『リアホナ』2001年7月号,70-71)
死者のための身代わりのバプテスマについて,十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナー長老は,教会の若い人たちに対して次のように招き,約束しています。
「学び,先祖を探し出し,亡くなった皆さんの親族のために主の宮で身代わりのバプテスマを行う準備をするように勧めます(教義と聖約124:28-36参照)。ほかの人々が家族歴史を確認するのを助けるように,皆さんに切に勧めます。
皆さんが信仰をもってこの勧めに従うとき,皆さんの心は先祖に向かうでしょう。アブラハム,イサク,ヤコブに交わされた約束が,皆さんの心の中に植えられるでしょう。血統の宣言を伴う祝福師の祝福は,皆さんとこれらの先祖を結びつけ,皆さんにとっていっそう重要なものとなるでしょう。先祖に対する愛と感謝が増すでしょう。救い主についての証と従いたいという気持ちが強くなり,不動のものとなるでしょう。わたしは約束します。 皆さんはますます強まるサタンの影響力から守られるでしょう。この聖なる業に参加し,これを大切にするとき,青少年の時代にも生涯にわたっても守られるでしょう。」(「子孫の心は向かうであろう」『リアホナ』2011年11月号,26-27)
ハワード・W・ハンター大管長は,家族の名前を調べること,そしてその後にそれらの人々のために神殿の儀式を行うことの両方からもたらされる祝福について次のように教えています。
「人のために行うこの業は,次の二つのステップを踏んで達成されます。最初に,家族の歴史を調べ,自分の先祖の名前を明らかにします。そして次に,生者に与えられているのと同じ機会を彼らに与えるために,神殿の儀式を行います。
しかし,神殿に思うように行けない教会員が数多くいます。彼らはそれぞれに最善を尽くしています。自分で家族の歴史を調べ,それを基にほかの人に神殿の儀式を執行してもらっているのです。その反対に,神殿活動に携わりながら,自分の家族の歴史を探求し終わっていない教会員もいます。彼らはほかの人を助けるという神聖な奉仕の業をしているのですが,末日の預言者たちを通じて神から命じられている自分自身の先祖のための探求をせずに,祝福を失っているのです。……
これまでの経験から分かったことですが,家族歴史を探求し,自分が調べた先祖のために神殿の儀式を執行する人は,二つの面で祝福を受け,さらに大きな喜びを味わうようになります。」(「神殿に心を向ける民」『聖徒の道』1995年5月号,5-6。リチャード・G・スコット,「死者を贖う喜び『リアホナ』2012年11月号,93も参照)
イスラエルのベート・シェアリムから出土したこのような石棺は,古代ローマ文化の世の中で一般的な棺であった。
Photograph by Richard L. W. Cleave
1コリント15:35-38,44。復活した体に関する質問と回答
古代ローマ文化の世の中では,愛する人の死の記念日を含め,家族は亡くなった親戚の墓を頻繁に訪れました。このように人間の死すべき状態を頻繁に思い起こしていたコリントの聖徒が,亡くなった人はどのように生き返ることができるのか,復活した体はどのようなものになるのかについて疑問に思うのも当然だったかもしれません。
「どんなふうにして,死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」(1コリント15:35)という質問に答えて,パウロは復活した体が死すべき体とは栄光と資質において異なることを教えました。これを説明するために,パウロは「種粒」を植えることと,最終的に植物全体,つまり「からだ」を収穫することについて話しました(1コリント15:37-38)。植えられた種は,死と埋葬の後,復活において栄光を受けた不死不滅の体として現れる死すべき体を象徴しています。救い主は,ヨハネ12:23-24で同じような比喩をお教えになりました。パウロは,死において埋葬される「肉のからだ」と,復活でよみがえる「霊のからだ」に言及したときに,この違いを別の方法で強調しました(1コリント15:42-44参照)。
聖文で最も明確だと思われる復活の定義については,アルマ11:43-44とアルマ40:23を参照してください。
1コリント15:39-44。復活の栄光における異なる階級
パウロは復活した体の特質について,人間の体と様々な種類の動物の体に差異があるように,「天に属する」体と「地に属する」体にも違いがあると指摘しました。また,日,月,星の栄光が異なるように,天の体は,その栄光とすばらしさにおいてこの世の体とは異なるとも説明しました。
1832年2月,預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは示現を受け,日の栄えの報いを受ける人々をはじめとした,3つの栄光の階級のそれぞれを受ける人々を見ました。
「これらは,その体が日の栄えの状態にある者である。その栄光は太陽の栄光,すなわちすべての者の至高者なる神の栄光であ〔る。〕……
さらにまた,わたしたちは月の栄えの世界を見た。見よ,見よ,これらの者は月の栄えの世界に属する者であり,その栄光は,月の栄光が……太陽と違っているように,御父の完全を受けた長子の教会の栄光とは違っている。
さらにまた,わたしたちは星の栄えの世界の栄光を見た。その栄光は,星の栄光が大空の月の栄光と違っているように,さらに劣った世界の栄光である。」(教義と聖約76:50,70-71,81)
この示現を受けた後,預言者ジョセフ・スミスは1コリント15:40を次のように変更する霊感を受けました。「日の栄えの体もあれば,月の栄えの体も,星の栄えの体もある。しかし,日の栄えのものの栄光と月の栄えのものの栄光と星の栄えのものの栄光は,違っている。」(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」1コリント15:40)
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,復活した体の栄光には大きな違いがあると次のように説明しています。
「復活のときには,異なる種類の体があり,それらはすべて同様ではありません。人が受ける体によって,その後の行き先が決まるのです。それには,日の栄えの体,月の栄えの体,星の栄えの体があり,しかもこれらの体はこの世にいる人々の体が異なるようにはっきりと異なっているでしょう。
……中には,昇栄の力と永遠の増加のすべてを備えた日の栄えの体を受ける人もいます。これらの体は,ヨハネが説明したとおり〔黙示1:12-18参照〕,これらの体は,救い主の体と同じく太陽のように輝きます。月の栄えの王国に入る者は月の栄えの体を受け,太陽のようには輝きませんが,星の栄えを受ける者の体よりは輝かしい体となります。」(Doctrines of Salvation, 2:286–87)
どのような人が復活で日の栄えの栄光を受けるのかに関する詳しい教えについては,教義と聖約76:50-70,92-96;88:22,28-29を参照してください。
1コリント15:42-44,46,50。「霊のからだ」
パウロは,死において埋葬される「肉のからだ」と復活でよみがえる「霊のからだ」を対比させました(1コリント15:44)。パウロは朽ちる,卑しい,,弱いという言葉を使って「肉」,つまり死すべき体を表現し,朽ちない,栄光,,強いという言葉を使って「霊」,つまり復活した体を表現しました。
ハワード・W・ハンター大管長は,パウロが「霊のからだ」(1コリント15:44)と言ったとき,彼が霊ではなく,復活した体について話していたことを次のように明確にしています。
「死ぬと,霊と肉体は分離します。復活によって霊は再び肉体と一つになり,肉体は霊的な体となって,骨肉の体でありながら血ではなく霊によって生かされるようになります。このように,わたしたちの復活後の体は,霊によって生かされ,不死不滅の状態になり,決して死ぬことがありません。これが,『肉のからだがあ〔り〕,霊のからだもある』,そして『肉と血とは神の国を継ぐことができない』というパウロの言葉の意味なのです。体は血と肉から成りますが,血の代わりに霊によって生かされると,王国に入ることができるようになります。このようにしてわたしたちは,王国に入るのです。」(in Conference Report, Apr. 1969, 137–38)
復活した体に関するパウロのさらなる説明については,ピリピ3:20-21を参照してください。
1コリント15:45,49-53。「最初の人アダム」と「最後のアダム」
「最初の人」(1コリント15:45;教義と聖約84:16)であるアダムは,肉体を受けた最初の人でした。「最後のアダム」または「第二の人」(1コリント15:45,47)であるイエス・キリストは,最初に生かされ(復活され),栄光を受けた体をお受けになりました(ヨハネ5:21;教義と聖約88:17参照)。アダムの行為(堕落)とイエス・キリストの行為(贖罪と復活)は,どちらも救いに必要なものでした(ローマ5:12-21の解説参照)。
十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン長老は,次のように教えています。「「アダムとエバとそのすべての子孫を贖うには,無限の贖罪が必要だったのです。贖罪によってわたしたちの肉体は復活し, 血のない体に変わり〔1コリント15:51-53;3ニーファイ28:8参照〕,病気,老化,死を知らない体になります。」(「不変の原則」『聖徒の道』1994年1月号,40参照)
1コリント15:50にある「肉と血」という言葉は,老化と腐敗にさらされる死すべき体を指しています。死すべき体が永遠に生きることはないため,「神の国を継ぐことができ」ません。復活で受ける不死不滅の体と骨は,栄光を受け,劣化しません。
1コリント15:54-57。「死は勝利にのまれてしまった」
パウロは,キリストが肉体の死と罪に勝利されたおかげで,死はわたしたち全員に対するとげを失うと教えました(1コリント15:54-57参照)。キリストの勝利によって,わたしたちは悔い改め,罪によって生じる痛みと悲しみを避けることができます。大管長会のディーター・F・ウークトドルフ管長は次のように教えています。
「わたしたちはいつの日か,避けることのできない一歩を踏んで,この世から来世に行きます。いつの日か自分の人生を振り返り,もっと良くなれたのではないか,もっと良い決断ができたのではないか,もっと賢く時間を使えたのではないか,と考えるでしょう。……
わたしたちが明日抱くかも知れない,最も深く後悔することの多くは,今日救い主に従うことによって防ぐことができることを証します。罪や間違いを犯したなら,後悔するような選択をしてしまったなら,キリストの贖罪という貴い賜物があり,それによってわたしたちは赦しを得られます。時間をさかのぼって過去を変えることはできませんが,悔い改めることはできます。救い主はわたしたちの目から後悔の涙をぬぐい取ること〔黙示7:17参照〕,そしてわたしたちの罪の重荷を取り除くことがおできになるのです〔マタイ11:28-30参照〕。主の贖いにより,わたしたちは過去に区切りをつけ,清い手と清い心を持ち〔詩篇24:4参照〕,もっと良く行おう,そして特に,もっと良くなろうという決意を胸に前進することができるのです。
そうです。この人生は瞬く間に過ぎ去ります。あっという間に毎日が色あせ,死の影におびえることもあります。しかし,わたしたちの霊は生き続け,いつの日か復活した肉体と再び合わされて完全な栄光を受けます。憐れみに満ちたキリストのおかげで,わたしたちは皆再び,そして永遠に生きるのです。救い主であり,贖い主である御方のおかげで,わたしたちはいつの日か『死のとげはキリストにのみ込まれてしまう』という言葉の意味を真に理解し,喜ぶことでしょう〔モーサヤ16:8。1コリント15:54も参照〕。」(「後悔と決意について」『リアホナ』2012年11月号,24)
ラッセル・M・ネルソン長老が次のように説明しているように,イエス・キリストは愛する人を亡くした人のために,死のとげを取り除くこともおできになります。「死が訪れたとき,天の御父が忠実な子供たちに備えておられる日の栄えの栄光に進むことができます。一方,わたしや家族のように後に残されて悲しみに暮れる者たちは,キリストを確固として信じ,完全な希望の輝きを持ち,神とすべての人を愛し,神と人に仕えたいと心底願うことによって,身内を失った心の痛みを和らげることができます〔2ニーファイ31:20参照〕。そのような信仰,そのような希望,そのような愛があれば,神の聖なる御前に戻るにふさわしい者となり,永遠の伴侶や家族とともに主の御前で永遠に生きることができるのです。」(「今こそ用意をする時期である」『リアホナ』2005年5月号,18)
だれかを亡くしたときに平安を見いだすことに関するさらなる洞察については,マタイ28:8の解説を参照してください。
1コリント16:1-3。エルサレムの教会のための物質的な援助
パウロはコリントの聖徒に対し,日曜日ごとに教会に集うとき,エルサレムの教会に送る献金を集めるべきだと指示しました(1コリント16:1-3参照。使徒20:7も参照)。ローマ15:25-28から,アカヤ(コリントを含む地域)の聖徒たちが,エルサレムの教会から受けた霊的な力に対する感謝の気持ちから喜んで献金したことが分かります。彼らの献金を求めることによって,パウロは,同胞のユダヤ人の聖徒を援助し,彼らと一体となるように異邦人の聖徒を励ましました。これは,教会のユダヤ人の会員と異邦人の会員との間の一致を築くためのパウロの継続的な努力のもう一つの例です。
1コリント16:21-24。パウロの結びの言葉
パウロは,コリントの聖徒に対する手紙を,筆記者ではなく彼自身が書いた慣例的な別れのあいさつで締めくくりました(1コリント16:21参照。コロサイ4:18;2テサロニケ3:17;ピレモン1:19も参照)。ここでのパウロの別れのあいさつは,慣例的な祝福と別れのあいさつを記す前に主を愛さないものに対するのろいを宣告したことから,ほかとは異なります(1コリント16:22参照)。パウロの警告とのろいは,教会で問題と不和を引き起こしていたコリントの聖徒に対するものであったと思われます(1コリント1:11参照)。ブルース・R・マッコンキー長老は,“Anathema Maran-atha”(1コリント16:22〔英文〕)という言葉について次のように説明しています。
「Anathemaとは,のろわれたという意味のギリシャ語です。しがたって,神または神の権能によってのろわれた人または物のことで,例えば,破門された人がanathemaです。(ローマ9:3。)『わたしの教会から絶たれる者は災いである。彼らは世に打ち負かされるからである。』(教義と聖約50:8)
パウロの『もし主を愛さない者があれば,のろわれよ。マラナ・タ』(1コリント16:22)とは,恐らく『……主が来られるまでのろわれよ』ということを意味しています。『我らの主よ,きたりませ』を意味するアラム語のマラナ・タは,初期の聖徒たちによって合言葉またはあいさつとして使われたと見られ,これによって互いに約束された再臨を思い出させました。」(Mormon Doctrine, 2nd ed. [1966], 33–34)
1コリント16:24の結びの箇所にある,サブスクリプションと呼ばれる短い説明文に関する情報については,第38章の「コリント人への第一の手紙の書かれた場所と時期」を参照してください。