リアホナ
子どもと過ごすイースター家族で、救い主の贖い、死と復活に思いを馳せる
『リアホナ』2026年4月号


子どもと過ごすイースター家族で、救い主の贖い、死と復活に思いを馳せる

季節のお祝い事は大好きです。子どもたちが小さい頃から様々な行事をやってきて、クリスマスがメインイベントでした。ただ、プレゼントをもらって終わりではなく、クリスマスの本当の意味を分かってほしくて、アドベントカレンダーの袋に小さなお菓子と、イエス様の生涯の出来事を表すオーナメントを入れました。子どもたちは毎日一つずつ袋を開け、星や羊のオーナメントをツリーに飾り、入っているお菓子を食べながら、オーナメントに関連するお話を聞くのが大好きでした。その年は、とてもいいクリスマスになったのです。

ヒンクレー大管長はこう教えられました。「復活祭がなければクリスマスもありません。ゲツセマネとカルバリで贖いの業を行われたキリストがおられず、勝利の復活の出来事がなければ、ベツレヘムのみどりごイエスはほかの赤ちゃんと何ら変わらなかったでしょう。」 ※1またネルソン大管長も2021年に、復活祭までの1週間をさらに聖いものとするようにわたしたちを招かれました。これらの預言者の言葉を読むたびに、クリスマスと同じくらい復活祭を大切にして、家族で過ごしたいとの思いが強くなりました。

エッグハントが楽しい、だけではなくて、クリスマスのように目に見える象徴があれば子どもたちの印象に残ります。我が家では絵本もよく使いますが、お話をするだけでは忘れるので、イエス様の復活を象徴するものをいつも目に止まるところに飾るようにしています。それが、生活の一部になるといいなと思います。

最初はぽかんとしていた長女も、毎年やっていると、「これがあのお話でしょ」と象徴の意味が分かってきました。年に一回ですが結構覚えているものです。子どもたちにとって、なじみのあるストーリーになってきたのです。

子どもにとって死とは

6年前、宮崎家のおさんが亡くなりました。愛媛県に住んでいて、毎年帰省するたびに子どもたちをかわいがってくださる、とても優しいおばあちゃんでした。子どもたちには、家族の亡くなった姿を近くで見た初めての経験で、「もう会えない」と言って泣きました。「もう動かないの、もう帰ってこないの?」そのショックが大きかったからこそ、次に来たイースターにおける、また生きることができるというメッセージが癒しとなり希望となったのではないかと思います。「ばあばは今、霊界っていうところでみんなのことを見守っていて、わたしたちが日の栄えに行けたら、また永遠に一緒にいることができるんだよ。イエス様が復活されたから、そのおかげで、家族は永遠に一緒にいることができるんだよ」と話したとき、子どもたちにとって一気に身近になったと思います。

子どもたちのうち二人がまだ幼稚園児の頃、「人が死んだらどうなるの?」と聞いてきました。こんなに小さくても死について考えるんだ、と驚きました。もしかしたら復活のメッセージを知らない子たちは、死んだ後のことがすごく怖いのかもしれません。でも、わたしたちにとって死は終わりではなく、通過点であって、希望と慰めのメッセージがあります。それは、子どもたちの幼い頃から身近なものであってほしいと思います。

心に残るイースター

クリスマスもイースターも最初の頃はやっぱり楽しい・おいしいだけのイベントで、何か物足りないと感じました。ここ数年のイースターは、イエス様と復活に焦点を合わせ、楽しくて記憶に残るものを、と子どもたちの反応を見ながらいろいろと試行錯誤しています。わたしたち生けるキリストを信じている家庭が、霊的なものに目を向けるとき、子どもたちにも親自身にもすごく幸せな時間となり、充足感を感じられるようになりました。

飾ってあるものを見て、「これはイエス様が何をしたときを表してるんだっけ?」と会話するとき、日常の中で大切なことを教える瞬間が増えます。例えば、イエス様の絵本を読んでいて、ゲツセマネの園で苦しまれたところや十字架のところに来ると涙を流す子がいます。「何でそんなことをイエスさまはされたの?」そんな良い質問が出ます。わたしたちの言うことが子どもの心に響くのが分かります。

主は涙を拭ってくださる

子どもたちがまだ2歳、4歳、6歳だった2020年3月13日のことです。夫が、親知らずを抜く歯科手術のために一泊の入院をしました。当初は、そんなに大したことはないだろうと思っていましたが、夕方、病院から電話が来たのです。

「奥様ですか、今すぐ病院に来られますか?」

「ちょっとすぐに行くのは難しいです。後ではだめですか?」

「できれば早い方がいいです」

「何かあったんですか?」

「詳しくは着いたらお話ししますので」

ひどく胸騒ぎがしました。近所の方に子どもたちを見ていただいて、すっかり日の暮れた午後7時頃、独りで病院へ向かいました。車の中で、最悪の状況を想像してしまいました。小さな子どもたち3人を抱えて、夫がいなくなったら、もし生きていたとしても働けない状態になったら……いろいろな不安や恐れが心の中にあふれ、涙が止まらなくなりました。

でも、こういうときこそ永遠の観点で考えないと、と思い直します。タバナクル合唱団の音楽を流して、救いの計画に思いを巡らしました。「どんな結果でも受け入れます。最善を尽くして子どもたちを育てます、主に全てをゆだねます。」そう祈りました。

そのとき─「主の御手の中で守られているなら大丈夫」という、温かい御霊と平安に全身が包まれたのです。

─夫は、子どもたちが幼い中で家族を大事にしながら、ビショップとして一生懸命に頑張っている。もし、今死んだとしても、絶対に何か意味があるのだろう。死は終わりではないし、家族は永遠だし、きっと彼には別の役目があるのかもしれない。神様はわたしたち家族をよく御存じなのだから、何も心配ない─

そんな思いが浮かび、タバナクル合唱団の歌を聴きながら、不安の涙は喜びの涙に変わってとめどなく流れました。

わたしはすっかり安心して病院へ向かいました。病院では先生のお話を落ち着いて聞くことができました。局所麻酔で親知らずを抜くとき、夫は「すごく痛い」と感じましたが、結局これは抜かなければいけないのだからと耐えようとしました。でも、どんどん痛みが強まって夫は失神し、そのときに心臓が止まったのだそうです。すぐに心肺蘇生法を行い、数分後に心臓は再び動き出しました。

***

あれから何年かたちました。夫は後遺症もなく、今も元気に働いていますが、この経験から、そういう瞬間がいつ、突然に訪れてもおかしくないと感じます。けれども、永遠の観点で今を見ることができ、日の栄えの考えを持つことができれば、何が起ころうとも、わたしたちは何も恐れることはないのです。◆