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マタイ1-4章
マタイによる福音書の紹介
マタイによる福音書を研究する理由
マタイには,至福の教え,山上の垂訓,イエスの多くのたとえ,教え,奇跡といった,聖書の中で最も愛されている節の幾つかが収められています。預言者ジョセフ・スミスは,説教でマタイによる福音書を頻繁に引用しました。
マタイという人物
この福音書に言及した初期のキリスト教著者たちは皆,マタイがこの福音書の著者だということに同意しています。それは,マタイが救い主の十二使徒の一人であり,書き記された出来事の多くを実際に目にした人物だからです。これは,ジョセフ・スミス訳聖書のマタイによる福音書につけられた「The Testimony of St. Matthew(聖マタイの証)」というタイトルによっても裏づけられます。改心して使徒職に召される前,マタイはアルパヨの子レビとして知られる収税官でした(マタイ9:9;マルコ2:14;ルカ5:27-32参照)。
マタイによる福音書の書かれた場所と時期
幾つかの証拠から,マタイがマルコによる福音書を情報源として使用したことが示唆されています。マタイは,マルコが主の生涯についてのペテロの実見談に大いに頼りにしていたことから,マルコの記述に信頼を寄せたのかもしれません。マタイは,マルコから得た資料に大幅な編集,再編成,追加を行いました。マタイはほかの口述資料や文献も参考にした可能性があります。ほとんどの学者は,マタイの書が書かれた時期を紀元70-90年だとしています。
マタイによる福音書の対象読者とその理由
マタイは,イエス・キリストが旧約聖書のメシヤの預言の成就であることを示すために,ユダヤ人(イエスをメシヤとして受け入れたユダヤ人と,受け入れなかったユダヤ人の両方)を対象としてこの書を書いたと思われます。マタイは頻繁に旧約聖書の預言を参照し,「成就するためである」という表現を使いました。この福音書において,マタイは,イエス・キリストがダビデ王の正当な王位継承者であること,そしてメシヤへの期待の成就であることの証として「ダビデの子」という言葉を12回使いました。
マタイによるイエス・キリストの系図はダビデ,ユダ,アブラハムの血統をたどっており(マタイ1:1-3参照),イエスの統治権,そしてイスラエルに対する神の約束の成就としてのイエスの役割を明らかにしています。異邦人が関与する重大な出来事と教えをマタイが含めたことも,彼が福音書を記した当時,異邦人の中で行われていた業を受け入れるように彼の読者を励ます目的があったように見受けられます(マタイ8:5-13;15:21-38;28:19-20参照)。
マタイによる福音書の特徴
マタイが記述した事柄の多くはマルコ,ルカによる福音書にも記載されていますが,マタイによる福音書の42パーセントは,この福音書独自のものです。マタイによる福音書のおもなテーマは,神の王国を築くためにイエス・キリストが来られたということです。マタイは「天国」という言葉を何度も使っており,「教会」について触れたイエスの教えを福音書に記録したのはマタイだけです(マタイ16:18;18:17参照)。救い主による神の王国の確立という彼の焦点の一部として,マタイはイエス・キリストの権能を次のように強調しました。
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イエスは認められた権能の系統を通じてお生まれになった(マタイ1:1-17参照)。
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天国は近づいたと宣言された(マタイ4:17参照)。
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山上の垂訓をお与えになり,昇栄した人々の特質と,神の王国を統治する律法について説明された(マタイ5-7章参照)。
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権能を持つ僕として,十二使徒に神権の権能をお与えになり,キリストの教会(地上の神の王国)を組織された(マタイ10章;16:18-19参照)。
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たとえ話を通じて,神の王国の確立,それに続く背教の時代,末日における王国の回復について予言された(マタイ13章参照)。教導の務めの間,イエス・キリストは,地上の神の王国の一員となるようすべての人々を招かれました。
マタイによる福音書は,モーセとイエス・キリストの務めの共通点を認識するために役立ちます。どちらも乳児のころに,彼らを殺そうとした王から救われました(出エジプト2:1-10;マタイ2:13-18参照)。どちらもエジプトを後にしました。どちらもそれぞれの人々を救いました。モーセの書は5冊あり(創世記-申命記),マタイはイエス・キリストが行われた5つの偉大な説教を記録しました(マタイ5-7章;10章;13章;18章;24-25章)。モーセはより低い律法を明らかにし,イエスはより高い律法を回復させてモーセの律法を成就されました(マタイ5:17-48参照)。マタイは,ユダヤ人読者がイエス・キリストを「あなたの神,主はあなたのうちから,あなたの同胞のうちから,わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起こされるであろう」(申命18:15参照。使徒3:22も参照)というモーセの預言の成就として認識することを助ける方法で福音書を編成したと思われます。
マタイによる福音書は,神が神の人々,イスラエルを見捨てられなかったことを示しています。マタイは神の御子を,「神はわれらと共にいます」という意味のインマヌエルと呼びました(マタイ1:23)。救い主の行い,教え,奇跡は,神がイスラエルの人々と共におられ,神の独り子を送られたことを表しています。マタイは,イエスが弟子たちにお与えになった「わたしは世の終わりまで,いつもあなたがたと共にいるのである」という約束で福音書を締めくくりました(マタイ28:20)。
概要
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マタイ1-4章系図とイエス・キリストの生誕。博士たちはユダヤ人の王を捜し求めた。夢の中で導きを受けたヨセフは,マリヤと幼いイエスをエジプト,そしてその後ナザレに連れて行った。バプテスマのヨハネは,悔い改めの福音を宣べ伝え,イエス・キリストにバプテスマを施した。救い主は荒れ野で誘惑を受けられた。救い主は,教え,宣べ伝え,あらゆる種類の病を癒すことによって,現世における務めを始められた。
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マタイ5-7章イエスは山上の垂訓をお教えになった。
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マタイ8-12章救い主は重い皮膚病にかかった人を癒し,嵐を静め,悪霊を追い出し,ヤイロの娘を生き返らせ,目の不自由な者に視力を与えられた。イエス・キリストは十二使徒を召し,イエスが行われたように物事を行う権能を彼らに与え,福音を宣べ伝えるように彼らを遣わされた。イエスは,バプテスマのヨハネが預言者以上の者であると宣言された。
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マタイ13-15章イエスは種まき,麦と毒麦,からし種,パン種,畑に隠してある宝,高価な真珠,海におろされた網のたとえを使ってお教えになった。バプテスマのヨハネの首がはねられた。5,000人の人々に食物を与えられた後,イエスはペテロとガリラヤの海の上を歩かれた。律法学者とパリサイ人はイエスを言い負かそうとした。
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マタイ16-18章イエスがキリストであると証した後,ペテロに王国の鍵が約束された。イエス・キリストはご自分の死と復活を予言された。山でイエスの御姿が変えられた。イエスは弟子たちに教会を導く方法について指示をお与えになった。イエスは無慈悲な僕のたとえを話された。
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マタイ19-23章救い主は結婚の永遠性について教えられた。救い主はエルサレムに入城され,宮を清められた。たとえ話を使用することによって,イエスは,イエスに敵対するユダヤ人指導者の悪だくみを暴き,意図的な偽善に対して彼らに災いを宣告された。
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マタイ24-25章;ジョセフ・スミス—マタイイエス・キリストはエルサレムの滅亡を予言された。イエスは,イエスに従う者たちにイエスの再臨に備えることができる方法を教えられた。
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マタイ26-27章イエスは弟子たちと過越の祭を行い,聖餐を設けられた。イエスはゲツセマネで苦しまれた。イエスは裏切られ,捕らえられ,ユダヤ人とローマ人支配者たちの前で裁かれ,十字架にかけられた。イエスは亡くなられ,葬られた。
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マタイ28章復活された救い主が弟子たちに御姿を現された。ユダヤ人指導者たちは,偽りの話を作り出して広めることによって,一般の人々が復活について知ることを阻もうとした。イエスは,地の果てまで福音を宣べ伝えるよう使徒たちに命じられた。
マタイ1-4章の紹介とタイムライン
マタイ1-4章は,イエス・キリストの現世における務めに対する前置きにあたります。マタイ1-2章では,イエス・キリストの生誕と子供時代について学ぶことができます。これらの章のメッセージの一つは,預言の成就というマタイのテーマを踏まえると,救い主の降誕が旧約聖書の預言を成就したということです。マタイ3章では,バプテスマのヨハネが「天国は近づいた」,そして「わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかた」であると宣言しました(マタイ3:2,11)。これらの宣言は,天の御父がご自分の御子について「わたしの心にかなう者である」と宣言されたイエス・キリストのバプテスマのために読者たちを備えました(マタイ3:17)。イエス・キリストは,民への務めに対するさらなる備えとして,「神とともにいるため」(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」マタイ4:1)に荒れ野に行かれました。サタンは,荒れ野でイエスを誘惑しましたが,イエスはそれぞれの誘惑をすぐさま退けられました。
マタイ1-4章の解説
マタイ1:1,17。イエス・キリストはダビデとアブラハムの子孫であられた
旧約聖書の預言は,メシヤがダビデの子孫となること(サムエル下7:12-13;イザヤ9:6-7;エレミヤ23:5-6参照),そしてアブラハムの子孫が「地のもろもろの国民」を祝福すること(創世22:18。アブラハム2:11も参照)を宣言しました。一部の学者は,マタイが14世代を3組含めた(マタイ1:17参照)のは意図的なものであり,数字の14が「ダビデ」という名前・称号に関連付けられていることから重要であると提言しています。ヘブライ語やその他の古代語では,数字だけでなく音を表すためにもアルファベット文字が使用されました。ダビデ(David)という名前のヘブライ語文字は,数値14に相当します(Davidにある文字〔D-V-D〕は4と6と4で合計14)。約束されたメシヤはダビデの血統に生まれることになっていたため,マタイはこのように系図を分割することで,イエス・キリストが長い間待ち望まれたダビデの子孫であるメシヤであったことをさりげなく強調したという学者もいます。また,数字14は完成や完全性を意味する数字7の2倍です。イエス・キリストは,神による完成,完全性を体現しておられます。
十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は,イエスがお生まれになった当時のメシヤへの期待について次のように教えました。「メシヤがダビデの子となるという普遍的な考え以上に,イエスの時代のユダヤ人の心にしっかりと刻み込まれていた概念はありませんでした。彼らは,ローマ人による束縛のくびきを取り払い,イスラエルを再び自由にするこの世の救世主を求めていました。彼らは,エッサイの息子がイスラエルの王座に就いていたころに享受した栄光,世界的な影響力,そして名声を取り戻す統治者を求めたのです。」(The Promised Messiah [1978], 188)
マタイ1:1-17。イエス・キリストの系図
イエス・キリストの系図はマタイとルカの福音書の両方に記録されています(マタイ1:1-17;ルカ3:23-38参照)。十二使徒定員会のジェームズ・E・タルメージ長老(1862-1933年)は,これらの系図について次のように述べました。「マタイの記事は,ダビデの王座の正当な継承順位を整然と明確にした王家の家系を示しており,一方ルカの記事は,長子であることまたは血縁関係の濃淡によってダビデの王座を正当に継ぐ系統にこだわることなく,ダビデの子孫であることを示す個人的な家系図であるというのが研究者たちの一致した意見である。この事実を覚えておくべきである。しかしながら,多くの人は,ルカの記録をマリヤの系図であるとし,一方マタイの記録はヨセフの系図であると信じている。いずれにせよ,忘れてならない大切なことは,ヨセフの婚約者であるおとめマリヤに,御使いガブリエルが約束した『その子』は王家の家系から生まれることになるということである。」(『キリスト・イエス』第3版,82)
マタイとルカの記述は正確ではありますが,イエス・キリストの系図の最も重要な側面は,父なる神の「これはわたしの愛する子,わたしの心にかなう者である」(マタイ17:5参照。マタイ3:17;3ニーファイ11:7;ジョセフ・スミス—歴史1:17も参照)という御言葉によって何度も明らかにされています。
ゴードン・B・ヒンクレー大管長(1910-2008年)は,救い主の聖なる生誕について証を述べました。「わたしは,永遠の生ける神の御子であられる,主イエス・キリストを信じます。……わたしはイエスが,約束されたメシヤとして,ダビデの末としてマリヤからお生まれになったことを信じます。実に,イエスは父なる神の独り子であり,その生誕はイザヤのあの予言が成就したものであることを信じます。『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた,ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり,その名は,「霊妙なる議士,大能の神,とこしえの父,平和の君」ととなえられる。』〔イザヤ9:6〕」(「御父と御子と聖霊」『聖徒の道』1987年1月号,56-57)
マタイ1:3,5-6,16。イエスの系図の中の女性
マタイによるイエス・キリストの家系には数人の女性が記されています。タマルはカナン領地のアドラム出身(創世38章参照),ラハブはエリコのカナン人(ヨシュア2:1-7参照),ルツはユダヤ教に改宗する前はモアブ人で(ルツ1:4参照),バテシバはヘテ人ウリヤの妻でした(サムエル下11:3)。つまり,4人の女性全員がイスラエル人ではなかった,またはイスラエル人ではない人との関連があったことになります。マタイがイエス・キリストの家系にこれら4人の女性を含めたことから何を学ぶことができるでしょうか?(サムエル下11:3参照)。
第一に,これは神が過去に異邦人に働きかけておられたことを示しており,読者がマタイによる福音書の最後に書かれている「すべての国民を……教えよ」(マタイ28:19)という務めを心することができるように備えました。第二に,それぞれが旧約聖書における何らかの論議にかかわっていたこれら特定の女性への言及は,イスラエルの過去に,ユダヤ人が予想もしなかったであろう人々と状況に対して神が働きかけておられたことを示し,そのすぐ後の記述であるマリヤと処女懐胎に対してマタイの読者を備えました。第三に,イエス・キリストの血統が非の打ちどころがないものではなかったことから,今日,個人の義が「完全な」血統を持つことに依存しないことをわたしたちに示します。最後に,救い主の家系に女性を含めたことは,男性と女性が神の目に平等であるという大切な真理を反映しています。
マタイ1:18。「マリヤはヨセフと婚約していた」
若い男性と若い女性の間の結婚は,それぞれの家族の頭,通常は父親によって取り決められ,合意されました。ひとたび将来の妻が新郎の父親または家族の頭によって決められると,交渉が始まりました。彼らは,これだけではありませんでしたが,花嫁の家族に新郎の父または家族の頭が支払った一種の持参金である「婚資」の価値を重視しました。結婚が合意されると,結婚は婚約(マタイ1:18参照)と婚礼の2段階で成されました。
Painting by Lyle Beddes
婚約は,それに続く婚礼(この後,夫婦が一緒に暮らし始めます)よりも,法律的,宗教的に重要なものでした。婚約は厳かな聖約の最終段階と見なされていました。婚約は,神を畏れる両者の間で敬われるべき聖約の力を伴っていました(創世2:24;エゼキエル16:8;エペソ5:21-33参照)。婚約した二人は法律的には夫と妻と見なされましたが(申命22:23-24参照),婚約から婚礼までの期間には,厳格な純潔の法が課されました(マタイ1:18,25参照)。婚約すると,男性は女性を法律上「所有」することになりますが,これは身体的な意味ではありませんでした。
マタイ1:18-25。ヨセフは義人であった
マリヤが子供を身ごもったと知ったとき,自分がその父親ではないと分かっていたヨセフには幾つかの選択肢がありました。第1に,人々はマリヤがモーセの律法では死刑に値する姦通の罪を犯したと見なしたであろうことから,ヨセフはマリヤに離縁判決を受け取らせる,そして恐らく死刑にすることさえもできました(レビ20:10;ヨハネ8:5参照)。第2に,ヨセフは二人の証人の前でマリヤとの婚約をひそかに解消することができました。第3の選択肢は,そのまま結婚することでした。ヨセフはひそかに婚約解消の同意をすることで,マリヤに慈悲を示そうとしました(マタイ1:19参照)。しかしヨセフは,マリヤの子が神の子であると天使によって確信させられたとき,マリヤと結婚することで人々から辱めと嘲笑を受ける可能性があったにもかかわらず,結婚を選択しました(マタイ1:20-25;ルカ3:23;ヨハネ8:41参照)。
後に七十人の会員になったジェラルド・N・ランドは,ヨセフの示現と霊的な感受性について次のように説明しています。「マタイは,〔ヨセフ〕がダビデ王の家系であったこと,正しく思いやり深い人であったこと,夢でイエスがどのような御方になるか天使に告げられたこと,従順であったこと,そしてイエスに『救い主』を意味する名前をつけたことを語っています。(マタイ1章参照)わたしたちはヨセフがマリヤをベツレヘムに連れて行き,そこでイエスがお生まれになったことを知っています。(ルカ2:4-6参照)それから2年もたたずに,ヨセフは夢の中で警告され,ヘロデから逃れるために家族をエジプトに連れて行きました。エジプトでは,いつ戻るべきかを再び夢で告げられ,別の夢ではガリラヤに行くように告げられました。(マタイ2:13-15,19-22参照)神から4つも夢を与えられたのです。ヨセフは特別な予見力のある霊的に敏感な人であったに違いありません。」(Jesus Christ, Key to the Plan of Salvation [1991], 51–52)
マタイ1:20。「その胎内に宿っているものは聖霊によるのである」
アルマは,イエス・キリストの受胎における聖霊の役割を次のように説明しました。「そして見よ,神の御子は,わたしたちの先祖の地であるエルサレムで,マリヤからお生まれになる。マリヤは聖霊の力により覆われて身ごもり,男の子,まことに神の御子をもうけるおとめであって,尊い,選ばれた器である。」(アルマ7:10)
The Nativity, by Ted Henninger
マタイ1:21。「その名をイエスと名づけなさい。彼は,おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」
イエス(Jesus)という名前は,ヘブライ語の名前Yeshua(イェシュア)(英語ではジョシュア〔Joshua〕)のギリシャ語Iēsous(イェースース)から来ています。イェシュアとは「エホバはお救いになる」という意味で,それを長くした名前のYehoshua(イェホシュア)は「エホバは救いである」」という意味です。これら名前は,どちらの形態でも前世ではエホバであられたイエス・キリストの身分と使命を証しています。マタイは,「彼は,おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる」と宣言することによって,救い主の救いの使命を説明しています(ヒラマン5:10も参照)。
マタイ1:23;28:20。救い主の現世における務めは,神が常に人々と共におられることを確かにする
マタイの最初の章では,イエス・キリストが「『神われらと共にいます』と言う意味」(マタイ1:23,強調付加)のヘブライ語インマヌエルと呼ばれることが明らかにされています。マタイの最後の節には,「わたしは世の終わりまで,いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20;強調付加)という救い主の弟子たちへの約束が含まれています。福音書の始めと最後にこれらの似通った宣言を記載することによって,マタイは,神がわたしたちをお忘れにならず,いつも共におられるというマタイによる福音書全体を通じたメッセージを明確にしているのかもしれません。
マタイ1:25。キリスト降誕の年
イエス・キリストがお生まれになった年について,「教会はこれに関する正式な宣言はしていません。」(J. Reuben Clark Jr., Our Lord of the Gospels [1954], vi)現在ほとんどの国で使用されている暦は,イエス・キリストが生きておられた時代の何世紀も後に作られたもので,専門家たちは,今ある歴史的情報をどのように使ってキリスト降誕の年を計算するかについて意見を異にしています。ブルース・R・マッコンキー長老は次のように書いています。「この問題はまだ解決されていませんが,〔キリストの〕生涯における実際の出来事を関連付けることができる一般的に認められた時間枠がありさえすれば,これは恐らく大した問題ではないでしょう。」(The Mortal Messiah: From Bethlehem to Calvary, 4 vols. [1979–81], 1:350)。
ルカ3:23には,救い主が務めを始められたのが「年およそ三十歳の時」であったと記載されています。記録された聖文内の出来事は,救い主の務めの長さを把握するために役立ちます。イエスは毎年行われる過越の祭に少なくとも3回は参加されました。このうちの一つはヨハネ2:13に,もう一つはヨハネ6:4に記述され,十字架の刑の時のものがヨハネ11:55-57に記述されています。この情報に基づくと,イエスの教導の務めは,最低2年間続いたことになります。救い主のバプテスマから最初に参加された過越の祭の間に起こった,複数の記録された出来事に基づいて,ほとんどの学者が救い主の務めの期間を約3年としています。モルモン書に記述されている救い主の十字架の刑の際に起こった物理的な大変動は,十字架の刑がイエスの現世における生誕から34年目の始めに起こったことを裏づけています(3ニーファイ8:5-11:14参照)。
マタイ2:1-12。東方の博士
東方の博士たちの身元,出身地,人数,名前について数多くの憶測がなされてきましたが,マタイはこれらの詳細については記述していません。マタイはギリシャ語のマゴイという言葉を使いました。これは元々ペルシャまたはバビロンからの宗教的な賢者を指していましたが,マタイの時代には,この言葉に様々な宗教家が含まれるようになっていました。
博士たちの身元と出身地について,ブルース・R・マッコンキー長老は次のように述べています。「彼らはまことの預言者であり,人の中に約束されたメシヤがお生まれになると神によって明かされたシメオン,アンナ,そして羊飼いと同様に義の人々であったように見受けられます。彼らがメシヤの降誕時に新しい星が生まれることを伝える古代の預言を所持していたことは明らかです。彼らが個人的な指示のために啓示を受けたことは,マリヤの子を見つけ,拝した後でヘロデの元に戻らないように警告された,霊感を受けた夢からも分かります。」(Doctrinal New Testament Commentary, 3 vols. [1965–73], 1:103)。
東方の博士たちに関するマタイの記述は,彼らが救い主についての預言をよく知っていたことを明瞭にしています。東方の博士たちは,ヘロデ王にどこでメシヤを見つけることができるか尋ねました(ジョセフ・スミス訳マタイ3:2〔英文〕参照)。彼らは,「東の方」で見た星をメシヤのしるしとして解釈しました(マタイ2:2;ヒラマン14:5参照)。博士たちの質問を受けて,ヘロデは祭司長と律法学者たちを呼び寄せました。彼らは王に,博士たちが探し求める君がイスラエルを「治める」であろうことを宣言する預言者ミカの預言を引用して聞かせました(ミカ5:2;マタイ2:6参照)。また,「パンの家」という意味の名称「ベツレヘム」(マタイ2:6)は,「命のパン」がお生まれになる場所でもありました。
東方の博士たちがだれであったか,またはどこから来たのかにかかわらず,彼らの訪問は,イエス・キリストの降誕に伴うしるしを知っているはずの者たちがそれらに気づかず,ほかの国の義にかなう人々が聖霊に導かれ,しるしに気づいただけでなく,それに従って行動したことを表しています。
東方の博士たちの訪問の正確な時期は分かっていませんが,マタイ2:11では,博士たちが飼葉おけではなく「家」にいるイエス・キリストを見つけ,イエスが乳児ではなく「幼子」であられたことから,イエス降誕のしばらく後であったことを示唆しています。
マタイ2:12-13,19,22。啓示の一種としての夢
マタイ2章には,東方の博士たちやヨセフが見た,神からの啓示が含まれる夢が記録されています。ウィルフォード・ウッドラフ大管長(1807-1898年)は,夢が啓示への道であると認めています。
An angel appeared to Joseph in a dream, by Paul Mann
「主は夢の中で,幼いイエスとイエスの母親をエジプトに連れて行くようヨセフに警告されたため,イエスはヘロデの怒りから救われました。ゆえに,夢の中で教えられた事柄で真実であるものは非常に多くあり,人が神の御霊を持つならば,何が主からのもので,何がそうでないかの違いを認識することができるのです。兄弟姉妹の皆さん,主からのものだと感じる夢を見た時は,それに注意を払うよう申し上げます。
……主は,示現と夢,そして聖なる真理の記録によって,人の子に大切な事柄を伝えてくださいます。これはすべて何のためなのでしょうか。わたしたちに原則を教えるためのものなのです。」(The Discourses of Wilford Woodruff, ed. G. Homer Durham [1990], 285–86)。
マタイ2:12-16。罪のない子供たちの虐殺
乳飲み子イエスを殺そうとするヘロデの試み(マタイ2:12-16参照)は,ヘロデ大王が犯した数ある暴力的行為の一つでした。イエスと同様に,モーセも乳子であったころ,彼の命を奪おうとする試みから奇跡的に免れました。これは,モーセの生涯とイエスの生涯の間における多くの類似点の一つです(出エジプト1:17-2:10参照)。
マタイ2:23。イエス・キリストの幼少時代
聖書のジョセフ・スミス訳は,イエス・キリストの幼少時代と少年時代についての詳細をさらに提供しています。
「それから,イエスは弟たちとともに成長し,体もたくましくなり,御自分の務めの時が来るのを待っておられた。
イエスは父親のもとで働いておられたが,その語ることは他の人々と異なり,イエスを教えることのできる人はだれもいなかった。教える人を必要とされなかったからである。
それから何年もたって,務めの時が近づいた。」(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」マタイ3:24-26)
「教える人を必要とされなかったからである」(強調付加)という表現は,イエスは教えを受けられたが,人によって教えられたのではなかったことを示しています。救い主は,天の御父から教えを受けたことを説明されました(ヨハネ8:28-29参照)。
マタイ3:2。「天国」
救い主は,「天国」(マタイ3:2)という表現をしばしばお使いになりました。天国についてより詳しく学ぶには,第2章の「マタイによる福音書の特徴」を参照してください。
マタイ3:6。バプテスマのヨハネは悔い改めて救い主のために備えるよう人々に教えた
救い主の務めの時が近づくにつれて,バプテスマのヨハネは悔い改めの必要性について人々に宣べ伝え始めました。彼は約束されたメシヤの先駆者でした(イザヤ40:3;マラキ3:1;2ニーファイ31:4参照。ルカ1:14-19,26の解説も参照)。彼は,罪の告白が悔い改め,そしてイエス・キリストを受けるために備えることの重要な一環であることを人々に教えました。十二使徒定員会のニール・A・マックスウェル長老(1926-2004年)は,悔い改めにおける告白の必要不可欠な役割について同じように教えました。
「ほんとうの悔い改めの中には,告白が含まれます。『今,あなたがたの先祖の神,主にざんげし……なさい』と言われています。(エズラ10:11。)真にへりくだる心を持った人は,罪を隠そうとはしません。告白することによって,心の中に病巣を作っていた罪を一掃し,退いていた御霊を新たに呼び戻すことができるのです。……
あらゆる罪は主に対して告白しなければなりませんが,中には教会の役員やそのほかの人に告白したり,以上のすべてに告白すべき場合もあります。わずかですが,公衆の面前で告白すべき場合もあります。罪を告白すると,罪を捨てることがたやすくできるようになります。」(「悔い改め」『聖徒の道』1992年1月号,35)
マタイ3:9。「神はこれらの石ころからでも,アブラハムの子を起こすことができるのだ」
神が「これらの石ころからでも,アブラハムの子を起こすことができる」ことに関する説明については,ルカ3:8の解説を参照してください。ヨハネの生涯と務めについての主な考察については,ルカ3章の解説で説明します。
マタイ3:11。火によるバプテスマ
バプテスマのヨハネは,水によるバプテスマの後に「聖霊と火による」バプテスマが必要であることを教えました(マタイ3:11参照。マルコ1:8;ルカ3:16も参照)。大管長会のマリオン・G・ロムニー管長(1897-1988年)は,「火のバプテスマ」が魂に及ぼす影響について説明しました。「アルマが言及したように,火と聖霊によるバプテスマ……は,人の心への大きな変化をもたらす〔アルマ5:14参照〕。〔わたしたち〕を肉の存在から霊の存在へと変える。それは人を清め,癒し,汚れのないものとする。……これは,イエスがニコデモに話された霊的に再び生まれることなのである〔ヨハネ3:3-5参照〕。主イエス・キリストを信じる信仰,悔い改め,水によるバプテスマは,すべて準備段階や前提条件であって,その集大成が〔火によるバプテスマ〕なのである。〔この火によるバプテスマ〕を受けるということは,イエス・キリストの贖いの血によって自らの衣が洗い清められるということなのである。」(Learning for the Eternities, comp. George J. Romney [1977], 133)。
マタイ3:12。「箕を手に持って」
もみ殻から麦を選り分ける
Photograph by Richard L. W. Cleave
マタイ3:12の「箕」とは,小麦を振り上げるために使われた,脱穀用のうちわ状の道具を指しています。これによって麦からもみ殻が吹き分けられます。軽いもみ殻が風によって吹き飛ばされる一方で,小麦の穀粒は地面に落ちます。小麦はその後,穀物倉または倉庫に集められ,もみ殻は火で焼かれました。バプテスマのヨハネは,自分の後でおいでになる救い主が,もみ殻から麦が分けられたのと同じように,信仰のない者から信仰のある者を分けられると教えました。
マタイ3:13-17。神会について教えるイエス・キリストのバプテスマ
イエス・キリストのバプテスマでは,神会の御三方全員が個別に御自身を明らかにされました。イエスは水の中におられ,天の御父の声が天から聞こえ,聖霊は救い主の上にはとのように下ってこられました(ルカ3:22-23も参照)。十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,神会の教義が聖文全体で繰り返されていることを強調しました。
「聖文から分かるように,わたしたちは,父と子と聖霊が別個の御方であり,御三方が神であられることが明白な事実であると宣言します。……救い主による執り成しの祈り,救い主がヨハネの手からお受けになったバプテスマ,変貌の山でのご経験,ステパノの殉教。これらの4つの例を挙げるだけでも,これが紛れもない真実であることが分かります。
これらの新約聖書の例や,ほかにも知られている例について読めば,イエスの次の言葉が何を意味するかは問うまでもないかもしれません。『子は父のなさることを見てする以外に,自分からは何事もすることができない。』〔ヨハネ5:19。ヨハネ14:10も参照〕別の場面ではこうもおっしゃっています。『わたしが天から下ってきたのは,自分のこころのままを行うためではなく,わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。』〔ヨハネ6:38〕御自分に敵対する者についてはこう言われました。『〔彼らは〕わたしとわたしの父とを見て,憎んだのである。』〔ヨハネ15:24〕そして当然ながら,イエスは常に御父を敬い,その御心に従っておられたので,『なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。』〔マタイ19:17〕『父がわたしより大きいかたであるからである』〔ヨハネ14:28〕とも言われました。
『わが父よ,もしできることでしたらどうか,この杯をわたしから過ぎ去らせてください。』〔マタイ26:39〕『わが神,わが神,どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』〔マタイ27:46〕」(「唯一のまことの神と,その神がつかわされたイエス・キリスト」『リアホナ』2007年11月号,41)
救い主のバプテスマの大切さを心に思い描く助けとするために,LDS.orgで視聴できる聖書ビデオ—イエス・キリストの生涯から,ビデオクリップ「イエスのバプテスマ」(2分55秒)を視聴してください。このビデオクリップはマタイ3:13-17を採り上げたものです。
マタイ3:15。「すべての正しいことを成就する」
2ニーファイ31:6-12に記録されているとおり,モルモン書の預言者ニーファイは,イエス・キリストが「バプテスマをお受けになることによって,どのようにあらゆる義を満たされたのか」を説明しました(2ニーファイ31:6)。
マタイ3:16。はとのように下られた聖霊
はとのように下られた聖霊に関する洞察については,ルカ3:22の解説を参照してください。
マタイ3:17。御父の声
救い主がバプテスマを受けられたとき,天の御父の声が聞こえました。これは,御父の声が聖文に記録された数少ない出来事の一つです(マタイ3:17;17:5;3ニーファイ11:7;ジョセフ・スミス—歴史1:17参照)。これらそれぞれの状況で,神は,この世の人に神の御子を紹介するために話されました。
マタイ4:1,5,8。イエスは「神とともにいるため」に荒れ野に行かれた
聖書のジョセフ・スミス訳はこれらの節に重要な修正を行っています。イエス・キリストは「悪魔に試みられるため」に「荒れ野」に行ったのでもなければ(マタイ4:1),誘惑するためにイエス・キリストを連れて行く(マタイ4:5,8)力が悪魔にあったわけでもありませんでした。
「さて,イエスは御霊によって荒れ野に導かれた。神とともにいるためである。……
それからイエスは聖なる都に連れていかれた。そして御霊がイエスを宮の頂上に立たせられた。……
そしてまた,イエスは御霊に満たされた。そして御霊はイエスを非常に高い山に連れて行き,この世のすべての国々とその栄華とを見せられた。」(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」マタイ4:1,5,8)
ユダヤの荒れ野
Photograph by James Jeffery
ブルース・R・マッコンキー長老は,イエスが荒れ野に行かれた理由について次の洞察を付け加えています。「イエスは悪魔に誘惑されるために荒れ野に行かれたのではありません。義にかなう人は誘惑を追求しません。イエスは『神とともにいるため』に行かれたのです。イエスは恐らく御父の訪れを受けられたと思われますが,超越した霊的な現れを受けられたことは間違いありません。誘惑は,イエスが『40日』後,『神と言葉を交わして』からもたらされました。〔『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」マタイ4:1;ジョセフ・スミス訳マタイ4:2;ルカ4:2〔英文〕から和訳。〕」(Doctrinal New Testament Commentary, 1:128)
マタイ4:2。救い主は務めに備えるために断食された
ハワード・W・ハンター大管長(1907-1995年)が教えたように,断食は,救い主の務めに対する備えの重要な要素でした。「イエスはバプテスマの後,御霊に導かれて荒れ野に入られた。そしてそこで四十日四十夜,来たるべき正式な伝道の業の備えをされた。主は,前途に待ち受けているこの世で最も偉大なみ業に備えるために,神の力を必要とされたのである。主はこの四十日四十夜の問,天父の御霊の力が肉体のすみずみにまで及ぶように,断食をして過ごされた。」(「キリストが受けたもうた誘惑」『聖徒の道』1977年2月号,50)
十二使徒定員会のジョセフ・B・ワースリン長老(1917-2008年)は,断食によってもたらされる祝福について説明しました。「断食に心からの祈りが加わると,それは力強いものとなります。自らの思いを御霊の啓示で満たすことができます。そして誘惑を受けるときに,それらに対抗できるようわたしたちを強めてくれます。断食と祈りはわたしたちの勇気と自信を増し加える助けとなります。人格を強め,自制と自己修養を高めることができます。義にかなった祈りと嘆願は断食によっていっそう大きな力を持つことがしばしばあります。証が強くなります。霊的にまた情緒的に球熟し,心を清めるものとなります。わたしたちは断食する度に少しずつ,この世的な欲望と感情をコントロールする力を得ていくのです。」(「断食の律法」『リアホナ』2001年5月,89)
ここで興味深いのは,聖文で数字「40」が使用されるとき,この数字は逐語的または比喩的に理解できるということです。状況に応じて,40日は長い期間を表す場合があります。
マタイ4:1-3。サタンはわたしたちが弱いときに誘惑する(ルカ4:2も参照)
聖文に記録されているとおり,神が御自身を人に現されるときは,サタンもしばしば同時に姿を現して,神の影響を弱めようとしました(モーセ1:12-24;ジョセフ・スミス—歴史1:15-16参照)。救い主の務めの始めに,救い主は「神とともにいる」ために荒れ野に行かれました(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」マタイ4:1)。荒れ野では,救い主が空腹で弱っておられたときにサタンがやってきて救い主を試みました(マタイ4:1-3参照)。
ハワード・W・ハンター大管長は,サタンの誘惑が最も強いのは,大抵わたしたちが弱いときであると説明しました。「この四十日の断食を完うしたもうて神と交わられたイエスは,空腹で,肉体的に弱い状態にあった。そして悪魔の誘惑に身をさらされたのである。……情緒的に,また肉体的に消耗しきっているとき,疲労が重なっていて防備が薄く,悪魔の狡猪な誘いをはねつける備えがほとんどできていないとき,誘惑者が縦横無尽に活動するのはそのようなときである。このようなときこそ,多くの人々が悪魔のちょっとした誘いに乗り,屈服してしまう危険なときなのである。」(「キリストが受けたもうた誘惑」50)
マタイ4:2-10。イエス・キリストが受けられた誘惑の性質(ルカ4:2-13も参照)
管理ビショップリックのキース・B・マクマリンビショップは,イエス・キリストが経験された誘惑と,今日わたしたちがどのように同じ種類の誘惑に直面するかについて話しました。
「救い主が御業を開始するに当たって経験された誘惑は,わたしたちが経験する誘惑を典型的に表しています。このときに出遭われた誘惑,つまり,石をパンに変える,宮の頂上から飛び下りる,地上の宝のために魂を売る,という3つの誘惑(マタイ4:2-10参照)について,デビッド・O・マッケイ大管長は次のように言いました。『その3つの誘惑を分類すれば,皆さんやわたしを汚すあらゆる誘惑の大部分が,その3つのうちのどれかに該当することが分かります。……つまり,わたしたちの出遭う誘惑とは,(1)生理的欲求に関する誘惑,(2)自尊心や流行に負けること,神にかかわることから遠ざけようとするものを志向する虚栄心,(3)世の富や人の権勢を求める欲求を……満足させること,の3種類となります。』(Conference Report, Apr. 1911, 59で引用)」(「帰郷」『リアホナ』1999年7月号,95)
マタイ4:3-10。イエス・キリストはサタンの誘惑に心を留めたまわなかった(ルカ4:4-13も参照)。
ニール・A・マックスウェル長老は,誘惑を退けることにおける救い主の模範について話しました。「誘惑を受けながらもそれを『心に留められなかった』〔教義と聖約20:22〕主にならえば,わたしたちも『世の常』(1コリント10:13)である誘惑に満ちたこの世にあって,立派に生きていくことができます。もちろん,イエスは御自分に降りかかってきた途方もない誘惑に気づいておられました。しかしイエスはそれらをいつまでも心に留めておくことはされず,即座にそれらを退けられたのです。わたしたちも受けた誘惑に心を留め,もてあそんでいると,誘惑にもてあそばれてしまうようになります。」(「わたしが勝利を得たと同様に勝利を得なさい」『聖徒の道』1987年7月号,78参照)
スペンサー・W・キンボール大管長(1895-1985年)は,罪に興味を示すことは,わたしたちを誘惑に影響されやすい状態にすると教えました。「悪魔にとって,閉ざされている扉から入るのは,不可能ではないとしても,非常に困難です。悪魔は施錠してある扉の鍵は持っていないようです。しかしもし扉がわずかでも開いていると,つま先を入れ,それから間もなく足首を入れ,次にひざを入れ,体を入れ,頭を入れて,最後には完全に入り込んでしまうのです。」(『歴代大管長の教え—スペンサー・W・キンボール』107)
マタイ4:4-11。誘惑に打ち勝つために役立つ聖文の研究と従順さ
サタンの誘惑のそれぞれに対する救い主の返答には,「と書いてある」(マタイ4:4,7,10。ルカ4:1-13も参照)という表現が含まれていました。キリストの聖文についての知識は,誘惑から顔をそむけるためにキリストを備え,強めたものの一つでした。救い主は後に,「だれでもわたしの言葉を大切に蓄える者は,惑わされることがない」(ジョセフ・スミス—マタイ1:37)とお教えになりました。七十人の一員として奉仕していたとき,メリル・J・べイトマン長老は,聖文を研究することによって与えられる,誘惑に対する強さについて述べました。「聖典を研究すると,必ず得られる祝福があります。主のみ言葉を学び,従うにつれて,人はより救い主に近づきます。また,正しい生活をしようという望みがさらに強くなります。誘惑に抵抗する力は増し,霊的な弱点は克服され,心の傷も癒されます。」(「聖典の研究を通してキリストに近づく」『聖徒の道』1993年1月号,33)
ジョセフ・B・ワースリン長老は,救い主の従順さの模範に従うことは,わたしたちが誘惑に打ち勝つために役立つと説明しました。「進んで従うことによって,魅力的で気をそそるサタンの誘惑から常に守られます。イエスは従順の完全な模範者です。荒れ野でサタンが誘惑した時に主がされたことを,わたしたちも実行できるようにしなければなりません。主は断食で弱っていたにもかかわらず,断固として即座にこう答えられました。『サタンよ,退け。』〔ルカ4:8〕……サタンの誘いの声が聞こえたら,すぐにサタンを退けてください。」(「従順な人生」『聖徒の道』1994年7月号,44)
マタイ4:13-16。「ゼブルンの地,ナフタリの地」
旧約聖書の地,ゼブルンとナフタリは,新約聖書ではガリラヤの地となりました。
マタイはマタイ4:13-16でイザヤ9:1-2を参照しました。イエス・キリストは生涯と務めのほとんどを,カペナウム,ナイン,ナザレ,ベツサイダなどのガリラヤの村で費やされました。旧約時代,この地域はゼブルンとナフタリの部族の受け継ぎの地でした。数世紀にわたり,戦略的に重要であったこの地域の支配権を確保しようと,数多くの戦いが起こりました。イザヤがこの地域の人々を「死の地,死の影に住んでいる人々」(マタイ4:16)と呼んだのは,そこでの戦いで多数の人々が命を落としたからだと考える人もいます。イザヤは,この死に苦しむ地に「大いなる光」(イザヤ9:2)が現れると預言しました。この光こそ,世の光であられるイエス・キリストです。マタイは,ガリラヤの地での救い主の務めは,このメシヤ預言の成就であったことを彼の読者に伝えたかったのです。
マタイ4:18-22。初期の弟子たちの召し
ジョセフ・B・ワースリン長老は,初期の弟子たちが網を捨て,救い主に従った経験を現代に当てはめることができるように助けてくれます。
「彼らは召しを受けるまで漁師をしていました。ガリラヤの海で網を打っていたペテロとアンデレは,手を休めました。ナザレのイエスが近づいて来て,彼らの目を見,『わたしについてきなさい』と言われたからでした。二人の漁師は『すぐに網を捨てて,イエスに従った』とマタイは記しています。……『もし,救い主が今日,あなたをお招きになるとしたら,喜んであなたの網を捨て,主に従っていくでしょうか。』多くの方々はそうすることでしょう。……
……網は,生ける神の御子イエス・キリストの召しに従おうとするわたしたちを誘惑し,妨げるものと定義することができるかもしれません。この意味において,仕事や趣味や楽しみは,網かもしれません。とりわけ誘惑や罪はわたしたちにとって網になります。要するに,天の御父や回復された教会からわたしたちを遠ざけるあらゆるものが網となるのです。
今日の生活の中から例を一つ挙げましょう。コンピューターは役に立ち,手放せない道具かもしれません。けれどもコンピューターを使って,むなしく,非生産的で,時には有害なもののために大量の時間を消費すれば,それは人を陥れる網となります。
多くの人はスポーツの試合を観戦するのが好きで楽しむけれども,ひいきの選手の残した記録のことなら何でも知っているにもかかわらず,家族の誕生日や記念日を忘れて家族をないがしろにしたり,キリストのような奉仕を行う機会を見過ごしにしていたりするとすれば,スポーツはわたしたちを捕らえる網となります。……
わたしたちを陥れ,救い主から離れさせる網は数限りなく存在します。しかし主に従うことを心から望むならば,わたしたちを捕らえようとするこの世の網からきっぱりと離れて,主に従わなければなりません。」(「わたしについてきなさい」『リアホナ』2002年7月号,15-16)
初期の弟子たちの召しに関するさらなる洞察については,ルカ5:1-9とルカ5:10-11の解説を参照してください。
マタイ4:23。癒しにつながる教え(マルコ1:39;ルカ4:43も参照)
マタイ4:23には,イエスが「宣べ伝え」,「おいやしに」なったことが書かれています。後の章で,マタイは山上の垂訓でイエスが福音を宣べ伝えられたこと(マタイ5-7参照)と,大勢の人々を癒されたこと(マタイ8-9参照)について記録しました。十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は,福音を教えることは魂を癒す可能性を持っていると教えた時に,宣べ伝えることと癒すことを結びつけました。
「マタイはその様子をこう記しています。『イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて,諸会堂で教え,御国の福音を宣べ伝え,民の中のあらゆる病気,あらゆるわずらいをおいやしになった。』(マタイ4:23;強調付加)
教え,宣べ伝える業が始まったことについては,わたしたちがよく知り,理解しているとおりです。しかし,癒しという業については,同列に理解されていないかもしれません。イエスの業の始めから,癒すことは,教えることや宣べ伝えることとほとんど同じ言葉として用いられています。少なくとも,この3つが関連していることは確かです。事実,先ほど引用したマタイの聖句の続きには,教えよりも癒しの方が多く記述されているのです。……
ここで誤解のないように申し上げますが,わたしが述べている『癒し』は,神権を正式に用いて癒したり病人への祝福を施したりするようなものを指すのではありません。それは教会の組織で教師として召されている人々の果たす役割には含まれていません。
しかしわたしは,教師たる者は霊的な癒しを施すことができると信じているのです。……わたしたちも救い主に倣って,教えたことの成果を測るときに,相手が実際にどれだけ癒されたかを基準にするとよいのではないでしょうか。
……独りで歩んでいる人,独りで暮らしている人,夜の闇の中で涙を流している人を真に助けられるよう,もう少し努力して,力強く霊的に教えようではありませんか。」(「教え,宣べ伝え,癒す」『リアホナ』2003年1月号,13-14)
聖書のジョセフ・スミス訳では,救い主が「イエスの名を信じる人々の中の」(『聖句ガイド』内「聖書のジョセフ・スミス訳〔抜粋〕」マタイ4:22)様々な病気と患いを癒されたことが明確にされています。