オハイオにあるジョセフ・スミスとエマ・スミスの5つの家
ジョセフ・スミスとエマ・スミスがオハイオ州北東部に住んでいたころのゆかりの地について、さらに詳しく知りましょう。
ニューエル・ホイットニーとエリザベス・アン・ホイットニーの家
1831年2月4日、ジョセフ・スミスとエマ・スミスがカートランドの
宣教師たちがオハイオに初めて到着した前年10月以来、ホイットニー夫妻は自宅の応接間で何度も集会を開いていました。ジョセフとエマがホイットニーの家に住んでいた4週間、この家は教会活動の中心としての役割を果たし続けました。
多くの聖徒がホイットニーの家を訪れ、集会に出席し、預言者を訪ねました。ジョセフ・スミスはここに住んでいる間に、現在「教義と聖約」に記録されている複数の啓示を授かりました。2
中でも最も重要なのが、
アイザック・モーリーとルーシー・モーリーの農場
ホイットニーの家で過ごしたジョセフとエマの生活は、常に一時的なものでした。ジョセフとエマが到着し、ジョセフが二人が住む家を建てるべきだという啓示を受けた日、地元の裕福な農夫アイザック・モーリーは、近くの農場に家を建てることに賛成しました。
モーリーはジョセフとエマのために小さな家の建設を監督し、わずか4週間で完成させました。ジョセフとエマは、1831年3月初めにモーリーの農場にある自宅に引っ越しました。
アイザックと妻のルーシーは、1830年11月にバプテスマを受けて以来、回復された教会の建設に協力することを熱望していました。オハイオで新しい改宗者がバプテスマを受け、ニューヨークから聖徒たちが到着すると、その多くがモーリーの農場に仮住まいを見つけたのです。
ジョセフとエマが農場に住んでいる間、ジョセフは聖徒たちと集会を開き、啓示を続けて授かりました。記録によると、ジョセフはかなりの数の啓示を口述しており、その中には現在の教義と聖約にある13の啓示も含まれています。4
この時期の啓示により、ジョセフと聖徒たちは、わたしたちの弁護者としてのイエス・キリストの役割、
モーリーの農場で開かれた集会や大会では、
この時期はまた、ジョセフとエマにとって困難な時期でもありました。1831年4月30日、エマは双子を出産しましたが、子供たちは出産後間もなく亡くなりました。この双子は、ジョセフとエマがこの3年弱の間に失った乳飲み子たちのうちの2人目と3人目でした。
同じ日、モーリーの農場に住んでいた同じく末日聖徒のジュリア・マードックが、双子を出産中に亡くなりました。双子を失ったジョセフとエマの悲しみは、ジュリアの夫ジョンがジョセフとエマに、ジョンとジュリアの双子の養子縁組を申し出たことで幾らか和らぎました。
モーリーの農場に住み始めてわずか半年後、ジョセフとエマは再び引っ越します。1831年9月、スミス夫妻はオハイオ州ハイラムのジョン・ジョンソンとエルサ・ジョンソンの家に移りました。1831年8月と9月に授かった二つの啓示の中で、アイザック・モーリーは自分の農場を売却するよう指示されたのです(
ジョン・ジョンソンとエルサ・ジョンソンの家
ジョセフとエマが間もなく家を失うことを知った裕福な改宗者ジョン・ジョンソンは、カートランドの南44マイル(71キロ)にあるオハイオ州ハイラムの自宅に移るよう、二人を招きました。モーリーの農場が売却される直前の1831年9月、ジョセフ・スミスとエマ・スミスは生後4か月の双子を連れて、ジョン・ジョンソンとエルサ・ジョンソンの家に引っ越しました。
1818年にオハイオに移住したジョンソン家は、農場と酪農で成功を収め、ポーテージ郡で最も繁栄した住民の一人でした。ジョンソンの家でジョセフは、絶え間なくやってくる訪問者を歓迎しました。そうした訪問者の大半は食べ物と寝床を必要としていました。
ジョンソン一家は、ジョセフとエマとその子供たちが暮らせる寝室をメインフロアに用意しただけでなく、ジョセフの事務所として2階の大きな部屋を与えました。この2階の部屋で、ジョセフは教会員や指導者たちと集会を開き、筆記者とともに聖書の霊感訳への取り組みを続け、現在の教義と聖約に記載されている16の啓示を含む、深遠な啓示を口述しました。6
1831年11月初めにここで開かれた長老たちの大会で、ジョセフ・スミスの啓示をまとめたものを出版することが決まりました。7その後、ジョセフとシドニー・リグドンが新約聖書の翻訳に取り組んでいた1832年2月16日、彼らに示現が開かれ、イエス・キリストにまみえ 、死者の復活について詳しく教えられました 。
この示現の直後、教会の敵対者がジョンソンの家に押し入り、ジョセフをベッドから引きずり下ろし、近くの空き地に引きずり込みました。ジョセフの服は引き裂かれ、体は熱いタールと羽毛にまみれていました。痛みに耐えて体からタールを取り除いた長い夜の後、ジョセフは集まった聖徒たちに日曜日の説教をしました。そこには暴徒のメンバーも参加していました。
残念なことに、スミス夫妻の幼い息子ジョセフ(養子の双子の一人)は、寒い中にさらされて間もなく亡くなりました。その後数か月にわたって、ハイラムとその周辺地域では、ジョセフ・スミスをめぐって暴徒による活動と脅迫が続きました。
この示現の直後、教会の敵対者がジョンソンの家に押し入り、ジョセフをベッドから引きずり下ろし、近くの空き地に引きずり込みました。ジョセフの服は引き裂かれ、体は熱いタールと羽毛にまみれていました。痛みに耐えて体からタールを取り除いた長い夜の後、ジョセフは集まった聖徒たちに日曜日の説教をしました。そこには暴徒のメンバーも参加していました。
残念なことに、スミス夫妻の幼い息子ジョセフ(養子の双子の一人)は、寒い中にさらされて間もなく亡くなりました。その後数か月にわたって、ハイラムとその周辺地域では、ジョセフ・スミスをめぐって暴徒による活動と脅迫が続きました。
N・K・ホイットニー社の店
ハイラムでの緊張が高まる中、ニューエル・K・ホイットニーはカートランドの店の内部にある部屋を数部屋改装し、ジョセフとエマに新しい住まいを提供しました。1832年9月、ジョセフとエマ、そして娘のジュリアは、店の上階の部屋に移り住みました。
約2年間、ジョセフとエマが暮らしたホイットニーの店は、若く成長する家族の住まいとなっただけでなく、教会活動の中心にもなりました。ジョセフ・スミスはここに住んでいる間も啓示を続けて授かり、その中には現在教義と聖約に記載されている16の啓示も含まれていました。81832年11月6日、ジョセフ・スミス三世がN・K・ホイットニー社の店で生まれました。
ジョセフ・スミスはこの建物に事務所を作り、そこで霊感によって聖書を翻訳する作業を続け、教会の指導者たちとの集会を開きました。ジョセフとエマがホイットニーの店に住んでいた一年半の間、そこは教会の本部であり、カートランドにおける多くの重要な出来事の舞台でした。
中でも、ここで授かった啓示は、
1833年3月8日、数か月にわたる話し合いと啓示の後、ホイットニーの店で
店の奥の一室で、ジョセフ・スミスは、教会の指導者や宣教師が奉仕の準備をするための訓練プログラムである預言者の塾のクラスを始めました。このような場で、
ジョセフ・スミスとエマ・スミスの家
1833年末、ジョセフとエマ、そして彼らの子供たちのための家が完成しました。この小さな家はホイットニーの店の南に位置する丘の上にあり、
この家でエマは酪農を営み、女工を雇い、家庭を切り盛りするようになりました。ここでエマは、ウィリアム・W・フェルプスの協力を得て、教会の最初の賛美歌集を編さんしました。1836年6月にはもう一人、フレデリック・グレインジャー・ウィリアムズ・スミスが生まれ、スミス一家は3年以上もこの家に定住することができました。ここに住んでいたとき、ジョセフ・スミスは5つの啓示の全部または一部を授かりました。11
ジョセフとエマがこの家に住んでいた間も、教会は成長を続けました。リーダーシップの必要性の高まりにこたえて、主は新しい神権の職や管理組織の変更、そのほかの永遠の真理を教会員に啓示されました。1834年2月17日、ジョセフ・スミスは
この時期に開かれたほかの集会で、また恐らく自宅で開かれた集会で、ジョセフ・スミスの啓示によって、
スミス一家は1838年初めまでこの家で暮らしましたが、教会内の不和と暴徒の活動が活発化したため、家を離れることになりました。1838年1月12日、ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンはカートランドを出発し、ミズーリ州北西部の末日聖徒の入植地に向かいました。エマはもう一人子供を身ごもっており、ジョセフのすぐ後を追いました。12
注
注
1.Elizabeth Ann Whitney, “A Leaf from an Autobiography ,” Woman’s Exponent, Sept. 1, 1878, 51.
2.4つもの啓示の全部または一部が、ホイットニーの家で口述筆記された可能性があります。ジョセフ・スミスが多くの啓示を授かった場所を正確に特定することは困難なことも多いですが、ホイットニーの家は教義と聖約の41章、43章、44章を授かった場所として最も有力です。また、教義と聖約42章の全部または一部をホイットニーの家で受けた可能性もありますが、この啓示の歴史と状況から、確かなことは言えません(教義と聖約42章の受理に関する詳細については、“Historical Introduction” for Doctrine and Covenants 42 in Joseph Smith’s Revelationsを参照)。
3.オハイオでのニューエル・K・ホイットニーの召しとビショップとしての奉仕の詳細については、“Newel K. Whitney: A Man of Faith and Service,” Museum Treasures, history.churchofjesuschrist.org; Matthew C. Godfrey, “Newel K. Whitney and the United Firm ,” inRevelations in Context(2016年)を参照。
4.これには教義と聖約45-50章、52-56章、63-64章が含まれます。
5.Matthew McBride, “Ezra Booth and Isaac Morley ,” in Revelations in Context.
6.教義と聖約1章、64-65章、67-71章、73章、76-81章、99章、133章。
7.Minutes, 1–2 November 1831, josephsmithpapers.org.
8.教義と聖約84-98章、101章。
9.Minutes, 18 March 1833, josephsmithpapers.org.
10.記録には、この家が建設された具体的な日付や、ジョセフとエマがこの家に引っ越した時期は記されていません。しかし、1833年8月2日、ジョセフ・スミスの名前が、この家が建てられた場所の教会所有地の地図に記載されています。この家の最近の改築の際、建築に使われた木材を調査したところ、1833年後半に伐採されたものであることが確認されました。
11.教義と聖約102-104章、106章、134章、107章の一部。
12.ジョセフ・スミスの日記によると、エマとその子供たちは1838年3月29日にミズーリ州ファーウェストに到着しました(Joseph Smith,Journal, March-September 1838, 23, josephsmithpapers.org)。
2.4つもの啓示の全部または一部が、ホイットニーの家で口述筆記された可能性があります。ジョセフ・スミスが多くの啓示を授かった場所を正確に特定することは困難なことも多いですが、ホイットニーの家は教義と聖約の41章、43章、44章を授かった場所として最も有力です。また、教義と聖約42章の全部または一部をホイットニーの家で受けた可能性もありますが、この啓示の歴史と状況から、確かなことは言えません(教義と聖約42章の受理に関する詳細については、“Historical Introduction” for Doctrine and Covenants 42 in Joseph Smith’s Revelationsを参照)。
3.オハイオでのニューエル・K・ホイットニーの召しとビショップとしての奉仕の詳細については、“Newel K. Whitney: A Man of Faith and Service,” Museum Treasures, history.churchofjesuschrist.org; Matthew C. Godfrey, “
4.これには教義と聖約45-50章、52-56章、63-64章が含まれます。
5.Matthew McBride, “
6.教義と聖約1章、64-65章、67-71章、73章、76-81章、99章、133章。
7.Minutes, 1–2 November 1831, josephsmithpapers.org.
8.教義と聖約84-98章、101章。
9.Minutes, 18 March 1833, josephsmithpapers.org.
10.記録には、この家が建設された具体的な日付や、ジョセフとエマがこの家に引っ越した時期は記されていません。しかし、1833年8月2日、ジョセフ・スミスの名前が、この家が建てられた場所の教会所有地の地図に記載されています。この家の最近の改築の際、建築に使われた木材を調査したところ、1833年後半に伐採されたものであることが確認されました。
11.教義と聖約102-104章、106章、134章、107章の一部。
12.ジョセフ・スミスの日記によると、エマとその子供たちは1838年3月29日にミズーリ州ファーウェストに到着しました(Joseph Smith,Journal, March-September 1838, 23, josephsmithpapers.org)。