「グエン・バン・テー,レ・ミ・リエン夫妻-ベトナム」『聖徒たち』の物語(2024年)
グエン・バン・テー,レ・ミ・リエン夫妻-ベトナム
戦争で離れ離れになった若い家族,再会を果たせるよう主を信頼する
サイゴン支部から非難する
ある晴れた日曜日,戦争で荒廃したベトナムで,サイゴン支部会長のグエン・バン・テーは,地元の集会所として使われていたフランス風の別荘の門をくぐりました。すぐに支部の会員が不満と期待の表情で彼を取り囲みました。「テー会長! テー会長!どんな知らせが?」と彼らは叫びました。
ベトナムのサイゴンにて什分の一を受け取る,グエン・バン・テー会長(教会歴史図書館,ユタ州ソルトレーク・シティー。写真/James Christensen)
テーは知らせを携えていましたが,支部の人々がどう反応するかは分かりませんでした。礼拝堂の入り口に向かって歩いて行くと,聖徒たちも後についてきて,口々に質問しました。テーはそれには答えず,人々と握手し,背中を軽くたたきました。扶助協会会長であり,モルモン書のベトナム語訳の主要な翻訳者でもあるコン・トン・ヌ・トゥオン・ビー姉妹が,テーの腕をつかみました。
「テー会長,どのような助言があったのですか。姉妹たちに何と言えばよいでしょうか」と,ビー姉妹は尋ねました。
「入ってください,ビー姉妹。わたしの知っていることは,聖餐会の後ですべてお話ししましょう」とテーは言いました。それから彼は集まった人々に,冷静になるように言いました。「皆さんの質問にはすべてお答えします。」
数十年の間,ベトナムは分裂していました。第二次世界大戦が終わり,19世紀後半から支配してきたフランス人の植民地支配者たちをベトナム軍が追放すると,紛争が始まりました。南ベトナムの対立する政党が共産主義体制に反対すると,地域は激しいゲリラ戦に突入したのです。アメリカ軍は10年近くの間南ベトナム側で戦いましたが,多くの死傷者が出たことから合衆国内で不評を買い,アメリカは段階的に戦争から撤退することになりました。そのころ,北ベトナム軍は南の首都サイゴンに迫っており,残っていたアメリカ人は全員引き上げつつありました。
北ベトナム軍の進軍で,サイゴン支部は解散の危機にさらされていました。1週間前,最後の末日聖徒の宣教師が国外に退去するときまで,支部には毎月新しい会員が入って来ていました。200人を超えるベトナム人聖徒が,合衆国から来ていた教会員とともに定期的に礼拝を行っていました。それが,アメリカ人と交流があったことで北ベトナムから処罰されるのではないかと,ベトナム人聖徒たちは戦々恐々とするようになっていたのです。教会員の一部はすでに散り散りになり,その多くは出国を希望して空軍基地の群衆に加わっていました。
テーが礼拝堂に入って部屋の前方にある席に腰を下ろすと,砲撃の轟音と恐ろしいほど近くで響く爆発音が聞こえました。この皮肉な状況を彼は理解していました。戦争のためにアメリカ軍兵士がベトナムにやって来て,自分や多くのベトナム人聖徒に,回復された福音を紹介してくれました。そして今,その同じ戦争が,支部を引き裂こうとしているのです。まるでこの小さな集団の葬儀に参列しているかのような気分でした。
テーが立ち上がって説教壇に近づいたとき,集会には約125名の支部の会員が出席していました。彼らは不安そうでしたし,すすり泣く人もたくさんいました。テーも感傷的になりましたが,気持ちを落ち着かせて聖餐会を開会しました。聖徒たちは「恐れず来たれ,聖徒」を歌い,聖餐を取りました。それからテーが証を述べ,ほかの人にも証するよう求めました。しかし,聖徒たちが立って証を述べている間,テーはその言葉に集中することができませんでした。聖徒たちがこの危機にあって自分に頼ってきているというのに,自分にはそれにこたえてあげるだけの力がないと感じていたのです。
集会後,テーは聖徒たちに,アメリカ合衆国大使館が教会員とバプテスマの備えをしている人々を出国させる用意があることを伝えました。しかし,教会員ではない家族を持つ聖徒たちは,愛する人を残して行くか,自分もとどまるかの選択を迫られました。この知らせを聞いて,つらくなって泣き出す聖徒たちもいました。「家族はどうすればいいのでしょうか」と彼らは聞いて来ました。「家族を残してここを離れることはできません!」
支部の会員たちの助けを借りて,テーはどの聖徒が最初に出発するかを決めた出国リストを作成しました。大使館の要請にもかかわらず,リストには支部の会員の教会員ではない家族や友人数十人が含まれていました。テーの妻リエンと3人の幼い子供たちの名前もリストの聖徒たちの中にありました。支部の会員たちは,会長がほかの人たちの出国の手配に集中できるよう,テーの家族は真っ先に出国するべきだと主張しました。支部会長として,テーは最後まで残るのが自分の義務だと感じていました。
リエンと子供たちは,リエンの母親と姉妹たちとともに,数時間後に飛行機でサイゴンを後にしました。
翌日,北ベトナム軍は軍用機が着陸できないようにサイゴンの空港に砲撃を加えて滑走路を破壊しました。その後,次の48時間,ヘリコプターが残るアメリカ人と,乗せて行けるベトナム人避難民を出国させました。テーはアメリカ大使館に急ぎました。自身と町に残っているほかの聖徒たちが脱出できる方法が見つかるかもしれないと期待したのです。到着すると,建物は燃えており,煙が空に立ち上っていました。消防士と群衆が外に集まっていましたが,大使館は空でした。アメリカ人たちは,すでにサイゴンを去っていたのです。
残る支部の会員たちをなんとか脱出させようと,テーと仲間の聖徒のチャン・バン・ギアは,バイクにまたがって国際赤十字に助けを求めに行きました。しかしすぐに,パニック状態で通りを走る群衆に出くわしました。大きな銃の付いた戦車がかなりのスピードで彼らに向かって走って来ます。
ギアは道を逸れ,テーとともにはうように溝に入って隠れました。戦車は轟音を立て,地面を揺るがせながら彼らの横を通り過ぎて行きました。
サイゴンは,北ベトナム軍の手中に落ちたのです。
注釈と出典の引用については,「福音ライブラリー」で全文をご参照ください。
難民
それから1週間後の1975年5月,レ・ミ・リエンはアメリカ合衆国の西海岸にある,カリフォルニア州サンディエゴ近くの軍のキャンプで混雑したバスを降りました。目の前には,ベトナムからの難民1万8,000人を収容するために設置されたテントの並ぶ無秩序な町が広がっていました。草と砂が地面を覆い,木がまばらに地平線上に点在しています。子供たちはぶかぶかの軍服を着て歩き回り,大人は難しい顔で一日を過ごしていました。
母親と姉妹たちが一緒にいたものの,リエンは途方に暮れていました。ここまでの移動で,吐き気がしていました。お金もなく,英語もほとんど話せません。それに,ベトナムにいる夫の消息を待ちながら,3人の子供の世話をしなければならないのです。
キャンプでの初日,リエンと,大半が女性であるサイゴン支部の会員たちは,地元のカリフォルニアステークの会員であることを示すバッジを付けたボランティアたちに迎えられました。きちんとした身なりの女性が,ステーク扶助協会会長のドロシー・ハーレーだと自己紹介しました。彼女とステークのボランティアたちは,食料や衣服,医薬品を難民となった聖徒たちに配り,彼らをホームティーチングの地区に組織し,初等協会と扶助協会を立ち上げました。リエンの目には,扶助協会の姉妹たちは天使のようでした。
カリフォルニア州の陸軍基地にてベトナム難民と一緒に行われた日曜日の集会。1975年。(教会歴史図書館,ユタ州ソルトレーク・シティー。写真/ジャック・リスゴー)
サイゴン支部の会員たちはその日の午後,キャンプを見て回りました。砂利の音を鳴らして歩きながら,リエンと家族は食堂や赤十字の売店,納屋などを見せてもらいました。昼過ぎからずっと歩き回っていたので,リエンは疲れ果ててしまいました。彼女は体重が40キロもなく,幼い娘リンに与える母乳も出ないほど体が弱っていたのです。
その晩,リエンは子供たちが快適に過ごせるよう,できるかぎりのことをしました。キャンプでは折り畳みベッドが一つ支給されただけで,毛布はもらえませんでした。息子のブーとフイが体を寄せ合って折り畳みベッドに入り,リンはリエンがシーツとゴムバンドで急ごしらえしたハンモックで眠りました。
リエンが横になる場所はなく,ベッドの端に座ったままテントの支柱にもたれて眠りました。夜は冷えました。冷たい空気は,すでに健康を害していた体に良いわけがありません。その後間もなく,リエンは結核と診断されました。
病気にもかかわらず,リエンは毎朝早く起きて小さな瓶に入った赤ちゃん用のミルク6本を手に入れ,息子たちに食事をさせました。食事時には,食堂は順番を待つ人で混雑しました。娘を腕に抱きながら,息子たちが皿に食べ物を取って運ぶのを手伝いました。子供たちが食べ終わると,ようやく自分の食べ物を取りに行くのでした。
ほかの子供たちがおなかをすかせて列に並んでいるのを見ると,リエンの心は痛みました。食堂での食事の配給はすぐになくなってしまうため,リエンはしばしばそうした子供たちが食べられるよう,自分の分を譲りました。子供たちの中には,お返しにとニンジンやブロッコリーを分けてくれる子もいました。
リエンは夫が強くあり続けられるように絶えず祈り,自分がこの厳しい試練を乗り越えられたなら,夫も彼の試練を乗り越えられると信じていました。サイゴンを発って以来,夫からは何の便りもありません。しかし,到着から数週間後,七十人第一評議会のA・セオドア・タトル長老がキャンプを訪れ,スペンサー・W・キンボール大管長がリエンあてに書いた個人的なメッセージを届けてくれました。大管長は彼女が到着する少し前にキャンプを訪れて難民たちと会っていたのです。
預言者からのメッセージには,「あなたの夫は守られて,あなたがた家族は主がふさわしいと思われるときに再会することになると,わたしは証します」とはっきり述べられていました。
そのころ,リエンは毎朝泣く赤ちゃんをあやしながら,自身も涙を流していました。「どうか,今日この日だけでも乗り越えさせてください。」と彼女は主に懇願しました。
注釈と出典の引用については,「福音ライブラリー」で全文をご参照ください。
捕虜収容所で耐え忍ぶ
1976年,グエン・バン・テーは,捕虜収容所として使われていた荒れ果てた要塞タン・オン・ナム(Thành Ông Năm)に収監されていました。テーは妻と子供たちの消息を知ろうと必死でしたが,収容所は外の世界からほとんど隔絶されていました。家族の所在について唯一知ることができたのは,香港伝道部会長からの電報を通じてでした。「リエンと家族は無事です。教会により守られています。」
テーがこの電報を受け取ったのは,収容所に入る直前でした。サイゴン占領後,秩序の回復を目指して北ベトナム政府は南ベトナム軍に所属していた全員に対して,新政府の原則と慣行を教える「再教育」コースを受けるよう要求していました。テーは南ベトナムで下級士官および英語教師を務めていたため,気が進まないながらも,再教育の過程は10日間程度だろうと考えて出頭しました。それから1年以上が経過したころ,自分はいつ再び自由になれるのだろうかと考えていました。
タン・オン・ナムでの生活は屈辱的なものでした。テーと仲間の捕虜たちは班に分けられ,ネズミが出る仮宿舎に収容されました。拘束している人たちに命じられて鉄の板でベッドを作るまでは,むき出しの床の上で眠っていました。食べ物はわずかなうえに腐っていましたし,キャンプの環境も不衛生だったため,収容された人たちは赤痢やかっけなどの病気にかかりやすくなっていました。
再教育には,重労働と政治的な洗脳も含まれていたので,木を切り倒したり,食料にする作物の世話をしたりする以外の時間は,プロパガンダの暗記と,北ベトナムに対して自分が犯してきた罪の告白をさせられました。収容所の規則を破ろうものなら,激しく殴打されたり,ごみ箱のような鉄の箱の独房に入れられたりされかねません。
テーはこれまで,目立たないように注意しつつ,信仰をしっかり保つことで生き延びてきました。収容所の規則に従うよう努めながらも,ひそかに信仰を実践していたのです。栄養失調だったにもかかわらず断食日曜日を守り,信仰を強めるために声に出さず記憶を頼りに聖句を暗唱しました。収容所にもテーと同じクリスチャンがいて,こっそり持ち込んだ聖書をテーにくれたのです。テーは再び神の言葉を読むことができるこのチャンスを大切にし,3か月で2度完読しました。
テーは自由を切望していました。一時期,キャンプから脱走することも考えました。軍で受けた訓練を生かしてうまく逃げられる自信がありました。しかし,脱走の助けを祈り求めたとき,主から止められるのを感じました。「忍耐強くありなさい」と御霊がささやきました。「主の定められたときにすべてうまく行くでしょう。」
しばらくして,テーは姉のバーに,収容所での面会の許可が下りるかもしれないことを知りました。もし家族にあてた手紙を託すことができれば,姉がそれを香港のウィート会長に送り,会長からリエンと子供たちに転送してもらえるかもしれません。
バーとの面会の日,テーは列に並び,自分の前の人たちが看守から身体検査を受ける間待っていました。もしリエンへの手紙が見つかれば即座に独房に送られることを知っていたので,手紙は帽子の内側の布のバンドの裏に隠していました。それから,小さな手帳とペンを帽子の中に入れて,それを地面に置きました。運が良ければ,看守は手帳に気を取られて,帽子のほかの部分は見ないかもしれません。
検査の順番が来たとき,テーは冷静さを保とうと努めました。しかし看守が調べている間に震え出しました。手紙が見つかった場合に待っている拘禁のことが思い浮かんだのです。緊張の瞬間が続き,看守たちは彼の帽子に注意を向けました。彼らはペンと手帳を調べましたが,特別なものは何も見つからなかったため,テーへの関心はなくなり,彼を通らせました。
間もなく,テーは姉が近づいてくるのを見たので,慎重に手紙を帽子から取り出して彼女の手の中に押し付けました。バーから幾らかの食べ物とお金を渡されると,テーは涙を流しました。バーと夫は農産物の事業を営んでいましたが,人に分け与える余裕はあまりなかったのです。テーは姉の精いっぱいの差し入れに感謝しました。別れるとき,テーはきっと姉が手紙をリエンに届けてくれるだろうと思いました。
6か月後,バーは一通の手紙を持って再びキャンプを訪れました。中にはリエンと子供たちの写真が入っていました。家族の顔を眺めるテーの目に涙があふれました。子供たちはとても大きくなっていました。テーは,これ以上待てないと思いました。
ベトナムにて息子ユイと一緒のグエン・ヴァン・テー,レ・ミ・リエン夫妻。1973年。(教会歴史図書館,ユタ州ソルトレーク・シティー。写真/James Christensen)
キャンプを出て,家族を抱き締めるために,方法を見つけなければなりません。
注釈と出典の引用については,「福音ライブラリー」で全文をご参照ください。
やっとの帰宅
1978年1月のある肌寒く曇った夕方,レ・ミ・リエンは緊張しながらソルトレーク・シティー国際空港に向かう車に乗っていました。夫のグエン・バン・テーにほぼ3年ぶりに会いに行くところでした。夫が不在の間に自分が家族のために築いてきた生活を,彼がどう思うかが不安でした。
末日聖徒社会福祉機関は,家族の世話をするという使命の一部として,アメリカ合衆国の教会員が約550人のベトナム難民の世話をするよう手配しました。難民の大半は教会員ではありませんでした。リエンと家族はブリガム・ヤング大学の教授であるフィリップ・フラマーと妻のミルドレッドの支援を受けました。フラマー夫妻はリエンと家族がユタ州プロボに転居するのを助け,その地でリエンは地元の聖徒からトレーラーハウスを借り,後にそれを買い取ることができました。
当初,リエンはユタ州での職探しに苦労しました。清掃員の仕事に応募するために,フィリップが彼女をリサイクルショップに連れて行きました。しかし面接で,店のマネージャーは彼女の高校の卒業証書を二つに破いて言いました。「こんなものはここでは役に立ちませんよ。」リエンは紙片を拾いながら涙を流しました。でもその後,証書をテープで補修し,子供たちが高等教育を追求したいという思いを持てるように,額に入れて壁に飾りました。
間もなく,近くの果樹園でサクランボを収穫する臨時の仕事を見つけました。それから,裁縫師としての職を見つけ,さらにウェディングケーキを焼いて収入の足しにしました。フィリップの助けを借りて,ブリガム・ヤング大学の学生のためにレポートをタイピングすることでも収入を得ました。
リエンが家族を養うために苦闘している間,子供たちはアメリカでの新しい生活になじむのに苦労していました。末っ子のリンは低体重で,頻繁に病気になりました。上の男の子たち,ブーとフイは言葉の壁と文化の違いから,学校でなかなか友達を作ることができずにいました。二人はしばしばリエンに,同級生にからかわれていると訴えました。
家族が困難な状況にある中でも,リエンは主に忠実であり続けました。教会の集会に定期的に出席し,家族と夫のために祈り続けました。「強さをお与えください」と,天の御父に嘆願しました。また,子供たちに祈りの力について教えました。厳しい試練を乗り越える助けになると知っていたからです。
その後,1977年の終わりに,リエンは夫がマレーシアの難民キャンプにいることを知りました。テーはタン・オン・ナムのキャンプから釈放された後,古い漁船に乗ってどうにかベトナムを脱出することができたのです。そして,家族と再会できる準備が整ったのです。必要なのは身元引受人だけでした。
リエンはテーをアメリカに呼ぶために十分な貯金ができるよう,さらに長時間働きました。赤十字社が夫の身元引受人になるために必要なもののリストをくれたので,その指示に注意深く従いました。また,子供たちに父親が戻って来ることを伝えました。娘には父親の記憶がなく,男の子たちもほとんど覚えていませんでした。父親がいるのがどのようなものか,子供たちには想像できませんでした。
空港に着くと,リエンはテーを出迎えるために来ていた友人や教会員たちと合流しました。彼らの中には,夜の灯りで光る風船を持っている人たちもいました。
間もなく,テーがエスカレーターで降りてくるのが見えました。青白い顔をして,途方に暮れた表情を浮かべています。しかしリエンを一目見ると,大きな声で妻を呼びました。二人は同時に駆け寄り,固く手を握り合いました。リエンは胸がいっぱいでした。
彼女は夫を抱き締めると,「天の神様に感謝するわ。やっとあなたが帰ってきてくれた!」とささやきました。
注釈と出典の引用については,「福音ライブラリー」で全文をご参照ください。