神権の権能と力

カートランドで教会が成長し続けるにつれ、多くの啓示が神権の職と組織の創設につながり、それは今日も教会で用いられています。これらの変更は伝道活動を組織し、聖徒たちがカートランド神殿に備える助けとなりました。
Inside of Kirtland Temple
1830年代の教会の急成長は、管理の面で途方もない困難をもたらしました。カートランドとその周辺で、相当数の新しい改宗者が教会に加わるにつれて、ニューヨークの会員たちもオハイオに集まり始めました。このような移動と拡大により、教会は住居と仕事の機会を増やす必要に迫られました。

このような成長と移動が起こる中、福音を宣べ伝えるために宣教師が派遣されました。これらの宣教師と家に残された宣教師の家族は、宣べ伝えるために世界へと出て行く際の支援を必要としていました。

このような宣教の努力に伴い、宣教師や会員が持つことができるよう、モルモン書やジョセフ・スミスの啓示といった教会資料の出版を始める必要が出てきました。こうした変化はすべて、より多くの指導体制への大きな要求を生み出したのです。

今日、教会で最も親しまれている側面の多くは、教会がオハイオに本部を置いていたときに起こった啓示や組織変更がもとになっています。これらには、ビショップリック、大管長会、ステーク組織、神権定員会会長会、教会中央幹部が含まれます。

このような神権組織の変化は、教義の発展と時を同じくして授けられ、主の宮の建設が完了したときに約束された力を受けるために、聖徒たちを備えるのに役立ちました。

ビショップリック

ジョセフ・スミスがオハイオに到着した直後、主は、当時教会が直面していた課題に対応するために数多くの新しい神権の職と定員会について最初の啓示を明らかにされました。

ジョセフが到着した日に受けた啓示の中で、主は、ペインズビル近郊の成功した実業家で、最近バプテスマを受けたエドワード・パートリッジを「教会のビショップに聖任」するよう指示し、パートリッジに「自分の商売をやめて、教会の仕事に全時間を費や〔す〕」よう求められました(教義と聖約41:9)。

その後数か月間に受けた追加の啓示で、顧問を加え、その職の具体的な概要を示すことによって、ビショップの職の明確化と拡大が行われました。1
Portrait of Edward Partridge.  The engraving was done by H.B. Hall and Sons.
教会の最初のビショップ、エドワード・パートリッジ

大管長会

教会の成長が続くにつれて、さらなる管理の必要性が高まりました。1831年6月、数人の男性が「大神権」に聖任されました。これは、メルキゼデク神権の中で新たに啓示された職で、現在では単に「大祭司」と呼ぶのが一般的です。3

1831年11月、啓示によってジョセフ・スミスは「大神権の大管長」を制定するよう指示されました。大神権の大管長は「神が教会の長に授ける神のすべての賜物を持つ聖見者、啓示者、……預言者となる」人です(教義と聖約107:65ー67、92)。

1832年1月25日、ジョセフ・スミスは大神権の大管長に任命され、オハイオ州アマーストで開かれた大会の出席者の全会一致の投票によって受け入れられました。4その6週間後の3月8日、ジョセフ・スミスはシドニー・リグドンとジェシー・ガウスを、新しく創設された教会の大管長会でジョセフを補佐する顧問として召しました。

ステークを組織する

1832年4月26日、啓示によってカートランドは「シオンへのステーク」として聖別されました。1834年2月、高等評議会と並び、カートランドにステークの会長会が創設されました。同年末、ミズーリにもステークが組織され、両ステークとも会長会、ビショップ、高等評議会が主導しました。4

大祭司と長老定員会も各ステーク内に組織されました。1836年1月初旬、ドン・カーロス・スミスが大祭司定員会の会長として、アルバ・ベマンが長老定員会の会長として召されたときから、この二つの定員会は定期的に集まるようになりました。
ジョセフ・スミスとエマ・スミスの家の奥の部屋。ここで最初の高等評議会が組織されたと言われています(教義と聖約102章参照)。

十二使徒定員会および七十人定員会

One oil on canvas painting.  Depicted in primitive style; Joseph Smith stands surrounded by seated figures of Hyrum Smith, Willard Richards, Orson Pratt, Parley P. Pratt, Orson Hyde, Heber C. Kimball and Brigham Young. Painted by William Major in Nauvoo.  Unsigned/undated.
ジョセフ・スミスと十二使徒定員会の初期の会員の絵(1843年ごろ)。
1829年6月に受けた啓示の中で、主はオリバー・カウドリとデビッド・ホイットマーに、「わたしの弟子」となり「十分に固い決意をもってわたしの名を受けたいと願う」「十二人」を探し求めるよう求められました(教義と聖約18:27)。これは、キリストの古代の使徒たちのように12人の弟子からなる特別な定員会が、回復された教会の一部となることを示す最も初期のしるしでした。この12人を見つけるのに6年近くかかりました。

カートランド高等評議会が組織された一年後の1835年2月14日、十二使徒定員会が正式に組織され、その会員が聖任されました。完成間近の主の宮での集会で、モルモン書の3人の証人であるオリバー・カウドリ、デビッド・ホイットマー、マーティン・ハリスは、「それぞれ祈り、それから教会から12人を使徒として選び、すべての国民、部族、国語の民、民族に行くように」と求められました。5

大管長会による祈りと祝福を受けた後、彼らはライマン・ジョンソン、ブリガム・ヤング、ヒーバー・C・キンボール、オーソン・ハイド、デビッド・W・パッテン、ルーク・ジョンソン、ウィリアム・E・マクレラン、ジョン・F・ボイントン、オーソン・プラット、ウィリアム・スミス、トーマス・B・マーシュ、パーリー・P・プラットを最初の十二使徒定員会の会員として選びました。

それから数週間の間に、12人はそれぞれ召しに聖任されました。数か月の間、ジョセフ・スミスは十二使徒たちと頻繁に会い、「天の御国の扉をすべての国民に開く」権能を持つ教会の「巡回高等評議会」としての職務の訓練を行いました。6

十二使徒が召されて間もなく、メルキゼデク神権の付加的な職である七十人が導入され、「最後の時にぶどう園を刈り込む」7ことによって十二使徒を助け、「異邦人と全世界に対する特別な証人」(教義と聖約107:25)として奉仕する特別な責任を担う定員会が組織されました。
  1. 例えば、教義と聖約42:30ー35教義と聖約51章教義と聖約107:68ー76などを参照。1830年代のエドワード・パートリッジのビショップとしての召しとその職の発展に関する詳細は、Sherilyn Farnes, “A Bishop unto the Church,” inRevelations in Context(2016年)を参照。
  2. 1831年10月25日から26日にかけて開かれた大会で、ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは「大神権の聖任」を受けた人々について発言しました。二人の発言は、これがメルキゼデク神権の中で新たに啓示された職であることを明らかにしています。ジョセフとシドニーはともに、聖任された者の責任について語り、「その職に……無関心である」者たちを非難しました(see Minutes, 25-26 October 1831, josephsmithpapers.org)。
  3. Minutes, 26–27 April 1832, josephsmithpapers.org.
  4. 教会歴史のテーマ「ワードとステーク」福音ライブラリー参照。1834年2月から1838年1月まで、ジョセフ・スミスと大管長会の顧問たちは、カートランドのステーク会長会の職も務めました。1838年1月にジョセフ・スミスとシドニー・リグドンがオハイオからミズーリに移ったとき、ウィリアム・マークスがカートランドのステーク会長として、ジョン・スミスとレイノルズ・カフーンが顧問として召されました(see “Church Officers in the Kirtland Stake, October 1835–January 1838,” josephsmithpapers.org)。
  5. “Minutes, 14–15 February 1835,” in Minute Book 1, 149, josephsmithpapers.org;綴りと文法は現代化されています。
  6. “Minutes and Discourses, 27 February 1835, as Reported by Oliver Cowdery,” in Minute Book 1, 88, josephsmithpapers.org.
  7. “Minutes, Discourse, and Blessings, 14–15 February 1835”; “Minutes and Blessings, 28 February 1835–1 March 1835,” josephsmithpapers.org.